12月21日(日)

曇り雨、雨なのか曇なのか。

  巨大なる音の重なり焼津の海。古き世生くる八雲に逢へり

  わが会へる小泉八雲老いたるに幽霊を語れば生き生きとして

『孟子』縢文公章句下55-3 曰く、「梓・匠・輪・輿は其の志将に以て食を求めんとするなり。君子の道を為すや、其の志亦将に以て食を求めんとするか」と。曰く、「子何ぞ其の志を以て為さんや、其の子に功有らば、食ましむ可くして之を食ましめんのみ。且つ子、志に食ましむるか。功に食ましむるか」と。曰く、「此に人有り。瓦を毀ち墁に画するも、其の志将に以て食を求めんとすれば、則ち子之に食ましむるか」と。曰く、「否」と。曰く、「然らば則ち子は志に食ましむるに非ざるなり。功に食ましむるなり」と。

  彭更よ汝は志に報酬を与えるにあらず成果に与ふと孟子曰ふ

川本千栄『土屋文明の百首』

夕べ食すはうれん草は茎立てり淋しさを遠くつげてやらまし 『ふゆくさ』

<夕食に食べているほうれん草は茎が長く伸びている。遠く離れたあの人に、今の自分の淋しさを告げてやれたらいいのに。>

文明は子供の頃、郷里ではほうれん草はまだ一般的に栽培されていなかった。青年になった頃には、新しい食材として食べていたのだろう。成長して茎が伸びると根元が赤くなるのも、恋する思いに通じる。寂しさを告げたい相手は遠く住むテル子。二人の恋は家同士の関係で順調にはいかなかった。親の決めた相手と結婚する時代で、まだ恋愛そのものが新しかった。

夕ぐるるちまた行く人もの言はずもの言はぬ顔にまなこ光れり 『ふゆくさ』

<夕暮の町中を行く人はものを言わないその顔に、目だけが光っていた。>

大正六年の連作「船河原橋」より。東京の神田川に架かる船河原橋のある日の光景である。夕暮れの橋を、人々が大勢、口も利かず、忙しく渡って行く。退勤する人々だろう。現在の東京ドーム付近は、この歌の当時は造兵廠(旧日本陸軍の兵器工場)であった。人はそこの職工ではないかという歌が次にある。急速に発展する都市東京。下句の表情の描写から、都会の近代的な工場で働く人の孤独感が伝わって来る。

12月20日(土)

朝はまあまあだが、雨が降ってくるらしい。

  夜の闇に燐光わづか流れゆく明滅したりいのちむなしく

  水に溺れ、憤怒と破滅と絶望に人死するとも海しづかなり

  海の声聴きつつわれは厳粛なり。小泉八雲死者の世語る

『孟子』縢文公章句下55 (はう)(かう)問うて曰く、「後車(こうしや)数十乗、従者数百人、以て諸侯に伝食す。以だ泰ならずや」と。孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一(たん)の食も人より受く可からず。(も)し其の道ならば、則ち舜、堯の天下を受くるも、以て泰なりと為さず。子は以て泰なりと為すか」と。曰く、「否。士事無くして(は)むは不可なり」と。曰く、「子功を通じ事を(か)へ、(あま)れるを以て足らざるを補はずんば、則ち農に(よ)(ぞく)有り。(ぢよ)に余布有らん。子如し之を通ぜば、則ち(し)(しやう)(りん)輿(よ)、皆食を子に得ん。此に人有り。入りては則ち孝、出ては則ち悌、先王の道を守り、以て後の学者を待つ。

而るに食を子に得ずとせば、子何ぞ梓・匠・輪・輿を尊んで、仁義を為す者を軽んずるか」と。

  彭の言ひ分では技術者ばかり重用し仁義を修むる士君子軽んず

川本千栄『土屋文明の百首』

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず 『ふゆくさ』

<この三日間、朝ごとに、美しく装うように開いていた睡蓮の花が今朝はもう開かない>

第一歌集『ふゆくさ』の巻頭歌。歌の師であった伊藤佐千夫の元に上京してきた頃に作られた。初期の歌。文明十八歳の時の作である。

「三朝」「あさな」「あさな」と「あさ」の音を三回繰り返し、調べの整った、愛誦性のある歌となっている。花の美しく咲いた姿ではなく、もう咲く力を持たない、衰えていく姿を写し取っている。文明は植物が好きで、生涯を通して多くの草木の歌を作った。

