5月14日(木)

海老名は晴れ、午後雨らしい。

  物差しに割腹の真似。幼きわれの秘密の儀式

  母にも父にも言ひがたき秘密持つことひそかに愉しむ

  三島由紀夫・森田必勝の自決なりわれに維新の夢抱かすは

『孟子』告子章句上148 孟子曰く、「牛山(ぎうざん)の木、嘗て美なりき。其の大国に(かう)たるを以て、斧斤(ふきん)之を(き)る。以て美と為す可けんや。是れ其の日夜の(そく)する所、雨露の潤す所、萌孼(ばうげつ)の生無きに非ず。牛羊又従つて之を牧す。是を以て彼の(ごと)く濯濯たるなり。人其の濯濯たるを見て、以て未だ嘗て材有らずと為す。此れ豈山の性ならんや。

  斉の牛山の木かつて美なりき都市の郊外なれば木を伐採す

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

奈良旅の疲れだろう、今日はお休み。

5月13日(水)

奈良最後の日、今日も晴れて暑い。

  天の(めい)(つるぎ)を授かり神兵隊事件につらなる右翼の面々

  血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、神兵隊事件……

  ときの首相犬養毅に引金をひく三上卓ただ太っ腹なり

  かくのごとき昭和維新を夢見つつわが少年期幸せなりき

『孟子』告子章句上147-2 口の味に於ける、同じく(たしな)むこと有るなり。(えき)(が)は先づ我が口の耆む所を得たる者なり。(も)し口の味に於けるや、其の性人と(こと)なること、犬馬の我と類を同じうせざるが(ごと)くならしめば、則ち天下何ぞ耆むこと、皆易芽の味に於けるに従はんや。味に至りては、天下易芽に期す。是れ天下の口相似たればなり。(ただ)耳も亦然り。声に至りては、天下師曠(しくわう)に期す。是れ天下の耳相似たればなり、惟目も亦然り。子都に至りては、天下其の(かう)を知らざる(な)きなり。子都の姣を知らざる者は、目無き者なり。」故に曰く、『口の味に於けるや、同じく耆むこと有り。耳の声に於けるや、同じく聴くこと有り。目の色に於けるや、同じく美とすること有り。心に至りて、独り同じく然りとする所無からんや』と。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。(い)はく、理なり、義なり。聖人は先づ我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。故に理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢(すうくわん)の我が口を悦ばすがごとし」

  理と義がわれらを満足させるのは牛羊・犬豕の肉うまきなり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

娑婆にゆゆしく憎きもの 法師の焦る上馬(あがりうま)に乗りて 風吹けば口()きて (かしら)白かる翁どもの(わか)()好み (しうとめ)(あま)(ぎみ)のもの(ねた)み  (四句神歌・雑・三八四)

【現代語訳】この世でひどく憎らしいものは、法師が荒々しく跳ねる暴れ馬に乗り、風が吹くと口を開いている様子。頭の白いお爺さんたちが若い女を追いかけるさま。姑の尼君のやきもちやき。

【評】憎いもの尽くし。翁や姑の尼君といった老人に批判の目を向けている。最初に登場する法師の年齢ははっきりしないが、荒馬を乗りかこなせず、口を開けてぜいぜいと息をしているような描写からは若々しい感じは伝わってこない。したがって、当該今様は、年をとった老人への容赦ない嘲りに貫かれている一首と言えよう。

「焦る」は荒々しく躍り上がる意。文久五年(一二六八)成立の語源辞書『名語記』巻三・三四ォに「馬ノアセリサハク」とあり、巻八・八一ォには「馬ノ沛艾ナルヲアセルトイフ」とある。「沛艾」とは、馬が暴れ躍り上がるように行くさま。「上馬」は前足を跳ね上げ後ろ脚で立つようなかんの強い暴れ馬。

「姑の尼君」は年をとって尼姿になった姑。嫁入り婚前時代であるから、仲の良い娘夫婦に嫉妬している様子と見られる。   『枕草子』「憎きもの」の章段には、不快感を与えるさまざまな人間の様子が細かに描写されている。かなり長い章段であるから、今様と一律には比較できないが、この段で老人の様子が批判的に記されているのは一か所のみで、火桶や炭櫃ばどに近寄って手足をこすり合わせ、意地汚いまでの態度で暖をとろうとする様子や、座ろうとする場所を扇であおいで塵を払い、座ってからも落ち着かない態度でいる不作法を「憎し」とする。人間の見苦しさはさまざなあるが、今様は特に、老人のそれに集約した形で一首を構成したのであろう。

