8月11日(月)

朝から雨、時折止むものの雨、雨。

  この空の明るきひかりを自衛隊の輸送機らしきが訓練すらし

  爆音のときに聞こえてマンションの空高き上輸送機飛びゆく

  おそらくは米軍機も駐留し厚木基地有事に備へたりけり 

『孟子』梁惠王章句上7-6 曰く、「為さざる者と、能はざる者との形は、何を以て異なるか」と。曰く、太山をみて以て北海を超えんとす。人にげて曰く、『我能はず』と。是れ誠に能はざるなり。長者の為に枝を折らんとす。人に語げて曰く、『我能はず』と。是れ為さざるなり、能はざるに非ざるなり。故に王の王たらざるは、太山を挟みて以て北海を超ゆるの類に非ざるなり。王の王たらざるは、是れ枝を折るの類なり。

  王の王たるは北海を超ゆるにあらざるなりただ枝を折る類のみ

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 斉明天皇

山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど吾はさぶしゑ君にしあらねば (万葉集巻四・四八六)

巻四の巻頭「相聞」の第二首目の長歌の反歌である。題詞は岡本天皇の作とあるが、左注では岡本天皇か後岡本天皇かを判じかねている。万葉集編纂当時すでにわからなくなっていたのであろうが、これはどうしても女性の作だ。後岡本天皇すなわち斉明(皇極)天皇の歌だとする考え方がよいように思う。「あぢ群」はカモの一種味鴨の群れのこと。「さぶしゑ」の「ゑ」は感動をあらわす助辞。一首の意は、「山の端を味鴨の群れが鳴き騒ぎながら飛んで行くように、大勢の人がどやどやと通り過ぎるけれど、私はさびしくてなりません。たれひとり私の思っている人ではありませんから」というので、「あぢ群騒ぎ」までが序詞だが、それは「行く」に掛かる比喩になっていて「人」が省略せられている。それを受ける下の句は「吾はさぶしゑ」「君にしあらねば」と「ゑ」や「し」の助辞を用いて重々しくも力強く四、五句を逆にして調子を高めている。しかも繊巧ではない素朴さは記紀の歌謡に通じるものだ(略)これはかえって挽歌に近い。(略)これは舒明天皇崩御を悲しむ皇后の挽歌でないのか。私はそのように受け取って尊重している一首である。皇后は位に即れて皇極天皇、重祚せられて斉明天皇。舒明天皇共に万葉初期のすぐれた歌人ある。

8月10日(日)

朝少し間があって、雨が降りだした。

  失敗した印刷用紙の裏側を四つに切りてメモ用紙とする

  A4を二つに切りてそれぞれにまた二つにしてメモ用紙となる

  このメモには何を書くらむおそらくは短歌にかかはるあれやこれや

『孟子』梁恵王章句上7-5 曰く、「王にす者有り。曰く、『吾が力は以てを挙ぐるに足れども、以て一羽を挙ぐるに足らず。は以ての末を察するに足れども、を見ず』と。則ち王之を許さんか」と。曰く、「否」と。「今、恩は以て禽獣に及ぶに足れども、攻は百姓に至らざる者は、独り何ぞや。然らば則ち一羽の挙がらざるは、力を用ひざるが為なり。輿薪の見えざるは、明を用ひざるが為なり。百姓のんぜられざるは、恩を用ひざるが為なり。故に王の王たらざるは、為さざるなり。能はざるに非ざるなり」と。

  王の王たらざるは自分でならないのでありなれないのではない

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 舒明天皇

夕されば小倉の山に鳴く鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも (万葉集巻八・一五一一)

