2025年6月25日(水)

朝、ちょっと曇っているだけで雨が降らない時間があったが、すぐに雨に。

  南側の駐車場には河原鶸わが足もとより少し跳びだす

  ザリガニの赤き姿がはさみ上げ迎へるやうなり俺を招くか

  用水の中をアメリカザリガニが招くがにしてはさみ動かす

  ザリガニが招くはこの世とは別のところそこはたれも知らず

『中庸』第六章二 子曰く、「憂ひなき者は、其れ唯だ文王なるかな。王季を以て父と為し、武王を以て子と為し、父これを作り、子これを述ぶ」と。

武王は、大王・王季・文王の緒を(つ)ぎ、(ひと)たび戎衣(じゅうい)して天下を(たも)ち、身は天下の顕名(けんめい)を失はず。尊は天子たり、富は四海の内に有ち、宗廟これを(う)け、子孫これを保つ。

武王は末に命を受く。周公は文・武の徳を成し、大王・王季を追王し、(かみ)、先公を祀るに天子の礼を以てす。(こ)の礼や、諸侯・大王及び士・庶人に達す。父は大夫たり、子は士たらば、(ほうむ)るに大夫を以てし、祭るに士を以てす。父は士たり、子は大夫たらば、葬るに士を以てし、祭るに大夫を以てす。(き)(も)は大夫に達し、三年の喪は天子に達す。父母の喪は、貴賤となく一なり。

  孔子が言ふ憂いなき者は文王のみ王季を父とし武王を子とす

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 天田愚庵 

ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき (愚庵全集)

分かりやすい歌でこれも解説するほどのことはないが、もう一首ある。

かぞふれば我も老いたりははそはの母の年より四年老いたり

「癸卯感懐」と題する明治三十六年、死ぬ一年前の歌だが、十五歳の時生別したままついに生涯逢うことができなかった。明治元年戊辰兵乱のおり、薩長軍に抗戦して出陣し、平城(福島県)陥落と同時に父母妹らが行方不明となった。以来父母妹らを捜して全国をまわる。(略)この歌を作った時分は産寧坂の草庵をたたみ、伏見桃山に新庵をいとなんで住まっていた。いかにさがしてもむだだ、やめよと人からさとされても二十年尋ねまわった。生別した時の父は六十五歳、母は四十七歳。その父の眉の白かったように、ようやく自分のも白くなったと、父をしのんでは自分の老いをかこっているのだ。世の常のことでないだけに、読むものの心歎かせる。はなやかな明治和歌革新のその少し前に、いくばくかの関係をもつ愚庵がいる。これを忘れてはならない。

2025年6月24日(火)

朝、少しだけ雨だった。それから曇りだ。

高村薫『墳墓記』を読む。昔からの高村ファンだけれど、驚いた。古典の時代の文章と現在が重なり、独特の日本語が展開する。万葉集と藤原定家と、現在の能楽師とが混在して死と生の世界を繰り広げる。当然、万葉以来の歌、とりわけ定家の時代の歌、源氏物語、中世の能の言葉の世界と現代の言葉が混在し、さらに生と死が混じり合い一つの世界を繰り広げる。その言葉のエネルギーに圧倒された。前作の『土の記』が、高村文学の最高峰と思っていたが、これまた日本語の深部を彷徨し興味深いのだ。

  朝の雨にわづかに濡れる中庭に鵤二羽来て跳びはねるなり

  毎朝のリハビリ体操は律動し雲古よく出るわたしのうんこ

  毎朝に運動をする数かぞへリハビリ体操けふも済ませし

  腰上げて足踏み運動、反転し腕立て伏せしてけふのリハビリ

『中庸』第六章一 子曰く、「舜は其れ大孝なるかな。徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を(たも)ち、宗廟これを(う)け、子孫これを保つ」と。

故に大徳は必ずその位を得、必ずその禄を得、必ずその名を得、必ずその寿を得。故に天の物を生ずるは、必ずその(さい)に因りて篤くす。故にその材に因りて篤くす。故に(た)つ者はこれを培ひ、傾く者はこれを(くつが)へす。

詩に曰く、「(か)(らく)の君子、憲憲たる令徳あり、民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く。保佑(ほゆう)してこれを命じ、天よりこれを(かさ)ぬ」と。

故に大徳は、必ず命を受く。

  偉大なる徳をそなへし人なれば天命を受け天子とならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 天田愚庵

生れては死ぬことわりを示すてふ沙羅の木の花うつくしきかも (愚庵全集)

