7月17日(木)

朝雨だった。その後晴れている。

今村翔吾『茜雲』下を読み終える。現代語版『平家物語』のようで、その初志もわかり、平知盛をほぼ主人公に据えて、彼の死後は妻の希子が琵琶法師西念に物語を伝授して行く。時の正史は権力に都合のよいように書き換えられるが、平家物語は敗者のものである。新しい『平家物語』なのだろう。堪能した。

  旅の宿の階をたどれば大小の部屋ありわれらは中くらいの部屋

  窓からはむかひの山ぞ立ち上がる夏の木々にて彩られたり

  アンパンマンの誕生をこそしたき朝のドラマを凝っと見てをり

  木を曳く音、鳥の鳴声、からすのこゑ箱根の山は少しうるさい

  早川の河原に淡きの花紋白蝶の来てまたる

『中庸』第十九章二 詩に曰く、「するに言なく、れ争ひあることし」と。

是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民はよりもる。

詩に曰く、「ひに顕らかなり惟れ徳、百其れこれにる」と。是の故に君子はにして天下平らかなり。

詩に曰く、「れ明徳を懐ふ、声と色とを大にせず」と。子曰く、「の以て民を化するに於けるは、末なり」と。詩に曰く、「徳のきこと毛の如し」と。毛は猶ほあり。「のは、声も無く臭も無し。」至れるかな。

  上天のしわざには声もなければ臭ひもないそれこそ徳の至れるかな   

のまでゆすとととのふるのごゑ (万葉集巻三・二三八)

意吉麿はまた興麿、奥麿などと記される。いかなる人かわからないが、歌から見てかなりの身分の人だったろう。人麿時代からやや後までの人かといわれている。これは詔に応えた歌であるが、天皇は持統か文武か、大宮は難波宮であることだけは確かなようだ。(略)この歌は応詔は応詔でも表にあらわすに帝徳を賛美したおもむきはない。皇居の内まで聞こえてくる威勢のよい漁師らの声をいっただけだが、かえってりっぱな応詔歌になっている。大和の山国から行幸に従駕して難波の離宮に来たのである。海を見たよろこび、ものめずらしさも手伝って、さわやかな情景をありのままに歌ったのである。

7月16日(水)

朝、少しだけふらなかった。その間にゴミ捨てに。しかし、後は雨。

大浴場

  温泉の床に古びし石のタイル細かき傷あり足裏痛む

  温泉の湯はよけれども浴場の敷石にある傷に苦しむ

  痛い、いたいと声に小さく告げたれどだれひとりすら親身にあらず

  すっきりとは晴れぬ箱根の山ののぼやけるごときは暑さのゆゑか

  さねさししき箱根の山々の深きところの湯に浸かりをり

『中庸』第十九章一 詩に曰く、「錦を衣てをふ」と。その文の著はるるを悪むなり。故に君子の道は、として而も日々にかに、小人の道は、として而も日々に亡ぶ。君子の道は、淡くして厭はれず、簡にして文あり、温にして理あり。遠きの近きことを知り、風の自ることを知り、微の顕なることを知れば、て徳に入るべし。

詩に云ふ、「潜みて伏するも、亦ただこれ昭かなり」と。故に君子は内に省みて疚しからず、に悪むことなし。君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見る所か。

詩に云ふ、「の室に在るをるに、はくはに愧じざれ」と。故に君子は動かずして而も敬せられ、はずして而も信ぜらる。

  錦を衣てをふと詩経に云ふ君子の道は人目をひかず

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 平賀元義

在明の月夜をあゆみ此園に紅葉見にきつ其戸ひらかせ (同)

「在明」は月が天にありながら夜の明けること、十六夜以後の月であるが、この場合は月の明るい夜ふけごろのつもりだろう。月の明るい晩に女のところへ行ったのだ。「紅葉見にきつ」といってはいるが、どんなに月が明かるかろうと、紅葉の美しさは見えるはずがない。が、そうでもいわないではいかに元義といえどもばつが悪い。この歌は女にむかってお体裁をいった。よい月夜なので庭の紅葉を見にきた、さあ戸をあけよというのである。「其戸ひらかせ」と敬語をつかっているが、あけなさい、と命令しているような口調である。もしかしたらこうもあろうかと用意して作ってきたのが、あるいはそこで作った即興なのか、判じかねるけれど、これを女に歌って聞かせたことだけは確かなようだ。そんな口つきの歌である。