巻八「秋の雑歌」のはじめに見える岡本天皇の歌である。岡本天皇は岡本宮を皇后とされた天皇の意で、舒明天皇と解するのが普通である。(略)すなわちこの歌は宮殿の中から歌われたと考えられる。「夕ぐれになると、いつも小倉の山で鳴いているシカが今夜は鳴かない。どうしたのだろう、多分寝てしまったらしいわい」というのである。夜ごとに妻を求めて鳴いていたシカが、ようやく妻を得て寝てしまったという心の歌である。けれどもそのことを直接歌おうとしたのではない。今夜に限って鳴かないのはどうしてだろうと耳を澄まして聞き入っている心がおのずからこのような歌になったので、それだから「寝にけらしも」を「率寝」の意味に取ったりしたのでは、帰って歌の本意に反することになり、品をそこなうことになる。瞑想にふけっている安らぎの歌である。豊かに心の満ちわたった高い調べの美しい歌である。(略)なおこの歌とほとんど同じ歌が雄略天皇の歌として伝えられている。

夕されば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも (同巻九・一六六四)

三句「鳴く鹿は」が「臥す鹿の」となっているだけである。「鳴く鹿は」よりはさらに古調であるべきを、あたかも現代歌人のように「鳴く」および「は」の助辞の重複を避けて語句をととのえているなど、後世改竄の手が加えられたものだろう。

8月9日(土)

蓼科の旅から一日。ひどく疲労がたまる。

西川照子『京都異界紀行』を読み終える。京都界隈の小社を細かく追って霊界や祟りを論じて、なかなか愉しいものであった。「あとがき」を読んで、筆者が横井清の教え子であったことに、なるほどと共感する。ただ横井清は2019年4月7日午後4時21分に亡くなったとのことである。本は2019年9月20日に出版されている。

  卓上のに立ちのぼる湯気見ゆしあわせが立ちのぼる見ゆ

  手にふれてコーヒーの湯気のあたたかし右と左に妻と向き合ふ

  深き緑のコーヒーカップ卓上にまぎれもなく湯気たちのぼる

『孟子』梁惠王章句上7-4 曰く、「む無きなり。是れ乃ち仁の術なり。牛を見て未だ羊を見ざればなり。君子の禽獣に於けるや、其の生を見ては其の死を見るに忍びず。其の声を聞きては其の肉を食ふに忍びず。是を以て君子はを遠ざるくるなり」と。王んで曰く、「詩に云ふ、『他人心有り、之を忖度す』とは、夫子謂なり。夫れ我乃ち之を行ひ、反つて之を求めて吾が心に得ず。夫子之を言ひ、我が心に於てたる有り。此の心の王たるに合する所以の者は何ぞや」と。

「他人心有り、予之を忖度す」これまたわれのごとくなり戚戚焉と

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 良寛

月よみの光を待ちてかへりませ山路は栗のいがの多きに (同)

「月よみ」は月の古語、月読の字が当てられツクヨミと訓む。ここではツキヨミ。「多きに」は多いので、多きゆえに。「もう少しお待ち下さい。月が出て明るくなってからお帰り下さい。そうでないと山みちは栗の毬がたくさん散らばっているので、足にお踏みになって傷ついてはいけませんから」というほどの意。話がはずんでかなり夜がふけているようすがわかる。それに友人をもっと引きとめておきたいという気持も「いがの多きに」の結句ににじみ出ていて、心あたたかいその人柄がよくわかる。良寛の歌の中でも私のもっとも好ましく思う一首である。それは万葉集の湯原王の秀歌があっても少しもかまわない。

月読の光りに来ませあしひきの山を隔てて遠からなくに (巻四・六七〇)

むろんこれから来ていることはたしかだ。良寛自身も承知の上だ(略)この頃は万葉集を読んでいるから好きな歌句が思わず口をついて出て来たのだ。作意あってのことではない。歌はまことに正直である。それがたれにもわかるものだから、湯原王の歌があるにもかかわらず、また趣を異にする秀歌として愛せられるのだ。この良寛の友人は阿部定珍。新潟県西蒲原群渡部の庄屋で、風雅を心得て良寛と親しく、かつその庇護者でもあった。

8月8日(金)