5月12日(火)

奈良は暑いほどの青天。

  テロルの言葉を心に深く受けとめて嘘にしてはならぬと思ふ

  目指すのは「世界の修正」。難しきことなれどかく思ふが肝要

「是の漂へる国を修理固(つくりかため)(な)せと(の)りごちて、天沼(あめのぬ)(ぼこ)を賜ひて言依(ことよ)さし賜ひき」

  修理固成こそ昭和維新の原基なり天の沼矛を持ちてテロルへ

『孟子』告子章句上147 孟子曰く、「(ふ)(さい)には子弟(らい)多く、(きよう)(さい)には子弟(ばう)多し。天の才を(くだ)すこと、(しか)(こと)なるに非ざるなり。其の、其の心を陥溺(かんでき)する所以の者然るなり。今、夫れ(ぼう)(ばく)、種を(は)して之を(いう)す。其の地同じく、之を(う)うる時又同じ。(ぼつ)(ぜん)として生じ、(につ)(し)の時に至りて皆(じゆく)す。同じからざる有りと雖も、則ち地に肥磽(ひかう)有り、雨露(うろ)の養ひ、人事の(ひと)しからざればなり。故に(およ)そ類を同じうする者は、(みな)相似たり。何ぞ独り人に至りて、之を疑はん。聖人にも我と類を同じうする者なり。故に龍子(りやうし)曰く、『足を知らずして(くつ)(つく)るも、我其の(き)(た )らざるを知る』と。履の相似たるは、天下の足同じければなり。

  いにしへの龍子がいふ寸法を知らずして履を作るも相似たり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

ふしの(やう)がるは 木の節(かや)の節山葵(わさび)(たで)の節 峰には山臥(やまぶし)谷には鹿(か)(こ)臥し翁の美女まり得ぬひとり臥し

【現代語訳】ふしの中で一風変わっていておもしろいのは、木の節、萱の節、山葵や蓼の節。峰には山伏、谷には鹿の子が臥している。おじいさんが美女をものにできなくて寂しい一人臥し。

【評】語尾に「フシ」のつくものを並べた物尽くしの一首。はじめに植物の「節」を並べ、ついで「臥す」という人や動物の行為に移る。結句に説明の言葉を続けた重みがあり、意表をつく滑稽な内容でまとめている。

「様がる」は風変わりでおもしろそうだ、の意だが、『梁塵秘抄』には「様がる滝」(三一四)、「小鳥の様がるは」(三八七)、「山の様がるは」(四三〇)、「この巫女様がる巫女よ」(五六〇)など、例が多い。何か変わったおもしろそうなものへの旺盛な好奇心は、今様という流行歌謡の性格をよく表していよう。(三五七)

「萱」はチガヤ、ススキ、スゲなど細長くて強い葉を持つイネ科の草の総称。葉を刈り取って屋根を葺いたり、草壁の材料にしたりする。「山葵」はアブラナ科の多年草。地下茎は香辛料として利用される。「山葵の」の「の」は並列をあらわす。「蓼」はタデ科の植物の総称。原野に最も多く見られるのはイヌタデで、秋に紅色の花穂をつけ、あかまんまとして親しまれる。食用になるのはヤナギタデで、唐木が強く香辛料になる。正倉院文書にも名が見え、奈良時代から栽培されていたことが知られる。平安時代の和歌においても、

(や)(ほ)(たで)も河原を見ればおいにけりからしや我も年をつみつつ  (『好忠集』)

(穂の多い蓼も、河原を見るとまあ大きくなったものだなあ。つらいことには私も、からい蓼の葉を摘んでいるうちに、年を積んで老いてしまったよ)

くれなゐの色なりながら蓼の穂のからしや人の目にも立てぬは  (『山家集』)

(目につく紅の色でありながら、蓼の穂は人が見ようともしないのは、蓼がからいようにつらいことだ)

