5月7日(木)

晴れてます。

  河原口第一公園の欅大樹、ことしはなぜか葉の着く少なし

  代官分第二児童園の山ざくら大き広葉をひるがへすなり

  つつじの花の蜜を吸ふ。とろけるやうなる甘さ。毒とは知らず

『孟子』告子章句上144 告子曰く、「(しよく)(しよく)は性なり。仁は(うち)なり、(そと)に非ざるなり。

義は外なり、内に非ざるなり」と。孟子曰く、「何を以て仁は内、義は外と謂ふや」と。曰く、「彼長じて我之を長とす。我に長有るに非ざるなり。猶ほ彼白くして我之を白しとするがごとく、其の白きに外に従ふ。故に之を外と謂ふなり」と。曰く、「馬の白きを白しとするは、以て人の白きを白しとするに異なること無し。(し)らず、馬の長を長とするは、以て人の長を長とするに異なること無し。識らず、馬の長を長とするは、以て人の長を長とするに異なること無きか。(か)(おも)へ、長ずる者義か、之を長とする者義か」と。曰く、「吾が弟は則ち之を愛し、秦人(しんひと)の弟は則ち愛せざるなり。是れ我を以て悦びを為す者なり。故に之を内と謂ふ。楚人(そひと)の長を長とし、亦吾の長を長とす。是れ長を以て悦を為す者なり。故に之を外と謂ふなり」と。曰く、「秦人の(しや)(たしな)むは、以て吾が炙を耆むに異なること無し。夫れ物は亦然る者有るなり。然らば則ち(しや)(たしn)むも、亦外とする有るか」と。

  焼き肉は外のものだから外なのかといふには矛盾がありはせぬか

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(くす)(は)御牧(みまき)土器造(どきつくり) 土器は造れど(むすめ)の貌ぞよき あな美しやな あれを三車(みくるま)四車(よくるま)愛行輦(あいぎやうてぐるま)にうち乗せて 受領(ずりやう)の北の方と言はせばや  (四句神歌・雑・三七六)

【現代語訳】楠葉の御牧の土器造は土器なんか造ってをはいるが、娘はとっても器量よし。ああ、なかなかの美人だよ。あの娘を三台も四台も連ねた婚礼用の手車に乗せて、受領と言わせたいものだなあ。

【評】庶民の玉の輿願望を生き生きと歌った一首。「楠葉の御牧」は大阪府枚方市にあった朝廷の牧場で、早く、藤原実資の日記『小右記』永観二年(九八四)一一月二三日条に「楠葉御牧」と見える。古来、良質な粘土を産し、土器造の根拠地の一つであった。鎌倉時代、末に成立した高僧の伝記『寺門高僧記』所収の「和讃」の一節に「久須和美未岐乃度岐津久利(楠葉御牧の土器造)」とあり、平安時代後期に成立した短編物語『堤中納言物語』「よしなしごと」には、「楠葉の御牧に作るなる河内鍋」とあって、土鍋が作られたことがわかる。古代、土器造から葬礼、陵墓を管理した氏族に土器氏がいたが、『梁塵秘抄口伝』巻一が語る今様起源譚においては、土器の連という歌の名人が今様の起こりに関わっているとされる。とすると、土器造は今様との因縁浅からぬ存在ということにもなるが、ここでは、社会の最下層を代表するような貧しい職人として取り上げられている。『栄花物語』巻三九では、延久六年(一〇七四)、藤原頼道が没した折りに、身分の上下を問わず人々が嘆き悲しんだことを記して、「何の数ならぬ下部」(人の数にも入らないような下部)が取り乱して泣き、「土器造などいふ者さへ」声も惜しまず泣く様子が痛ましいと表現している。そのような低い階層の者にとって、地方官の最高者であり、多くの富を蓄えた「受領」(→三二〇)の身分は羨望の的であった。受領の妻の座は土器造の娘にとってどれほどの憧れであったことか。『源氏物語』玉蔓巻には、次のような場面がある。

