12月23日(火)

ちょっと寝坊。晴れ。

  あけぼの杉の茶褐色の葉散り落ちてさう遠からず裸木になる

  裸になる冬のあけぼの杉を愛す日暮れも朝もひかり浴びつつ

  冬の木のあけぼの杉を仰ぎをりなにも纏はぬ幹と枝のみ

『孟子』縢文公章句下56-2 湯始めて征する、(かつ)自り(はじ)む。十一征して天下に敵無し。東面して征すれば、西(せい)(い)怨み、南面して征すれば、北狄(ほくてき)怨む。曰く、『(なん)(す)れぞ我を後にする』と。民の之を望むこと、大旱(たいかん)の雨を望むが如きなり。市に(おもむ)く者止まらず。(くさぎ)る者変ぜず。其の君を誅し、其の民を弔ふ。時雨の降るが如し。民大いに悦ぶ。書に曰く、『我が(きみ)(ま)つ。后来らば其れ罰無からん』と。

  湯王の悦ばるること嬉しくて民は望めりその善政を

川本千栄『土屋文明の百首』

休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす 『往還集』

<休暇となったが妻子の待つ家に帰省せず、一人暮らしの下宿部屋で過ごしている。夕方になると、部屋の思わぬところに思わぬ角度で光(=影)が射してくる。>

長野時代、文明は短歌よりも教育の仕事に打ち込んだ。しかし方針を認められず、不本意な転勤をきっかけに退職し、怒りと失望を感じていた。その後、関東大震災後の東京で大学予科の講師をしながら、一時期妻子と離れて暮らした。普段は働いている時刻、休日で家にいるので、いつもはきづかなかった夕影に気づく。細かい心の動きを描き、都市生活者の孤独と物憂い気分を歌う。

出勤時の舗道(いししきみち)に落ち散りて人はみざらむ百合の樹の花 『往還集』

<百合の樹の高い所に花が咲いている。人々が出勤時に行き交う、舗装された街路にその花が落ちて散っているが、人は見ようともしないだろう。>

関東大震災は未曽有の災害であったが、それをきっかけに、街全体が急速に近代都市東京へと生まれ変わっていった。道路の舗装が最も進んだのもこの時期だ。初夏の都会の舗装路を人々は道に落ちた花などには目もくれずに歩いて行く。大都市の無機質な舗装路と、そこに散る花との対比が強調されている。

12月22日(月)冬至

まあまあ曇りといったとこか。寒いらしい。

  赤いトマト・黄色いトマト・緑のトマトが笑ひ合ふ卓の上にはトマトの笑ひ

  C級の傷あるトマトもトマトなりたいせつにあつかふ真のトマト

  黄色いトマト・緑のとまとに蔕をとる妻の表情なごみをりたり

『孟子』縢文公章句下56 万章問うて曰く、「宋は小国なり。今、将に王政を行はんとす。斉・楚(にく)んで之を伐たば、則ち之を如何せん」と。孟子曰く、「(たう) (はく)に居り、(かつ)と鄰を為す。葛伯(ほしいまま)にして祀らず。湯人をして之を問はしめて曰く、『何為れぞ祀らざる』と。曰く、『以て犠牲に供する無きなり』と。湯人をして之を牛羊を(おく)らしむ。葛伯食ひ、又以て祀らず。湯又人をして之を問はしめて曰く、『何為れぞ祀らざる』と。曰く、『以て(し)(せい)を供する無きなり』と。湯 (はく)の衆をして往きて之が為に耕さしめ、老弱(し)(おく)る。葛伯其の民を率い、其の酒食(しゆし)(しよ)(たう)有る者を要して之を奪ひ、授けざる者は之を殺す。童子有り、(しよ)(にく)を以て(おく)る。殺して之を奪ふ。書に曰く、『葛伯(かれいひ)に仇す』と。此の謂ひなり。其の是の童子を殺すが為にして、之を征す。四海の内皆曰く、『天下を富めりとするに非ざるなり。匹夫匹婦の為に(あだ)を復するなり』と。

川本千栄『土屋文明の百首』

衣の裾に蛍はつつみ萱草の葉笛をならし来るわが弟 『ふゆくさ』

<短い着物の裾に蛍を包んで片手で持っている。布を通して蛍が光っている。もう片方の手で草笛を吹きながらやって来る私の弟。>

十歳前後だろうか。まだあどけなさの残る、農村少年の姿だ。四人の弟の一番末で、年は一回りほども離れている。「蛍は」の「は」に、得意そうな弟の顔が浮かぶ。「来る」から、まさに令弟がやって来るような印象を受ける。しかしこの姿は回想で、弟は文明の土産の蟹で中毒になり、十五歳で亡くなったのだ。一首に、自分のせいで死なせてしまった弟への愛惜が滲む。