のように、蓼の味のからいことに注目し、つらい意を掛けている例が多い。

『山臥』は山野に臥して苦行する修行者。

「鹿の子臥し」については、文字通り、鹿の子が臥していると見る説のほか、雄鹿のイメージを見る説、雌雄の鹿の共寝と見る説がある。和歌においては、次のように「雄鹿臥す」が、ひとまとまりの表現として繰り返し登場し、妻を恋う雄鹿が孤独に臥している様子が想起されやすい。

雄鹿臥す茂みにはる葛の葉のうらさびしげに見ゆる山里(『後拾遺和歌集』雑五・大中臣能宣(おほまかとみのぶよし)

(雄鹿の臥す茂みに蔓を延ばしている葛の葉が翻り、寂しげに見える山里だよ)

独り寝やいとどさびしき小雄鹿の朝臥す小野の葛の浦風(「新古今和歌集」秋下・藤原(あき)(つな)

(独り寝はひとしお寂しいことであろうか。雄鹿が朝寝する野の葛の葉裏を翻して吹く秋風よ)

雄鹿臥す夏野の草の道をなみしげき恋路にまどふ比かな(『新古今和歌集』恋一・坂上是則)

(雄鹿が臥している夏野の草が道もないまでに茂って人を迷わせるように、私も絶え間ない思いで恋路をさまよっているこの頃よ)

「まり」は、共寝する、妻とするの意の「まく」の連用形「まき」が転訛したものであろう。翁と若い女性の取り合わせは、『梁塵秘抄』の他の歌にも「娑婆にゆゆしく憎きもの……頭白かる翁どもの若女好み」(三八四)のように批判的に捉えられている。

当該今様の後半は、修行者である山伏、妻を恋いもとめる雄鹿、独り寝の翁といずれもわびしい一人臥しを並べている。翁の独り寝に対しては揶揄の調子も感じられるが、三種の孤独な一人臥しのつらさが、掛詞として前半の山葵や蓼のからさと響き合っているようにも捉えられ、味わい深い。

5月11日(月)

晴れ。今日から奈良へ。蔵王権現に逢いに。

「世界を修正する。」

テロルはあってはならないことだと思う。けれども……

テロルとは社会問題解決の古典的手法。こたびも無謀

コール・トーマス・アレン(31歳)

  トランプや政府高官を殺さむに「世界を修正する」といふ何故か気になる

  「世界を修正する」この語にこもる真実をくみとるべきか唾棄すべきか

『孟子』告子章句上146-2 孟子曰く、「(すなは)ち其の情の(ごと)きは、則ち以て善を(な)(べ)し。乃ち所謂善なり。(か)の不善を為すが若きは、才の罪に非ざるなり。惻隠(そくいん)の心は、人皆之有り。(しう)(を)の心は、人皆之有り。(きよう)(けい)の心は、人皆之有り。是非(ぜひ)の心は、智なり。仁義礼智は、外(よ)り我を(しやく)するに非ざるなり。我之を固有(こいう)するなり。思はざるのみ。故に曰く、『求むれば則ち之を得、(す)つれば則ち之を失ふ。或ひは(あひ)(ばい)(し)して、算無き者は、其の才を尽すこと能はざる者なり』と。詩に曰く、『天の(じよう)(みん)を生ずる、物有れば(のり)有り。民は(い)(と)る、是の(い)(とく)を好む』と。孔子曰く、『此の詩を(つく)る者は、其れ道を知れるか』と。故に物有れば必ず(のり)有り。民は(い)(と)る、故に是の懿徳を好む」と。

  孟子の性善説を説くところそれぞれに論ず仁義礼智を

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

遊女(あそび)の好むもの (ざふ)(げい)(つづみ)小端(こはし)(ぶね) (おほがさ)(かざし)(とも)取女(とりめ) 男の愛祈る(ひやく)大夫(だいふ) (四句神歌・雑・三八〇)

【現代語訳】遊女の好むものは、今様の歌々、鼓、小端舟、簦を翳す人、舟を漕ぐ女。男の愛情を得られるようにと祈る百大夫の神。

【評】遊女にとっての必需品が並べられた物尽くしの一首。道具(芸そのものおよび芸に直接必要なもの、乗り物)→伴う人々→信仰する神の順に素材が配置されており、遊芸の芸との関係性がごく強いものから周辺的なものへ移っていく。結句でやや意表をつくという、物尽くしよく見られる構成方法であろ。

