12月16日(火)

朝がなかなか明けないが、後は晴れ。日没も早い。

  最上階の湯から望めば焼津港、町もひろがる。鬱懐ほどく

  駿河湾のしづかに穏やかなる青き海。小泉八雲の片目にひろがる

山口乙吉

  ダルマの眼は常片目なり。しかれども八雲のために両目を画く

  山口乙吉魚屋の二階。避暑の居と定めて海へ、八雲とその子ら

『孟子』縢文公章句下52-2 昔者(むかし)趙簡子(てうかんし)、王良をして嬖奚(へいけい)と乗らしむ。終日にして一禽をも獲ず。嬖奚反命して曰く、『天下の(せん)(こう)なり』と。或ひと以て王良に告ぐ。良曰く、『請ふ之を(ふたた)びせん』と。強いて後に(き)く。一朝にして十禽を獲たり。嬖奚反命して曰く、『天下の良工なり』と。簡子曰く、『我(なんぢ)と乗ることを(つかさど)らしめん』と。王良に謂ふ。良(き)かずして曰く、『吾之が為に我が馳駆(ちく)を範すれば、終日にして一をも獲ず。之が為に詭遇(きぐう)すれば、一朝にして十を獲たり。詩に云ふ、<其の馳することを失はざれば、矢を(はな)ちて破るが如し>と。我小人と乗ること(なら)はず。請ふ辞せん』と。御者すら且つ射る者と比するを羞づ。比して禽獣を得ること丘陵の若しと雖も為さざるなり。道を枉げて彼に従ふが如きは何ぞや。且つ子過てり。己を枉ぐる者は未だ能く人を直くする者有らざるなり」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

なるようになってしもうたようである穴がせまくて引き返せない 『迦葉』

昭和五十九年八月に「桃の花」と題した三十二首を「短歌」に発表。三十二首目の歌である。方代に残された時間はあと一年しかない。

三首前の歌に「もどかしさ」とあった。この時期の歌にはそこかしこに「もどかしさ」が見受けられる。この歌にもある。人生をやり直すことができない「もどかしさ」。「引き返せない」と絶句して終わる。

連作には<早生まれの方代さんがこの次の次に村から死ぬことになる><行末のことに思いがおよぶ時急に眼の先が暗くなり来る>と死を暗示する歌がある。

欄外の人物として生きて来た 夏は酢蛸を召し上がれ 『迦葉』

昭和五十九年十月に「うた」に発表された「杉苔」三十二首の中の一首。この年の方代の発表した歌数は百二十六首に及ぶ。

上句から下句への飛躍が読みどころ。なぜ酢蛸に辿り着くかは不明だが、西瓜とか冷ややっこではなく、必ずしも夏をイメージしないものを持って来たところが妙技。歌集では<河石を三つならべて日本の庄内米を炊いて食べたり>が隣に置かれている。直火で焚くとは美食家だ。そういえば歌やエッセイに食べ物は多く出てくるが、山のものが中心。海産物はほとんど出て来ない。

12月15日(月)

晴れ。寒い。

  西宮神社にゑびすの神祀るその当日にわれら来しかな

  縁日の露店の店のあまた出て賑はふ町に心楽しく

  焼津駅から送迎車に道を上りゆく山の高きに一軒の宿

『孟子』縢文公章句下52  陳代曰く、「諸侯を見ざるは、(ほとん)ど小なるが若く然り。今、一たび之を見ば、大は則ち以て王たらしめ、小は則ち以て覇たらしめん。且つ志に曰く、『尺を枉げて尋を直くす』と。宜ど為す可きが若し」と。孟子曰く、「昔、斉の景公(でん)す。虞人(ぐじん)を招くに(せい)を以てす。至らず。将に之を殺さんとす。『志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず。勇子は其の(かうべ)を喪ふを忘れず』と。孔子(なに)をか取れる。其の招きに非ざれば往かざるを取れるなり。其の招きを待たずして往くが如きは何ぞや。且つ夫れ尺を枉げて尋を直くすとは、利を以て言ふなり。如し利を以てせば、則ち尋を枉げて尺を直して利あらば、亦為す可きか。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

暮れに出た友の歌集はすばらしい夏の雀は体がだるい 『迦葉』

友と聞いて思い出すのは岡部桂一郎と玉城徹だが、ここでは「とある友」と読むのが良さそう。あまりのすばらしさにショックを受けて、この年の前半を過ごしたのだろう。体がだるい雀は方代だ。