旱つづく朝の曇よ病める児を伴ひていづ鶏卵もとめに 『ふゆくさ』

<旱と言えるほど乾燥した、暑い毎日が続く夏の曇った朝、病気の子を連れて卵を求めに出かけた。>

「いづ」は「出づ」。文明は大学卒業後、高等女学校の教頭として長野に赴任した。テル子と結婚して、一男一女にも恵まれた。しかし、結局六年で長野の教育界を去り、単身東京へ戻った。長男夏実は病弱で、文明が帰省したこの時も大病し、歩けないほど弱っていた。ある日、文明は子を連れて出かけた。卵を食べさせて、子に栄養をつけてやりたいのだ。父親である自分も酷暑のためか、どこか疲労した気分を抱いている。

12月21日(日)

曇り雨、雨なのか曇なのか。

  巨大なる音の重なり焼津の海。古き世生くる八雲に逢へり

  わが会へる小泉八雲老いたるに幽霊を語れば生き生きとして

『孟子』縢文公章句下55-3 曰く、「梓・匠・輪・輿は其の志将に以て食を求めんとするなり。君子の道を為すや、其の志亦将に以て食を求めんとするか」と。曰く、「子何ぞ其の志を以て為さんや、其の子に功有らば、食ましむ可くして之を食ましめんのみ。且つ子、志に食ましむるか。功に食ましむるか」と。曰く、「此に人有り。瓦を毀ち墁に画するも、其の志将に以て食を求めんとすれば、則ち子之に食ましむるか」と。曰く、「否」と。曰く、「然らば則ち子は志に食ましむるに非ざるなり。功に食ましむるなり」と。

  彭更よ汝は志に報酬を与えるにあらず成果に与ふと孟子曰ふ

川本千栄『土屋文明の百首』

夕べ食すはうれん草は茎立てり淋しさを遠くつげてやらまし 『ふゆくさ』

<夕食に食べているほうれん草は茎が長く伸びている。遠く離れたあの人に、今の自分の淋しさを告げてやれたらいいのに。>

文明は子供の頃、郷里ではほうれん草はまだ一般的に栽培されていなかった。青年になった頃には、新しい食材として食べていたのだろう。成長して茎が伸びると根元が赤くなるのも、恋する思いに通じる。寂しさを告げたい相手は遠く住むテル子。二人の恋は家同士の関係で順調にはいかなかった。親の決めた相手と結婚する時代で、まだ恋愛そのものが新しかった。

夕ぐるるちまた行く人もの言はずもの言はぬ顔にまなこ光れり 『ふゆくさ』

<夕暮の町中を行く人はものを言わないその顔に、目だけが光っていた。>

大正六年の連作「船河原橋」より。東京の神田川に架かる船河原橋のある日の光景である。夕暮れの橋を、人々が大勢、口も利かず、忙しく渡って行く。退勤する人々だろう。現在の東京ドーム付近は、この歌の当時は造兵廠(旧日本陸軍の兵器工場)であった。人はそこの職工ではないかという歌が次にある。急速に発展する都市東京。下句の表情の描写から、都会の近代的な工場で働く人の孤独感が伝わって来る。

12月20日(土)

朝はまあまあだが、雨が降ってくるらしい。

  夜の闇に燐光わづか流れゆく明滅したりいのちむなしく

  水に溺れ、憤怒と破滅と絶望に人死するとも海しづかなり

  海の声聴きつつわれは厳粛なり。小泉八雲死者の世語る

『孟子』縢文公章句下55 (はう)(かう)問うて曰く、「後車(こうしや)数十乗、従者数百人、以て諸侯に伝食す。以だ泰ならずや」と。孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一(たん)の食も人より受く可からず。(も)し其の道ならば、則ち舜、堯の天下を受くるも、以て泰なりと為さず。子は以て泰なりと為すか」と。曰く、「否。士事無くして(は)むは不可なり」と。曰く、「子功を通じ事を(か)へ、(あま)れるを以て足らざるを補はずんば、則ち農に(よ)(ぞく)有り。(ぢよ)に余布有らん。子如し之を通ぜば、則ち(し)(しやう)(りん)輿(よ)、皆食を子に得ん。此に人有り。入りては則ち孝、出ては則ち悌、先王の道を守り、以て後の学者を待つ。

