6月24日(水)

一日曇りらしいが、今は明るい。

谷崎潤一郎『幼少時代』を読む。後からの回想とはいえ細かい、繊細、微細、よくこんなことまで覚えているな、と感心・関心。淡々と事実を記しているのだろうが、稲葉清吉先生の文学教育。先生の欧文・漢文・古典などの教養の豊富なこと、谷崎も谷崎らしく、こんな子どもの時代からと思わせる。ちょっと恐ろしい、びっくりするほどの記憶・回想である。

  夕暮れになれば目の玉おぼろにて点眼薬落とす百発百中

  点眼を始めし頃はへたくそで目の周囲濡れて涙せりけり

  だんだんに目薬さすもうまくなり涙にならず目玉にをさまる

『孟子』告子章句下175 孟子曰く、「舜は(けん)(ぽ)の中より(おこ)り、傳説(ふえつ)版築(はんちく)の間より挙げられ、膠鬲(かうかく)魚塩(ぎよえん)の中より挙げられ、(くわん)(い)(ご)は士より挙げられ、孫叔敖(そんしゆくごう)は海より挙げられ、百里奚(ひやくりけい)は市より挙げらる。故に天の将に大任(たいにん)を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の(しん)(し)を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の(たい)(ふ)を餓ゑしめ、其の身を空乏(くうばふ)にし、行ふこと其の為さんとする所に(ふつ)(らん)にせしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を(ぞう)(えき)せしむる所以なり。人恒に誤ちて、然る後に能く改め、心に(くるし)み、(おもんぱかり)(よこた)はつて、而る後に(おこ)り、色に(あらは)れ、声に発して、而る後に(さと)る。入りては則ち法家払士(ほふかひつし)無く、出でては則ち敵国外患無き者は、国恒に亡ぶ。然る後に、憂患(いうかん)に生じて、安楽に死することを知るなり」

  憂患有りてこそ生き抜き安楽にすれば死亡するなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

われは思ひ人は退(の)け引くこれやこの 波高(なみたか)荒磯(あらいそ)の (あはび)の貝の片思ひなる
                        (二句神歌・四六三)

【現代語訳】私はあの人を思い、あの人は私から離れていく。これがまあ、あの波の高い荒磯にすむ鮑の貝の片思いというものなのか。

【評】鮑に寄せた片思いの歌。鮑の殻は、一見すると二枚貝の片側だけに見えるところから、片思いに通じるものとして歌われた。よく知られているのは、『万葉集』巻一一の、

伊勢の海人(あま)の朝な夕なに(かづ)くといふ鮑の貝の片思(かたもひ)にして (二七九八)
(伊勢の海人が朝に夕に潜って取るという鮑の貝のように、私は片思いのままで)

であろう。これは平安時代の私撰集『古今和歌六帖』にもとられており、『梁塵秘抄』には、伊勢の海に朝な夕なに海人のゐて 取り上ぐなる 鮑の貝の片思ひなる (四六二)

と少し手を加えたものが収められている。四六三番歌は四六二番歌と結句を同じくするが、「われは思ひ人は退け引く」という直截的で強い調子や「これやこの」といった強調表現によって、だいぶ趣の異なる激しさを持った一首になっている。『梁塵秘抄』には「わが身やつれて男退け引く」(四〇九)の例があるが、あるいは衰貌によって、あるいは激しい情念のために男に去られる女のやりきれなさが、「退け引く」の語から惻惻と迫ってくる。

「波高や荒磯の」は波の高い荒磯(岩の露頭した海岸)の意で、蚫の生息する場所を示すが、「恋を妨げるものというイメージが伴う」とも、「劇しい心情の動きを捉える」とも考えられる。

室町時代末期の流行歌謡・小歌にも、何となる身の果てやらん しほに寄り候片し貝
    (『閑吟集』)
(これからどうなっていく私の身だろう。あの人の愛嬌にひかれて片思いをする私は、潮に弄ばれる片貝のようなもの)   

のように、片し貝(二枚貝の一片)に寄せて片思いを歌ったものがあるが、小歌は、「しほ」に愛嬌の意と海の潮とを掛け、「なる身」に歌枕の「鳴海」を掛けた言葉遊びの色合いが濃く、洒落た軽やかなものになっている。当該今様の強さ、激しさとは好対照をなしていると言えよう。