「雑芸」は広義今様のことで、しばしば鼓の伴奏で歌われた。『法然上人行状絵図』巻三四には播磨国(現在の兵庫県西部)室津についた法然(一一三三~一二一二)の船に近づく遊女の小舟が描かれているが、鼓を抱えた遊女に傘をさしかける女性と、艪を漕ぐ女性が描かれており、この今様の歌っている状況と重なって三人一組で行動する遊女の様子がよく分かる。平安時代の遊女を主人公とする能「江口」でも、遊女は舟の作り物に三人並んで乗る姿で登場する。

百大夫は道祖神(さえのかみ・どうそじん)の別名で、峠や村境などの境界にあって悪霊疫病などを防ぐとともに、恋愛を司る神でもあった。堀河天皇(一〇八六~一一〇七在位)の時代に成立した歴史書『扶桑略記』天慶二年(九三九)九月二日条や、長久年間(一〇四〇~一〇四四)に成立した仏教説話集『本朝法華験記』下‐一二八には、男女の性器を象った道祖神のあったことが記される。鎌倉初期までは成立していた「吒枳尼天祭文」(高山寺蔵)は配偶者を請い求める男女がその成就を願うためののもので、妻を求める男性用、夫を求める女性用と二種類の祭文があるが、願いをかける対象の神として「柿本ノサヘ」「ソリ橋ノサヘ」「出雲道ノサヘ」「本辻ノサヘ」といった道祖神の名が見える。これらは柿の木の下、橋のたおと、道の入り口や出口、辻など、境界の地に祀られた道祖神であろう。境界を守り、恋の成就を導くという道祖神の性格がよく表れている。しかし、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』など、平安時代から鎌倉時代にかけての説話集をひもとくと、道祖神は、あるいかがわしさをもった格の低い神として扱われており、このような神に対して篤い信仰を寄せる遊女らの社会的地位を暗示しているとも見られよう。

大江匡房(一〇四一~一一一一)の記した『遊女記』『傀儡子記』には、遊女一人一人が道祖神の像を刻んで持っていたことや、傀儡が道祖神像の前で派手に歌い舞って祈りをささげたことが見える。

5月10日(日)

青天。

  九階のベランダに妻と国見する。若きつばめの素早き動きを

  つばめらを追ひゆく子らの嬉々として遊ぶがごとくかけめぐりたり

  金沢の旅から帰り十日ほど腰定まらず次の旅案ず

  近くの整体の店の軒下につばめの巢あり地は糞まみれ

『孟子』告子章句上146 (こう)都子(とし)曰く、「告子(こくし)曰く、『性は善も無く、不善も無きなり』と。(ある)ひと曰く、『性は以て善を為す可く、以て不善を為す可し。(こ)の故に文武興れば、則ち民善を好み、幽厲(ゆうれい)興れば、則ち民(ばう)を好む』と。或ひとは曰く、『性善なる有り。性不善なる有り。是の故に堯を以て君と為して、(しやう)有り。瞽瞍(こそう)を以て父と(な)して、舜有り。紂を以て兄の子と為し、且つ以て君と為して、微子(びし)(けい)王子(わうし)(ひ)(かん)有り』と。性は善なりと曰ふ。然らば則ち彼は皆非なるか」と。

  善・不善、悪人・善人さまざまなり何が正しいかさっぱりわからず

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

月かげゆかしくは 南面(みなみおもて)に池を掘れ さてぞ見る (きん)(こと)(ね)聞きたくは 北の岡の上に松を植ゑよ   (四句神歌・雑三七九)

【現代語訳】月が見たいならば、屋敷の南面に池を掘れ。そうして眺めよう。(きん)(こと)の音が聞きたいならば、北の岡の上に松を植えよ。

【評】池に映った月を眺め、松風を琴の音と聞きなす一首。自然の味わい方に一種の屈折があり、和歌を中心とした文学的伝統の上に成り立っている。

池に映った月を賞玩することは、『古今和歌集』にすでに見える。

池に、月の見えけるを、よめる

ふたつなき物と思ひしを水底に山の端ならでいづる月かげ 紀貫之 (雑上)

