10月21日(火)

曇りだが、雨が降ってくるような。

  雨、雨、雨、そして雨……一日中雨が降る。またまた雨なり

  雨のため湿度も高しわがからだをおさへこむやうに低気圧が通る

  雨の日はどんよりとして心晴れぬ老いたるわれなりを動かせず

『孟子』公孫丑章句32 孟子曰く、「伯夷は其の君に非ざればへず。その友に非座れば友ともせず。悪人のに立たず。悪人と言はず。悪人の朝に立ち、悪人とふは、を以て塗炭に坐するが如し。悪を悪無の心をすに、をと立ちて、其の冠正しからざれば、望望然として之を去り、将にされんとするがく思ふ。是の故に、諸侯其の辞命を善くして至る者有りと雖も受けざるなり。是れ亦就くをしとせざるのみ。

  伯夷は己のつかへるべき主君でなければ仕へざる悪ある朝には潔しとせず

林和清『塚本邦雄の百首』

黑葡萄しづくやみたり敗戰のかの日より幾億のしらつゆ 『魔王』(一九九三)

長年の好敵手・岡井隆が宮中歌会始の選者となり歌集『宮殿』(一九九一)を上梓したことを意識し、塚本は歌の魔王となる道をあえて選択したのだ、という藤原龍一郎の指摘がある。確かに塚本の覚悟が定まったような気迫をこの『魔王』からは感じることができる。

巻頭のこの歌は斎藤茂吉「沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ」(『小園』一九四九)への反歌であろう。茂吉が悲痛な思いで詠んだ雨を「しづくやみたり」という塚本。半世紀幾億の涙が流されても人間は戦争を止めない。この歌の製作時に、湾岸戦争が勃発した。

父よあなたは弱かつたから生きのびて昭和二十年春の侘助 『魔王』

『魔王』の跋は長文で充実した内容である。そこで創作の主題は「詩歌の探求」「人生と世界への問ひかけ」であり、その核に<>がある、と明記する。「記憶になまなましい軍國主義と侵略戦争」「地球は滅びるといふ豫感」が通奏低音となっていると言う。

これは歌集から読み取れることであり、わかりやすい言挙げのようだが、あえて書きたかったのだろう。ただこの時期、先行する詩句のもじりやパロディで成立している歌が多すぎるように思う。多作は塚本の信条であったが、言葉の量で圧す方法には疑問が残る。

10月20日(月)

朝、雨。曇りのようです。

知念実希人『硝子の塔の殺人』読了。やっと読み終わった。どうも私は本格ミステリというものが、苦手なのかもしれない。五百ページを越す作品に、いったい何日かかったものか。要は絵空事なのだ。嘘っぽい名前を持つ登場人物にまず馴染めない。最初の方は苦労した。最後の遊馬が謎ときを始めたくらいから、結末まではスピード感をもって読めたが、私には社会性がないものは物足りないのだろう。というか本格ミステリを読むのが苦手なのだ。

  公園の木々にスズメら遊びたり鶺鴒二羽も混じりて遊ぶ

  すずめらのたちまち木々を抜けだして電車が通る柵に集まる

  鶺鴒も雀の後を追ひかける二羽のうち一羽がす早く糞垂る

『孟子』公孫丑章句31 孟子曰く、「子路は人 之に告ぐるにち有るを以てすれば、則ち喜ぶ。禹は善言を聞けば、則ち拝す。大舜はより大なる有り。善、人と同じうし、己を舎てて人に従ひ、人に取りて以て善を為すを楽しむ。より、以て帝と為るに至るまで、人に取るに非ざる者無し。を人に取りて以て善を為すは、是れ人と善を為す者なり。故に君子は人と善を為すより大なるは莫し」

