11月5日(水)

太陽は、ずっとくもの中。

  水仕事すればトイレに行きたくなる冷たき水は秋の水なり

  秋の水、蛇口よりほとばしり皿、碗を洗ふ水流となる

  蛇口よりほとばしり出る秋の水。冷たく思ふがそれもよきなり

『孟子』公孫丑章句下36-3 他日、王に(まみ)えて曰く、「王の都を(をさ)むる者、臣五人を知れり。其の罪を知る者は、惟孔距(こうきよ)(しん)のみ」と。王の為に之を誦す。王曰く、「此れ則ち寡人の罪なり」と。

  他日、孟子は王に見え罪をしるは孔距心のみと言へば此れ私の罪である

藤島秀憲『山崎方代の百首』

亡き母よ侮る勿れ野毛市の夜のとどろきに歌一つなす 『方代』

『青じその花』で方代はこのように書いている。

私の歌のすべては学問の中から生まれてくるものではない。二十貫の力石をかつぎかついだこの中から生まれてくるものだ。

野毛市は横浜にあった闇市。混乱の中で、一首が生まれた。侮られるような生き方であることを自覚してはいるが、自分に今できることは歌を成すことのみ。

「亡き母よ」と母に呼び掛けているが、全ての人々に「侮る勿れ」と言いたい気分なのだ。

野の末に白き虹たつくれどきよ吾に憩いの片時もなし 『方代』

「白虹」と書いて「はっこう」という虹がある。太陽の光が霧に反射して出来るもの。とても深く、とても儚い虹である。

この歌が発表された昭和二十五年、歯科医師と結婚している姉・関くまの許に方代は落ち着き、放浪生活を終りにした。そして懸命に働いた。

戦後に初めて訪れた安定した生活だった。でも、方代は知っていたのだ。この暮らしが白い虹のように淡く儚いものであることを。片時の憩いでもないことを。

11月4日(火)

朝から晴れなれど寒い。

  これの世に悪しきこと良きこととりどりに幾つもあるもの人の世なれば

  この生に歓び悲しみあるもののそれでも少し楽しければよし

  生きるために切磋琢磨す。あれこれとあれどただ平穏であること祈る

『孟子』公孫丑章句下36-2 「然らば則ち子の伍を失ふや、亦多し。凶年(き)(さい)には、子の民、老羸(ろうるゐ)溝壑(こうがく)に転じ、壮者の散じて四方に之く者幾千人ぞ」と。曰く、「此れ(きよ)(こころ)の為すを得る所に非ざるなり」と。曰く、「今、人の(ぎう)(やう)を受けて、之が為に之を牧する者有らば、則ち必ず之が為に牧と(すう)とを求めん。牧と芻とを求めて得ずんば、則ち諸を其の人に反さんか。抑々亦立つて其の死を視んか」と。曰く、「此れ則ち距心の罪なり」と。

  牛羊の牧場と牧草を得られずばもとに返すか死を視てゐるか

藤島秀憲『山崎方代の百首』

汚れたるヴィヨンの詩集をふところに夜の浮浪の群に入りゆく 『方代』

愛読した詩人が二人いる。尾形亀之助とフランソワ・ヴィヨン。二人の詩との出会いは昭和二十三年、三十四歳のときだった。『青じその花』には「(ヴィヨンの)詩をくり返しくり返して、読んでいくうちに、力強いなにものかが、私の心をゆさぶってくるのである」とある。

この歌三句以下を比喩として読むのが良さそうだ。ヴィヨンの詩を心に刻みつけ、厳しい現実を生きて行こうという意思表示。

ちなみにこの詩集は、鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』、新宿の紀伊国屋書店で買った。

ゆくところ迄ゆく覚悟あり夜おそくけものの皮にしめりをくるる 『方代』

傷痍軍人として訓練を受けた方代は、靴職人の家に住み込んで修理技術を学んだ。その後、新宿駅などで靴の修理をして過ごすが、住居を持たずに知人の家を渡り歩く放浪生活は変わらなかった。

この時期の歌としては生きることに前向きである。なんとしても生きて行こうという覚悟がある。と言うのも、戦争と戦後の混乱によって途絶えていた作歌に、ふたたび取り組むようになったからである。