(月は一つだけで二つとはないものだと思っていたのに、この水の底に山の端からでなく出ている月影よ)

また、絵画のテーマとしてもしばしば描かれ、『拾遺和歌集』秋部には、池に映った月を描いた絵を見て詠んだ、次のような和歌の例が見える。

屏風に、八月十五夜池ある家に人あそびしたる所 水の(おも)に照る月波をかぞふれば今宵ぞ秋の最中(もなか)なりける  源(したがふ)

(波の立つ池の水面に映っている月を見て、月日の数を数えてみれば、今宵は秋の真ん中の八月十五夜であったよ)

廉義公の家の(かみ)(ゑ)に、秋の月おもしろき池ある家ある所 秋の月西にあるかと見えつるは更け行く夜半(よは)の影ぞありける  源(かげ)(あきら)

(秋の月が西の方にあると見えたのは、夜が更けて、池の水面に映った夜半の月影であったよ)

(きん)(こと)」は十三絃の「(そう)(こと)」に対し、七弦の琴を言う。奈良時代に中国から伝来し『うつほ物語』や『源氏物語』にはその名が見えるが、平安時代末期にはほとんど廃れてしまった。したがって当該今様が(きん)を歌っているのも、身近で具体的な楽器としての七絃琴を強く意識したからでなく、松風の音を(きん)の音と聞きな文学的伝統によったためと考えられる。

松風と琴の取り合わせに関して、後代の和歌や物語に最も大きな影響を与えたのは、『拾遺和歌集』の次の一首であろう。

野宮に斎宮の庚申侍りけるに、松風入夜琴といふ題を詠み侍りける。

琴の音に峰の松風通ふらしいづれのをより調べそめけん  斎宮女御 (雑上)

(琴の音に、峰の松風が似通っているように聞こえる。いったいあの松風は、どの山の(を)から、すなわちどの琴の(を)(絃)から美しい音を奏ではじめたのだろうか)

当該今様は、以上のように、伝統的美意識にのっとった作であるが、池に照る月と琴に通う松風の音とを楽しむために、「南面に池を掘れ」「北の岡の上に松を植えよ」と、南と北、池と岡の対比をはっきりと示して命令形を重ねている点には、和歌に見られない表現の強さがあり、楽しみを進んで享受しようとする積極性がある。

5月9日(土)

今日も晴天。

  外に出て若きつばめを追ふ遊び。老いたればただ視てゐるばかり

  いづこにか巢を造るらし。その巢より餌求めるかたちまち高く

  羽虫とか蚊のたぐひとかを餌にして空中乱舞たのしきろかも

『孟子』告子章句上145-2 孟子曰く、「『叔父(しゆくふ)を敬せんか。弟を敬せんか』ととへ。彼将に曰はんとす、『叔父を敬す』と。曰へ『弟(し)(た)らば、則ち誰をか敬せん』と。彼将に曰はんとす、『弟を敬す』と。子曰へ、『(いづく)にか在る其の叔父(しゆくふ)を敬するや』と。彼将に曰はんとす、『位に在るの故なり』と。子亦曰へ、『位に在るの故ならば、(つね)の敬は兄に在り、斯須(ししゆ)の敬は郷人(きやうじん)の在り』と」季子(きし)之を聞きて曰く、「叔父を敬すべければ則ち敬し、弟を敬すべければ則ち敬す。果して外に在り。内(よ)りするに非ざるなり」と。公都子曰く、「冬日(とうじつ)は則ち湯を飲み、夏日(かじつ)は則ち水を飲む。然らば則ち飲食も亦外に在るか」と。

  飲食も外にあつて内からの要求でないとすればいままでの論と矛盾せぬか

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

池の澄めばこそ 空なる月かげも宿るらめ 沖よりこなみの立ち来て打てばこそ 岸も後妻(うはなり)打たんとて崩るらめ  (四句神歌・雑・三七八)

【現代語訳】池の水が澄んでるからこそ、空にある月も水面に宿るのであろう。沖から小波(前妻)が立ってきて岸を打つからこそ、岸も後妻を打とうというので崩れるのであろう。