而るに食を子に得ずとせば、子何ぞ梓・匠・輪・輿を尊んで、仁義を為す者を軽んずるか」と。

  彭の言ひ分では技術者ばかり重用し仁義を修むる士君子軽んず

川本千栄『土屋文明の百首』

この三朝あさなあさなをよそほひし睡蓮の花今朝はひらかず 『ふゆくさ』

<この三日間、朝ごとに、美しく装うように開いていた睡蓮の花が今朝はもう開かない>

第一歌集『ふゆくさ』の巻頭歌。歌の師であった伊藤佐千夫の元に上京してきた頃に作られた。初期の歌。文明十八歳の時の作である。

「三朝」「あさな」「あさな」と「あさ」の音を三回繰り返し、調べの整った、愛誦性のある歌となっている。花の美しく咲いた姿ではなく、もう咲く力を持たない、衰えていく姿を写し取っている。文明は植物が好きで、生涯を通して多くの草木の歌を作った。

白楊の花ほのかに房のゆるるとき遠くはるかに人をこそ思へ 『ふゆくさ』

<白楊の花房が風邪でほのかに揺れるとき、遠くはるかにその人を思う。>白楊はポプラの一種。春に赤褐色や黄褐色の房花をつける。実は白い絮となって飛ぶ。「こそ~へ」で「人」を強調している。

「人」は後に妻となる二歳上の女性、塚越テル子。文明と同郷で遠縁にあたる。裕福で進歩的な家に育ち、東京の女子英学塾(現・津田塾大学)に進学。いわゆる「ハイカラ」女学生で、卒業後は英語教師として勤務した。社会で働く女性の先駆けだ。一高、東京帝大と進学した文明も、当時の最高レベルの教育を受けている。

12月19日(金)

晴れているが、冷たいのだ。

  常に動く潮の流れに翻弄され念仏唱へ泳ぎゆきしか

  ・

  一夜経て岸壁に坐る八雲がゐる。日暮れまでただ海の音聴く

  この世のいつさいのものを忘れたり。怒濤はげしくはるかに続く

『孟子』縢文公章句下54-3 曰く、「晋国も亦仕国なり。未だ嘗て仕ふること此の如く其れ急なるを聞かず。仕ふること此の如く其れ急ならば、君子の仕ふること難しとするは何ぞや」と。曰く、「丈夫生るれば、之が為に室有らんことを願ひ、女子生るれば、之が為に家有らんことを願ふ。父母の心は人皆之有り。父母の命、媒妁の言を待たずして、穴隙を鑚つて相窺ひ、牆を踰えて相従はば、則ち父母・国人皆之を賤まん。古の人未だ嘗て仕ふることを欲せずんばあらざるなり。又其の道に由らざるを悪む。其の道に由らずして往く者は、穴隙を鑚るの類なり」と。

  君子たるや正しい道に由らざるを悪み正しい道に由らざれば卑しむ

藤島秀憲『山崎方代の百首』

丘の上を白いちょうちょうが何かしら手渡すために越えてゆきたり 『迦葉』

「白いちょうちょう」は方代自身である。丘の向こうには、ふるさとの右左口がある。父や母や姉のくま、幼くして逝った兄や姉がいる。

それとも、丘の向うには沢山の読者がいるのか。歌を手渡すために丘を越えてゆくのか。

最後の最後に突っ込みを入れさせてもらえば、そもそも蝶には手がないのだから手渡すことはできないでしょう……と言いたい。でも、そんな突っ込みを入れさせてくれる方代が心から愛おしい。全歌集を読むたびに、この歌に差し掛かったとき私の眼は涙で濡れている。

めずらしく晴れたる冬の朝なり手広の富士においとま申す 『迦葉』

一九八五年、昭和六十年八月十九日午前六時五分、山崎方代の七十年にわたる生涯が終る。

鎌倉の瑞泉寺にて密葬・告別式が行われたあと、右左口にある円楽寺において本葬、その後埋葬された。戒名は「観想院方代無煩居士」。

ずっと私は「無煩」を「無頼」と思いこんでいた。この原稿を書いていて間違いに気づいた。戒名を付ける意味は良く知らないが、「おいとま申す」ときっぱり別れを告げたこの時、方代から煩悩の全てが消え去ったのだ。生き放題死に放題の方代である。

これで藤島秀憲『山崎方代の百首』は終わりである。藤島氏にはお疲れさまと声をかけたい。喜怒哀楽、方代とともに読んできた。その思いには頭が下がる。

ただ方代にあって私に無いのは故郷である。そのことが痛いほどわかった。ありがとうございました。

次は、川本千栄『土屋文明の百首』の予定である。

12月18日(木)