光源氏との密会の夜、物の怪のためにはかなく命絶えた夕顔には、一人の娘・玉蔓があった。玉鬘は乳母らと共に筑紫から上京し、長谷寺に詣でる。たまたま長谷詣でにやって来ていた夕顔の元女房で今は光源氏に仕えている右近が玉蔓一行に気づく。玉蔓に仕える下女・三条は、長谷寺に参詣した大和国の受領の北の方を見て、その威勢に圧倒され、「あが姫君、大弐の北の方ならずは、当国の受領の北の方になしたてまつらむ。三条らもずいぶんに栄へてかへり申しは仕うまつらむ」(私の大切な姫君、玉蔓さまを、大弐の北の方か、そうでなければこの国の受領の北の方にしてさしあげたい。願いがかないましたら、私三条も身分相応に出世して、お礼参りをいたしましょう)と、手を額に当て、一心にお祈りをしている。   ここで、下女である三条は、玉蔓の結婚相手として、自らが知る最高権威者としての大弐(大宰府の次官)をあげ、ついで、長谷寺で目の当たりにした大和守の妻の羽根振りよさから、大和国の受領を考えている。三条にとって、受領の北の方は素晴らしい立場なのであった。当該今様の土器造やその周辺の人々にとっても同じである。

一方、この祈りを聞いた右近は「いとゆゆしくも言ふかな」(姫君を受領の妻になどとは、縁起でもないことを言うものだ)と思い、三条を「いといたくこそ田舎びにけれな」(ずいぶん田舎びてしまったこと)と非難する。光源氏に仕える右近にとっては、「受領の北の方」など低すぎるのであり、中流階級である受領の身分がよく示されている。

岡本綺堂『修善寺物語』では、面打ち・夜叉王の二人の娘のうち、野望に満ちた姉が、職人と結婚した妹に向かって、「職人風情などを夫には持たぬ、今に関白大臣将軍家にも召し出されよう」と豪語し、身分違いだとたしなめられる。一方、当該今様は、娘の立場から直接歌われた願望ではなく、周囲の人々が美しい娘に夢を託して送る応援歌のような趣を持ち、共同体のあたたかさをも感じさせる。

5月6日(水)

あんまり天気はよくない。一日曇りらしい。

  一樹のみ紫の花咲くところ桐の木ならむ遠山なれど

  広葉樹の明るさと常緑樹の暗さがともにあるめぐりの山に

  いづこにかほうほけきよの声響きくる春の山明るきさみどりの樹

『孟子』告子章句上143 告子曰く、「(せい)を之れ(せい)と謂ふ」と。孟子曰く、「生を之れ性と謂ふは、猶ほ(はく)を之れ(はく)と謂ふがごときか」と。曰く、「然り」と。羽の(しろ)きを(しろ)しとするは、猶ほ雪の白きを白しとするがごとく、雪の白きを白しとするは、猶ほ玉の白きを白しとするがごときか」と。曰く、「然り」と。「然らば則ち犬の性は、猶ほ牛の性のごとく、牛の性は猶ほ人の性のごときか」と。

  犬の性は牛の性と同じであり牛の性は人の性と同じなのか

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

すぐれて速きもの (はいたか)(はやぶさ)(て)なる(たか) 滝の水 山より落ち(く)柴車(しばぐるま) 三所(さんじよ)五所(ごしよ)に申すこと  (四句神歌・雑・三七四)