6月23日(火)沖縄の日

一応晴れている。

  春のかすみにもっさりとわれつつまれて心辟けどどこかわからず

  圏央道を走る自動車の響きのみ全ては春のかすみのなかなり

  食卓に朝のパンやサラダやら並べて食へど外は真っ白

『孟子』告子章句下174 陳子(ちんし)曰く、「古の君子は、如何なれば則ち仕ふる」と。孟子曰く、「就く所三、去る所三。之を迎ふるに敬を致して、以て礼有り、言、将に其の言を行はんとすれば、則ち之に就く。礼貌(れいばう)未だ衰へざるも、言行はざれば、則ち之を去る。其の次は、未だ其の言を行はずと雖も、之を迎ふるに敬を致して、以て礼有れば、則ち之に就く。礼貌衰ふれば、則ち之を去る。其の下は、(あした)(くら)はず、夕に食はず、飢餓して門戸を出づること能はず。君之を聞きて曰く、『吾、大にして其の道を行ふこと能はず。又其の言に従ふこと能はざるなり。我が土地に飢餓せしむるは、吾之を恥づ」と。之を(すく)はば亦受く可きなり。死を免るるのみ』と。

  古の君子が王に仕ふるはそれほど多くない礼節あらば

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

つはり(な)に牡蠣もがな ただ一つ牡蠣も牡蠣 長門(ながと)入海(いりうみ)のその浦なるや 岩の(そば)につきたる牡蠣こそや 読む(ふみ)書く手も八十種(はちじふしゆ)好紫磨(がうしま)(こん)(じき)足ろうたる男子(をのこご)は産め
                          (二句神歌・四六一)

【現代語訳】悪阻のときの食べ物に牡蠣が欲しいな。たった一つでも牡蠣ならこんな牡蠣。長門の入り江のその浦にある岩の角についた牡蠣こそがね。そうすれば、読み書きに優れ、八十種好や紫磨金色を備えた仏様みたいに立派な男の子が産めるだろうよ。

【評】悪阻の時の栄養食として、牡蠣を歌った珍しい歌謡。ただし、後世の田植えに関わる神事歌謡やその継承歌謡には類型的な表現を見出すことができ、たとえば、天保一三年(一八四二)に一応の完成を見た土佐国(現在の高知県)の歌謡集『巷謡編』の安芸郡土佐おどりみ、    くきのお松らがつはり薬は何々 磯で磯物 山で当薬・蜜柑・柑子・橘  とあって、悪阻の時に食するものとして、磯物(磯でとれる物)、当薬(植物センブリの別名。乾燥させたものは胃薬として用いられた)、蜜柑などの柑橘類をあげている。

牡蠣は古くから食用とされ、『古事記』允恭天皇条に「夏草のあひねの浜に蠣貝に足踏みますな明かしてとほれ」(あいね〈地名であろうが、現在のどこにあたるかが未詳。「相寝」を響かせる〉の浜の牡蠣の貝殻に足に踏んでお怪我をなさいますな。夜を明かしてからお行きなさいませ)と歌われるところから、身をとった後の牡蠣の殻が浜辺に多く捨てられていたことが窺われる。

「長門」は国名とすれば現在の山口県であるが、広島県倉橋島を当てる説もある。倉橋島は古名長門島で『万葉集』巻一五に天平八年(七三六)遣新羅使一行が船を停泊させた場所として、「安房国長門島」が見える。正徳二年(一七一二)序の事典『和漢三才図絵』に「牡蠣……芸州広島産、小而味佳」(広島産は小さくて味がよい)などとあり、現在も広島が牡蠣の産地であることから倉橋島説は興味深いが、瀬戸内海はいずれの浜でも牡蠣がよく繁殖するというので、ただちには断定しがたい。

「稜」は角の意。一二世紀の辞書『類聚名義抄』(観智院本)に「稜 ソバ カド」とある。「八十種好」は仏や菩薩の備える身体上の八十種の特色。「紫磨金色」は紫色を帯びた金で最上の黄金。仏の身は紫磨金色であるとされる。山上憶良は、