  有徳の君子としては人とともに善をなすより偉大なことなし

林和清『塚本邦雄の百首』

迦陵頻伽のごとくほそりてあゆみますあれはたまぼこのみちこ皇后 『黄金律』

塚本邦雄が天皇や皇帝と詠う時には、昭和天皇のイメージが揺曳する。「還暦の皇子」とかつて詠んだのは平成の天皇の皇太子時代のことか。そしてこの皇后のイメージ描写はすさまじい。「迦陵頻伽」は仏教における想像上の鳥。上半身は美女、下半身は鳥の姿で描かれることが多い。比喩としては美しいが、それよりも「ほそりて」へ注目が集まるのは否めない。「あれは」にも驚きが込められている。そして道にかかる枕詞「たまぼこの」。言葉の仕掛けがすべて、年を重ねた痩身の人の影をやや辛辣に描ききっている。

山茱萸泡立ちゐたりきわれも死を懸けて徴兵忌避すればできたらう 『黄金律』

塚本邦雄は、ズバリ言いたい真実を叫びのように歌うこともある。この下の句は、太平洋戦争開戦以来ずっと脳裏に繰り返し再生され続けてきたフレーズだっただろう。実際の塚本は、昭和一七年に呉の海軍工廠に徴用されたのだが、そこから同僚が戦地へ駆り出される日々がつづき、徴兵は身に迫る現実そのものだったのだ。郷里や家族を人質に取り、若き生命を指し出させるのは、まさに国による洗脳そのものである。

戦後どれほど時を経ても、その絶対悪に対する恐怖と嫌悪は消えない。春を告げる黄の花を見てさえも。

10月19日(日)

曇りから晴れ。

  ペットボトルのキャップをあけて水を飲む薬一粒、一粒飲んで

  バクトラミン・リクシアナ・セレスタミン・アクシロビル

  毎日の朝の薬剤六錠を飲み終へて息吐くときのやすらぎのあり

『孟子』公孫丑章句30-2 孔子曰く、『仁にるを美と為す。択んで仁にらずんば、焉んぞ智たることを得ん』と。夫れ仁は、天のなり。人のなり。之をむる莫くして不仁なるは、是れ不智なり。不仁 不智 無礼 無義は、人のなり。人の役にして役を為すことを恥づるは、ほ弓人にして弓をるを恥ぢ、矢人にして矢を為るを恥づるがごとし。し之を恥ぢなば、仁を為すにくは莫し。

  もし人に使はれることを恥づるなら仁を行なふよりなかろうや

林和清『塚本邦雄の百首』

三次の街に晝飯くらふさびしさは北さして流れゆく川ばかり 『黄金律』

三次とは広島県最北の山間部。「街」というほどの市街はないと思うが、そんな地で昼食を摂る作者。「くらふ」とあるので、一膳飯屋かうどん屋。気がつけば、ここはもう分水嶺を越えているので、全くの川は日本海を指して流れてゆく。まさに山陰の入り口なのだ。うらぶれた寂しさは作者の心でもある。

塚本邦雄は戦後、中国地方の営業所を転々としていたので、おそらく三次にも足を運んだことがあり、その記憶から詠まれた歌なのだろう。一切の美学のないこの素朴さは、有名ではないが私の最愛の歌である。

よろこびの底ふかくして迢空賞うけしその夜のほとほとときす 『黄金律』

塚本邦雄は第三歌集『日本人靈歌』にて現代歌人協会賞を受賞して以来、三〇年近く一切の賞から遠ざけられていた。第一五歌集『詩歌變』で詩歌文学館賞、そして第一六歌集『不變律』で迢空賞を受賞した。

全歌集『波瀾』の跋に、報われた感慨、と記されているが、迢空賞には複雑な思いがあったようだ。「釈迢空に塚本賞を贈りたいくらいだ」という発言もはっきり聞いた記憶がある。「ほとほとときす」は苦い含羞の思いだろうか。授賞式当日は恒例の欧州旅行の最中であり、子息の塚本靑史氏が代理出席された。

10月18日(土)

朝は曇り、午前八時には晴れてきた。

  けやき樹の葉の間より太陽のひかり透けるがまぶしきばかりに

  けやき樹のむかふは浄土かひむがしに広がるも明るき。空が見ゆる

  彼岸花は太陽への手向けひかりを背に供華は花咲く紅の花

『孟子』公孫丑章句30 孟子曰く、「矢人は豈函人より不仁ならんや。矢人は惟人を傷つけざらんことを恐れ、函人は惟人を傷つけんことを恐る。巫匠も亦然り。故に術は慎まざる可からざるなり。