「沙羅雙樹花開」と題する三首中のはじめの歌。あとの二つは

美しき沙羅の木の花朝咲きてその夕べには散りにけるかも

朝咲きて夕べには散る沙羅の木の花のさかりを見れば悲しも

いずれも佳作で優劣はないが、なお心ふかきはじめの歌をこそよしとするのである。

生あるものはかならず滅する。わかりきったことわりを、わかりやすい言葉で歌っている。たんたんとしてこだわりがなく、苦吟したような形跡もまったくないのに、「花のさかりを見れば悲しも」と読み終わるころには白い沙羅の花が見えてくるとともに、心のうちが切なくなる。身をつまされる思いがして涙ぐましくなるのである。

明治三十一年愚庵四十五歳、京都清水産寧坂の草庵にいるころの作だ。仏門に入り、林丘寺適水禅師の得度を受けてから十二、三年ぐらいたっている。(略)愚庵が生きていたならいかがいうか知らないけれど、しかしその宗教生活の中から生まれた歌にちがいなくとも、これは愚庵晩年の作なのだ。しずかな歌ではあるけれど、数奇な運命がしのばれる。ここまで来るのには波瀾万丈の生活があった。人生の苦難を一身に負って来たかのごとくである。それを知るなら、この沙羅の歌は涙なしには読みえない。

2025年6月23日(月)沖縄の日

朝、風があるものの、今日も暑くなりそうだ。

  紅茶が時に真っ赤なりまるで血のやうなり匙にかきまはす

  大きなる手が空からわれをつかみくる天の上までひきずりゆくか

  夜の闇に従ふごとく歩みゆく此方を対きてくるものと会ふ

『中庸』第五章 君子の道は、(たと)へば遠きに行くに、必ず(ちか)きよりするが如く、辟へば高きに登るに、必ず(ひく)きよりするが如し。

詩に曰く、「妻子好合(こうごう)すること、(しつ)(きん)(こ)するが如し。兄弟既に(あ)ひ、和楽して且つ(たの)しむ。(なんじ)が宝家に宜しく、爾が妻帑(さいど)を楽しましむ」と。

子曰く、「父母は其れ(じゅん)ならんか」と。

  君子の道は父も母も満ちたりてさてそれからぞ高みに上る

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 田安宗武

我宿の杜の木の間に百千鳥来なく春べは心のどけき (同)

モモの花をいっていないけれど、むろん咲いているので、だから百千鳥がくる。百千鳥はたくさんの小鳥というぐらいで、その語にこだわらなくてよい。美化していったのである。これと同じような歌は無数にある。が、この一首ほどすぐれた歌はついぞ見なかったような気がする。淳朴な語をえらんで、全体をふっくらと歌いあげた、やさしい心の品高い歌で飽きることがない。万葉調を体得しているのはいうまでもないが、表はほのぼのとした顔つきをしていても、なお歌は人格の表現だとの理想主義的な考えを持っていた人だけに、裏がわは手ごわい。それがこの歌に感じられる。あえて感じる必要はないが、それがあるからこそこの歌は大きく、堂々としているのである。すでに師の真淵をいくばくか追い越している。(略)真淵は万葉調をいいはしたが、その歌は、いうほどのものではなく、だいたいが低調で、宗武には遠く及ぶべくもなかった。

2025年6月22日(日)

今日も暑いのだ。

  夕暮は人の瞳の並ぶごと病院の窓とてつもなくて

  真夜中の夢に魘され声あぐるこの恐ろしさ言ふすべあらず

  紅茶の色は屍体の色と同じかも匙もてかきまはすしかばねの色

『中庸』第四章 君子はその位に素して行なひ、その外を願はず。富貴に素しては富貴を行なひ、貧賤に素しては貧賤に行なひ、夷狄(いてき)に素しては夷狄に行なひ、患難(かんなん)に素しては患難に行ふ。君は入るとして自得せざることなし。

上位の在りては(しも)(しの)がず、下位に在りては(かみ)(ひ)かず、己を正しくして人に求めざれば、則ち怨みなし。上は天を怨みず、下は人を(とが)めず。故に君子は易に居りて以て命を俟ち、小人は険を行なひて以て幸を徼む。

子曰く、「射は君子に似たること有り。(こ)れを正鵠(せいこく)に失すれば、反って諸れをその身に求む」と。

  君子はその位に応じて行動を択びそこから外れたことはせざりき

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 田安宗武

真帆ひきてよせ来る舟に月照れり楽しくぞあらむその舟人は (歌集・天降言)