(しろがね)(くがね)も玉も何せむに優れる宝子にしかめやも (『万葉集』巻五・八〇三)
(銀も金も玉も何になろう。どんな優れた宝も子にまさるものがあろうか)

と詠んだが、当該今様は、これまで産まれる子が仏・菩薩にも匹敵するような優れた子であるよう願い、明るい予祝の気分にあふれた一首に仕立てている。

6月22日(月)

晴れているが、曇りになり、やがて雨らしい。

『岡野弘彦全歌集』

  何とでもぬかせといふやうな大きく重き『全歌集』なり

  八千余首の歌を収めしぶ厚き歌集。それぞれに言ひたきことあれば言へ

  眼・耳・鼻・舌・身・意の六根清浄唱ふるわが(み)

『孟子』告子章句下173 魯、(がく)正子(せいし)をして政を為さしめんと欲す。孟子曰く、「吾之を聞き、喜びて寐ねられず」と。公孫(こうそん)(ちう)曰く、「楽正子は強なるか」と。曰く、「否」と。「知慮(ちりよ)有るか」と。曰く、「否」と。「(ぶん)(しき)多きか」と。曰く、「否」と。「然らば則ち(なん)(す)れぞ喜ばしくして寐ねられざる」と。曰く、「其の人と(な)りや善を好めばなり」と。「善を好めば足るか」と。曰く、「善を好めば天下に優なり。而るを況や魯国をや。夫れ苟も善を好めば、則ち四海の内、皆将に千里を軽しとして来り、之に告ぐるに善を以てせんとす。夫れ苟も善を好まざれば、則ち人将に曰はんとす、『訑訑(いい)たり。予(すで)(すで)に之を知れり』と。訑訑の声音顔色(がんしよく)は、人を千里の外に(ふせ)ぐ。士千里の外に止まらば、則ち讒諂(ざんてん)面諛(めんゆ)の人至らん。讒諂(ざんてん)面諛(めんゆ)の人と居らば、国治まらんこと欲するも(う)(べ)けんや」と。

  楽正子は善を好む当然ながら人は集まり国も治まる

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと抱くとこそ見れ                 
(二句神歌・四六〇)

【現代語訳】恋しくて恋しくて、久しぶりにやっと逢って共寝をした夜の夢はどんなだろう。「さしさしきし」と抱きしめると見るだろうよ。

【評】恋の激情に身をまかせた一夜を歌う官能的な一首。

恋ひ恋ひて稀に今宵ぞ逢坂の木綿つけ鳥は鳴かずもあらなむ
                    (『古今和歌集』恋三・よみ人知らず)
(恋い焦がれてきてようやくあの人に逢えた今宵、逢坂の関の木綿つけ鳥よ、どうぞ鳴かないでおくれ)

たまさかに逢ふ夜は夢の心地して恋しもなどか現なるらん
                    (『金葉和歌集』恋下・よみ人知らず)

(たまに逢う夜は夢のようにはかなく、恋い焦がれている苦しい時がどうして現実なのだろう)

右に掲げたように、今様に先行する和歌にも稀なる逢瀬をテーマにしたものがあり、表現も類似しているが、和歌においては、全体として逢瀬のはかなさが強調されているのに対し、当該今様は、閨の愛撫の悦楽を、擬態語、擬音語を用いて濃密に表現している。ただし、和歌の中でも例外的なものとして、貞元元年(九七六)から永延元年(九八七)までの間に成立したとされる私撰集『古今和歌六帖』には次のような例が見える。

夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し

「き」音の繰り返しは夢の中にだけやって来たという意味で「来」との掛詞になっているが「抱く」に続く下の句では、当該今様と同様の擬態語として働いており、発想の共通性が注目される。

6月21日(日)

雨が降っているが、晴れてくるらしい。

  水っぱなが固まり鼻の穴ふさぐ一夜乾燥したる寝床に

  雲の果て曇りて淡く陽の位置がおぼろに見ゆる東の空

  けやき大樹が濃き緑葉を繫らせるその上の雲に映る日のかげ

『孟子』告子章句下172 孟子曰く、「君子は(まこと)ならず。(と)ることを(にく)めばなり」

  君子たる者は小信を固執せずそれは一つに固執するを憎むからなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