と読んで来て、それで良いのかと疑う。本当に「すばらしい」と思っているのか。下句は」がっかりした思いを表わしているのではないか。そもそも「友」も疑わしい。

「とある友」ではなく「とある大家」の歌集ではないのか?こんな詮索はほどほどにしたいのだが、方代が残していった謎は数限りない。

かろうじて保つ視力はかぐろくて低い鴨居のようにしんどい 『迦葉』

実感のある比喩、手触りのある比喩、という言い方をする。だとすればこの比喩は「体が覚えている比喩」とでも言おうか。低い鴨居を潜るとき、頭をぶつけないかと恐々と体を丸める感覚が蘇って来る。

が、しかしだ。その程度のしんどさなのかと首を傾げてしまう。かろうじて保っているのだから、もっともっとしんどいでしょうと思う。けれどもそこは方代のこと。「私の苦労なんぞ軽く受け流していただいて結構なのですよ」と言いたげに、左程しんどくないことに喩える。比喩の力を知っていた人だから、なせる伎。

12月14日(日)

珍しく雨。やはて雨は上がるらしいが。

小林秀雄対話集『直観を磨くもの』を読む。湯川秀樹との対話、なかなかに興味深いが根本のところは、私には理解できない。大方そうなのだが、三好達治、梅原龍三郎や今日出海、そして河上徹太郎との対話は面白かった。とりわけ今との話の中で小林秀雄の母の信仰について触れている。へえっという感じを受けた。天理教、そして世界救世教に属していたこと。しかし、ずっと読んでいると、あら不思議。その特別な口調から小林秀雄の姿が彷彿してくるのだ。まるで私も小林秀雄と対話しているような……

  焼津へはヤマトタケルも東征に訪れしもの。われも焼かれむ

  ともすれば長く立ちどまる吾れならむいつか焼かれむ日も遠からず

  階段を降りるのが人より遅くして一段一段踏むやうにして

(本当はこの日に来るものが、11月29日に行っている。ご勘弁を)

『孟子』縢文公章句下59 (これも順番が変ですが、本来なら12月27日に来るものです。つまり、この日を抜いて、続けてしまったという失態です。)

戴盈之(たいえいし)曰く、「(じふ)(いつ)にして、関市(くわんし)の征を去るは、今玆(ことし)は未だ能はず。請ふ之を軽くし、以て来年を待ち、然る後に已めん。如何」と。孟子曰く、「今、人日に其の鄰の雞を(ぬす)む者有らんに、或るひと之を告げて曰く、『是れ君子の道に非ず』と。曰く、『請ふ之を損して、月に一(けい)を攘み、以て来年を待ち、然る後に已めん』と。(も)し其の義に非ざるを知らば、斯に速やかに已めんのみ。何ぞ来年を待たんや」と。

君子ならば正しくないと知ったならばすぐさまやめること

川本千栄『土屋文明の百首』

父死ぬる家にはらから集まりておそ午時に塩鮭を焼く 『往還集』

<病気で危篤の父が死につつある家に兄弟が集まって、遅い昼食のために塩鮭を焼く>

自分の父が死んでいく場面を淡々と歌にしている。物欲を追い続けた父であった。それぞれ別に住み、普段会わない兄弟たちが、集まって臨終の時を待っている。「父死ぬる」と事実だけをそのまま言い、「塩鮭」という具体的で日常的な食材で場面を表わす。冷静すぎるほどに事実だけを述べ、感情を抑えた表現だが、底には深い悲しみがこめられている。前年、子供時代の文明を可愛がってくれた祖母も、父の震災バラックで死んでいる。

新しき地図を買ひ来て夜ごと読むいづへの海に行きて眠らむ 『山谷集』

<新しい地図を買って来て夜ごとに読む。どのあたりの海へ、旅に行って眠ろうか。>

昭和四年末頃の日常生活の一場面。この頃日本の国土は、近代化によって変わっていく時期でった。鉄道や道路や橋ができ、都市化が進んだ。ある日、そうした変化を載せた、新しい地図を買って来た。毎晩、少し心の余裕のある時に、地図を読んで様々に思いを巡らせている。いつか旅行で、どこかの海に行きたい。どこの海へ行こうか。そんなささやかな空想が、日常の中に小さな灯りをともすように歌われている。

12月13日(土)