「帆船ひきて」の「真帆」は、順風に正しく掛けた帆のこと。「ひきて」はその帆の風をはらんでふくらんでいること。「よせ来る」はこちらの方に近づいてくることで、それが大きい帆であることを、それとなく「よせ」のうちにふくませている。これは漁船を歌ったので、一日のりょうを終った漁夫たちが、たくさんの魚を舟に摘みこんで、順風に帆かけて月夜の海を帰ってくる、さぞ愉快でであろうな、その漁夫たちは、とその舟を迎え見ているのである。きらきらと月に照る海、大きくひろげたまっ白い帆、おのずから漁夫たちのうたごえも聞こえるかと思うほどに、これは巧みに情景をとらえていて目に髣髴とする。ちょっと万葉の秀歌を見るような感じだが、この「月照れり」と三句で切った上句を受ける「楽しくぞあらむその舟人は」の下句の調べがじつによい。四、五句を置きかえてなんとなく悠揚迫らぬといった感がある。同時にその楽しそうな漁夫たちをうらやましがっているようなおもむきも感じられる。気楽な庶民生活を羨望するに似た感をうける。

宗武は、徳川八代将軍吉宗の第二子で、田安家にはいった。(略)賀茂真淵を聘するに及んで、その歌ふうが次第に万葉調に転じる。(略)真淵に就くようになっていっそう顕著になり、万葉ふうの宗武調が完成していくのである。

君がため漁せむと漕ぎ行けば万代橋の松ぞ見えぬる

鰭の狭物さはに獲られよ大君のおほ饌にあへむ今日の漁

ともに万葉調のいわゆる馬渕の「やむごとなき御前」の風格がしのばれる。朗々のひびきをもつ佳作である。

2025年6月21日(土)

朝は涼しい。やがて暑くなる。

  わが骸骨が荒野ゆくぎくしゃくとして歩みゆくなり

  すれ違ふ白い女がマスクして笑ふが如しわたくし怖ひ

  真夜中の三時を過ぎて目覚めたる老いにも怖ろし夢の世界

『中庸』第三章三 忠恕は道を(さ)ること遠からず。(こ)れを己れに施して願はざれば、亦た人に施すこと勿れ。君子の道は四あり。(きゅう)、未だ一をも能くせず。子に求むる所、以て父に事ふること、未だ能くせざるなり。臣に求むる所、以て君に事ふること、未だ能くせざるなり。弟に求むる所、以て兄に事ふること、未だ能くせざるなり。朋友に求むる所、先づこれを施すこと、未だ能くせざるなり。

(よう)(とく)をこれ行なひ、(よう)(げん)をこれ謹み、足らざる所あれば、敢て勉めずんばあらず、余りあれば敢て尽くさず、言は行を顧み、行は言を顧みる。君子(な)んぞ慥慥(ぞうぞう)(じ)たらざらん」と。

庸徳・庸言―「庸」は常の意。高遠でない平凡な日常性と永続的好恒常的であることを兼ねる。そうした徳行と言葉。道の実践のために守るべきことである。

  君子ならば庸徳そして庸言を務むるべきや慥慥爾として

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 麻績王

うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻苅り(を)す (万葉集巻一・二四)

壬申の乱がおさまって、天武天皇の治世がはじまった。平和は回復したけれど、余燼はまったく消えたのではなかった。(略)麻績王はいかなる罪に問われたか、それもわからないし、伝も未詳だが、世人は王をあわれに思って次のように歌った。

打ち麻を麻績王海人なれや伊良虞の島の玉藻苅ります (同・二三)

麻績王は海人なのだろうか、海人でもないのに伊良虞の島の海藻を苅っていらっしゃる、というのである。これを聞いた王は悲しんで、この世にいきる命を惜しいと思えばこそ波にぬれて伊良虞の島の海藻を苅って食べているのだよと答えられた。悲傷をいう語は一つもないが、「命を惜しみ波に濡れ」あたりは切実であわれが深い。

2025年6月20日(金)

少し涼しかったが、やがて暑い。

  こがらすが跳ぬるが如く楽しげに何か咥へて嬉しさうなり

  こがらすが尻尾ふりふり跳ね歩く追へばたちまち線路の彼方に

  舗道上をちょこちょこ歩くはすずめなり虫のやうなるものを咥へて

『中庸』第三章二 子曰く、「道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは、以て道と為すべからず。詩に云ふ、「(か)(き)り柯を伐る、その(のり)遠からず」と。何を(と)りて以て何を伐る、(げい)してこれを視るも、猶ほ以て遠しと為す。故に君子は人を以て人を治め、改むるのみ。