蓼科三日目、御射鹿池へ寄って、再び観光農園へ。そして帰り、釈迦堂に寄っただけで、相模湖から抜ける。そして海老名へ。旅の終わりである。

  この暑さゆゑにかあらむ幾たびもティッシュペーパー鼻に宛てたり

  鼻水は老いの所為かも近年は特に酷くてティッシュはなせず

  ティッシュを小さく丸め持て余す捨てる処あれば顔がほころぶ

『孟子』梁惠王章句上7-3 王曰く、「然り。誠になる者有り、なりと雖も、吾何ぞ一牛をまんや。則ち其のとして、罪無くして死地に就くに忍びず。故に羊を以て之に易へしなり」と。曰く、「王百姓の王を以て愛めりと為すをしむこと無かれ。小を以て大に易ふ、彼んぞ之を知らん。王若し其の罪無くして死地に就くことまば、則ち牛羊何ぞ択ばん」と。王笑つて曰ぅ。「是れ誠に何の心ぞや。我其の財を愛みしに非ず。而も之に易ふるに羊を以てす。なるかな、百姓の我を愛めりと謂ふや」と。

  誠に百姓なるものあり財を惜しむにあらず牛、羊と変ふ

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 良寛

紀の国の高野のおくの古寺に杉のしづくを聞きあかしつつ (良寛全集)

「たかののみてらにやどりて」の詞書がある。一首の意は、「紀州の国の高野山金剛峰寺の奥の古寺に参籠して、老杉から滴り落ちる露しずくの音を聞きながら一夜明かした」したというのである。三句「古寺」までの一、二句は、その古寺をいうための説明だが「の」の助辞を四つも重ねてあるにかかわらず耳ざわりでない。かえつてはるばると高野山の奥まで来たという感慨をもよおさせるのは、これにつづく「杉のしづくを聞きあかしつつ」の秀句があるがゆえだ。何でもないことばのようだけれど、

こうはなかなかいえないものだ。

雨雲に濡れた深山の老杉は昼となく夜となくしずくしている。しとしとと絶えまもあらぬそお音を「聞きあかしつつ」と現在形でいった。たくらみのない素直さである。おのずからよく単純化せられその夜のさまをさながらに感じさせる。

これは量感が亡父の菩提とむらうために高野山へのぼった時の作かといわれている。

(略)これはなおさら思い深い歌で、一夜眠らずにあれをこれをと父の一生を思い、また自分の来し方、行く末を思うて慚愧し悔悟し懊悩しながら輾転していたのかもわからない。けれどもそれは考える必要がない。(略)ことばにあらわれただけを、その調べだけを感じとればよいのだ。するとこれはいよいよ純粋な心の歌であることがわかる。高野の奥の古寺に、杉しずくする夜を眠らずに起きている。そのさまを思い見るだけでよいのである。

(略)帰国したのは寛政七年、三十八歳おころと推定されており、そうしてこの歌はそのころのものと考えられている。すなわち良寛としては初期の作だが、その中でもっともすぐれた一首である。

8月7日(木)

蓼科二日目。尖石に入ったり観光農園で買物をしたり温泉に入ったり。

  ハンディファンを今年も使ふ交差点に首すぢあたりに風を当てたり

  わづかではあるものの風が吹き来れば生き返るごとし歩みは停めず

  右手にはカップ珈琲、左手にハンディファンをぢぢいが歩く

『孟子』梁恵王章句上7-2 曰く、王堂上に坐す。牛をいて、堂下を過ぐる者有り。王之を見て曰く、『牛にく』と。対へて曰く、『将に以て鐘をらんとす」と。王曰く、『之をけ。吾其のとして、罪無くして死地に就くに忍びず』と。対へて曰く、『然らば則ち鐘にること廃せんか』と。曰く、『何ぞ廃す可けん。羊を以て之にヘよ』と。識らず有りや』と。曰く、「之有り」と。曰く、「是の心以て王たるに足る。百姓は皆王を以てめりと為すも、臣はより王の忍びざるを知るなり」と。

  世間では王はもの惜しむといひたれど哀れみをもつことわれは知りたり

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

秋の昼の小島に石を切る音のしづけき海をひびかせにける (歌集・草の上)