【現代語訳】とりわけ速いものは、鷂、隼、鷹匠の手に止まって出番を待つ鷹、滝の水、山から落ちて来る柴を摘み載せた大きな木、熊野の三所権現と五所王子への願い事。

【評】速いもの尽くし。スピード感のあるものを並べ、最後に意表をつくもので歌い収めている「鷂」は小型の鷹。鳩ほどの大きさで森林の中や周辺を速い速度で飛ぶ。「隼」は中型の猛禽類。鳩より大きく烏より小さい。高空を高速で飛ぶ。繁殖はおもに海辺の断崖。「手なる鷹」は、手に止まっている大鷹の意であるが、じっと止まっていることは速さとは直接には結びつかない。おそらく狩のために鷹匠の手に止まって出番を待っていることを示し、飛び立った後の速さを表現しようとしているのであろう。大鷹は平地から山地で見かけられる大型の鷹。「柴車」はこれまで、柴を丸く束ねたものとされてきたが、この根拠は連歌用語を解説した『産衣(うぶぎぬ)』で、元禄一一年(一六九八)刊と時代が下る。それより早く、応永七年(一三七四)~宝徳四年(一四五二)の間に成立した歌学書『六花集注』に「柴車とは大なる木の枝を切て其上に多く枝をのせて峰よりおとす也」とあるから、小枝を積み載せた大きな木と解すべいである。

「三所五所」は、ほとんどの注釈書で、熊野の三所権現と五所王子のことと考えられているが、神々に申すことが「速い」という点については、神に申す唱えごとが早口であるとする説、霊場案内人の説明が早口であるとする説、神の霊験がたちどころに現れるとする説がある。次のように「はやき神」で霊験あらたかな神を表現するような用例から、願い事がすぐさま聞き届けられるという霊験の現れの速さを言っているものと解したい。

蔵人にならぬことを嘆きて、としごろ賀茂の社に詣で侍りけるを、二千三百度にも余り侍りける時、貴船の社に詣でて、柱に書き付け侍りける 平実重

今までになど沈むらん貴船川かばかりはやき神を頼むに

(今までどうして沈淪していたのだろう。貴船川の流れの速さのようにこれほど 効験の速い貴船明神を頼みにしていたのに)

かくて後なん、ほどなく蔵人になり侍りける、近衛院の御時なり(『千載和歌集』神祇)

当該今様は、鷂、隼、大鷹という猛禽類を並べ、自然のものである滝の水、山の木を利用した素朴なものながら人の手が加わった柴車、そして神の霊験というように、自然、人間、神と対象の範囲を巧みにずらしている。特に結句は、それまでの物理的なスピードとは異質な時間的速さを表現して意表をついたものなっている。次々に並べられていくものを耳から聞く今様の場合、最後の「おち」の工夫が重要であるから、当該今様はその点で巧妙に仕立てられた一首と言えよう。

5月5日(火)端午の節供

澄明に晴れて、山の緑が美しい。

   墓

  春の山にときをり(ほう)法華経(ほけきよう)と鳴く声のすれど仏を信ずることなどなし

  父の墓にてつぺんから水をかけやれば石塔少しかがやきたるか

  大山のいただきもさう遠からず春の山なる父の墓苑に

『孟子』告子章句上142 告子曰く、「性は猶ほ(たん)(すゐ)のごときなり。(これ)を東方に決すれば、則ち東流し、(これ)を西方に決すれば、則ち西流す。人性(じんせい)の善不善を分つこと無きは、猶ほ水の東西を分つこと無きがごときなり」と。孟子曰く、「水は(まこと)に東西を分つこと無きも、上下を分つこと無からんや。人性の善なるは、猶ほ水の(ひく)きに就くがごときなり。人、善ならざること有る無く、水、下らざること有る無し。今夫れ水は、(う)ちて之を躍らせば、(ひたひ)を過ごさしむ可く、激して之を(や)れば、山に在らしむ可し。是に豈水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。人にして不善を為さしむ可きは、其の性も亦猶ほ是のごとければなり」と。

  人の本性とは水と同様、外界の勢力に激発されるなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

風に靡くもの 松の梢の高き枝 竹の梢とか 海に帆かけて走る船 空には浮雲 野辺には花薄  (四句神歌・雑・三七三)

【現代語訳】風に靡くものは、松の梢の高い枝、竹の梢とか。海に帆をかけて走る船、空には浮雲。野辺には花薄。

【評】風に靡くもの尽くし。陸・空・海の風物を並べている。今様は物の動きに注意を寄せることが多いが、当該今様は風に靡くさまざまなものの躍動感ある動きに注意を払い、素材配置にも工夫をこらしている。

