2025年5月3日(土)

憲法記念日。天気はいいようだ。

  憲法記念日を嘉するべきか唾棄すべきかわれまだ惑ひ決しがたし

  天皇の章、また人権の章などは直すべしされど九条手を入れがたし

  九条を壊してはいけない自衛隊を加へることもわれ堪へがたし

  それぞれの階の扉を押しあけて(をうな)(をきな)が顔を出したり

  春なれば媼も外へ這ひだして喜びのこゑか不気味なる声

  つつじの大ぶりの花があちらこちらマンションの四囲に囲めるやうに

『論語』子帳六 子夏曰く、「博く学びて篤く志し、切に問ひて近く思ふ、仁其の中に在り。」

広く学んで志望を固くし、迫った質問をして身近に考えるなら、仁の徳はそこにおのずから育つものだ。

  博く学び篤く志し切に問ふさすれば仁徳そこにあるべし

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 野中(ぬなかの)川原史(がはらふひと)(まろ)

山川に鴛鴦(をし)二つ居て(たぐ)ひよく(たぐ)へる(いも)を誰か()にけむ (日本書紀・一二三)

「山川」は山の中の川、よつて「ヤマガハ」とにごる。「副ひよく」は「副ひ」がよい。いっしょにいるのがよいというほどの意で、「副へる妹」はそのように仲のよい妻ということになる。山の流れに遊んでいるオシドリのつがいのように、仲のよい美しい妻をたれが連れ去ってしまったのか、これは妻の死を嘆く挽歌なのである。

大化五年三月、中大兄皇子(のちの天智天皇)は蘇我倉山田大臣を討滅せられた。

その時、倉山田麿の娘で、皇子の妃であった蘇我造媛は父の最期を悲しむあまり、みずから死をえらんだ。皇子と媛との夫婦仲はよかっただけに、皇子の悲しみはひととおりではなかった。その皇子のみ心をうちをおしはかって、史麿の作った歌だと伝えられる。つまり代作である。代作でも代作らしい感じの少しもしない情のこもった歌で、オシドリの浮かぶ山川の景を配して、叙情と叙景との融合に成功し、よく短歌化しえているのは、作者がただものではない証拠だ。

2025年5月2日(金)

雨が降ったり、止んだり、また降る。

  あけぼの杉は夏の木なればやはらかくみどり葉茂り一人格なす

  沙羅の花落下して寂しさみどりの葉も夏のものやや濃くなりぬ

  苔絨毯みどり色したやはらかさその色観ればうれしきものよ

『論語』子張五 子夏曰く、「日々に其の亡き所を知り、月々に其の能くする所を忘るること無し。学を好むと謂ふばきのみ。」子夏がいった、「日に日に自分の分からないことを知り、月々に覚えていることを忘れまいとする、学問好きだといって宜しかろう。」

子夏の自讃でしょうか。

  日々分からぬを知り月々に覚えてゐるをたしかめるわれを学問好きと言ふなり

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 市原王

一つ松幾夜か経ぬる吹く風の声の(す)めるは年深みかも (万葉集巻六・一〇四二)

「同じ月十一日に、(いく)(ぢ)の岡に登り、一株(ひともと)の松の下に集ひて(うたげ)する歌二首」の中の一。もう一つは大伴家持の歌、

たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ情は長くとぞ思ふ (同・一〇四三)

同じ月とは天平十六年一月のことで、このところ宴がつづいる。(略)安積皇子は病弱で、この宴のあった一か月ほど後に亡くなられている。御年十七歳、不幸な皇子であった。(略)皇子の急死を藤原仲麻呂の暗殺だとする説もある。

家持の歌はこの皇子の御長命を祈ったので、昔よりのならい、そのしるしなる松    が枝を結んで「情は長くとぞ思ふ」と寿ぎお祝い申し上げたのだ。(略)前の歌と同じくこれも完全に独立性のある歌だから支えいらない。誦していると年老いた末の声が聞こえてくる。自然の声、神の声で、おのずから頭が下がる。前の歌を近代的だといったが、これはむしろ王朝風で、その悲しきまでに細くて高いしらべは、松風の歌の類型のもとをなしている。

2025年5月1日(木)

今日も晴れ。

  花房の短き藤の棚に近く見をれば虻蜂寄りてよろこぶ

  藤の房あまり匂はず地に遠くぶら下がりをれど蜂の音わづか

  遠くより藤の色見えよりゆかむうすむらさきの匂ふばかりに

  四錠の薬飲み捨て春の町へ出てゆく老いによろこびあらむ

  この道をよたよたとして歩みゆくわれにあらずや髭など生やし

  ETCの利用はできぬ料金所渋滞の列しばしつづけり

『論語』子帳四 子夏曰く、「小道と雖ども必ず観るべき者あり。遠きを致さんには泥まんことを恐る、是を以て君子は為さざるなり。」

たとい一枝一藝の小さな道でもきっと見どころはある。ただ君子の道を遠くまで進むためにはひっかかりなる心配がある。だから君子はそれをしない。

  君子とは近くの道にこだはらず遠くに進む必要がある

前川佐美雄『秀歌の十二月』二月 作者不詳

(あかとき)夜烏(よがらす)鳴けどこの山上(をか)(こ)(ぬれ)の上はいまだ静けし (万葉集巻七・一二六三)

