8月7日(木)

蓼科二日目。尖石に入ったり観光農園で買物をしたり温泉に入ったり。

  ハンディファンを今年も使ふ交差点に首すぢあたりに風を当てたり

  わづかではあるものの風が吹き来れば生き返るごとし歩みは停めず

  右手にはカップ珈琲、左手にハンディファンをぢぢいが歩く

『孟子』梁恵王章句上7-2 曰く、王堂上に坐す。牛をいて、堂下を過ぐる者有り。王之を見て曰く、『牛にく』と。対へて曰く、『将に以て鐘をらんとす」と。王曰く、『之をけ。吾其のとして、罪無くして死地に就くに忍びず』と。対へて曰く、『然らば則ち鐘にること廃せんか』と。曰く、『何ぞ廃す可けん。羊を以て之にヘよ』と。識らず有りや』と。曰く、「之有り」と。曰く、「是の心以て王たるに足る。百姓は皆王を以てめりと為すも、臣はより王の忍びざるを知るなり」と。

  世間では王はもの惜しむといひたれど哀れみをもつことわれは知りたり

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

秋の昼の小島に石を切る音のしづけき海をひびかせにける (歌集・草の上)

大正三年二月刊行の第七歌集『草の上』に出ている。第六歌集『山河』の出たのは明治四十四年だから、この『草の上』は薫園三十六歳から三十九歳までということで、意気最も盛んなころの歌だ。(略)この時分は歌詞歌調も平明になり、叙景歌とともに身辺の雑事も多く歌って、薫園調ともいうべき歌風がかなりはっきりするに至っている。(略)これは「灯台」と題する六首中の歌だが、しずかな声調の、かつ明るい心の歌である。下句「しづけき海をひびかせにける」がこの歌の生命だが、おおざっぱというなかれ。のびのびと屈託なしに歌っているのがこの歌のよいところ。薫園は生涯老熟したようなおもむきの歌は作らなかった。わりあいのその歌の品はよいのである。

8月6日(水)

暑いが、今日から蓼科だ。圏央道を使って八王子ジャンクションを抜けて中央高速へ。

談合坂、双葉で休んで諏訪南。そして蓼科へ。

  いづこにも線状降水帯湧きだせり。扇子、sense、センスを吹き飛ばしたり

  コカ・コーラに氷五つを入れて飲むあまりの暑さは氷を増やす

  少しばかり甘い飲み物が欲しいときコカ・コーラ飲む、黒い液体

『孟子』梁恵王章句上7 斉の宣王問うて曰く、「斉桓晋文の事、聞くにきか」と。孟子対へて曰く、「仲尼の徒、桓文の事を道ふ者無し。是を以て後世伝ふる無し。臣未だ之を聞かざるなり。以む無くんば則ち王か」と。曰く、「徳如何なれば則ち以て王たる可き」と。曰く、「民を保んじて王たらば、之れ能く禦ぐ莫きなり」と。曰く、「寡人の若き者は、以て民を保んず可きか」と。曰く、「可なり」と。「何に由りて吾が可なるを知るや」と。曰く、「臣之を胡齕に聞けり。

  孟子曰ふ民を安んじ王たれば阻止することは誰にも出来ず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

鳳仙花照らすゆふ日におのづからその実のわれて秋くれむとす (歌集・片われ月) 

ホウセンカは鶏頭とともにその名に似ず鄙びた花である。(略)悲しきばかり日本の風土を思わせる花で、その莢のような実は自然に割れて茶褐色の種子をはじきとばせる。この歌はそういう状態に目をとどめて、何の作為を加えることもなく、たんたんと歌いあげて静かな晩秋の感を出すに成功した。これについて作者の自注がある。「明るい、乾いた大気の中に実のはぜる音を一首にひびかせたのです。秋のさびしさではなく、秋の明るさ、さやけささを現したものでなければなりません」といっている。たしかにそのいう秋の明るさ、さやけさが現れていて同感させられる。

処女歌集『片われ月』の巻頭に近いところに出ている唄だ。『片われ月』は明治三十四年一月の発行。薫園二十六歳になったばかりだから、これは二十歳をいくつも出ないころの作なのだろう。それを思うとやはりなかなかの才人だが、『片われ月』巻頭の

あけがたのそぞろありきにうぐひすの初音ききたり薮かげの道

おぼろ夜を何とはなしにひと枝をりてもたせてやりぬ白桃の花

駒ながらうたうを手むけて過ぎにけり関帝廟のあけがたの月

などとはかなりおもむきを異にしており、(略)しかし薫園の歌は、(略)清麗温雅、内容は淡、形式は雅などといって、その特徴を自然味ある温雅なおもむきにあるとしている。たしかにそれが薫園の持ち味であり本領であって、生涯ほとんど変わることがなかった。(略)一口にいえばその歌は温雅だけれど突き込みがたりない。対象への食い入り方が弱いようだ。詩心の充実に乏しく強い律動感がないように思われる。「あけがたのそぞろありき」の歌などは、当時薫園の代表作のようにいわれたものだが、今日となってみれば色あせた感じ。どこか古風で、古今集を現代に歌いかえたのではないかと思うほどである。かえってこのホウセンカの歌に本当の薫園が出ている。薫園のよさを代表する一首である。

8月5日(火)