松と竹は、植物としての共通性を持ち、両者とも「梢」の語を伴う。竹は、常緑であること、節が多く連なっていることから不老長寿を想起させるめでたい植物とみなされ、「色変へぬ松と竹との末の世をいづれ久しと君のみぞ見む(『拾遺和歌集』賀・斎宮内侍)」(常緑で色を変えない松と竹との行く末の世を、どちらが久しいか、わが君だけだ生き長らえて見ることができるだろう)のように、松とともに賀歌に詠まれることが多い。いずれも風に靡き、さわやかな、時にはものさびしい音をたてるものである。

海上に浮かぶ船と空に浮かぶ浮雲は、広大な場所に頼りなく存在しているという点で共通し、孤独やはかなさを感じさせるものでもある。『枕草子』の「ただ過ぎに過ぐるもの」の章段に「帆かけたる船」とあり、船のスピードに焦点が当てられている一方、「たのもしげなきもの」の章段に「風早きに帆かけたる船」とあって、その不安定さ、はかなさにも注意が向けられている。「浮雲」は浮いている状態から定めないものの譬えとされ、はかない自分の身によそえて和歌に詠まれることも多い。小野小町の長歌に「ひさかたの空にたなびく浮雲の うけるわが身は……」(『小町集』)とある。

最後に視点が身近な野辺に戻り、「花薄」が取り上げられる。「花薄」は穂の出た薄。平安時代前期から中期の和歌において、薄の穂が風に揺れるさまを人を招き寄せるしぐさに見立てることが広く一般化する。たとえば、『拾遺和歌集』に「女郎花多かる野辺に花薄いづれをさして招くなるらん(秋・よみ人知らず)」(女郎花が多く咲いている野辺で、花薄はいったいどの花をさして招いているのだろう)とあり、女郎花を女に、花薄を男によそえている。「靡く」の語を伴うとより一層恋の情緒が高められ、たとえば、『新古今和歌集』には、「野辺ごとに訪れわたる秋風をあだにも靡く花薄かな(秋・八条院六条)」(どの野辺にも訪れる秋風であるのに、なまめかしく靡く花薄よ)とあって、秋風を男に、花薄を女に譬えている。「船」と「浮雲」で描き出された孤独感が、最後のあだっぽい「花薄」で打ち消されていくような変化に富んだ構成になっているのである。   すなわち、一首全体は、素材の置かれた場所としては、地上(視点は相対的に高い)→海上→空→地上(視点は相対的に低い)と動き、素材の種類としては植物―人工物―天象―植物で組み立てられ、素材が内包する気分としては賀―無常―恋と構成されていると言えよう。

5月4日(月)

激しい南からの風、そして雨。やがて止むものの風は止まず。

アーナルデュル・インドリダソン『悪い男』(柳沢由美子訳)を読む。今回はエリンボルクが問題を解く。いつものエーレンデュルは影となって二度ほど名のみ出るが、肝心の調査と謎解きはエリンボルグのみ。しかし、これが大胆、微細で面白いのだ。レイプドラッグをめぐり、目の前の事件のみではなく犯人にたどりつく。着実だが、複雑だ。思いがけない展開、そして家族も重要な様子を見せつつ名推理小説なのだ。

  この花が水木と知るは父の死の後のことなり涙こぼる

  父がなほ生きてあれば今年九十八。爺の姿想像しがたし

  六十一はまだ壮年にして亡じたりわれは六十九すでに老耄(おいぼれ)

『孟子』告子章句上141 告子(こくし)曰く、「性は(な)(き)(りう)のごときなり。義は猶ほ桮棬(はいけん)のごときなり。人の性を以て仁義を為すは、猶ほ杞柳を以て桮棬を(つく)るがごとし」と。 孟子曰く、「子は能く杞柳の性に(したが)つて、以て桮棬を(つく)るか。将た杞柳を牀賊(しやうぞく)して、而る後以て桮棬を為るか。如し将た杞柳を牀賊して、以て桮棬を為らば、則ち亦人を牀賊して、以て仁義を(な)すか。天下の人を率いて、仁義に(わざはい)する者は、必ず(し)の言なるかな」と。

