2025年1月26日(日)

よく晴れている。

  いつの日かわが手をつなぎ阿弥陀世に実朝よひかりの(きざはし)のぼれ

  紅梅の花には未だ早くして古木の梅の木に近く寄る

  常盤木のきび餅に口を汚しつつ旅の終りを惜しむ妻と吾

『論語』衞靈公二 陳に在して糧を断つ(陳の国で食糧がなくなり)。従者病みて能く(た)つこと莫し。」子路(いか)って(まみ)へて曰く、「君子も亦窮すること有るか。」孔子曰く、「君子(もと)より窮す。小人窮すれば斯に(みだ)る。」

  君子でももとより窮すしかれども小人窮すれば濫れたるのみ

『古事記歌謡』蓮田善明訳 三九 オシクマノ王オシクマノ王は、将軍イサヒノ宿禰ともに追い詰められ、船に乗って湖水に浮かんで歌った。
いざ(あ)(ぎ)           伊佐比宿禰(いさひすくね)よ 振熊の
(ふる)(くま)が (いた)(で)負はずは     矢傷を受けて死のうより
(にほ)(どり)の (あふみ)海の(うみ)に      淡海の湖の鳰鳥に
(かづ)きせなわ          なって(くぐ)ろよ 波の中

そして、湖に飛び入り、二人とも死んでしまった。

  伊佐比宿禰よ矢傷を受けて死ぬよりも淡海の湖に死なんとおもふ

2025年1月25日(土)

朝は寒いが、次第に気温は上がる。

  浜松の酒に喜ぶわがからだこよひたゆたふごとき心地に

  ホテルの廊下を酔うたるわが(み)のたどりゆく夜にただよふ釣舟の如

  月代にひかりがあれば海のうへ光りの道がわたりゆくなり

『論語』衞靈公第十五 一 衞の霊公、(じん)を孔子に問ふ。孔子対へて曰く、「(そ)(とう)の事は則ち(かつ)てこれを聞けり。軍旅の事は未だこれを学ばざるなり。」明日(めいじつ)遂に行る。
孔子らしいといえば、そう思える。軍のことを尋ねるということは、衞も軍備に重くなるということ。だから、そのあくる日に衞から去ったのだ。

  軍旅を問ふ衞の霊公にあやふさを感じあくる日に去る

『古事記歌謡』蓮田善明訳 三八 ヤマトタケルノ命の后や子どもたち
白鳥が飛んで磯にいる時に、
浜つ千鳥 浜よ行かず     浜千鳥は浜行かず
磯伝ふ            磯伝いゆく追いにくさ

この四つの歌は、みなその葬礼の時に歌った。いまでもその歌は天皇の大喪に歌うことになっている。行ってくれるなという思いが、こうした歌にあるのだろう。

  浜つ千鳥も飛ばずに磯を追ひゆくにその追ひにくさ言い難きもの

2025年1月24日(金)

今日また晴れる。

  宿の湯に上着、下着と脱ぎすててさらされてある男の正体

  軀の疲れ少しはなごむか露天湯にしばしは深く沈みたりけむ

  夜の宿の無人の廊下をひたひたとボトルに水を充たして返る

『論語』憲問四六 闕黨の童子、命を将なふ。或るひとこれを問ひて曰く、「益者か。」
孔子曰く、「吾れ其の位に居るを見る。其の先生と竝び行くを見る。益を求むる者に非ざるなり。速やかに成らんと欲する者なり。」

闕の村の少年を進境を目指す者か聞いたところ、孔子は進境を求める者ではなく、早く一人前に成りたいのであろうということだ。

  闕の国の童子についてかく申す益者にあらず速やかに成らむ

『古事記歌謡』蓮田善明訳三七 ヤマトタケルノ命の后や子どもたち。
また、海の中に入って、行き悩みつつ、
海処(うみとが)行けば 腰(なづ)む       海行けば 腰を侵して
大川原(おおかはら)の 植草(うゑぐさ)         川草の もまるるごとく
海処は いさよふ        波に揺れ 足は進まず

  海処ゆけば腰なずみ川原の藻にもまるるやうに揺れて進まず

2025年1月23日(木)

晴れてます。

宇野千代『青山二郎の話・小林秀雄の話』。中央文庫による新編集である。青山二郎については、このグループの中心人物と思われつつ、その正体をあまり知らなかったので、この小説ともエッセイともいえる宇野千代の文章がなるほどと思わせ、おもしろかった。しかし、時代が違うものの、私がその仲間に入ることは、到底無理だろうし、仲間になりたくもない。