戦前に参加していた「一路」に再入会。歌会に出るために、しばしば右左口村に帰るようになっていた。

11月3日(月)

朝から晴れだ。

  もうとうに役に立たざるわがペニスただ小さきが垂れてゐるなり

  役立たぬゆゑになくなればよしとおもふとはいへ簡単に無くならぬもの

  あらあら不思議。夢なれば役に立つ女もをりき

『孟子』公孫丑章句下36 孟子 平陸に之き、其の大夫に謂つて曰く、「子の持戟の士、一日にして三たび伍を失はば、則ち之を去るや否や」と。曰く、「三たびを待たず」と。

  孟子、平陸に行き長官に、三度職務を怠るに辞めさせると問ふ

藤島秀憲『山崎方代の百首』

今日はもう十一月の二十日なり桐の梢空に桐の実が鳴る 『方代』

この歌も『右左口』に収録された際に<今日はもう十一月の二十日なり桐の梢に桐の実が鳴る>と推敲されている。圧倒的に読みやすくなったのだが、単なる情景描写になってしまった気がして、いささか残念。「空」のある方が空間が広がる。

十一月二十日は何の日だろう。たとえば十一月二十五日は母の祥月命日。今年もまた不満足な生活の中で母の忌を迎えることを嘆いているのだろうか。

一見意味のない日付も、こうして歌われると何か意味があるように感じる。余白の効果と言ってよい。

ふかぶかと雪をかむれば石すらもあたたかき声をあげんとぞする 『方代』

「石」は方代短歌の重要なキーワード。これからもたくさん出て来る。

人に踏まれても動けないし、声も上げられない。弱いものの代表格だ。でも、肝が据わっていて、不要なように見えて、しっかり役立っている。

この歌、実は『青じその花』では失恋の歌として語られる。石になって失恋の痛みに耐えているのだ。

恋については後々書くことになるが、相手は広中淳子。和歌山に住む彼女に手紙を送り続けたものの、片思いに終わった。

11月2日(日)

晴れてる。

  セキレイの呼ぶ声聴く声二羽がゐて欅の周囲(めぐり)鳴き移りつつ

  すずめごの声かしましく公園の囲りの木々に鳴きやまざりき

  金木犀の甘き香りに包まれてすずめらが鳴くたのしきものよ

『孟子』公孫丑章句下35-2 孟子曰く、「皆(ぜ)なり。宋に在るに当りてや、(われ)将に遠行有らんとす。行く者には必ず(はなむけ)を以てす。辞に曰く、『(はなむけ)(おく)る』と。予(なん)(す)れぞ受けざらん。(せつ)に在るに当りてや、予戒心有り。辞に曰く、『戒めを聞く。故に兵の為に之を(おく)る』と。予何為れぞ受けざらん。斉に於ける(ごと)きは、則ち未だ処する有らざるなり。処する無くして之を(おく)るは、(こ)(これ)(くわ)にするなり。焉んぞ君子にして貨を以て取らる可き有らんや」と。

  宋・薛に在るときは餞別、軍資金を受けとるものの斉では違ふ

藤島秀憲『山崎方代の百首』

一足の黒靴がならぶ真上より大きな足が下りて来たる 『方代』

方代の軍隊生活は約五年。シンガポール、ジャカルタ、チモールなどを転戦。眼を負傷して野戦病院に入院するものの少し治療すれば、すぐにまた戦場へ送られた。

「大きな足」から上等兵の足をイメージする。「下りて来たる」に暴力的な圧力を感じる。その足で踏みつけられるように幾度となく暴言・暴力を受けたことだろう。

クローズアップする方法に、北原白秋『雲母集』の〈大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも〉を思う。

不貞不貞と畳の上に投げ出せし足といえどもせつなかりけん 『方代』

「不貞不貞」は当て字なのだが、この文字を使ったことで自堕落な雰囲気が濃くなった。だが、第二歌集『右左口』に再録するにあたり「ふてぶてと」に直されてしまった。私としては残念な推敲。