大正三年二月刊行の第七歌集『草の上』に出ている。第六歌集『山河』の出たのは明治四十四年だから、この『草の上』は薫園三十六歳から三十九歳までということで、意気最も盛んなころの歌だ。(略)この時分は歌詞歌調も平明になり、叙景歌とともに身辺の雑事も多く歌って、薫園調ともいうべき歌風がかなりはっきりするに至っている。(略)これは「灯台」と題する六首中の歌だが、しずかな声調の、かつ明るい心の歌である。下句「しづけき海をひびかせにける」がこの歌の生命だが、おおざっぱというなかれ。のびのびと屈託なしに歌っているのがこの歌のよいところ。薫園は生涯老熟したようなおもむきの歌は作らなかった。わりあいのその歌の品はよいのである。

8月6日(水)

暑いが、今日から蓼科だ。圏央道を使って八王子ジャンクションを抜けて中央高速へ。

談合坂、双葉で休んで諏訪南。そして蓼科へ。

  いづこにも線状降水帯湧きだせり。扇子、sense、センスを吹き飛ばしたり

  コカ・コーラに氷五つを入れて飲むあまりの暑さは氷を増やす

  少しばかり甘い飲み物が欲しいときコカ・コーラ飲む、黒い液体

『孟子』梁恵王章句上7 斉の宣王問うて曰く、「斉桓晋文の事、聞くにきか」と。孟子対へて曰く、「仲尼の徒、桓文の事を道ふ者無し。是を以て後世伝ふる無し。臣未だ之を聞かざるなり。以む無くんば則ち王か」と。曰く、「徳如何なれば則ち以て王たる可き」と。曰く、「民を保んじて王たらば、之れ能く禦ぐ莫きなり」と。曰く、「寡人の若き者は、以て民を保んず可きか」と。曰く、「可なり」と。「何に由りて吾が可なるを知るや」と。曰く、「臣之を胡齕に聞けり。

  孟子曰ふ民を安んじ王たれば阻止することは誰にも出来ず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

鳳仙花照らすゆふ日におのづからその実のわれて秋くれむとす (歌集・片われ月) 

ホウセンカは鶏頭とともにその名に似ず鄙びた花である。(略)悲しきばかり日本の風土を思わせる花で、その莢のような実は自然に割れて茶褐色の種子をはじきとばせる。この歌はそういう状態に目をとどめて、何の作為を加えることもなく、たんたんと歌いあげて静かな晩秋の感を出すに成功した。これについて作者の自注がある。「明るい、乾いた大気の中に実のはぜる音を一首にひびかせたのです。秋のさびしさではなく、秋の明るさ、さやけささを現したものでなければなりません」といっている。たしかにそのいう秋の明るさ、さやけさが現れていて同感させられる。

処女歌集『片われ月』の巻頭に近いところに出ている唄だ。『片われ月』は明治三十四年一月の発行。薫園二十六歳になったばかりだから、これは二十歳をいくつも出ないころの作なのだろう。それを思うとやはりなかなかの才人だが、『片われ月』巻頭の

あけがたのそぞろありきにうぐひすの初音ききたり薮かげの道

おぼろ夜を何とはなしにひと枝をりてもたせてやりぬ白桃の花

駒ながらうたうを手むけて過ぎにけり関帝廟のあけがたの月

などとはかなりおもむきを異にしており、(略)しかし薫園の歌は、(略)清麗温雅、内容は淡、形式は雅などといって、その特徴を自然味ある温雅なおもむきにあるとしている。たしかにそれが薫園の持ち味であり本領であって、生涯ほとんど変わることがなかった。(略)一口にいえばその歌は温雅だけれど突き込みがたりない。対象への食い入り方が弱いようだ。詩心の充実に乏しく強い律動感がないように思われる。「あけがたのそぞろありき」の歌などは、当時薫園の代表作のようにいわれたものだが、今日となってみれば色あせた感じ。どこか古風で、古今集を現代に歌いかえたのではないかと思うほどである。かえってこのホウセンカの歌に本当の薫園が出ている。薫園のよさを代表する一首である。