8月17日(日)

35℃になるそうだ。暑い。

  汽鑵車が真夏の森を抜けてくるみどりの色に染まり出てくる

  カーブするときに警笛ひびかせてみどり穂をなす草原抜ける

  汽鑵車の音立てて来る平原に窓から落とす毒薬の瓶

『孟子』梁惠王章句上7-12 是の故に明君民の産を制するに、必ず仰いで父母にふるに足り、俯しては以て妻子を畜ふに足り、には終身飽き、凶年には死亡を免れしむ。然る後駆りて善に之かしむ。故に民の之に従ふや軽し。今や民の産を制して、仰いでは以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜ふに足らず、楽歳には終身苦しみ、凶年には死亡を免れず。此れ惟死を救ひて而もらざるを恐る。ぞ礼儀を治むるにあらんや。王之を行はんと欲せば、則ちぞ其の本に反らざる。

  王これを行なはんと欲すればなどて根本にたちかへらざる

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 磐姫皇后

ありつつも君をば待つ待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに (同・八七)

三番目の歌である。「ありつつも」はこうしていつまでも。「打ち靡く」は黒髪の形容で、その長くふさふさしているさま。「黒髪に霜の置く」は「白髪が生える」というのと、「外で夜をふかして実際に髪に霜が降る」というのと二つの解釈があるが、後者の解に従う人の方が多いようだが、それは「ある本の歌に曰く」として

居明して君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜は降れども (同八九)

があるものだから、これに引きずられているようだ。「居明して」はたしかに戸外に夜をふかしている状態が感じられ、また「ぬばたまの」などの枕詞もそれをいうに似つかわしいが、これはやはり天皇の心が自分に帰ってくることをいつまででも待とうというおもぬきの歌として受けとるべきである。(略)これは皇后の歌ではないか。嫉妬もさることながら愛情も火のように激しい皇后だった。そのことを思わなければならない。

8月16日(土)

朝は少し涼しいものの、やがて暑くなる。

忘れた頃に『茜唄』の歌を

  平家の興亡の亡を語るとき琵琶法師長く敗者を語る

  を主人公にして『茜唄』上下ついやす清盛の子を

  清盛がもっとも愛せし知盛の最期のことば「見るべきは見つ」

  清盛の新しき像細心にて貴族を信ぜず上皇をうたがふ

  問題は後白河法皇をにありにけり義仲も義経も平家も滅ぶ

『孟子』梁惠王章句上7-11 王曰、「吾くして是に進むこと能はず。願はくは夫子

吾が志を輔け、明らかに以て我に教へよ。我不敏なりと雖も、請ふ之をせん」と。曰はく、「恒産無くして恒心有る者は、惟士のみ能くすることを為す。民のきは則ち恒産無ければ、因つて恒心無し。苟も恒心無ければ、、為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、然る後従つて之を刑す。是れ民をするなり。焉んぞ仁人位に有つて、民を罔して為す可けんや。

  仁者なれば君子の地位にありながら民を罔して為す可けんや

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 磐姫皇后

秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方にわが恋ひ止まむ (万葉集巻二・八八)

捲二の巻頭に磐姫皇后が仁徳天皇を思われて作った歌四首がある。時代の分かっている歌としては万葉集中最古のものだが、歌風や四首の構成ぶりから考えて、皇后の作ではなく、伝誦歌が皇后に仮託されたものと見られている。この歌は四番目の歌だが、記紀に見る天皇と皇后の相聞歌の古拙ぶりにくらべると、これはずっと時代の若いことはたれにもわかる。それでも「霧らふ朝霞」といっている。これは霧のことだが、古代では春秋ともんに霞の語をつかうことが多かった。一首の意は「秋の田の稲穂の上に立ちこめている朝霧の、日があがるとともに消え去るように、どちらの方に私の恋ごころは消えてゆくのであろうか。切ない思いはなかなか晴れそうもない」と歎いているのである。この「朝霞」と三句で切った上の句がじつによい。ここまでが序歌だが、具体的にいい述べていてしかも優美、情景が彷彿とする。下の句の「いづへの方に」そうして「わが恋ひ止まむ」はまことに巧みないいまわしの、また切実な語で、自然の事象によく心が融けあっていて、ほとんど人為を思わせない。

磐姫皇后は古代女性中、もっとも嫉妬心の激しい人として伝えられている。(略)丘陵と丘陵の間はすべて稲田である。伝誦の問題はともかくとして、この歌をこの 筒木の宮で作られたと考えてもいっこうに差し支えまい、その方が親しみやすく味わいふかく思われる。

8月15日(金)

八十回目の敗戦の日だ。敗戦なのだ、そのことをもう一度確認せよ。暑い。

温又柔『恋恋往時』読了。台湾語と中国語、そして日本語、その三か国語が混在して、けっこうわかりにくい。台湾らしい味のある話だと思うものの、けっこう入り組んでいる。

  田に降りて白鷺細き肢はこぶ稲穂だれて乾ぶるところ

  乾びたる地に雨蛙も干乾びていきかへりこぬか乾燥がへる

  籾重く穂に垂れてそろそろ刈り時なり黄金の時をただ惜しむべし

『孟子』梁惠王章句上7-10 今、王政を発し仁を施さば、天下の仕ふる者をして、皆、王の朝に立たんと欲し、耕す者をして皆、王の野に耕さんと欲し、商賈をして皆、王の市に蔵せんと欲し、行旅をして皆、王の塗に出でんと欲し、天下の其の君を疾ましめんと欲する者をして皆、王に赴き愬へんと欲せしむ。其れ是の若くんば、孰か能く之を禦めん」と。