「けん」は「……だっただろう」と過去を推量するときに使う。が、方代の場合は文法通りに読まなくても良いこともある。それは文法を知らなかったからではなく、文法を超えて、音を大切にしたからだ。

右左口は「うばぐち」と読む。山梨県に存在した村で、現在は甲府市の一部。方代が生まれた村だ。

2025年11月1日(土)

いい天気だ。

  熊に襲はれ死ぬもよからう一撃に倒してくれるものなればこそ

  苦しみて死へおとろふるを畏れつつしかしなんともなすことあらず

  だんだんに苦しみを経て死は来るいたしかたなしなるやうになれ

『孟子』公孫丑章句下35 陳臻(ちんしん)問うて曰く、「前日(ぜんじつ)、斉に於て、王兼金一百を(おく)りしも、而も受けず。宋に於ては七十(いつ)を餽られ、而して受く。(せつ)に於ても五十(いつ)(おく)られ、而して受く。前日の受けざるが(ぜ)ならば、則ち今日の受くるは非なり。今日の受くるが是ならば、則ち前日の受けざるは非なり。夫子必ず一に此に居らん」と。

  孟子先生のおこなひに問題ありしかも兼金送るに一にはあらず

藤島秀憲『山崎方代の百首』

寂しいが吾れにひとりの姉があるかなしきを打つこのときのまも 『方代』

八人兄弟姉妹の末っ子として生まれたが、生まれた時には既に五人が死亡、一人は里子に出ていた。

方代はエッセイ集『青じその花』に次のように書く。

まさかと思っていたのが生まれてきたのである。霜のきびしい朝であった。父は焼酎の酔にまかせて、生き放題死に放題の方代と命名してくれた。

二十三歳の時に母を、二十九歳のときに父を失った方代にとって、唯一の肉親であった姉が精神的にも物質的にも支えとなった。姉がいるから仕事もできる。「かなしき」は鑕、靴の修理をしていたときの歌だ。

とぼとぼと歩いてゆけば石垣の穴のすみれが歓喜をあげる 『方代』

小さな自然と語らい、友達になることが好きだった方代。元気なく歩いていても、すみれが迎えてくれる。そして励ましてくれる。石垣の穴という、決して恵まれた環境で育っているわけではないので、余計に仲間意識が強いのだろう。

センチメンタルであり、ロマンチストだった方代の特質が良く出た歌。

愛誦性があると評価されることの多い歌の中にあって、この歌はとりわけ愛誦性が高い。一読して覚えてしまうし、忘れ難い。

10月31日(金)

ぐずぐずと雨。

  公園の砂地の轍に足取られふらつく老いを誰も見てゐず

  けやき樹の上に広がるマンションの誰一人としわれを知らず

  公園の木より飛びたつカワラヒワ海老名の鳥なりもっと顔出せ

『孟子』公孫丑章句下34-5 故に将に大いに為す有らんとするの君は、必ず召さざる所の臣有り。謀ること有らんと欲すれば、則ち之に就く。其の徳を尊び道を楽しむこと、の如くならざれば、以て為す有るに足らざるなり。故にのに於ける、学んで而る後に之を臣とす。故に労せずして覇たり。今、天下 地し徳しく、能く相ふる莫きは、他無し。其の教ふる所を臣とするに好んで、其の教へを受くる所を臣とするを好まざればなり。湯の伊尹に於ける、桓公の管仲に於けるは、則ち敢て召さず。管仲すら且つ猶ほ召す可からず。而るに況んや管仲を為さざる者をや」と。

  湯王が伊尹に対し、桓公が管仲に対し召すべからずされば況やわれならなくに

さて今日から藤島秀憲『山崎方代の百首』にしようと思う。ふらんす堂の出したもので、林和清『塚本邦雄の百首』に継ぐものである。

わからなくなれば夜霧に垂れさがる黒きのれんを分けて出てゆく 『方代』

第一歌集『方代』の巻頭歌。発行は昭和三十年、四十一歳の秋。歌人に送っただけでなく、中村光夫、高見順、小林秀雄の自宅を訪れて手渡した(追い返されたこともあった)。さらに残ったものは横浜駅と東京駅で行く人々に配られたという。