恋しくは(と)うおはせわが宿は 大和なる 三輪の山本杉立てる(かど) (二句神歌・四五六)

【現代語訳】私を恋しく思うならば、早く早くおいでなさい。私の家は、大和国にある三輪山の麓、杉の立っている門です。

【評】三輪山伝説がさまざまに変容していく中で生まれた歌の一つ。三輪山は奈良県桜井市にあり、山麓の大神神社(三輪明神)の神体とされる。『古事記』崇神天皇条に見える著名な三輪山伝説は、大物主大神と活玉依毘売との神婚伝承である。夜ごと通って来る男いよって姫は懐妊するが、その男の正体がわからない。そこで着物の裾に麻糸を通した針をつけて跡を追ってみると、糸は鍵穴を抜けて三輪山の神の社に留まっていたので、男は蛇身の大物主大神であるとわかった。ここには、当該今様に類するような歌謡は記されていないが、延喜五年(九〇五)に勅命のあった『古今和歌集』雑下には、

わが庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門

の一首がよみ人知らずとしてとられている。それが後代の歌集、歌論書においては、少しずつ異同を持ちながら、三輪明神の歌とされていく。

かど      三輪の御

わが宿は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉建てる門
                   (『古今和歌六帖』二/九七六~九八七年頃)

三輪の明神の歌 恋しくはとぶらひ来ませちはやぶる三輪の山本杉立てる門
                   (『俊頼髄脳』一一一五年頃

三輪明神の御歌 恋しくはとぶらひ来ませわが宿は三輪の山本杉立てる門
                   (『袋草紙』上/一一五七~一一五八年頃)

さらに下って、能「三輪」においては、女に化身した三輪明神が、玄賓僧都に『古今和歌集』所収歌を詠みかけてかき消すように姿を隠す。自分を訪ねてきてほしいと望む表現は、『古事記』の大物主大神のような男の神よりも、能「三輪」に見えるような女神にふさわしいであろう。

さて早く『枕草子』の「歌は」の章段に「歌は風俗、中にも杉立てる門」とあり、今様以前に、風俗(地方の歌謡が貴族社会に入ってきたもの)として、類歌が歌われていたことがわかる。『栄花物語』巻八によると、寛弘五年(一〇〇八)、中宮彰子が生んだ敦成親王の五十日の祝の酒宴で、酔った中宮大夫(藤原斉信)が盃を手に「三輪の山本謡ふて」とある。これも先にあげたような三輪山の歌が謡い物として旋律にに乗せて歌われていたことを示していよう。

当該今様は、第二句に「疾う疾う」(「疾く疾く」の音便)の繰り返し表現を含み、早く早くと相手に強く訴えるものになっている一方、三輪について「大和なる」(大和にある)と客観的に説明している。「大和なる」を除けば、当該今様は五・七・五・七・七の短歌体になるため、後からの挿入句とも考えられる。いずれにせよ、強く直接的に訴えかける表現と地理的な説明の付加は、広い範囲の聴衆を意識したものであろう。浄瑠璃や歌舞伎で知られる葛の葉伝説(信太の森の狐が陰陽師安倍保名と契り、この清明を産むが、やがて歌を書き残し、姿を消す)に見える、

恋しくは尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

も、三輪の歌から生まれたバリエーションの一つと言えるが、この「和泉なる信太の森」という表現は当該今様の「大和なる三輪の山」と重なる面がある。

6月20日(土)

雨、雨、時々止むが雨。

  雲多きひむがしの空その果てに朧日みゆるすこしよろこぶ

  なぜだろうか太陽の影うっすらと見えればよろこぶわれがゐるなり

  すでにすでにみみず夜に出てひからぶるあああはれなりその半乾き

『孟子』告子章句下171 白圭曰く、「(たん)の水を治むるや、禹より(まさ)れり」と。孟子曰く、「子(あやま)てり。禹の水を治むるは、水の道なり。是の故に、禹は四海を以て(たに)(な)せり。今、吾子(ごし)隣国(りんこく)を以て壑と為す。水逆行する、之を(かう)(ずゐ)と謂ふ。洚水とは洪水なり。仁人(じんじん)(にく)む所なり。吾子過てり」と。

