雨が降ったり、止んだり、また降る。
あけぼの杉は夏の木なればやはらかくみどり葉茂り一人格なす
沙羅の花落下して寂しさみどりの葉も夏のものやや濃くなりぬ
苔絨毯みどり色したやはらかさその色観ればうれしきものよ
『論語』子張五 子夏曰く、「日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るること無し。学を好むと謂ふばきのみ。」子夏がいった、「日に日に自分の分からないことを知り、月々に覚えていることを忘れまいとする、学問好きだといって宜しかろう。」
子夏の自讃でしょうか。
日々分からぬを知り月々に覚えてゐるをたしかめるわれを学問好きと言ふなり
前川佐美雄『秀歌十二月』二月 市原王
一つ松幾夜か経ぬる吹く風の声の清めるは年深みかも (万葉集巻六・一〇四二)
「同じ月十一日に、活道の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲する歌二首」の中の一。もう一つは大伴家持の歌、
たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ情は長くとぞ思ふ (同・一〇四三)
同じ月とは天平十六年一月のことで、このところ宴がつづいる。(略)安積皇子は病弱で、この宴のあった一か月ほど後に亡くなられている。御年十七歳、不幸な皇子であった。(略)皇子の急死を藤原仲麻呂の暗殺だとする説もある。
家持の歌はこの皇子の御長命を祈ったので、昔よりのならい、そのしるしなる松 が枝を結んで「情は長くとぞ思ふ」と寿ぎお祝い申し上げたのだ。(略)前の歌と同じくこれも完全に独立性のある歌だから支えいらない。誦していると年老いた末の声が聞こえてくる。自然の声、神の声で、おのずから頭が下がる。前の歌を近代的だといったが、これはむしろ王朝風で、その悲しきまでに細くて高いしらべは、松風の歌の類型のもとをなしている。