  王を発すれば王にきへんたれかよくこれをめん

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 有馬皇子

家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る (同・一四二)

二首目の歌である。「笥」は食物を盛る器で、金属製であったろうといわれる。一首の意は、「家にいる時はりっぱなうつわで食べる飯だけれど、こうして心にまかせぬ旅先でのことだ。やむなく椎の葉に盛って食べている」というのである。前の歌は「真幸くあらばまたかへり見む」と感慨が洩らされていたが、これはただ食べるうつわのちがいいっているだけである。それだのに前の歌におとらず切切と心に沁みわたるのは、むろん「椎の葉に盛る」をあわれと感じるからだが、何気ないようにいっている一、二句の「家にあれば笥に盛る飯を」は、すべてをあきらめているかのごとくである。だから「草まくら」の枕詞も「旅にしあれば」とつづくしらべが、意味なき枕詞をしていうにいわれぬ意味をよみがえらせて、ひとしお深い哀感をそそらせるのだ。(略)私には椎の葉に飯を盛って食べているのではないと困るのである。

8月14日(木)

晴れて暑くなる。

  一串に四つみたらし団子が繫がりてわれも頬張る妻も頬張る

  口の周りに団子の蜜のまつわりて幼子のごとき老爺なりき

  上手にみたらし団子を口に入れもごもご申すわが妻なりき

『孟子』梁惠王章句上7-9 王曰く、「是の若く其れ甚しきか」と。曰く、「殆ど有たより甚し。木に縁りて魚を求むるは、魚を得ずと雖も、後の災ひ無し。き為す所を以て、き欲する所を求むるは、を尽くして之に為し、後必ず災ひ有らん」と。曰く、「聞くことをきか」と。曰く、「と楚人と戦はば、則ち王以てれか勝つと為す」と。曰く、「楚人勝たん」と。曰く、「然らば則ち小はより以て大に敵す可からず。寡は固より以て衆に適す可からず。弱は固より以て強に敵す可からず。寡は固より以て衆に敵す可からず。弱は固より以て強に敵す可からず。海内の地、方千里なる者九。斉集めて其の一を有す。一を以て八を服するは、何を以て鄒の楚に敵するに異ならんや。ぞ亦其の本へ反らざる。

  木に縁りて魚を求むるごとくにて王は王たらん本に反るべし

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 有馬皇子

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む (万葉集巻二・一四一)

有馬皇子は孝徳天皇の子であるが、母は阿倍倉梯麿の娘、小足媛。(略)この有馬皇子が斉明天皇の四年十一月、天皇の不在中に反逆を企てた。天皇は(略)皇孫八歳建王を失われた傷心なかなか癒えず、十月から皇太子中大兄をともなって紀の湯に行幸し、滞在中であった。その時、京の留守官蘇我赤兄が有馬皇子に謀反をすすめた。(略)皇子は赤兄を信じて家へ帰って寝た。その夜中である。皇子の(略)家を囲んだのは赤兄のひきいる兵であった。まんまと赤兄の術中におちいったわけだが、皇子は捕えられて紀の湯に送られ、そこで皇太子じきじきのきびしい訊問にあった。その答えが「天と赤兄と知る。吾全解らず」であった。(略)あわれである。天皇には(略)甥にあたるが、仮借しなかった。藤白坂まで送り戻し、そこで絞に処した。時に皇子は十九歳であったが、これは中大兄と藤原鎌足のしくんだ謀略だったといわれており、赤兄は手先にすぎなかったようだ。(略)

この歌は皇子が護送されて行く途中、紀の湯にほど近い磐代で歌われる。「自分はこうして磐代まで来たが、この浜の松を結んで神にお祈りする。もしも幸に無事であったならば、帰りにこの結び松をもう一度拝むことができよう」という意である。許されて帰れるとは思っていなかった。これまでの中大兄のやり口をかんがえて見ると助かるはずがないと思われた。覚悟はきめているものの万一ということがある。その心が磐代の岩に願い浜松の枝を結んで祈ったのだ。それだけにいっそう悲痛で、あわれを思わせるのである。(略)下の句「真幸くあらばまたかへり見む」と誦んでいると涙が流れる。哀切の語は一つもないのにそれがにじみ出てくる。心とことばが一つになているしらべから来るので、写生なんていうものではない。

8月13日(水)