今日も晴れ。でも朝寒い。

焼津にて小泉八雲は、焼津を訪れた盆の夜、精霊舟を追って海に入ったという。

人生は神々の音楽である

  盆の夜は精霊舟を送りだす。焼津の海をかなた遠くへ

  時に遅れ小泉八雲は、遠く去る燈籠を追ひ水に入りゆく

  流れゆき透かしの色を震はせて一つ一つのいのち散らばる

『孟子』縢文公章句下54-2 「三月君無ければ則ち弔すとは、(はなは)だ急ならずや」と。曰く、「士の位失ふや、猶ほ諸侯の国家を失ふがごときなり。礼に曰く、『諸侯は耕助(かうじよ)して以て(し)(せい)に供し、夫人は蚕繅(さんさう)して以て衣服を(つく)る』と。犠牲成らず、粢盛潔からず。衣服備はらざれば、敢て以て祭らず。(ただ)士は(でん)無ければ、則ち亦祭らず。(せい)(さつ)(き)(べい)衣服備はらざれば、敢て以て祭らざれば、則ち敢て以て宴せず。亦弔するに足らずや」と。「(さかひ)を出づれば必ず(し)を載すとは、何ぞや」と。曰く、「士の仕ふるや、猶ほ農夫の耕すがごときなり。農夫は豈疆を出づるが為に、其の耒耜(らいし)を舎てんや」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

おもいきり転んでみたいというような遂のねがいが叶えられたり 『迦葉』

家族がなく一人で生きていること、歌人としてフリーランスで暮らしていたことなどを思うと、絶え間なく緊張の続いた七十年間ではなかったかと思う。病気や怪我をして転んでしまったら。それで終わりだ。

『山崎方代全歌集』の年譜を見る限り、戦争から戻って以来、病気の記載は五十七歳の時の白内障と、六十八歳のときの緑内障だけ。緑内障の後は煙草を止め、酒を減らしている。自堕落を装いつつ、実は自重して転ばないようにと願い続けた人生だった。

「これで死ぬんだ」と達観の境地が見えて来る歌。

八階の病床にありてしみじみとめしをたべてるうたをよんでる 『迦葉』

これだけ平明で、これだけ率直で、これだけ悲しく、これだけ喜びを湛えた歌を私は知らない。

死を覚悟してはいるのだろう。だが、「おもいきり転んでみた」結果、病床にあって食事ができて、短歌が詠めていることに感極まっているようだ。畳の上ではないけれど、病院にいて、しかも見晴らしの良い八階で死を迎えられる境遇に満足しつつ、死を受け入れている。喜んで死を待っている。

平凡なオノマトペを敢て使って来た方代が最後に繰り出した「しみじみ」、深い思いが込められている。

12月17日(水)

今日は起きるのが少し遅かった。天気だ。

焼津小泉八雲記念館

  八雲さんのスタンプを押す少しの間妻の表情、真顔(まがほ)・しんけん

  八雲・セツの細かき書字の手紙読むお互ひを思ふ心に触れむ

『孟子』縢文公章句下53 景春曰く、「公孫衍・張儀は、豈誠の大丈夫(だいぢようふ)ならずや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下(や)む」と。孟子曰く、「是れ焉んぞ大丈夫と為すことを得んや。子未だ礼を学ばざるか。丈夫の冠するや、父之に命ず。女子の嫁するや、母之に命ず。往きて之を門に送り、之を戒めて曰く、『往きて(なんぢ)の家に之き、必ずや敬ひ必ず戒め、夫子に違ふこと無かれ』と。順を以て正と為す者は、妾婦(せふふ)の道なり。天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行く。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば独り其の道を行ふ。富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず。此を之れ大丈夫と謂ふ」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている 『迦葉』

ここからは最後の年、昭和六十年に発表された作品。

前年の十二月に自宅近くの診療所で肺がんと診断され、年が変わって一月十一日に藤沢市民病院に入院、五月二十五日に退院するまで長い病院生活を送る。

上句で自嘲、下句で自負。自身の人生を振り返って歌う。さんざん自嘲を歌って来た方代が最後になって堂々と「人生にもっとも近く詩をかいている」と宣言する。「書いてきた」と過去形にしなかったのは、生きていたい、まだまだ書きたいことがたくさんあるという思いであろう。

一片のレモンをふくみ手術後の口を漱ぎぬ生き返りたり 『迦葉』

肺がんの摘出手術を受けたのは三月十八日。

四句までの清廉なイメージと格調高い調べは、方代が持つ詩情が最大限に発揮されたもの。万感の思いがこもる「生き返りたり」と相まって名歌と呼んで良い一首だ。

この歌の一首前に置かれた<一粒のジャムの甘さが絹糸のごとく体をかけめぐりたり>もまた美しく繊細な作品。自分の命と体を事細かく見て感じていることが伝わってくる。

手術のあと方代は放射線治療に入る。