もう夜が明けたというので夜烏が鳴いているけれど、まだこの岡の木立の枝先あたりはひっそりとしている、というのである。(略)「木末の上」を木立の枝先だけでなく、言葉通りその上を考える。しんと静まりかえっている木立の枝々を透けて見えるうす黄色い暁空をもいっているのだと考える。(略)私はそうした受け取り方をして、この歌に格別の親近感を持つ。時空を越えた親近感だ。(略)現代のわれわれと同じ思想で、同じ感情や感覚をもって歌われていると思われる。

そういう感じのする歌なのだ。一口にいえば近代的だ。じつに洗練されている。

あしびきの山つばき咲く八峯越え鹿待つ君が斎ひ嬬かも (同・一二六二)

西の市にただ独り出でて眼並べず買ひてし絹の商じこりかも (同・一二六四)

斎藤茂吉は「女が男にむかって云った言葉として受納れる方がいいのではあるまいか」といっている。(略)表向きの言葉通りに解したらよい。しずかな夜明けの空気が身に染むようだ。清澄限りない。

2025年4月30日(水)

今朝も天気だ。ずうっと晴れるようだ。

  ゑんじゅの枝にみどりの葉の繁りそこにもぽつぽつ壺花咲く

  山焼の烟など見えず感傷をおぼえることもあらず過ぎたり

  遠山は大地にどっしり坐りたり動かず騒がず位置変へるなし

『論語』子帳三 子夏の門人、交はりを子帳に問ふ。子帳曰く、「子夏は何とか云へる。対へて曰く、「子夏曰く、可なる者はこれに与し、其の不可なる者はこれを距がんと。」子張曰く、「吾が聞く所に異なり。君子、賢を尊びて衆を容れ、善を嘉して不能を矜む。我れの大賢ならんか、人に於いて何の容れざる所あらん。我れの不賢ならんか、人将た我れを距がん。これを如何ぞ其れ人を距がんや。」

  君子ならば尊き人と一般の人とを分けず包容し容れぬとなれば向うから拒む

前川佐美雄『秀歌十二月』 尾上柴舟

哀れにも晴れたるかなや飛ぶものは飛びつくしたる夕暮の空 (歌集・素月集)

「法師庵の縁にて空を仰ぐ絵に」という詞書があるから、これは画に題したので、つまり画賛だ。(略)この歌はそういう題詞と関係なく、これはこのまま独立してまことにすぐれた歌であると思われる。晴れわたった夕暮れの空に、飛ぶものすっかり飛んで行ってしまって、何もないというのだ。あとはとっぷりと暮れ沈む空があるばかりだという、この心境はただごとでない。(略)この透徹ぶりはどうだ。(略)これほど美しく、高いものはめったにないという気がする。(略)私はこの一首をようやく捜し出して、さすがは柴舟なるかなと思った。

2025年4月29日(火)

朝から晴れている。昭和天皇の誕生日である。「昭和の日」、忘れてはならない。

木村晋介『サリン それぞれの証し』を読む。麻原彰晃を先頭にしたオウム真理教が起こした残虐なテロ行為を読み解こうとして証言を集め、さまざまに検証しようとした一書。全編有意なものだが、解決できぬオウムの「神秘体験」の項に大きな刺戟を受けた。麻原彰晃は、私より一歳上、ほぼ同世代なのだ、あそこまで無謀になることにどこか責任があるような気がして、まだ死刑にしないでいたらと思わずにはいられない。オウムに関しては、後継団体もあり、まだまだ明らかにすることがある。私にはできそうもないが、後の世代にお願いしたいことの一つだ。

  大山の植栽きれいに分かれたりす枯れし枝葉、常盤の樹々と

  崖あれば下には枯れし木々の群れ常盤の木々は崖上に立つ

  山に登り冬木の間より空を見るかるがるとその青さに浮かぶ

『論語』子帳二 子帳曰く、「徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からずんば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く(な)しと為さん。」

「徳を守っても大きくはなく、道を信じても固くはない。それでは居るというほどのこともなく、居ないというほどのこともない。居ても居なくてもおなじだ。」

  居ても居なくてもかはらずに居ても居なくてもどうといふなし

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 尾上柴舟

つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき (歌集・日記の端より)

「初春枯草を焼く為に火を点ける。其烟が昼の間は山の一部を包んで匍匐してゐるが、日が暮れて段々夜になるに従ひ明るく空の色を焦がして実に綺麗だ。だが旅中にある身にはなんとなくうら悲しさを誘はるる様に感じられる。殊にこの野火の明るく見え初むる頃夜陰に立つ一山の風光が傷ましく見え、肌寒い風などがすこし吹き立つ時など実際淋しい感じがする。」(略)国語の教科書にもよく出ているが、私は疑問をもつ。