万成坂岩根さくみてなづみこし此みやびをに宿かせ吾妹

「ますらを」の好きな元義は、また「みやびを」が好きであった。この歌は岡山からそういう坂を越えたところにある宮内なる遊里の巷で、そこの貸座敷の門ごとに立っ

妹が家の板戸押し開き我入れば太刀の手上に花散り懸る

皆人の得がてにすとふ君を得て君率寝る夜は人な来りそ

女のところへ遊びに行くにも太刀を佩いて行く。あとの歌は得意思うべしである。吾妹子先生といわれただけあって、吾妹子の歌が多い。中でも「五番町石橋の上で」の歌は有名であるからいう必要もないだろう。

(略)脱藩して、放浪生活をし、古学を修めた。直情径行、磊落不羈、まれに見る好人物で常軌を逸する行為が多い。逸話に富む。近世におけるめずらしい万葉調の歌人、慶応元年六十六歳で没した。(略)しかしそのまっ正直な歌と、人物が愉快だから、実質以上の歌人として喧伝されている傾きがある。ただしくは平賀左衛門太郎元義というのがその名である。

7月15日(火)

朝、雨は止んでいる。ほんの二時間ばかりだというが。後は雨らしい。

六月八、九日、箱根湯本の宿へ一泊。その際の歌を、これから何日か載せさせてもらう。

湯本のみどり

  朝鳥の長鳴く鳥のこゑ聴ゆ山のなだりを木々覆ひたり

  濃きみどり薄きみどりにさみどりととりどりなれど夏山みどり

  夏の木々に埋もれて鳴くは何鳥かけきょけきょとのみ声しづかなり

  ここにも野がらすは居て悪声に鳴きつづけをり町と変はらず

『中庸』巻十八章二 唯だ天下の至誠のみ、能く天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。夫れ焉んぞる所あらん。肫肫として其れ仁なり、淵淵として其れ淵なり、浩浩として其れ天なり。

もに聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、其れか能くこれを知らん。

  聡明聖知にて天徳に達するものなればこそその境地をぞ知れり

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 平賀元義

大君の加佐米の山のつむじ風益良たけをが笠ふき放つ (平賀元義歌集)

「七月十九日、加佐米の山を望む」の詞書がある。「大君の」は「みかさ」の枕詞であるが、「み」を省いて「加佐米」に冠らせた。なぜそういうことをしたか。元義は古学に通じていたので、姓氏禄の「応神天皇、吉備の国を巡行し、加佐米山に登るの時、飄風御笠を吹き放つ」の条を思い出し、それで臆せず「大君の加佐米の山」と歌いあげた。加佐米の山は「備中備前の境」とあるが、はじめは天皇巡行のさまを歌うつもりであった。天皇の御笠を吹き飛ばすほどの飄風が吹いたのだから、むろん 従駕の緒臣も笠を吹き飛ばされたに違いない。それを「大君の加佐米の山のつむじ風」と歌っているうちに錯覚した。いや、よい気分になって自分もその行列の中に供奉しているような気がしてきた。そこでこれもはばかることなく「益良たけをが笠ふき放つ」とやってのけた。もっとも「益良たけをが」だけでは自分のことをいったことにはならない。しかし供奉の行列をいうのなら、それにかわる適当な語はいくらでもあるはずだ。けれどそれがいいたかった。それをいうことによって満足した。元義は「ますらを」という語が好きであった。

大井川あさかぜ寒み大丈夫と念ひてありし吾ぞはなひる

鳥がなく東の旅に大丈夫がいでたちゆかむ春ぞ近づく

といったふうで、みずから「ますらを」をもって任じていた。ともに元義の歌の代表作だが、人がよいのか正直なのか。わしは「ますらを」だぞ、とそり返り、大手を振って歩いている魁偉な風貌が見えるようである。