白楊の花ほのかに房のゆるるとき遠くはるかに人をこそ思へ 『ふゆくさ』

<白楊の花房が風邪でほのかに揺れるとき、遠くはるかにその人を思う。>白楊はポプラの一種。春に赤褐色や黄褐色の房花をつける。実は白い絮となって飛ぶ。「こそ~へ」で「人」を強調している。

「人」は後に妻となる二歳上の女性、塚越テル子。文明と同郷で遠縁にあたる。裕福で進歩的な家に育ち、東京の女子英学塾(現・津田塾大学)に進学。いわゆる「ハイカラ」女学生で、卒業後は英語教師として勤務した。社会で働く女性の先駆けだ。一高、東京帝大と進学した文明も、当時の最高レベルの教育を受けている。

12月19日(金)

晴れているが、冷たいのだ。

  常に動く潮の流れに翻弄され念仏唱へ泳ぎゆきしか

  ・

  一夜経て岸壁に坐る八雲がゐる。日暮れまでただ海の音聴く

  この世のいつさいのものを忘れたり。怒濤はげしくはるかに続く

『孟子』縢文公章句下54-3 曰く、「晋国も亦仕国なり。未だ嘗て仕ふること此の如く其れ急なるを聞かず。仕ふること此の如く其れ急ならば、君子の仕ふること難しとするは何ぞや」と。曰く、「丈夫生るれば、之が為に室有らんことを願ひ、女子生るれば、之が為に家有らんことを願ふ。父母の心は人皆之有り。父母の命、媒妁の言を待たずして、穴隙を鑚つて相窺ひ、牆を踰えて相従はば、則ち父母・国人皆之を賤まん。古の人未だ嘗て仕ふることを欲せずんばあらざるなり。又其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑚るの類なり」と。

  君子たるや正しい道に由らざるを悪み正しい道に由らざれば卑しむ

藤島秀憲『山崎方代の百首』

丘の上を白いちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり 『迦葉』

「白いちょうちょう」は方代自身である。丘の向こうには、ふるさとの右左口がある。父や母や姉のくま、幼くして逝った兄や姉がいる。

それとも、丘の向うには沢山の読者がいるのか。歌を手渡すために丘を越えてゆくのか。

最後の最後に突っ込みを入れさせてもらえば、そもそも蝶には手がないのだから手渡すことはできないでしょう……と言いたい。でも、そんな突っ込みを入れさせてくれる方代が心から愛おしい。全歌集を読むたびに、この歌に差し掛かったとき私の眼は涙で濡れている。

めずらしく晴れたる冬の朝なり手広の富士においとま申す 『迦葉』

一九八五年、昭和六十年八月十九日午前六時五分、山崎方代の七十年にわたる生涯が終る。

鎌倉の瑞泉寺にて密葬・告別式が行われたあと、右左口にある円楽寺において本葬、その後埋葬された。戒名は「観想院方代無煩居士」。

ずっと私は「無煩」を「無頼」と思いこんでいた。この原稿を書いていて間違いに気づいた。戒名を付ける意味は良く知らないが、「おいとま申す」ときっぱり別れを告げたこの時、方代から煩悩の全てが消え去ったのだ。生き放題死に放題の方代である。

これで藤島秀憲『山崎方代の百首』は終わりである。藤島氏にはお疲れさまと声をかけたい。喜怒哀楽、方代とともに読んできた。その思いには頭が下がる。

ただ方代にあって私に無いのは故郷である。そのことが痛いほどわかった。ありがとうございました。

次は、川本千栄『土屋文明の百首』の予定である。

12月18日(木)

今日も晴れ。でも朝寒い。

焼津にて小泉八雲は、焼津を訪れた盆の夜、精霊舟を追って海に入ったという。

人生は神々の音楽である

  盆の夜は精霊舟を送りだす。焼津の海をかなた遠くへ

  時に遅れ小泉八雲は、遠く去る燈籠を追ひ水に入りゆく

  流れゆき透かしの色を震はせて一つ一つのいのち散らばる

『孟子』縢文公章句下54-2 「三月君無ければ則ち弔すとは、(はなは)だ急ならずや」と。曰く、「士の位失ふや、猶ほ諸侯の国家を失ふがごときなり。礼に曰く、『諸侯は耕助(かうじよ)して以て(し)(せい)に供し、夫人は蚕繅(さんさう)して以て衣服を(つく)る』と。犠牲成らず、粢盛潔からず。衣服備はらざれば、敢て以て祭らず。(ただ)士は(でん)無ければ、則ち亦祭らず。(せい)(さつ)(き)(べい)衣服備はらざれば、敢て以て祭らざれば、則ち敢て以て宴せず。亦弔するに足らずや」と。「(さかひ)を出づれば必ず(し)を載すとは、何ぞや」と。曰く、「士の仕ふるや、猶ほ農夫の耕すがごときなり。農夫は豈疆を出づるが為に、其の耒耜(らいし)を舎てんや」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり 『迦葉』