【評】後妻打ちを歌い込んだ洒落の一首。後妻打ちとは、前妻が後妻に乱暴を働くことで、記録上早い例として、『御堂関白記』寛弘九年(一〇一二)二月二五日条に「輔親の宅家に雑人多く至りて濫行を成すと云々……是蔵云女方宇波成打と云々」と見える。承平年間(九三一~九三八)に成立した辞書『和名類聚抄』に「後妻」の訓として「宇。波奈利」が見えるから、後妻の家に前妻(蔵という何の女房)側の人々が押し寄せて乱暴を働いたことがわかる。後白河院の今様の弟子である平康頼が編んだ説話集『宝物集』巻二には、天皇の后の嫉妬について語った後、「まして、あやしの下衆ども、うはなりうちとかやして、髪かなぐり、取り組みなどするは、ことはりにぞ侍るべし」(まして、身分の低い女性たちが、後妻打ちとかいうことをして、髪をひきむしったり、争って取っ組み合ったりするのは当然のことでありましょう)と述べており、「後妻打ち」と称して後妻の身体に危害を加えることが見て取れる。

「こなみ」は「小波」に「前妻」を掛けている。『和名類聚抄』には「前妻」の例として「古奈美」が見える。古く、『古事記』歌謡に「古奈美(こなみ)が 肴乞(なこ)はさば 立ち柧棱(そば)の実の無けくを こきし(ひ)ゑね 宇波那(うはな)(り)が 肴乞はば (いち)(さかき) 実の多けくを こきだ(ひ)ゑね」(前妻がおかずを欲しがったら、柧棱の実の少ないところをたくさんそぎ散ってやれ。後妻がおかずを欲しがったら、巌榊の実の多いところをたくさんそぎ取ってやれ)と見え、「こなみ」と「うはなり」が対になって歌われている。

当該今様は、前半で澄んだ池に月が映ることを歌い、静かで清らかな風景を描き出しているのに対し、後半では騒がしく荒々しい情景に転じている。八幡宮の縁起や霊験譚を記した鎌倉時代の『八幡宮巡拝記』に、説法の言葉として「仏ノ具シ給ヘル至誠心ヲ思ヘハ、行者ノ心ノ中ニカヨフ也。池水スメハ空ノ月ノカヨフ也」とあることを参照すれば、前半と後半で、悟りの境地と嫉妬心という煩悩の苦しみとを対置しているとも見られる。こうした対比と言語遊戯で巧みに織りなされた一首と言えよう。

5月8日(金)

晴れだか、曇りだか。暑い。

  気がつけばそら飛ぶつばめ、初つばめわが住む町に姿あらはす

  九階のベランダに観る初つばめ舞台のごとく数羽飛び交ふ

  ことし初の若きつばめの群舞あり。夏のはじめの空を彩る

『孟子』告子章句上145 (まう)季子(きし)(こう)都子(とし)に問うて曰く、「何を以て義は内と謂ふや」と。曰く、「吾が敬を行ふ。故に之を内と謂ふなり」と。「郷人(きやうじん)(はく)(けい)より長ずること一歳ならば、則ち誰をか敬せん」と。曰く、「兄を敬せん」と。「酌まば則ち誰をか先にせん」と。曰く、「先づ郷人に酌まん」と。「敬する所は此に在り。長ずる所は彼に在り。果して外に在り。内(よ)りするに非ざるなり」と。公都子答ふること能はず。以て孟子に告ぐ。

  同じ敬意でも相手によつて違うものがよりも内的ならむ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(あま)はかくこそ(さぶら)へど 大安寺(たいあんじ)一万(いちまん)法師(ほふし)伯父(をぢ)ぞかし (おひ)もあり 東大寺にも修学(しゆがく)して 子も持たり (あま)(け)(さぶら)へば ものも着で参りけり  (四句神歌・雑・三七七)

【現代語訳】尼はこんな風にみすぼらしい格好をしておりますが、大安寺の一万法師も伯父なのですよ。甥もあるのです。伯父さまは東大寺にも学んで、子どもだって持っているのです。雨が降りそうなので私はいい着物着ないで参ったのですよ。

【評】零落した尼が見栄を張って歌う一首。

さて、この一首の「子」について、ほとんどの注釈書では「尼」の子と解し、一部の注釈書で「甥」の子としているが、伯父である「一万法師」の子と見る説に従いいたい。「甥もあり」は「伯父ぞかし」に応じて、囃し詞的に後から挿入されたものと考えられるだろう。『梁塵秘抄』今様にはそのような例が多く、たとえば次のような歌の中の傍線部は挿入句と見ることができるからである。