今日は暑いらしい。海老名38℃の予定だ。

  がの蓋に映りたりああこの時を見張られてゐる

  逼塞感ただごとならず隠りゐて便器にしばし便ながしをり

  には神様がゐる柱背後に覗く

『孟子』梁恵王章句上6-2 対へて曰く、『天下せざる莫きなり。王夫の苗を知るか。七八月の間、旱すれば則ち苗れん。天油然として雲をし、沛然として雨を下さば、則ち苗浡然として之にきん。其れ是の如くなれば、か能く之をめん。今夫れ天かの人牧、未だ人を殺すことなきをまざる者有らざるなり。如し人を殺すこと嗜まざる者有らば、則ち天下の民、皆領を引いて之を望まん。誠にの如くならば、民の之に帰すること、ほ水のきに就きて沛然たるがごとし。誰か能く之をてめん』と。

  王たれば民のことを考えへるべしされば天下与せざるなし

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (同・一〇六)

二首目の歌である。ふたりともどもに行ってもさびしくてなかなか通り過ぎにくい秋の山を、いまごろ君はどんな思いをしながら一人越えていることであろうか、と大和へ帰る皇子をしのんでいる。秋の山はさびしいものだ。そのさびしさとともに道のけわしさをも「行き過ぎがたき」にそれとなくいいふくめてあるようだ。大事を企てている皇子の心中をおしはかり、心配しているおもむきは前の歌以上に切々として感じられる。これも恋愛情調の強く感じられる歌で、現代式に評するならばあまい歌ということになるのであろうが、さすがは古代である。まっ正直にたがいを信頼しあっている姉弟の心は、そういう語をさしはさむすきをあたえない。単純だけれど心がみちみちている。(略)皇女の挽歌は読むものの涙をしぼらせる。この二つの歌はその」悲劇の序をなすものである。

8月4日(月)

今日も特別に暑い。暑い。

  もつとも身近にある死の世界日々干乾びてみみず死す

  みみずの屍踏まぬやうにと歩くわれ右によりまた左に傾く

  この世からあの世へ渡るところには蚯蚓の死骸あまた干乾ぶ

『孟子』梁恵王章句上6 孟子 梁の襄王にゆ。出でて人にげて曰く、「之に望むに人君に似ず。之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問ふて曰く、『天下にか定まらん』と。吾対へて曰く、『一に定まらん』と。『か能く之を一にせん』と。対へて曰く、『人を殺すを嗜まざる者、能く之を一にせん』と。『孰か能く之に与せん』と。

  梁の襄王が孟子に聞けり。退出して後にいふ君子としてはありがたからず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

わが背子を大和へ遣ると小夜深けてあかとき露にわが立ち濡れし (万葉集巻二・一〇五)

「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御歌二首」と詞書ある一首目の歌。大津皇子は天武天皇の第三皇子、母は天智天皇の皇女の大田皇女(持統天皇の姉)。幼少より好学博覧、才藻を謳われる。雄弁で度量が大きく、体軀堂々として多力、武技をよくして抜群の大器であった。天智天皇にとくに愛され、天武十二年には朝政をきくほどだったが、新羅の僧行心が骨相を見て、臣下にとどまっていたのでは身辺が危いといったので反逆を企てる。持統天皇の朱鳥元年十月二日発覚、翌日死を賜った。天武天皇崩御後わずか二十日余であった。この反逆事件は皇子をおとしいれるために仕組まれた陰謀であったともいわれる。大伯皇女は大津の同母姉。(略)十三歳で伊勢の斎宮となったが、皇子より二つ年上、この時は二十六歳である。

この詞書の「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下がり」がやはりただ事でない。天武天皇崩御のあと、皇位をねらった皇子は伊勢神宮に神意をただす必要があったからだろう。仁徳天皇の兄妹の隼別と女鳥王も場合も同じであった。(略)姉の大伯皇女はそれをうちあけられて、さぞかし驚いたことと思われる。」これはその皇子の大和へ帰るのを送る歌である。(略)わが弟の君を大和へ帰らせようとして夜のふけるのを見送っていて暁の露に濡れた、というのである。「あかとき」は、(略)いずれにしても夜ふけから夜明けへかけて、心配そうに見送っていたのであろう。(略)早く帰るようにと心をつかっているおもむきが感じられる。けれどもこの歌は、反逆事件など考えずに読むと、きょうだい愛というか、それ以上に恋愛情調に似たようなものが感じられる。それがこの歌の心である。

8月3日(日)

花火も昨夜無事に終え、今日また暑い。

マンションの中庭にみみずが干乾びて死んでいる。

  幾日も日にさらさるるみみずなり乾び干乾び一寸ほどに

  この暑さ夜間這ひ廻るみみずかな朝には干乾び死にゆくものを

  みみずに幸せなどいふものあるか日に照らされて死にゆくものに

『孟子』梁恵王章句上5-3 彼は其の民の時を奪ひ、して以て其の父母を養ふことを得ざらしむ。父母し、兄弟妻子離散す。彼は其の民をす。王往きて之を征せば、夫れ誰か王と敵せん。故に曰く、「仁者は敵無し」と。王請ふ疑ふこと勿れ」と。

「仁者は敵無し」梁の恵王よ孟子を疑ふことぞなからん 

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 源実朝

萩の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ (同)

日の暮れるまで萩の花は美しかったが、月の光ではそれが見えなくなったというだけの歌である。何でもない歌のようだが、物をよく見ている。この時代としては新しい見方である。現代人に通じる詩情である。この歌を見て、なるほどそうだったと気づく人も多いのいいではないか。しかしこの歌ではそれをはかないと観じている。そこにその時代の無常感が出ているので、実朝といえども時代の子であるといわれたりする。(略)これは表にあらわれただけを美しとし、はかなしとしてその詩情に溶け込めばよい。この歌を好きだといったのは小林秀雄であった。(略)畢竟は実朝調といってよいのである。(略)