  洚水とは洪水なれば仁者もっともにくむ。驕つてはならぬ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

吹く風に消息(せうそく)をだにつけばやと思へども よしなき野辺に落ちもこそすれ
                             (二句神歌・四五五)

【現代語訳】吹く風に恋しい人への手紙だけでもことづけたいと思うけれど、とんでもない野原におちてしまいそうだ。はてさて困ったことだ。

【評】恋心を伝えるすべのないことを嘆く歌。「消息」は手紙の意。なだらかで優美な、洗練された調べが感じられる。芸術至上主義的な感覚を持つ抒情詩人と言われる佐藤春夫に、当該今様に触発された詩があることもうなずけよう。

    かくまでふかき恋慕とは

    わが身ながらに知らざりき

    日をふるままにいやまさる

    みれんを何にかよはせむ

    空ふく風につてばやと

    ふみ書きみれどかひなしや

    むかしのうたをさながらに

    よしなき野べにおつるとぞ    (佐藤春夫『殉情詩集』大正一〇年刊)

この詩の中の「むかしのうた」は、明らかに当該今様を指している(ただし「つけばや」を「つてばや」と誤って引用している)。

6月19日(金)

晴れて暑い。蒸し暑い。

  つつじの花もどくだみの花も終りしか欅も楠もみどり濃くして

  山桃の木が落としたるつぶら実をつぶさぬやうにわが足運ぶ

  ふみつぶす人もありしか木の下に山桃の赤き実の半つぶれ

『孟子』告子章句下170 (はく)(けい)曰く、「吾二十にして一を取らんと欲す。如何」と。孟子曰く、「子の道は、(はく)の道なり。万室(ばんしつ)の国、一人(いちにん)(たう)すれば則ち可ならんか」と。曰く、「不可なり。器用(きもち)ふるに足らざればなり」と。曰く、「夫れ狢は、五穀生ぜず、惟(しよ)のみ之に生ず。城郭・宮室・宗廟・祭祀の礼無く、諸侯の幣帛(へいはく)饔飧(ようそん)無く、百官・有司無し。故に二十にして一を取るも足れり。今や中国に居り、人倫を去り、君子無くんば、之を如何してか其れ可ならん。(たう)にして(すくな)きすら、且つ以て国を(をさ)む可からず。況んや君子無きをや。之を堯舜の道より軽くせんと欲する者は、大狢(だいはく)小狢(せうはく)なり。之を堯舜の道より重くせんと欲する者は、大桀(だいけつ)小桀(せうけつ)なり」と。

  国家を治むるには相当の費用が必要なり狢も桀も無きなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

垣越しに見れども飽かぬ撫子を 根ながら葉ながら風の吹きもこせかし
                            (二句神歌・四五二)

【現代語訳】垣根越しにいくら見ても見飽きない撫子を、根ごと葉ごとそっくり、風が吹き寄越してほしいなあ。

【評】撫子に見立てた可憐な少女への恋心を歌う一首。

『新撰朗詠集』巻下「隣家」所収の伊勢(八七二?~九三八?)の和歌「垣越しに見れども飽かぬ桜花根ごめに風の吹きもこさなん」による。『後撰和歌集』春下には「朝忠朝臣隣に侍りけるに、桜のいたう散りければ言ひつかはしける」という詞書とともに載り、第二・三句が「散り来る花を見るよりも」となっている。樹木の「桜」から、草の「撫子」に変化したことで、「撫でし子」(撫でいつくしんだ子)の語感とあいまって、対象となる女性の若さ、可愛らしさが強調され、歌い手の恋情もそれに連動して強められている。春の歌から夏の恋の歌へと変化し、「根ながら葉ながらと重ねた表現にも、恋慕の気持ちの強さがよく表れていよう。

あな恋し今も見てしか山がつの垣ほに咲ける大和撫子
                    (『古今和歌集』恋四・よみ人知らず)
(ああ恋しい、今も逢いたいことよ。山住みの人の垣根に咲いていた大和撫子のようなあの娘よ)

山がつの垣ほに生ふる撫子に思ひよそへぬ時の間ぞなき
                    (『拾遺和歌集』恋三・村上天皇)
(山人の垣根に生えている撫子によそへて、あなたを恋しく思わない時はないよ)