家族がなく一人で生きていること、歌人としてフリーランスで暮らしていたことなどを思うと、絶え間なく緊張の続いた七十年間ではなかったかと思う。病気や怪我をして転んでしまったら。それで終わりだ。

『山崎方代全歌集』の年譜を見る限り、戦争から戻って以来、病気の記載は五十七歳の時の白内障と、六十八歳のときの緑内障だけ。緑内障の後は煙草を止め、酒を減らしている。自堕落を装いつつ、実は自重して転ばないようにと願い続けた人生だった。

「これで死ぬんだ」と達観の境地が見えて来る歌。

八階の病床にありてしみじみとめしをたべてるうたをよんでる 『迦葉』

これだけ平明で、これだけ率直で、これだけ悲しく、これだけ喜びを湛えた歌を私は知らない。

死を覚悟してはいるのだろう。だが、「おもいきり転んでみた」結果、病床にあって食事ができて、短歌が詠めていることに感極まっているようだ。畳の上ではないけれど、病院にいて、しかも見晴らしの良い八階で死を迎えられる境遇に満足しつつ、死を受け入れている。喜んで死を待っている。

平凡なオノマトペを敢て使って来た方代が最後に繰り出した「しみじみ」、深い思いが込められている。

12月17日(水)

今日は起きるのが少し遅かった。天気だ。

焼津小泉八雲記念館

  八雲さんのスタンプを押す少しの間妻の表情、真顔(まがほ)・しんけん

  八雲・セツの細かき書字の手紙読むお互ひを思ふ心に触れむ

『孟子』縢文公章句下53 景春曰く、「公孫衍・張儀は、豈誠の大丈夫(だいぢようふ)ならずや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下(や)む」と。孟子曰く、「是れ焉んぞ大丈夫と為すことを得んや。子未だ礼を学ばざるか。丈夫の冠するや、父之に命ず。女子の嫁するや、母之に命ず。往きて之を門に送り、之を戒めて曰く、『往きて(なんぢ)の家に之き、必ずや敬ひ必ず戒め、夫子に違ふこと無かれ』と。順を以て正と為す者は、妾婦(せふふ)の道なり。天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。此を之れ大丈夫と謂ふ」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている 『迦葉』

ここからは最後の年、昭和六十年に発表された作品。

前年の十二月に自宅近くの診療所で肺がんと診断され、年が変わって一月十一日に藤沢市民病院に入院、五月二十五日に退院するまで長い病院生活を送る。

上句で自嘲、下句で自負。自身の人生を振り返って歌う。さんざん自嘲を歌って来た方代が最後になって堂々と「人生にもっとも近く詩をかいている」と宣言する。「書いてきた」と過去形にしなかったのは、生きていたい、まだまだ書きたいことがたくさんあるという思いであろう。

一片のレモンをふくみ手術後の口を漱ぎぬ生き返りたり 『迦葉』

肺がんの摘出手術を受けたのは三月十八日。

四句までの清廉なイメージと格調高い調べは、方代が持つ詩情が最大限に発揮されたもの。万感の思いがこもる「生き返りたり」と相まって名歌と呼んで良い一首だ。

この歌の一首前に置かれた<一粒のジャムの甘さが絹糸のごとく体をかけめぐりたり>もまた美しく繊細な作品。自分の命と体を事細かく見て感じていることが伝わってくる。

手術のあと方代は放射線治療に入る。

12月16日(火)