  孟子が言う「告子よ、きみは間違ってゐるそれでは仁義の道は行けまい

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

山城(やましろ)茄子(なすび)は老いにけり (と)らで久しくなりにけり あからみたり さりとてそれをば捨つべきか (お)いたれ措いたれ種採らむ  (四句神歌・雑・三七二)

【現代語訳】山城茄子は古びてしまった。採らないで長い時間が経ってしまった。すっかり熟してしまった。そうかといってそれを捨ててしまってよいだろうか。そのままにしておけ、そのままにしておけ、種をとろう。

【評】古びた山城茄子をめぐる歌。第三句原本「あこかみたり」は、「あからみたり」(「あからむ」は「熟す」の意)の誤写と見たが、「吾子嚙みたり」(私の子がかじってしまった)、「あかがみたり」(ひび割れてしまった)と読む説もある。    当該今様は、農作歌として読むことも可能だが、山城茄子は女性の譬えで、歳をとったとはいっても、子孫繁栄の役には立つだろうとい寓意を読み取る説も多い。植物の実りと、人間の子孫繁栄とを重ね合わせることはしばしば見られ、豊年の予祝行事として男女の交渉の様子を演じることは現在まで各地の民俗芸能に残っているし、植物の実りを祈る言葉が、子を授かるための祈りとなる例も多い。特に茄子は「親の意見(教え)と茄子の花は千(万)に一つの無駄(あだ)もない」という諺があるように、収穫に無駄のない果菜の代表と言える。当該歌謡は、そうした茄子の性格をよく捉えていよう。

5月3日(日)

曇りかな、ちょっと晴れそう。

  天に捧ぐる白き花。水木は父の死をかなしむか

  一九八九年四月二十二日享年六十一は惜しむべきなり

  葬儀、また後始末して勤めに出るその日水木の花満開なり

『孟子』万章章句下140 (せい)(せん)(わう)  (けい)を問ふ。孟子曰く、「王何の卿を之れ問ふや」と。王曰く、「卿同じからざるか」と。曰く、「同じからず。貴戚(きせき)の卿有り、異姓(いせい)の卿有り」と。王曰く、「貴戚の卿を請ひ問ふ」と。曰く、「君、大過有れば、則ち諫む。之れ反覆して聴かざれば、則ち位を(か)ふ」と。王 勃然として色を(へん)ず。曰く、「王(あやし)むこと勿れ。王、臣に問ふ。臣敢て正を以て(こた)へずんばあらず」と。王、色定まり、然る後異姓の卿を請ひ問ふ。曰く、「君 過ち有れば、則ち諫め、之を反覆して聴かざれば則ち去る」と。

  王と同姓の卿と異姓の卿にそれぞれの違ひありその進退も違ふ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

清太が作りし御園生(みそのふ)に 苦瓜(にがうり)(あま)(うり)(な)れるかな (あこ)南瓜(だうり) 千々に枝させ(なり)(ひさご)ものな(のた)びそ(えぐ)茄子(なすび)   (四句神歌・雑・三七一)

【現代語訳】清太が作った御園に、苦瓜や甘瓜が実ったことだ。紅南瓜も。たくさんに枝を伸ばせ、瓢箪よ。熟しすぎて割れて口を開けなさるなよ、えぐい茄子よ

【評】清太の作った瓜類を並べ、擬人化した一首。前歌(→三七〇)を平氏政権への風刺と見る説は、当該今様も平家一門の隆盛を茶化したものと捉え、また、前歌(→三七〇)から男女の情交を読み取る説は、当該今様の瓜類をさまざまな女の比喩と見る。しかし、植物や動物の、物尽くしや擬人化に重点のある今様は多く、当該今様にことさら寓意を読み取る必要はないであろう。