『拾遺和歌集』の和歌は、『古今和歌集』のよみ人知らず詠を下敷きにして、村上天皇が広幡御息所・計子に贈ったものである。計子は、『栄花物語』巻一によると、村上天皇の後宮の女性たちの中でも「あやしう心ことに心ばせあるさま」(なみはずれて格別たしなみ深い様子)で、帝も特に目をかけていたという。ここでの撫子の比喩は、ことさらにいとおしく思う女性を表していると言えよ う。このような撫子の比喩を十分に生かし、当該今様は、一途な恋心をまっすぐに歌い上げている。

6月18日(木)

雨だけども曇り、そして晴れてくるらしい。

  あぢさゐの藍の花咲くその上に沙羅の木あれば白き花着く

  沙羅の木の花に守られ咲くごときあぢさゐどこか臆病に見ゆ

  スマートフォンに今朝の曇りの端にあるあかるきところ朧日みゆる

『孟子』告子章句下169 孟子曰く、「今の君に(つか)ふる者は曰く、『我能く君の為に土地を(ひら)府庫(ふこ)(みた)す』と。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に(むか)はず、仁に志さざるに、而も之を(と)まさんことを求む。是れ桀を富ますなり。『我能く君の為に(よ)(こく)を約し、戦へば必ず克つ』と。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に郷はず、仁に志さざるに、而も之が為に強戦(きやうせん)せんことを求む。是れ桀を(たす)くるなり。今の道に(よ)り、今の俗を変ずること無くば、之に天下を与ふと雖も、一朝(いつてう)も居ること能はざるなり」

  君が正し道に向かはず仁に志さなきに現在の悪風を糺さざればだめだ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

春の野に 小屋を(か)いたるやうにて突い立てる(かぎ)(わらび) 忍びて立てれ下衆(げす)に取らるな
                          (二句神歌・四五一)

【現代語訳】春の野に、小屋を建てたように突っ立っているよ鉤蕨よ。こっそり立っておいで、卑しい男たちに採られるなよ。

【評】蕨を擬人化して呼びかける一首。「鉤蕨」は、頭が鉤状に曲がっているところから言ったもの。蕨を少女によそえたものとする説、小屋の中のものを盗られるな、の意を掛けた言葉遊びの歌と見る説がある。当該今様の後には撫子の歌が置かれており(四五二)、『梁塵秘抄』の配列上は、植物に見立てた少女への愛着を歌う歌が並べられたものと見られる。さらに、「鉤蕨」の「鉤」は戸締りの道具であり、盗む、盗まれるといった内容を連想させやすく、言葉遊びの要素も含んだ一首と言えよう。建長六年(一二五四)に成立した説話集『古今著聞集』巻一二には、山の蕨がたびたび盗まれるのに閉口して、

山守のひましなければ鉤蕨盗人にこそ今はまかすれ
(いくら山の番をしても、蕨がこんなにどんどん盗まれてしまってはどうしようもない。今はもう鉤蕨のその鉤を盗人にまかせてしまうほかあるまい)

という歌を詠んだ話が見える。また貞治三年(一三六四)成立、第一九番目の勅撰集

『新拾遺和歌集』には、

けふの日はくるる外山の鉤蕨あけば又みんをり過ぎぬまに (雑下・藤原知家)
(今日の日はもはや暮れてしまった。外山の鉤蕨は夜が明けたら〈鉤が開けば〉見ることにしよう。折り採る時期が過ぎてしまわまいうちに)

とあるが、この和歌の「くるる」は「暮るる」と「枢」の掛詞であり、扉を回転させる装置である「枢」と戸締りの道具である「鉤」を並べたおもしろさをねらっている。

蕨の独特で可憐な形は、人々の興味を引くものであったらしく、『和漢朗詠集』巻上「早春」所収の小野篁(八〇二~八五二)の漢詩では、「紫塵の嫩き蕨は人手を握る」と、人の手を握った形に譬えられている。今様に先行する歌謡・催馬楽の「庭生」には、

庭に生ふる 唐薺は よき菜なり はれ 宮人の さぐる袋を おのれ懸けたり

とあって、薺(ぺんぺん草)の三角形の実を、宮廷に仕える人がさげている袋に見立てている例がある。当該今様とも共通する、植物への親愛に満ちた視線がよく表れていよう。