紫舟より十歳年下の生年吉井勇はそのころ湘南鎌倉にあって、

伊豆も見ゆ伊豆の山火も稀に見ゆ伊豆はも恋し我妹子のごと

と、放蕩無頼をなげきながら、海にかなた遥かに伊豆の山火を見ては、またせつない胸を燃やしていた。その伊豆の山火を伊豆旅行中の紫舟が見た。たまたまそれを伊東のへん、天城山の近くで見て詠んだのがこの歌で(冒頭につづく)

2025年4月28日(月)

今日も曇り、夕刻には雨になるらしい。

  妙ちきりんな影のかたちはわが(み)なり蹌踉と歩けばひょろひょろとゆく

  わが影の少し薄くて生きの(み)をあらはにさらす地獄のやうな

  双つの影がわたしの(み)をば分断す二つに分かれせんすべあらず

『論語』子張第十九 一 子張曰く、「士は危ふき見ては命を致し、得るを見ては義を思ひ、祭りには敬を思ひ、喪には哀を思ふ。其れ可ならんのみ。」

子帳がいった、「士人は危険を見れば命を投げ出し、利得を見れば道義を考え、祭りには敬うことを思い、喪には悲しみを思う、まあそれで宜しかろう。

  子帳曰く士人は危ふきに命を出すまあまあそれで宜しからふ

前川佐美雄『秀歌十二月』 二月 大伴旅人

(いも)として二人作りし吾が(し)(ま)は小高く繁くなりにけるかも (万葉集巻三・四五二)

「故郷の家に還り入りて、則ち作れる」という詞書のある三首中二つ目のうた。(略)しかし帰っても妻はいない。筑紫でなくした妻を思うと断腸の思いがしたのだろう。(略)妻といっしょに作った庭の、わずかな年月うちにこんなにも木が高く茂ったというだけのこの歌は、情景そのままを叙したにすぎない。しかし明快にして豁達、豊かな調べの、また柄の大きい歌であって、いっそうあわれ深さを感じさせる。

この「なりけるかも」は、同じ旅人の吉野の歌、

昔見し象の小河を今見ればいよよ清けくなりにけるかも (同巻三・三一六)

とまったく同じ。そうして人麿の歌のそれとも同じだが、人麿の歌よりは旅人の方が品が高い。また同じ挽歌にしても、旅人の方がその悲しみは大きくかち切実である。旅人個人の悲しみの中に、家門や時代の苦しみを背負っている。     帰京してたった一年、翌天平三年七月、年六十七歳で没した。国初以来きっての名門、軍を率い軍部の長として代々国家に奉仕して来た大伴氏は、事実上旅人で終わるのである。

2025年4月27日(日)

まあ、曇りつづきだが春らし日だ。しかし体調がすこぶる悪い。一日寝て過ごす。

海音寺潮五郎『武将列伝 秀吉の四桀』を読了。石田三成、蒲生氏郷、加藤清正、伊達政宗の、いわば史伝だが、それぞれに好き嫌いがあるらしく石田三成にきびしく、伊達政宗にももんくがありそうだ。蒲生氏郷と加藤清正は筆が走っているように思える。いずれも秀吉に臣従した武将であり、おもしろかった。伊達政宗には、漢文一編、漢詩三十首、和文二編、和歌二百奈々十五首がのこっているという。その中から後水野尾天皇勅撰の「集外歌仙」に採られたという和歌を一首、

  鎖さずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋む夜半の白雪

  初燕けふ飛びたるを見たりけり卯月終はりにこの町に来る

  いづこかに燕の巣があり子つばめの餌を求めて鳴く声聞こゆ

  九階のベランダあたりをひるがへりまたひるがへり空旋回す

『論語』微子一一 周に八士あり、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧。

周の国には八士あり伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧

前川佐美雄『秀歌12月』 二月 大伴旅人

淡雪のほどろほどろに降り頻けば平城の京し思ほゆるかも (万葉集巻八・一六三九)

大伴旅人が筑紫大宰府のあって故郷平城の京を憶う歌である。(略)「夜のほどろわが出でて来れば」(巻四・七五六)「夜のほどろ出でつつ来らく」(巻四・七五五)の例もあり、それが夜明けごろ、うす暗がりの未明の状態をいうとすれば、もともと語源は同じなのだから参考にしてよいのではないか。(略)この歌の「淡雪」は水気を多く含んだ柔らかい雪、牡丹雪か霙雪のような雪が降り頻きっているのだ。(略)それは早春雪、春の雪なのだ。そういう日なればこそ、ひとしおに望郷の念切なるものがあったと思われる。私はこのように解して、いよいよ奥深い歌だと尊敬するのである。

旅人が太宰帥として下向したのは神亀五年ごろ、その年の夏に妻の大伴郎女を喪っている。京師から弔問の使が来たのに報えて、

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり (同巻五・七九三)

と無常を歎き、それからまた、

わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ (同巻三・三二一)

と異境辺土に老いを悲しむ。ともに秀でた作であり、複雑な人生の底深い悲しみを歌っている。(略)任務がようやく終わった旅人は天平二年冬、大納言となって帰京した。