  君子とは身近なる人の道により人を治めて人を責めず

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 (ふ)黄刀(きのと)(じ)

河上(かわのへ)五百箇(ゆづ)磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな(とこ)処女(をとめ)にて (万葉集巻一・二二)

「河上」は「カハカミ」とも訓む。どちらでもよいが、私は「カハノヘ」の方が好きだ。川のほとりの意である。「五百箇磐群」はたくさんの岩のむらがりと解してよいが、「ゆづ」に「斎ふ」の意があり、霊魂をもっているような巨石巨岩をいう。「草むさず」は草がはえないこと。「常にもがもな」は常に変わりなくあってほしいなあ、という願望に感動をこめている。「常処女」はいつまでも変わらない可愛い少女という意味で、いまでいう「永遠の処女」などとは違っている。じつによい語で、私の愛惜する古語の一つである。「草むさず」までは「常に」というまでの序歌だが、一首の意は、河のほとりにむらがっている霊ある巨岩に草などはえないように、いついつまでも変わることのない美しい処女であってほしいものです、ということになる。

天武天皇の四年春二月、十市皇女が伊勢神宮に参拝した時、皇女に従って行った吹

黄刀自が、波多の横山の巌を見て詠んだ歌である。(略)吹黄刀自はほかにも歌はあるがいかなる人かわかっていない。けれど刀自はかねてより十市皇女にふかく同情していたようだ。それで横山の霊ある岩を見て、いつまでも若く美しい処女であっていただきたいと祈ったのだ。単純といえば単純だが、その願いが一本に通っていてこころよい調べをなしている。しかしこの歌はどこか悲しみに似たせつない思いをつたえてくる。「処女」といっているけれど、この時の皇女は処女などではなく、まことに気の毒な立場におられた。

十市皇女は、大友皇子(弘文天皇)の妃となられていたが、天皇崩御の壬申の乱後は(略)「処女」というのはあたらないけれど、まだ年も若いのだし、心をひきたてるべく、さびしい境遇に同情して、あえて「処女」と言ったのであろう。(略)皇女は薄命で、それから三年後の天武七年夏、天皇が伊勢に行幸しようとする時、急に病を発して亡くなった。ために行幸は中止されたとある。

2025年6月19日(木)

三日続けて、今日も猛暑だ。耐えられぬ。

  朝の日にかがやくあけぼの杉の木に挑みたくなるその幹に触れ

  久々に初夏のみどりに圧倒され誰か殺さむと思ふときあり

  闇の中にまた闇があるその奥に血潮したたる一隅がある

『中庸』第三章一 君子の道は、(ひ)にして(いん)なり。夫婦の愚も、以て(あずか)り知るべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も、亦た知らざる所あり。夫婦の不肖も以て能く行なうべきも、その至れるに及んでは、聖人と雖も、亦た能くせざる所あり。天地の大なるも、人猶ほ憾む所あり。故に君子大を語れば、天下能く載すること莫し。小を語れば、天下能く破ること莫し。詩に云ふ、「鳶飛んで天に戻り、魚淵に躍る」と。その上下に察るを言ふなり。君子の道は、端を夫婦に(はじ)め、その至れるに及んでは、天地にも(いた)るを言ふなり。

  君子の道は端を夫婦にはじめその究極は天地の果てまで

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 弓削皇子

滝の上の三船の山に居る雲の恒にやあらむとわが思はなくに (万葉集巻三・二四二)

同じ弓削皇子が「吉野に遊しし時」の歌だが、前の歌と同じかどうかはわからない。多分ちがうのであろう。「滝の上」は滝のほとり、または急流のほとりという意味にとられているが、文字通り滝の上、急流の上と頭に感じとってもよい。吉野の宮滝の地の、吉野川をへだててすぐ南すこし東にそびえる山が現在三船山といわれている。はたして昔のままかどうかはよくわからない。

滝の上の三船の山にはいつも雲がかかっている。あの雲のように変わることなくいつまでもこの世にある命とは思われない、と人の世をはかなんでいる。中世のいわゆる「無常感」とは違うけれど、しかしこれはやはり人間共通の無常感を歌っているので、それをいうのに山にかかっている雲である。漠々とはしているけれど、また大いなる感慨である。飽きることなく、いつまでも鑑賞にたえうる歌である。これに対して春日王は次のように和している。

王は千歳にまさむ白雲の三船の山に絶ゆる日あらめや (同・二四三)

弓削皇子は文武天皇三年七月に亡くなっている。