涼しい。歩くと暑い。
突然に秋めく日あり。桜木の枝から落ちるさくらのもみぢ
散りはじめふらりぽつりと流れゆくさくらの古木の幹に手をやる
さくらのもみぢを踏むわれもけもののごとき喜びにゐる
『孟子』公孫丑章句26 孟子曰く、「力を以て仁をる者は覇たり。覇は必ず大国をつ。徳を以て仁を行ふ者は王たり。王は大を待たず。は七十里を以てし、文王は百里を以てす。力を以て人を服する者は、心服に非ざるなり。力らざればなり。徳を以て人を服する者は、中心悦んで誠に服するなり。の孔子に服するが如きなり。詩に云ふ、『西自りし東自りし、南自りし北自りし、思ひて服さざる無し』と。此を謂ふなり」
西からも東からも、南から北からもくる徳あればこそ
『塚本邦雄の百首』
豹變といふにあまりにはるけくて夜の肋木のうへをあゆむ父 『豹變』
『易経』の豹変とは、豹の斑紋がくっきりしているように、君子ははっきりと過ちを改めるという意。塚本はそれまでの文学的業績にひと区切りをつけ、これからの指徴として「編」を志した、その起点である。
しかし何を変え何が変わったのかは判然としない。」塚本の意識の中で「変」とは何だったのだろうか。
下の句は不思議な情景である。夜の公園の遊具に登って歩く父。酔狂なのか、子に勇姿を見せたかったのか、父の姿は「君子豹変」にはあまりに遠い、ということか。それともこの世ならぬ父の幻なのだろうか。
詩歌變ともいふべき豫感夜の秋の水中に水奔るを視たり 『詩歌變』(一九八六)
前衛短歌はまさに最前線の部隊で短歌を変えた。六〇代の塚本は、水の中に水が走る様を発見するように、短歌の世界の内側で短歌本隊の質的な変革を目指していたのではないか。本隊は「人生詠境涯詠」であり「生活詠日常詠」である。塚本は境涯や日常を詠む時も、事実に拘泥することなく、言語感覚を駆使し人間の業や世界の歪みを垣間見せるよいな物語的な広がりを持つ詩歌空間をめざしたのではないだろうか。それは石垣にしみこむ雨のように、短歌の本隊に深く沈潜し、写実系作品をも静かに変えていったのだ。