曇り空が続くようだが、暑くなりそうだ。

  冊子・本いく冊か重ね縛りたり紙ごみとして捨つるもやむなし

  この中には捨ててはならぬ本があるされど仕方なし老いたればなほ

  ゴロゴロと音立てて運ぶ冊子・本われを棄てたるごとき思ひに

『孟子』梁惠王章句上7-8 王甲兵を興し、士臣を危ふくし、怨を諸侯に構へ、然る後心に快きか」と。王曰く、「否。吾何ぞ是に快からん。将に以て吾が大いに欲する所を求めんとすればなり」と。曰く、「王の大いに欲する所、聞くを得可きか」と。王笑ひて言はず。曰く、「の口に足らざるが為か。の体に足らざるか。抑々の目に視るに足らざるが為か。声音の耳に聴くに足らざるか。の前に使令するに足らざるか。王の緒臣、皆以て之を供するに足れり。王是が為ならんや」と。曰く、「否。吾是が為ならざるなり」と。曰く、「然らば則ち王の大いに欲する所、知る可きのみ。土地を辟き秦楚を朝せしめ、中国にんで四夷を撫せんと欲するなり。き為す所を以て、若き欲する所を求むるは、猶ほ木に縁りて魚を求むるがごときなり」と。

  王様の大望は領土に非ざるや木に縁りて魚を求むるがごとき

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 石榑千亦

いたどりの林吹上ぐる海の風まともに吹きて馬つからすも (歌集・鷗)

北海道寿都での作である。いたどりは虎杖の字が当てられるが、宿根草で新芽は丈余にのびるから、それが群生していたのでは林をなすがごとくなるだろう。そういう未開拓の荒涼たる海岸を馬に乗って行くときの歌だ。「つからす」は他動詞で、疲れしむ、疲れさせるの意だが、この結句が非常によく利いていをる。荒い潮風に絶えまなく吹きつけられれ人馬もろともに疲れている。このとき自分のことをいわずに馬だけをいった。それがかえって旅情を深からしめた。夏たけた北海道をいやというほど思い感じさせる歌だ。これは大正十年刊行の第二歌集『鷗』に出ている歌だが、他に次のような佳作がある。

昆布の葉の広葉にのりてゆらゆらにとゆれかくゆれ揺らるる鷗

秋の日はいてりとほりて北の方オコツク海も油凪せり

沓形は海よりつづく磐の道夜道危し手火させ子ども

千亦は昭和十七年七十四歳でなくなるまで、一生を水難救助会のためにつくした。それゆえ全国を旅行、北海道だけでも三十数回に及ぶ。したがって海洋の歌が多く海の歌人と称せれる。(略)誠実、また任侠の人で多くの歌人が恩に浴した。古泉千樫、新井洸しかり、若き日の私もその一人ある。

8月12日(火)

雨ではない。

  後尾灯の赤き点滅まぶしくて午後七時半県道51号線

  つぎつぎに後尾灯つづまるごときな り信号赤に待ちたり

  くもり空が圧しくるやうに暗くして後尾灯の赤点滅したり

『孟子』梁惠王章句上7-7 吾が老を老として、以て人の老に及ぼし、吾が幼を幼として、以て人の幼に及ぼさば、天下はにらす可し。詩に云ふ、『に刑し、に至り、以て家邦を御む』と。斯の心を挙げて諸を彼に加ふるを言ふのみ。故に恩を推せば、以て四海を保んずるに足り、恩を推さざれば、以て妻子を保んずる無し。古の人、大いに人に過ぎたる所以の者は、他無し。善く其の為す所を推すのみ。今、恩は以て禽獣に及ぶに足り、而も攻は百姓に至らざる者は、独り何ぞや。権して然る後に軽重を知り、して然る後に長短を知る。物皆然り。心を甚しと為す。王請ふ之をれ。

  王よもの皆さよう心をはかること王よ心のうちを測れ

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 石榑千亦

帆を捲きて風にそなふる遠つあふみ灘のゆふべを雁なきわたる (歌集・潮鳴)

「遠つあふみ」の「あふみ」は淡海のこと。近い淡海が琵琶湖であり、遠い淡海が浜名湖であり、それから近江、遠江の国名が生れた。(略)遠江灘、すなわち遠州灘で、熊野灘とともに波が荒いので海の難所とされている。これはその遠州灘を航行中の歌だ。「帆を捲きて」だから機帆船だったのだろう。おりしも台風が来そうな険しい空模様になって来た。海上は次第にしけて来た。はげしい風が吹いて波浪のうねりが高まって来た。流されないようにそこで帆は全部捲きおろした。しかも日はちりじりの暮れ方である。不安やる方もないひとときである。その時どこからともなく雁の声が聞こえて来た。時が時、場所が場所だけに救わるるような思いをした。いやいっそう荒涼たる思いをしてそのかりがねの行方を見送っていたのだろう。

この場合二句「風にそなふる」はなくてはならぬ句だが、それを受ける「遠つあふみ灘」は句割れになっている。一語であるその語が、調べからすると「遠つあふみ」今日の若い歌人はほとんど無頓着である。歌が調べをなくし、散文化して、詩の断片語みたいになるのは当然である。(略)この歌は三、四句のつづきぐあいに苦心したことがわかる。「灘」にアクセントをつけたものだ。それがおのずから「雁なきわたる」と豊かに大きく歌いおさめる結果を来たした。(略)この『潮鳴』は千亦の第一歌集、大正四年の刊行である。(略)