  走湯山伊豆権現へかけのぼるその力疾うに失はれたり

  初島も近くに見えて便船に揺られて熱海にかよふ者あり

  右大将実朝もよろこぶ時やある月煌々と海しづかなり

『論語』憲問四五 原壌、夷して俟つ。孔子曰く、「幼にして孫弟ならず、長じて述ぶること無く、老いて死せず。是れを賊と為す。」杖を以て其の脛を叩つ。
孔子のふるなじみでろくでなしの原壌が立膝で坐って待っていた。孔子は、幼い時はへりくだらず、大きくなってもこれというほどのこともなく、年よりまで生きても死にもしない。こんなのが人を害する賊なのだ。といって杖でその脛をたたいた。

  原壌はそれほどにるくでもない奴か孔子珍しくきびしき扱ひ

『古事記歌謡』蓮田善明訳三六 ヤマトタケルノ命の后や子どもたち
(あさ)小竹原(じぬはら) 腰(なづ)む      (あさ)小竹原(しのはら)に行き悩み
空は行かず 足よ行くな   空行くどころか 足までも

ヤマトタケルノ命の魂は、大きな白い鳥となって空に舞い上がり、浜に向かって飛び去った。

  篠竹の切株に傷つけられても大きな白き鳥を追ひたる

2025年1月22日(水)

薄曇りで、寒い。

  一本の桜を植うる露天湯を囲る季節の植栽もある

  露天湯に立てば見下ろす海の道夜の月代は波動も映す

  釣舟を幾艘かうかべ昼の海波少しあり揺り揺られをり

『論語』憲問四四 子路、君子を問ふ。孔子曰く、「己を脩めて以て敬す。」子路曰く、
「斯くの如きのみか。」孔子、「己を脩めて以て人を安んず。」子路、「斯くの如きのみか。」孔子、「己を脩めて以て百姓を安んず。己を脩めて以て百姓を安んずるは、堯・舜も其れ猶諸れを病めり。」

  なかなかに子路はしつこく孔子に問ふ己を脩めることの難さを

『古事記歌謡』蓮田善明訳 三五 亡きヤマトタケルノ命の后たち
(な)(つ)きの田の (いな)(がら)に      (はか)のめぐりに靡きつぅ
稲幹に (は)(もとほ)ろふ      田の稲茎に 稲茎に
(ところ)(かずら)            薢葛は匍いまとう

  ヤマトタケルの陵墓のめぐりに靡きつき匍ひもとろふる后ら泣けり

2025年1月21日(火)

朝方雨が降ったようだが、晴れてくる。

  枝落とす公園のさくら祭りの日を遠からじと待つ蕾太らせ

宿

  湯にあたり枯死せる花と盛りの花長き柄のうへつはぶきの花

  一方で黄の花咲かせ一方で長き葉ごとに枯れたる石蕗

『論語』憲問四三 孔子曰く、「(かみ)、礼を好めば、則ち民使ひ易し。」

  孔子先生が言うことには上礼を好めば則ち民も使ひ易きもの

『古事記歌謡』蓮田善明訳 三四 ヤマトタケルノ命
嬢子(をとめ)の 床の辺に       ミヤズヒメの床のべに
わが置きし 剣の太刀     置いてきた太刀よ
その太刀はや         あゝ その太刀よ

歌い終えて、そのままおかくれになった。

  わが愛するミヤズヒメのもとに置きし太刀あゝその太刀こそがわがたましひなり

2025年1月20日(月)

晴れているが寒い。

奥泉光と原武史の『天皇問答』を読む。われわれの対応こそが問われている。ということをよく考えることで、天皇制のこれからが決まる。私のほぼ同世代である小説家と政治学者に学ぶべきことは多い。にしても天皇制廃止には遠い階梯が潜んでいる。そう簡単でないことだ。

  糸川の両岸に蕾む寒ざくら二、三がひらくうれしきものよ

  古木のさくら枝(しじ)にしてそれぞれに蕾はぐくむをわれが仰げり

  熱海ざくらの祭りをひかへ糸川の急湍右に左に流る

『論語』憲問四二 子張曰く、「書に云ふ、高宗、諒陰三年言はずとは、何の謂ひぞや。」孔子曰く、「何ぞ必ずしも高宗のみならん。古への人皆然り。君薧ずれば、百官、己を総べて以て冢宰に聴くこと三年なり。」

  殷の高宗の喪に服しては三年もの言はず君なくば百官すべて喪に服すべし

『古事記歌謡』蓮田善明訳 三三 ヤマトタケルノ命
(は)しけやし         なつかしい!
我家(わぎへ)の方よ        ふるさとの空から
雲居(くもゐ)立ち(く)も       雲がわいてくるぞ

これは「片歌」というのである。この時、危篤に陥り、

  なつかしきふるさとの方より雲わける嗚呼わたくしのいのち短し