  職業を選ぶにあたっては慎重に孟子かく言ふこれむずかしきこと

林和清『塚本邦雄の百首』

木犀のやみに思へば十年來われにも一人イヤーゴがゐる 『黄金律』

塚本得意のシェイクスピアネタの一つ。一首前にも「末期の姉がたまゆらデスデモナにに肖つおそろしからぬ他人のそら似」があるが、この歌のリアリティとは比べ物にならない。この歌を読んだ塚本の周囲の男性は、みな一瞬ヒヤッとしたのではないだろうか。

それが事実かどうかはさておき、作者は秋の夜、静かにその男の顔を思い浮かべる。イヤーゴの罠に陥ちたオセローと違い、作者にはその男の企みが見えている。その上で十年来、駆け引きのスリルを楽しんでいるかのようだ。芸術と現実、虚実皮膜の面白さ。

氣色ばんで向きなほれども春の夜のゴンチャロフとは飴の名なりし 『黄金律』

第二歌集の名歌「つねに冷えびえと鮮しモスクワ」を始め、この後にも「空井戸の蓋の鋼に露むすびまなこきらきらしゴルバチョフ」「つゆしらぬ閒に露しとどあからひく露國がずたずたの神無月」「空港伊丹キオスク脇の尾籠に正體もなきイズベスチア」など、塚本がロシアに寄せる関心は並々ならぬものがある。

テレビか誰かの会話か「ゴンチャロフ」と聞こえた瞬間ロシアに政変か、気色ばむ。しかしそれは神戸の洋菓子店の名前。何だ、気を抜いたとたんに、悪い予感が走る。今やその予感は現実のものとなった。

10月17日(金)

久しぶりの晴、明るい。

  ぽつ、ぽつと雨が雲よりこぼれをり太陽上るひむがし明し

  けやき樹のかなたたしかに日が上る而るに雨はぽっ、ぽつり

  降る雨に少しは濡れて冷たさありその冷たさは膚にここちよし

『孟子』公孫丑章句29-4 人の是の四端有るや、猶ほ其の四体有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能はずと謂ふ者は、自ら賊ふ者なり。其の君能はずと謂ふ者は、其の君を賊ふ者なり。凡そ我に四端有る者、皆拡して之を充すことを知らん。火の始めて燃え、泉の始めて達するが若し。苟も能く之を充さば、以て四海を保んずるに足るも、苟も之を充さざれば、以て父母に事ふるに足らず」

  人間に四端あり仁義礼智この徳を理解できずば卑近なこともできず

林和清『塚本邦雄の百首』

春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状 『波瀾』

巻末に置かれたこの歌が巻き起こした衝撃は、今でもはっきりと覚えている。内容も当然だが「あっ」は新仮名の表記であり、絶対に正字正仮名の方針を曲げなかった塚本の新仮名へのニアミスだ、と騒がれた。

塚本没後に開催されたシンポジウムで、菱川善夫がこの歌の正しい読み方を伝授するとして「あっ」のところを会場に響き渡る大音声で会衆の度肝をぬいたことがあった。塚本が新仮名にニアミスしても表現したかった「あっ」を菱川は正しく理解したのだ。これは近い将来、必ず現実に発せられる「あっ」の声なのだ、と。

復活のだれからさきによみがへる光景か、否原爆圖なり 『黄金律』

この歌を総合誌の初出で読んだ時の衝撃も忘れられない。最後の審判の日にすべての死者がよみがえり、神の裁きを受ける。ミケランジェロの『最後の審判』の下方にも復活する死者たちが描かれていて、地獄行と裁かれたものは責め苦を受けることになる。

その光景を思い浮かべながら歌を読み進めると、一字あけがあり、「否原爆圖なり」と来る。おそらく塚本自身が宗教画と原爆図を取り違えたわけではない。こういう構成ににすることによって、最も悲惨に無慈悲に原爆図を読者に提示できる方法論を駆使したのだ。

10月16日(木)