7月14日(月) 

昨夜は雨だったようだが、今も降りそうで……

高島俊男『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫)を読む。隋の煬帝、そして幸田露伴の『運命』が論じてある。煬帝はさておいて、『運命』がさんざんに貶されていることに驚くし、また無念きわまりない。『運命』という小説を凄いと思って、第四歌集に一連を拵えてしまったので、今更という感じだ。露伴が、『明史記事本末』のみに頼って、史実が史実でなくなっていることに驚くよりない。高島氏の言うことは、おそらく事実だろう。事実だけにまんまとのせられた自分が恥ずかしい。といっても取り返すことはできそうもない。『運命』を称賛したっていいだろう。

  肥満型の女性が二人相次ぎて右手に傘をぶら提げてゆく

  一人は黒いワンピースも一人は彩色のしゃれた服しかし肥満体懸命に歩く

  この道を行けば私鉄の駅ならむ肥満の二人遠く見上げて

『中庸』第十八章一 唯だ天下の至聖のみ、能く聡明叡智にして、以て臨むことあるに足り、寛祐温柔にして以て容るることに足り、発強剛毅にして以て執ることあるに足り、中正にして以て敬することあるに足り、文理密察にして以て別つこと有るに足るると為す。

にして、而して時にこれを出だす。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。れて民敬さざること莫く、言ひて民信ぜざること莫く、行なひて民説ばざること莫し。

を以て声明は中国にし、きてに及ぶ。舟車の至る所、人力の通ずる所、天の覆ふ所、地の載する所、日月の照らす所、霜露の隊つる所、凡そ血気ある者は、

尊親せざること莫し。故に天に配すと曰ふ。

  最高の聖人こそが聡明・叡智によくのぞみおのづから天にも並ぶものなり

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 川田順

雁一列真上の空に近づけり荒らくして徹る声きこえつつ (歌集・旅雁)

昭和九年五十三歳の作。十年刊行の第七歌集『旅雁』に出ている。「高層建築の屋上にて」と題する「雁」連作十首の中の一首である。この高層建築はいうまでもなく

順の執務していた大阪北浜の住友本社ビルである。このころは地位はさらに上がって理事重役である。忙中閑をえてある時屋上に出た。八月か九月か、まだ暑い大都会のどまん中である。その時雁の声がきこえた。思いがけない早い雁のおとずれだけにただならぬ感懐を覚えた。それが十首の歌になった。その中でもっともすぐれた一首だが、この「荒らしくして徹る声」というのがこの歌の要である。

(略)私は『旅雁』をよしとするものだが、しかもなおこの「荒らしくして徹る声」がそのころの順の声を聞くように思う。その雁の荒い声は順のすべてを象徴しているようだ。順はそれからまもなく住友を辞した。一切の縁を切って完全に一個人に帰した。(略)そうして戦後問題を起こして関西を去り、東に帰住した。住友と歌と、紆余曲折の長いまわり道をしたものである。(略)湘南の地に隠棲してから順の老年の歌がはじまる。

7月13日(日)

今朝も涼しいが、温度は上がるらしい。

  耳を穿ることのたのしさあやふさによろこぶわれの綿棒あやし

  綿棒を耳の穴へと突っ込みて深く突っ込むあやしあやし

  耳の穴に綿棒深く突っ込みてよろこぶわれかおのづから笑む

『中庸』第十七章 仲尼は、尭・舜を祖述し、文・武を憲章す。上は天時にり、下は水土にる。辟へば天地のせざることなく、せざることなきが如し。辟へば四時のひに行るが如く、日月のる明らかなるが如し。万物並び育して相ひ害はず、道並び行なはれて相ひ悖らず、小徳は川柳し、大徳はす。此れ天地の大たる所以なり。