この歌が発表されたのは昭和二十三年。目を負傷して戦地より帰った方代の今後の生き方にイメージが重なる。不透明な先には不透明が続く。わからなさは「黒きのれん」の先でも続いている。「のれん」で酒場を表わし、デカダンな雰囲気を作り上げている。

じめじめと父と母とがあらそひしあのあらそひは今もわからず 『方代』

方代が生まれた時、父龍吉は六十五歳、母けさのは四十四歳だった。龍吉は馬を引いて運送業を営むが、山っ気のある人で、開墾した山に桑畑を作るなどさまざまな事業に手を出し、そして失敗する。結局、運送業も立ちゆかなくなり家を売ることに。

確かに争いが多そう。父と母が争う理由が、子供の時には分からなくても、大人になった今なら分かるはず。

だが、「今もわからず」と知らぬふりをする。肩透かしを食わせるように読者を突き放す。方代短歌の特徴の一つだ。

10月30日(木)

寒いけれども晴れ。

『この道』に続けて遺作になる古井由吉『われもまた天に』を読んだ。たしかに死を見ているが、動きは生の側にあるようで、あらためて死の存在が恐ろしいものに思われた。しかも、足のふらつきから転倒した、その夜にこの一冊を読み終えたのだ。右腕が痛く、ままならぬ中、それこそ「われもまた天に」のようなそう遠くない時を思ってびびっているのでもある。

  公園の西と東に金木犀。甘き香りの充満したり

  ことしは金木犀に花つかずと言いしそばから香り來るなり

  この甘き香りにいつもの死者を思ふ三十年たてど君をおもふ

『孟子』公孫丑章句下34-4 景子曰く、「否。のに非ざるなり。礼に曰く、『父召せばする無し。君命じて召せばするを俟たず』と。よりにせんとするなり。王の命を聞いて遂に果たさず。んどの礼と相似ざるが若く然り」と。曰く、「豈是を謂はんや。曾子曰く、『晋楚の富は、及ぶ可からざるなり。彼は其の富を以てし、我は吾が仁を以てす。彼は其の爵を以てし、我は吾が義を以てす。吾何ぞせんや』と。夫れ豈不義にして曾子之を言はんや。是れ或ひは一道なり。天下に三有り。爵、、徳一。朝廷は爵にくは莫く、郷党は歯に如くは莫く、世を輔け民に長たるは徳に如くは莫し。んぞ其の一を有して以て其の二を慢るを得んや。

  爵・歯・徳三つの中で一つを得以て二つを慢るなかれ

林和清『塚本邦雄の百首』

皐月待つことは水無月待ちかぬる皐月待ちゐし若者の信念 歌集未収録最晩年作

葬儀委員長の篠弘により、告別式にて発表された辞世である。最晩年の歌は言葉が繰り返される傾向が顕著。この歌も言葉の意味はわかっても歌意は取りにくい。島内景二の解釈では、「こと」を「ごと」として「五月を待つようには六月を待つことはない」とするのだが、一理ある。下の句は、歌に執し続けて来た自らを、出発時の若者の姿として見ているのであろう。その信念が生涯という貫かれて来たことは間違いない。

塚本邦雄は平成一七年(二〇〇五)六月九日に永眠した。他界では杉原や政田や慶子夫人らが頬笑んで迎えてくれたことだろう。

これで『塚本邦雄の百首』は終る。しかし巻末に「塚本邦雄の血のあと」として、渾身の解説が付いている。そこでは、最近の若い世代の「フラットな読み方」に反意をもって、「塚本邦雄というひとりの人物が存在し、試行錯誤の果てに苦しんで世に問うた作品は、やはりその時々に流した血にあとが見えるものであろうし、必然的に生み出されたものに違いない」と言う。その上で「杉原一司の存在」、「初句七音をめぐる見解」、「変とは何だったのか」、「塚本パラドックスと晩年の姿」と章を分けて論じている。その上で、最後「塚本邦雄はやはり真の文学者であったと思う。その人とめぐり逢い師事できたことは、私の人生において無上の幸福であった」と熱い礼讃がある。ちょっと泣けるではないか。