寒い、寒い。遅くなって雨らしい。

  焼津へはヤマトタケルも東征に訪れしもの。われも焼かれむ

  ともすれば長く立ちどまる吾れならむいつか焼かれむ日も遠からず

  階段を降りるのが人より遅くして一段一段踏むやうにして

『孟子』縢文公章句上51-2 徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、「儒者の道は、古の人赤子を休んずるが若しと。此の言何の謂ひぞや。之は則ち以為へらく、愛に差等無し、施すこと親由り始む」と。徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「夫の夷子は信に人の其の兄の子を親しむこと、其の鄰の赤子を親しむが若しと為すと以為へるか。彼は取ること有りて爾るなり。赤子の匍匐して将に井に入らんとするは、赤子の罪に非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之をして本を一にせしむ。而るに夷子は本を二とする故なり。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

机の上に風呂敷包みが置いてある 風呂敷包みに過ぎなかったよ 『迦葉』

風呂敷包はしょせん風呂敷包み、何を包んであったとしても風呂敷包みである。人間も同じこと、どんなに難しい学問を身に付けたところで自分は自分に過ぎないよと、かなり投げやりな人生訓でもある。

『青じその花』には、机に向かい虫眼鏡を使って鉛筆で原稿を書いている方代を写した写真が掲載されている。下着姿で胡坐をかいている。机は文机。机の上には薩摩焼酎「かごしま」のボトルとコップ。背後には書棚。壁には十朱幸代のポスター。<十朱幸代君が唱えば浅草の酸漿市の夜は闌けてゆくなり>が『こおろぎ』にある。

母の名は山崎けさのと申します日の暮れ方の今日の思いよ 『迦葉』

歌やエッセイを読んでいると、父に比べて母が出てくることが少ない。ざっと見たところ母の登場回数は父の三分の一程度。更に父は主役級の重大な役割なのに母の扱いは軽い。この差はどこから来るのだろう。

総じて父の歌はドライである。対して母の歌はウェット、哀愁を帯びている。この歌のように母の名前が詠まれただけでも、じっとりと悲しみを湛えてしまう。きっと方代はそれが嫌だった。ウェット一返倒れの歌は避けたかったのだ。

父は九十四歳まで生きた。母は六十九歳までしか生きられず、右左口を出ることがなかった。

12月12日(金)

快晴ですが、寒いのです。

今日から、先日行ってきた「焼津」の歌です。

焼津

  東海道線各駅停車に熱海まで、乗り換へてゆく焼津の駅へ

  四人席を二人で使ふ楽しさよ。焼津へ各駅に停車して行く

  この旅もいのちせいいつぱいにゆかんとす足弱なれば注意深く

『孟子』縢文公章句上51 墨者夷之、除辟に因りて孟子に(まみ)えんことを求む。孟子曰く、「吾固より見んことを願ふも、今、吾尚ほ病めり。病癒えなば我(まさ)に往き見んとす。夷子来たらざれ」と。他日、又孟子に見えんことを求む。孟子曰く、「吾今は則ち以て見る可し。(ただ)さざれば則ち道(あらは)れず。我且に之を(たださ)んとす。吾聞く、夷子は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と為す。夷子は以て天下を易へんと思ふ。豈以て是に非ずと為して貴ばざらんや。然り而して夷子は其の親を葬ること厚しと。則ち是れ賤しむ所を以て親に事ふるなり」と。

  夷子は墨者なり喪に薄しされど親には厚きといふこれやいかに

藤島秀憲『山崎方代の百首』

べに色のあきつが山から降りて来て甲府盆地をうめつくしたり 『迦葉』

たくさんの赤とんぼが飛び交っている光景。秋が来たことを告げている。「甲府盆地をうめつくしたり」のスケールの大きさに心ときめく。すみれとか石とか小さなものを歌う印象が方代にはあるが、どっこい大きな自然を歌わせれば、独自の切り口を見せる。

歌集ではこの歌の後に<小仏の峠の道は秋早し吾亦紅が恋をしていた>が置かれていて、こちらは小さな自然を個性的に切り取っている。

ふるさとの山や動植物を思い出すようにぽつぽつ歌っているのもこの時期の特徴だ。

ふるさとを捜しているとトンネルの穴の向うにちゃんとありたり 『迦葉』

短歌の定型は五七五七七なのだが、本当のところは歌人の数だけ定型がある。例えばだが「蛍の光」をロック歌手と演歌歌手とオペラ歌手が歌えばそれぞれ全く違う歌になるように。

内容は俗っぽくても、方代短歌は格調高い調べを持っている。特に、この歌の凛とした言葉運びは絶品だ。「ちゃんと」というザックバランな言葉が入ったとしても「ありたり」と文語で収めることにより、緩みのない調べを作り上げている。