朝から雨が降ったり止んだり、今日一日こんなものらしい。

  踏切を電車が通る紺色の相鉄線の長きが通る

  踏切が赤き点滅を繰り返し行先不明の相鉄線が通る

  踏切がしばし音立て自動車の行方をふさぐ通過するまで

『孟子』公孫丑章句29-3 是に由りて之を観れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端まり。

  惻隠、羞悪、辞譲、是非、それぞれに仁・義・礼・智の端なり

林和清『塚本邦雄の百首』

生蚫咽喉すべりつつわれ生きて「あゝ、人目を避けた數々の寶石」 『波瀾』

「ああ、人目を避けた数々の宝石、――はや眼ある様々の花。」は、小林秀雄訳、アルチュール・ランボー『大洪水後』(一九七〇)の一節である。最近ではやや平明な訳で読まれていることも多いが、やはり塚本はこの訳の文学性高い日本語表現を好んでいたに違いない。

アワビの刺身を味わうのは日本的豪儀さ。極東の島国に生き、ランボーの絢爛たる詩句に瞑目する自分の存在。下の句丸々の引用が力強く響く。これを塚本の偏愛する詩句引用の極めつけとし、あえてほかの引用は控える方へ向かう、という選択肢はなかったのだろうか。

淡雪にこほりつつあり深夜こゑに出てその名うるはし大高源吾 『波瀾』

塚本短歌にはどれほどの人名が登場するのか。この『波瀾』だけを見ても、白楽天、サリンジャー、真野あずさ、ニーチェ、芭蕉、佐佐木幸綱など、六五人もの名が出てくる。空海忌、蕪村忌などの忌日や深草佐介、猪熊君など創作人名も頻出する。「冬瓜のあつものぬるし畫面にはどろりとシルヴスター・スタローン」など、嫌いであろう人物の名も詠まれている。

大高源吾は赤穂浪士の一人で文武両道の美丈夫。独身を通して切腹した。名も人も塚本好みだろう。同工異曲の歌も多々あるが、これが最上だと私は思う。

10月15日(水)

朝、ゴミを捨てに行くときは雨だったが、後は曇りらしい。

  鳩どもは何を狙ってマンションの屋上にゐる六羽そろつて

  鴉が疾に追ひ払ふ鳩どもと思ふに六羽来てゐる

  よく晴れたマンションの屋上に睥睨すこの世はすでに鳩どものもの

『孟子』公孫丑章句29-2 人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以の者は、今、人ちの将にに入らんとするを見れば、の心あり。交はりを孺子の父母にるる所以に非ざるなり。誉れをにむる所以に非ざるなり。其の声を悪んで然るに非ざるなり。

  人は皆忍びざるの心を持つゆゑに利害を考えず反射的に動く

林和清『塚本邦雄の百首』

ありあけの別れといへど父が子に言ふ斷魚渓冬の水かさ 『波瀾』

この歌集の中核を成す章「花鳥百首」は、「歌壇」誌上で行われた岡井隆「北京・ユーモレスク」との百首競詠をそのまま掲載したもの。タイトルからして古典和歌の典雅な調子だが、その小題は「秋風の飛騨へ奔るこころ」「斷魚渓冬のみづかさ」「こころは遊ぶ花なき峡」「尾張なる一つ松の花咲く」と少し趣が違う。俳諧趣味とでも言いたくなるような渋い俳味を帯びている。

この歌は島根県に実在する渓谷の名を用いて、父がその子に「冬の水かさ」のことを話すという、何気ない、しかし記憶に残る場面を小説仕立てにしている。

朝貌市を終りまで見て引きかへすわれの喪ひたるは一切なり 『波瀾』

塚本邦雄には『斷弦のための七十句』(一九七三)他、数冊の句集があり、戦後間もなく「火原翔」の名で多くの俳句作品を書いていたことも近年知られるようになった。特に「火原翔」の俳句作品が、後の前衛短歌の作品群へと昇華する過程は、島内景二の解説に詳しい。

塚本は初期から晩年にいたるまで常に多くの俳句を読み、自らも試み、大いなる糧としていたのだ。この歌も季語がよく生きていて、上の句だけで俳句になるかもしれない。ただやはり下の句が読後にたなびくように残る。喪ひたるは一切なり、一切なり……。