「御園生」は植物の生育している場所(園生)を尊んで言う語。皇室、貴族や神社の領有する農園。「苦瓜」は蔓茘枝。実は長楕円形でいぼがある。「甘瓜」は真桑瓜。実は楕円形で緑黄色に熟し、縦に縞がある。単に「瓜」と言えばこの真桑瓜を指すことが多く、平安時代末に成立した『扇面古写経』「鳥獣人物戯画」『信貴山縁起絵巻』などの絵巻物には縞のある瓜がしばしば描かれている。「紅南瓜」は(きん)冬瓜(とうが)。実は赤く丸い。「生瓢」は瓢箪。「ものな宣びそ」は「ものをおっしゃるな」の意で、茄子が熟しすぎて割れることを、口を開けてものを言う様子に譬えた。茄子はその姿形からして、どことなく滑稽で親しみを感じる果菜であるが、平安時代中期の歌集『赤染衛門集』や『伊勢大輔集』などには、茄子で細工物を作ったことが見える。前者では、蓮の蕾を体にし、「おそろしげに節つきたる」茄子の実(おそらく茄子の実のような突起が生じた生理障害果であろう)を顔にして「法師」を作っており、後者では、一本の茄子を「猿」に作っている。時代は下るが、島根県美濃郡の田植歌に、

高い山からひよつくり上て谷底見れば 瓜が三味弾く胡瓜がはやす 日焼茄子が出て踊る

と見える。ここには、茄子と共に、瓜や胡瓜も並列されるが、茄子は結句に置かれており、詞章の中で繰り広げられる芸能において、中心的な役割を担っているらしい。さらに「日焼」の語が親しみと滑稽味を増している。当該今様も、種々の瓜の名を挙げた最後に、あくが強くえぐい味の茄子を配し、積極的な擬人化によっておかしみのある一首に仕立てている。

5月2日(土)

いやぁいい天気だ。

  妻との旅かならず雨の日がありてこの旅もまた例外ならず

  金沢は満開の桜うつくしく海老名はすでにはなびら落とす

  おやつには羽二重餅を二枚づつ妻と小さな笑みうかべをり

『孟子』万章章句下139 孟子 万章に謂ひて曰く、(いつ)(きやう)の善士は、斯に一郷の善士を友とす。一国の善士は、斯に一国の善士を友とす。天下の善士は、斯に天下の善士を友とす。天下の善士を友とするを以て、未だ足らずと為すや、又古の人を尚論(しようろん)す。其の詩を(しよう)し、其の書を読むも、其の人を知らずして可ならんや。是を以て其の世を論ず。是れ(しやう)(いう)なり」と。

  一郷は一郷の友、一国・天下はそれぞれにそれでも足りずば古人を思へ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

清太が作りし刈鎌は 何しに研ぎけむ焼きけむ作りけむ 捨てたうなんなるに逢坂奈良

坂不破の関 栗駒山にて草もえ刈らぬに  (四句神歌・雑・三七〇)

【現代語訳】清太が作った刈鎌は、何のために研いだのだろう、焼を入れたのだろう、

作り上げたのだろう。いっこうに切れず、捨てたくなるのに。逢坂、奈良坂、不破の関、栗駒山で草も全く刈りとれないのに。

【評】清太の切れない草刈鎌をからかった一首。これまでの注釈書の説は、農夫の間に歌われたものとして、特に寓意を見ない説と、清太から平清盛を連想し、平氏政権の弱体ぶりを風刺したものと考える説とに大別される。後者の説について、清盛は、平家の太郎(長男)という意味で「平太」と呼ばれるべきであり、『平家物語』巻二「西光被斬」には、清盛が若い頃、「高平太」(高足駄をはいた平家の長男)とあだなされたことが見えるから、「平太」ならともかく、「清太」と清盛とを直接結びつけるのは難しいように思われる。諸注、指摘するように、平安時代末期に成立した書簡文集『明衡往来』にも「清太」の名が見え、「清太」は格別珍しい名前ではなかったようであるから、特定の個人とは、必ずしも結びつかないだろう。