  孔子は小徳は川柳し大徳は敦化す此れ天地の大たる所以と言ひき

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 川田順

星のゐる夜空ふけたりわが船の大き帆柱の揺れの真上に (歌集・青淵)

熊野旅行歌七十一首中、「紀州灘船中」と題する十二首中の一首である。

あかあかと漁火もやし沖釣のあまの小舟ら闇のなかに浮く

出雲崎大島の辺に火をつらね鰯とる舟は夜もすがらなし

岸を打つ潮騒さやにきこえつつ沖ゆく船の夜はふけにけり

などの佳作がこの歌の前にある。どこか人麿や黒人の舟行歌に似えた感がある。作者も多分それを心に置いて作ったのだろうが、これは全部夜の舟行歌であるのが注意せられる。そこに別種のおもむきが生じた。この旅行は炎暑八月のことであったから、夜の海上とはいえ船室では眠り難かったのだろう。また物めずらしさも手伝って甲板に出て海風に吹かれていた。デッキテェアに仰向きになって、澄みわたる夜天の星を眺めていたのか。すでに天の川の流れも見えたはずだが、ふと気がつくとまっ黒な太い帆柱が揺れながら突っ立っている。その上にひとしお明るく光る星がある。織女星なのだ、と。この歌はそこまではいっていないけれど、そういう情景も思いしのばせるほどに、複雑な内容をよく単純化して大きな調べの中に融合させている。順の全作品の中でも特にすぐれており、身も心も満ち足りているといったふうである。

この歌は昭和五年刊行の第四歌集『青淵』にはいっているが、作ったのは大正十二年四十二歳の時で(略)、順自身も「熊野歌七十一首には力の限りを尽くした」といっており同門の木下利玄は「熊野歌は、君が歌壇復活後の最も勝れた収穫であると、私は思ってゐる。これも君の胸中にゐる詩人が、平素は非常に眩るしい雑事の為に、睡眠を余儀なくせられてゐるのが、熊野の奥の幽邃な大自然に接して、其眠りから覚めた結果であろうと考へる」と絶賛した。(略)大正八年窪田空穂を知るに及んで、作風は一変し、その影響感化を受けて写実主義風になる。熊野歌はそういう時期における一頂点を示すものである。

7月12日(土)

涼しいです。

熊野純彦『源氏物語⁼反復と模倣』を読む。哲学者が読む源氏物語だが、きわめて読みやすい。哲学者ではあるけれど、源氏物語への理解は深い。詠み方も明快であり、「反復と模倣」という主題が、なるほどと思う。

  真緑の夏の態様の公孫樹その樹の下にやすらふ息する

  いのちの樹夏のいちやうの下陰にしばしやすらふ息つきにけり

  丘の上の公孫樹の繁りを見つつゆくその大木の根にむかひをり

『中庸』第十六章二 故に君子の道は、れを身にづけ、諸れを庶民に徴し、諸れを三王に考へてらず、諸れを天地に建ててらず、諸れを鬼神にして疑ひなく、百世以て聖人を俟ちて惑わず。諸れを鬼神に質して疑ひなきは、天を知るなり。百世以て聖人を俟ちて惑わざるは、人を知るなり。

是の故に君子は、動きて世々天下の道となり、行なひて世々天下の法と為り、言ひて世々天下の則と為る。これに遠ざかれば則ち望むあり、これに近づけば則ち厭はず。

詩に曰く、「に在りて悪まるることなく、此に在りてもはるることなし。くは、以て永く誉れを終へん」と。君子未だ此くの如くならずして、而も蚤く天下に誉ある者あらざるなり。

  かしこにありても憎まるるなくこちらにゐてもいやがられないこれ君子なり

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 伏見院

浦かぜは湊のあしに吹きしをり夕暮しろき波のうへの雨 (風雅集)