朝がなかなか明けないが、後は晴れ。日没も早い。

  最上階の湯から望めば焼津港、町もひろがる。鬱懐ほどく

  駿河湾のしづかに穏やかなる青き海。小泉八雲の片目にひろがる

山口乙吉

  ダルマの眼は常片目なり。しかれども八雲のために両目を画く

  山口乙吉魚屋の二階。避暑の居と定めて海へ、八雲とその子ら

『孟子』縢文公章句下52-2 昔者(むかし)趙簡子(てうかんし)、王良をして嬖奚(へいけい)と乗らしむ。終日にして一禽をも獲ず。嬖奚反命して曰く、『天下の(せん)(こう)なり』と。或ひと以て王良に告ぐ。良曰く、『請ふ之を(ふたた)びせん』と。強いて後に(き)く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、『天下の良工なり』と。簡子曰く、『我(なんぢ)と乗ることを(つかさど)らしめん』と。王良に謂ふ。良(き)かずして曰く、『吾之が為に我が馳駆(ちく)を範すれば、終日にして一をも獲ず。之が為に詭遇(きぐう)すれば、一朝にして十を獲たり。詩に云ふ、<其の馳することを失はざれば、矢を(はな)ちて破るが如し>と。我小人と乗ること(なら)はず。請ふ辞せん』と。御者すら且つ射る者と比するを羞づ。比して禽獣を得ること丘陵の若しと雖も為さざるなり。道を枉げて彼に従ふが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者は未だ能く人を直くする者有らざるなり」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない 『迦葉』

昭和五十九年八月に「桃の花」と題した三十二首を「短歌」に発表。三十二首目の歌である。方代に残された時間はあと一年しかない。

三首前の歌に「もどかしさ」とあった。この時期の歌にはそこかしこに「もどかしさ」が見受けられる。この歌にもある。人生をやり直すことができない「もどかしさ」。「引き返せない」と絶句して終わる。

連作には<早生まれの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる><行末のことに思いがおよぶ時急に眼の先が暗くなり来る>と死を暗示する歌がある。

欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ 『迦葉』

昭和五十九年十月に「うた」に発表された「杉苔」三十二首の中の一首。この年の方代の発表した歌数は百二十六首に及ぶ。

上句から下句への飛躍が読みどころ。なぜ酢蛸に辿り着くかは不明だが、西瓜とか冷ややっこではなく、必ずしも夏をイメージしないものを持って来たところが妙技。歌集では<河石を三つならべて日本の庄内米を炊いて食べたり>が隣に置かれている。直火で焚くとは美食家だ。そういえば歌やエッセイに食べ物は多く出てくるが、山のものが中心。海産物はほとんど出て来ない。

12月15日(月)

晴れ。寒い。

  西宮神社にゑびすの神祀るその当日にわれら来しかな

  縁日の露店の店のあまた出て賑はふ町に心楽しく

  焼津駅から送迎車に道を上りゆく山の高きに一軒の宿

『孟子』縢文公章句下52  陳代曰く、「諸侯を見ざるは、(ほとん)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て覇たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす』と。宜ど為す可きが若し」と。孟子曰く、「昔、斉の景公(でん)す。虞人(ぐじん)を招くに(せい)を以てす。至らず。将に之を殺さんとす。『志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず。勇子は其の(かうべ)を喪ふを忘れず』と。孔子(なに)をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言ふなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げて尺を直して利あらば、亦為す可きか。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

暮れに出た友の歌集はすばらしい夏の雀は体がだるい 『迦葉』

友と聞いて思い出すのは岡部桂一郎と玉城徹だが、ここでは「とある友」と読むのが良さそう。あまりのすばらしさにショックを受けて、この年の前半を過ごしたのだろう。体がだるい雀は方代だ。

と読んで来て、それで良いのかと疑う。本当に「すばらしい」と思っているのか。下句は」がっかりした思いを表わしているのではないか。そもそも「友」も疑わしい。

「とある友」ではなく「とある大家」の歌集ではないのか?こんな詮索はほどほどにしたいのだが、方代が残していった謎は数限りない。

かろうじて保つ視力はかぐろくて低い鴨居のようにしんどい 『迦葉』

実感のある比喩、手触りのある比喩、という言い方をする。だとすればこの比喩は「体が覚えている比喩」とでも言おうか。低い鴨居を潜るとき、頭をぶつけないかと恐々と体を丸める感覚が蘇って来る。

が、しかしだ。その程度のしんどさなのかと首を傾げてしまう。かろうじて保っているのだから、もっともっとしんどいでしょうと思う。けれどもそこは方代のこと。「私の苦労なんぞ軽く受け流していただいて結構なのですよ」と言いたげに、左程しんどくないことに喩える。比喩の力を知っていた人だから、なせる伎。