清太の草刈鎌が全く役立たずであるのをからかう歌として読むことも可能であるが、三六二番歌で見たように、下草を女に譬え、「草を刈る」ことを、男女の情交の比喩とする表現の流れからは(→三六二)、当該今様も、裏に、女を得られない清太をからかう意味を込めていると見られるのではないだろうか。

「逢坂」は京都と滋賀との境に位置し、関が置かれて、東国への出入り口となっていた。和歌の中では「逢ふ」との掛詞で詠まれることがきわめて多い。

「奈良坂」は京都から奈良へ抜ける奈良山越えの坂道。特定の景物と結びついて詠まれるような歌枕ではないが、「なら」の音を含み、「風は夕べになら坂や」(『草根集』)、「光も雨になら坂や」(『逍遥集』)など、ある状態に「なる」の意と掛けられることがある。恋の成就することも「なる」と表現するので、「逢坂」同様、音の上で、恋と結びつく要素を持つ地名である。

「不破の関」は岐阜県不破郡関ケ原町にあった関所。延暦八年(七八九)には廃されており、平安時代末以降、無人の関屋の荒れ果てた風景を詠む和歌が多い。不破の関には限らないが、関は人やものを留める場所でもあり、しばしば「過ぐ」「止まる」「留める」などの語とともに詠まれる。

「栗駒山」は京都府宇治市にあり、狩猟地として名高い所であった。平安時代中期に成立した歌物語『大和物語』には「栗駒の山に朝たつ雉よりもかちにはあはじと思ひしものを」(栗駒の山に朝飛び立つ雉が、狩をする人に出会わないようにしようと思う以上に、私もかりそめには契りを結ぶまいと思っていましたのに)、「み狩する栗駒山の鹿よりもひとり寝る身ぞわびしかりける」(あなたが狩をなさる栗駒山の鹿もつらいでしょうが、それよりも、ひとりで寝る私の身の方がいっそうつらいことですよ)といった例が見られる。当該今様においては女を得ることを狩猟のイメージと重ねたものか。

すなわち、これらの地名が言語遊戯的に並べられたものと考えると、想い人に逢えるという逢坂でも、恋が「なる」(成就する)という奈良坂でも、人を留めておいてくれるはずの不破の関でも、獲物がとれるはずの栗駒山でも、結局、清太は女をものにすることはできないのだな、というからかいが効果的に印象付けられるのである。

2026年5月1日(金)

雨です。晴れるといってますが。

  はなびらが散らばるところを鏡花記念館・秋聲記念館歩みゆくなり

  帳尻を合せるやうに三日目は雨のしたたる犀星記念館

  帰りの新幹線は時折に雨やむものを東京は雨

『孟子』万章章句下138‐3 斉の景公(でん)す。虞人(ぐじん)を招くに(せい)を以てす。至らず。将に之を殺さんとす。『志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず。勇士は其の(かうべ)を喪ふを忘れず』と。孔子(なに)をか取れる。其の招きに非ざれば、往かざるを取れるなり」と。曰く、「敢て問ふ。虞人を招くには何を以てするか」と。曰く、「(ひ)(くわん)を以てす。庶人は(せん)を以てし、士は(き)を以てし、太夫は(せい)を以てす。大夫の招きを以て、虞人を招けば、虞人死すとも敢て往かず。士の招きを以て、庶人を招けば、庶人(あに)(あへ)て往かんや。況や不賢人の招きを以て、賢人を招くをや。賢人を見んと欲して、(しか)も其の道を以てせざるは、猶ほ其の入ることを欲して、而も之が門を閉づるがごときなり。夫れ義は路なり。礼は門なり。(ただ)君子は能く是の路に(よ)り、是の門を出入(しゆつにふ)す。詩に云ふ、『周道は(と)の如く、其の直きこと矢の如し。君子の(ふ)む所、小人の視る所』と」万章曰く、「孔子は君命じて召せば、駕するを(ま)たずして行けり。然らば則ち孔子は非なるか」と。曰く、「孔子は仕ふるに当りて官職有り。而して其の官を以て之を召せばなり」と。