ふるさとがあることの心強さが歌われている。

12月11日(木)

寒い。でも晴れ。

  エレベーターに降りゆくとき三階の廊下に赤き手袋ぞある

  一廻り歩いて帰るエレベーター上がるにどこにも手袋あらず

  エレベーターに窓がある各階の廊下必ず見ゆる

『孟子』縢文公章句上50-11 「許子の道に従へば、則ち市の賈弐ならず、国中偽り無し。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を欺くこと或る莫し。布帛の長短同じければ、則ち賈相若く。麻縷糸絮の軽重同じければ、則ち賈相若く。五穀の多寡同じければ、則ち賈相若く。屨の大小同じければ、則ち賈相若く」と。曰く、「夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或ひは相倍し、或ひは什百し、或ひは相千万す。子比して之を同じうせんとす。是れ天下を乱すなり。巨屨・小屨 賈を同じうせば、人豈之を為らんや。許子の道に従ふは、相率ゐて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国歌を治めん」と。

  許子の言に従へばこぞってごまかし手を抜けりそれでどうして国治めんか

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ここ過ぎてうれいは深し西行の歌の秘密はいまも分からない 『迦葉』

『青じその花』にこのような文章がある。

歌を作るのにはいろいろな条件がいるが、精神のコンディションを調整することが私にとってはまず先決である。歌の秘密というとおこがましいが、結局それに尽きるのではありますまいか。不仕合わせを、少しずつ生活の意識の中に混ぜておくのが精神のバランスである。つまり、ちょぴり不幸という薪をちょろちょろくべるということ(以下略)

幸せ一辺倒ではどうもイケないらしい。

西行の秘密が分からないまま方代は死んでしまった。

帰りには月は上りぬてらてらと月夜の晩の人となりたり 『迦葉』

「月夜の晩の人となりたり」なんて美しい表現なのだろうと、三句の「てらてらと」を隠して読めば思う。美しい表現をぶち壊してしまう「てらてらと」という俗すぎるオノマトペ。残念だよね~と普通なら言ってしまうのだが、美しすぎることを避けた方代の思いを感じてしまうので、許してあげることにする。

でも「ゆうらりと」などの抒情優先のオノマトペでは絶対に方代らしくない。方代が方代でいるための最低ラインが「てらてらと」であったように思う。自分の世界をとことん大切にした結果だ。

12月10日(水)

寒いのだが、晴れ。

  追ひこされ、また追ひ越され、追ひこさる。情けなし、今のわたしの歩み

  公園の先のあたりを目標に定めたりしも三人に越さる

  どうしてもスピードがでないわが歩み。わづかの傾斜に躊躇したりき

『孟子』縢文公章句上50-10 今や南蛮鴃(なんばんげき)(ぜつ)の人、先王の道を非とす。子、子の師に(そむ)いて之を学ぶ。亦曾子に異なれり。吾幽谷を出でて喬木に遷る者を聞く。未だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かず。魯頌(ろしよう)に曰く、『戎狄(じゆうてき)は是を(う)ち、荊舒(けいじよ)は是れ懲らす』と。周公方に且つ之を膺つ。子は是を之れ学ぶ。亦善く変ぜずと為す」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

鎌倉の裏山づたいをてくてくと仕事のように歩きおりたり 『迦葉』

読まれることを常に意識していた方代は、読者サービスを日頃から行っていた。読者に喜んでもらう、その精神を貫いた歌人人生、「歌人が仕事」という信念を基に歌い続けた。

「てくてくと」を使える歌人は方代くらいしかいないだろう。語り掛けるような言葉の中に、ごくごく自然に埋め込み、ちょっぴり寂しくも楽しいオノマトペとして機能させている。「おり」を使い、或るく自分を突き放して見た上で「たり」と文語で締める。何気ない、誰でも作れそうな歌だから余計に多くの技が秘められている。

くちなしの白い花なりこんなにも深い白さは見たことがない 『迦葉』

読めば目の前にくちなしの白い花が広がる。「こんなにも」と讃嘆して、絶賛する。くちなし讃歌。

でも本当にそれだけなのだろうか。どうも違うような心持になっている。白を畏れ、白を疑う気持が私には見えてしまうのだ。そもそも、白さと匂いで存在を示し過ぎるくちなしを方代は好んでいない気がする。とすると、この歌は褒め殺しか。くちなしを褒め殺しても仕方ないので、目立つ花ばかりに気を取られている人への皮肉。私は目立たない花ばかり見て来ましたので、今回初めてくちなしに気づいた次第でございます、と。