3月4日(水)

朝から晴れ。

ハン・ガン『光と糸』を読む。ノーベル文学賞受賞後、初のエッセイ・詩・植物日記・写真……ハン・ガンの小説を読む前に読んでおきたかった。「光へ向かう生命の力。」「人間性の陽溜まりと血溜まりと。その二つが常に隣り合っていて、どちらかへ行こうとしたらもう一つも絶対に通らなくてはいけない。」(帯文)

  公園の白梅匂ふ一隅に目と耳とわが(からだ)もよりゆく

  白梅が匂ふところを避け得ざるしばしとどまり写真に写す

  公園を散歩の道に選びしは梅の花咲くすずめごがくる

『孟子』離婁章句下115 孟子曰く、「天下の性を言ふや、則ち(こ)のみ。故なる者は、利を以て(もと)と為す。智に(にく)む所の者は、其の(さく)するが為なり。(も)し智者にして禹の水を(や)るが(ごと)くならば、則ち智を悪むこと無し。禹の水を行るや、其の事無き所に行る。

如し智者も亦其の事無き所に行らば、則ち智も亦大なり。天の高きや、星辰の遠きや、苟も其の故を求むれば、千歳(せんざい)(につ)(し)も、坐して致す可きなり」

  智者は自然の道理に従ひて無理せず智を働かせば徳また多し

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

数多(あまた)の菩薩の頂を 釈迦の右の手房(たぶさ)して 三度(みたび)かい撫でたまひしは 一乗弘めむためなりき
       (法文歌・法華経二十八品歌・嘱累品・一四八)

【現代語訳】多くの菩薩たちの頭を、釈迦が右の手で三度お撫でになったのは、法華の教えをさらに広めようというためであった。

【評】『法華経』(ぞく)累品(るいほん)の内容を平易にまとめた一首。嘱累品冒頭に「(そ)の時、釈迦牟尼仏は法座より(た)ちて、大神力を現わし、右の手を以て無量の菩薩・魔訶(まか)(さつ)の頂を(な)でて、この(ことば)(な)したまはく「我は無量百千万億阿僧祇劫(あそうぎこう)において、この得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修得せり。今以って汝等に付属す。汝等よ、(ま)(さ)に一心にこの法を流布して、広く(ぞう)(やく)せしむべし」と。是の如く三たび諸の菩薩・魔訶薩の頂を摩でて……」とある。

「一乗」は、衆生を仏の悟りに導く唯一の教え、すなわち『法華経』を指す。経本文に忠実な作ではあるが、数多・三(度)・一(乗)と数を並べた面白さがある。

「手房」は手首、腕の意味で用いられることもあるが、ここでは手と同義。

この劇的な場面は「摩頂付嘱」の画題でしばしば絵画化されており、釈迦が右手を伸ばし、ひざまずく菩薩の頭に触れている様子が描かれる。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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