  孔子には君に仕へて官職ありその役目ゆゑ即座に出づる

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

このごろ(みやこ)流行(はや)るもの 肩当(かたあて)腰当(こしあて)烏帽子止(えぼうしとどめ) (えり)()(かた)(さび)烏帽子(えぼうし) 布打(ぬのうち)の下の袴 四幅(よの)指貫(さしぬき)  (四句神歌・雑・三六八)

   ・

このごろ京に流行るもの 柳黛(りうたい)髪々(かみがみ)似非鬘(えせかづら) しほゆき近江女(あふみめ)(おんな)冠者(くわざ) 長刀(なぎなた)持たぬ尼ぞなき  (四句神歌・雑・三六九)

【現代語訳】このごろ都にはやるものは、肩当、腰当、烏帽子止、襟が角張って立つ型、錆烏帽子、布で裏打ちをした下袴、四幅で仕立てた指貫。

   ・

このごろ都に流行るものは、眉墨で描いた柳眉、さまざまな髪型、ごまかしの鬘、しほゆき、近江女、男装の女、長刀を持たない尼などいないことだよ。

【評】都に流行るもの尽くしの二首。前者は男性の、後者は女性の風俗を取り上げている。

三六八番歌の「肩当」「腰当」は角張らせるために布の裏の肩の部分あるいは腰の部分びつける布。「烏帽子止」は烏帽子が頭から落ちるのを防ぐため、後ろにさす串。「錆烏帽子」は皺を多くつけた烏帽子。「四幅の指貫」は、普通八幅・六幅(「幅」は布の幅を指す単位で訳三〇センチメートル)の布で仕立てていたところを四幅で仕立てた、細身で丈の短い指貫。指貫は裾をくくるようにした袴。全体として歌われているのは、衣に糊や当て布をつけたり、烏帽子に漆を塗ったりして、硬くこわばらせた強装束の様子である。嘉応二年(一一七〇)序の歴史物語『今鏡』みこたち「花のあるじ」によれば、ゆったりとした柔らかな萎装束から強装束への移行は、鳥羽院(一一〇三~一一四七)らを中心に進められていったという。まさに流行歌謡の素材としてふさわしい最先端のファッションであった。

三六九番歌は本文にやや読みにくいところがあるが、「柳眉」「髪々」「似而非鬘」は女性の化粧に関わる事柄を並べたもの、「しほゆき」「近江女」「女冠者」はそれぞれ特徴のある女性の集団を並べたものととっておきたい。

「柳黛」は、眉墨で描いた柳の葉のように細く形のよい眉。平安時代末に成立した辞書『色葉字類抄』には、「柳黛 美女分 リウタイ」とあって、「りうたい」の読みが示され、美女の一要素という意義分類がなされている。「髪々」をさまざまな髪型と解すると、これは特に評価を含まないものであるが、「似而非蔓」(「えせ」はまやかしものの意。「蔓」は頭髪を補うための毛)となれば、「ごまかし」といった負の評価が入り込むことになる。すなわち、美女の要素である「柳黛」から、醜さを隠すものへという並びになっていると見られるのである。

「しほゆき」は未詳、「近江女」は近江国(現在の滋賀県)を根拠地とする遊女の類であろうか。「女冠者」は「冠者」が若い男の意なので、男装の若い女ということか。長刀を振り回す尼とあわせて読むと、「しほゆき」「近江女」「女冠者」はいずれも、活発な勢いを持った女性の集団だったかと推測される。「近江女」には、『源氏物語』で「今姫君」として現れ、活発に動き回り、早口でしゃべり続ける「近江君」も思い合わされるところである。

男女の風俗が大きく変化していく様子は乱世の反映とも見られるが、そのような時代のダイナミックなうねりがよく伝わってくる。