近江の(みずづみ)に立つ波は 花は咲けども実も(な)らず 枝ささず や 比叡の御山(おやま)の西裏にこそ や 水飲ありと聞け  (二五四)

熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず  (二五六)

甲斐国よりまかり出でて 信濃の御坂(みさか)をくれくれと はるばると 鳥の子にしもあらねども 産毛も変はらで帰れとや  (三六一)

楠葉の御牧の土器造 土器は造れど(むすめ)の貌ぞよき あな美しやな あれを三車(みくるま)四車(よくるま)愛行輦(あいぎやうてぐるま)にうち乗せて 受領の北の方と言はせばや  (三七六)

これらの例の傍線部は直前の内容を繰り返したり、ほぼ同様の内容を添加するもの、あるいは反対側からの問い直しであって、強調の意味を持つものの、それがなければ一首の意味が成り立たないというわけではない。当該今様の「甥もあり」は、二五四番歌の「実も熟らず」に対して「枝ささず」を重ねて「実も熟らないし(それだけではなく)枝も伸びない」と表現した例のように(→二五四)、「伯父もいるし(それだけでなく)甥だっている」というような強調表現であろう。「甥もあり」をいったん除いて考えると、一首は伯父自慢で貫かれていることになる。そもそも、自分の父や子といった直接的な肉親でなく、伯父や甥を持ち出すところに、自慢の強引さが窺われ、滑稽感が増す。

「大安寺」は南都七大寺の一つ。インドの祇園精舎は兜率天をうつし、中国の西明寺は祇園精舎をうつし造ったが、大安寺はその西明寺の一院をうつしたものとされる。(『大鏡』藤原氏物語)。中世には衰退したが、平安時代には東大寺とならぶ大規模な寺であった。

「東大寺」は大仏で名高い南都最大規模の寺。「一万法師」は未詳だが、いかにも立派な名前で、強い印象を残す。

大安寺という大きな寺の法師であり、東大寺という最高の場所で学んだ一万法師はしかし子を持っているという。僧が子を持つことは最も目につきやすい破戒行為であり、これを揶揄する芸能は、古くから存在する。たとえば、百済から伝わり、飛鳥・奈良時代に最盛期を迎えた伎楽の中には「婆羅門」という曲があるが、天福元年(一二三三)成立の楽書『教訓抄』巻四はこの曲に「これ、ムツキアラヒと謂ふ」と注記している。婆羅門はインドの四姓制度における最上位で、僧侶・司教の階級であるが、僧侶が襁褓(おむつ)を洗うことの背後には女性と子どもの存在を想像させる。また、藤原明衡(九八九?~一〇六六)著『新猿楽記』の寸劇の題名に「妙高尼が襁褓乞ひ」があり、「妙高」といういかにも気高く清らかな名前の尼が「襁褓」を求めて奔走する様子を滑稽に演じたもので、子を抱えた破戒の尼を風刺する演目だったと思われる。時代は下るが、慶長九年(一六〇四)八月、豊臣秀吉七回忌を期して執行された祭礼の記録『豊国大明神臨時御祭礼記録』には、「比丘尼胎みたるを先に立て、坊主の後より団扇で仰いだり、尼の体をさすったりつねったりしている様子を滑稽に演じたものがあったらしい。

このような揶揄の対象となる行為を、悪びれもせず自慢する当該今様の尼の滑稽さは際立っている。この尼の言葉は、あるいは猿楽のような芸能の中で発せられたものではないだろうか。ぼろをまとった尼が、自慢にならぬ自慢を得意げに言い立てる。「立派なお坊様である伯父さんは、子どもだって持っているのです」と高らかに宣言して観客の爆笑を誘い、さらに、「雨気」に「尼」を響かせた言葉遊びで締めくくる。「雨気」は雨の降りそうな気配のことで、『源氏物語』藤裏葉巻に「雨気ありと、人々騒ぐに」と見える。この一首から老いた尼の「哀感」を読み取る説もあるが、むしろ、人間の虚栄心と僧侶の破戒を滑稽に描き出して風刺した演劇性の高い一首と捉えたい。