「浦」は海や湖の曲がって陸地に入りこんだところ。「湊」は港と同じ、川が海や湖へ流れこむところ。すなわち水門で、船が碇泊したりする。「吹きしをり」は吹き撓うこと、吹き撓んで痛みつける意である。そこでこの浦であるが、この場合は湖であるよりは、海であった方が歌の心にかないそうである。葦は川口へんの水ぎわにはいやというほど生い茂っている。歌意明瞭、といいうほどのこともないが、もう日の暮れ方である、さっきからあやしい雲行きだと思っていたらにわかにかき曇って暗くなってきた。海風がはげしく噴き出して湊の葦を乱している。すると降ってきた、大粒の雨がしのつくばかり降り出したのである。「浦かぜ」といい「吹きしをり」という上の句はむろんのこと、一音多くして「波のうへの雨」と止めた結句は効果的で、よくその情景をいい得ている。暗い夕暮れの海の波の上に。降りしぶき降りけぶる雨あしの白さが見えるようだ。まことにたくみで、上々の叙景歌である。(略)

やむまじき雨のけしきになるなら近き尾の上も雲に消えゆく (同)

これもまことにすぐれた歌だが、たとえばこの歌のように何の心だくみもなく、ごく平易なことばを用いて、目に見ゆる景を飾ることなく、そのまま歌いあげている。しかも雨をいとう心の欝をそれとなくいいふくめ、かつ雲にかくれてゆく山を美しいとながめている。が、その歌を詠む心の中はさびしそうである。歌でも作らねばやりきれないというような思いも汲みとれる。

7月11日(金)

今日は曇りだね。外は少しだけ涼しい。

  ぶきみなるくちなはは藪に隠れたり疚しきものかその後出でこず

  くちなはが草藪原に入りゆきて身をひそめたりその後知らず

  くちなはは藪のどこかに隠れゐて人を憎むか赤き舌だし

『中庸』第十六章一 子曰く、「愚にして自ら用ふることを好み、賤にして自ら専らにすることを好み、今の世に生れて古への道に反る。此くの如き者は、ひその身に及ぶ者なり」と。

天子に非ざれば礼を議せず、度を制せず、文を考へず。今は天下、車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行なひは倫を同じくす。その位ありと雖も、苟もその徳なければ、敢て礼楽を作らず。その徳ありと雖も、苟もその位なければ、亦た敢て礼楽を作らず。

子曰く、「吾れ夏の礼を説く、杞は徴とするに足らざるなり。吾れ殷の礼を学ぶ、宋の存するあり。吾れ周の礼を学ぶ、今これを用ふ。吾れは周に従はん」と。

天下に王として三重あれば、其れ過ち寡なからんか。上なる者は、善しと雖も徴なければ信ならず、信ならざれば民従はず。下なる者は、善しと雖も尊からず、尊からざれば信ならず、信ならざれば民従はず。

  天下に王として三重あれば過ちはすくなからん信あれば民従ふ

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 伏見院

ゆふぐれの雲飛びみだれ荒れて吹く嵐のうちに時雨をぞきく (玉葉集)

むずかしい語はひとつもないが、「時雨」は万葉集には「九月の時雨」とか「十月時雨」とかの歌があって、新暦になおすと十一、二月ごろ、この歌は「冬の部」にはいっている。三句までが嵐吹く空の説明だが、くどいという感じはしないばかりか、けわしい雲ゆきの空をながめながらさむざむと降る時雨の音を聞いている。時雨だからひとしきり降るとすぐにやむ。やんだかと思うと遠くから降ってきてまたにわかにはげしい音を立てる。そういう情景を古今・新古今ふうの調べではない調べに乗せて歌ったのだ。はげしい嵐の中に聞こえる時雨、それは騒がしいようでもあるが静かでもある。それに耳を傾けている。心のうちはさびしさに堪えないのである。これもたいへん新しい感じの歌で、迢空もいうとおり、このような詠みぶりの歌はこれ以前にもこれ以後にもない。(略)何かと物を思わせられるけれど、こういう奇蹟のごときもやはりありうる。所詮は人である。

のどかにもやがてなりゆくけしきかなきのふの日かげ今日の春雨 (玉葉集)

さ夜深く月は霞みて水落つる木かげの池に蛙なくなり (風雅集)

われもかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだるころ (玉葉集)