2024年6月6日(木)

朝から晴れて、爽やかな日である。6月6日だけど、雨ざあざあではない。

  相模川橋梁を厚木へ辿る清流あれば鮎も育つか

  川辺には鮎を目ざして幾人か川の深みへ入りゆかむとす

  棹先にひかりのやうな鮎のをどるまんまと胴に針を引っ掻け

『論語』泰伯九 孔子が言った。「人民を従わせることはできるが、その理由を知らせることはむつかしい。」

  民これに由らしめることは難からずその理由を知らせる難しきこと

『正徹物語』154 千五百番歌合(1202年頃)の時分は、家隆の歌は世間に知られていない。」

  後鳥羽院の時には家隆知らぬといふ然あれこの時期こそ家隆に名あれ

『伊勢物語』百四段 尼になった女がいた。出家した理由は分からない。女は、尼であるにもかかわらず、賀茂の祭に心ひかれ、見物にでかけた。その尼に。男が歌を詠んだ。
・世をうみのあまとし人を見るからにめくはせよとも頼まるるかな

尼は、元斎宮であった。こんなことを言ってくる男がいたので、斎宮は見物をやめて帰っていったという。

  尼になりし正体を知るをとこなり賀茂の祭の見物いかが

2024年6月5日(水)

朝からいい天気である。

  存在の耐へられない軽さに遊弋し街を俯瞰すプラハの街を

  藤原定家の歌の本歌取り、類歌を探り巧みなり安東(あん)次男(つぐ)の書は

  宇野浩二の狂、芥川龍之介の自死への道。広津和郎が詳しくしるす

「かりん」の下村道子さんが亡くなった。私が、歌をはじめた頃、その歌に影響された。「かりん」6月号に追悼されている。「下村道子作品抄(田村広志選)」

  ・ほんだわら踏めば小さき音のする幼き恋のありし浜辺に

  ・地図に見る二センチの距離望郷の思いにかおる菜の花畑

  ・ほの青き切符にのせて発たしむる遊離魂雪ふるかなた

  ・ねじひとつ転がして知る秋近き実験台の下のゆうやみ

  ・胸のごときふくらみをもつフラスコのかすか陰りて風の音する

  ・嶺岡の山吹きおろすからっ風わが哀しみの内側を剝ぐ

  ・優れたる論とは思わねど論文の数にて量られる身のために書く

  ・教授・助教授・助手の感情閉じこめていずれのドアも無表情なり

  ・食にまつわる悲しき歴史語らえば静まりて深海のごとき教室

  ・見えぬ色を分光光度計で測りいる思えば信じていることに似て

  ・筵巻きのお仙を落としし断崖に村人は悔いて地蔵遺しし

  ・白鷺は一本足にて川に立つ白磁のようなからだ支えて

  ・ひっそりと母の通夜する梅洞寺夜の気凍りて霜となる音

  ・悲しまざるというにあらざり穏やかな父の死に顔 ごくろうさまと

  ・リハビリに精出し歩き絵を描くといいにし二日後君は逝きたる

  ・アトリエにスーツ一着掛けおき帰ることなき人に帰せたく

  ・ふくろうの鳴く谷戸に住み見定めん一人になりしわれの時間を

  ・かたわらにありたる人は風となり大夕焼けに向かうとき来る

  ・かの夜にて母はその母と会いたるか春近き日の山は霞めり

  ・寄せてくる芒の穂波しなやかに輝きて晩年の光となりぬ

 ということで『論語』以下はお休みです。

2024年6月4日(火)

朝から晴れているが、涼しい。昨夜、旅の後の興奮があったのだろうか。あまり眠れなかった。

  悪性リンパ腫の三回目の疲弊感いまも解けざるものを

  日本列島のいづれかに必ず荒れがある線状降水帯雨多く降る

  湯河原から還りて昼にインスタントらぁめん旨し旨しよこのらぁめんは

『論語』泰伯八 孔子が言う。「詩に興り、礼に立ち、楽に成る。」

  詩によって生じ、礼に立ち、楽にして成るこのやうなもの

『正徹物語』153 かいやには「かびや」「かひや」と二つの解釈がある。俊成は鹿火屋である。顕昭は飼屋である。六百番歌合の時の応酬に見えている。

  鹿火屋と飼屋そこそこ違ふものなれば両者あらそふ六百番歌合

『伊勢物語』百三段 誠実で、まじめで、うかれた心も持たぬ男がいた。男は深草の帝(仁明天皇)に仕えていた。
ところが、何を間違えたのか、帝の息子である親王が寵愛していた女と情を交してしまった。
・寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな

男は、こう詠んだ。なんと未練がましい歌であることよ。

  寝ねし後はかなきものよいつまでも君の姿ぞ忘れられざる

原文では「さる歌のきたなげさよ」とあるが、そうだろうか。間違いを犯したっていいではないか。そしてそのことが忘れられないのも当然であろう。その女性が素敵だったのだ。

2024年6月3日(月)

今朝は雲があるものの晴れた。湯河原の宿を出て、きび餅・温泉饅頭・飯田商店のインスタントらぁめんを買い、星ヶ山公園「さつきの郷」に寄った。駐車場からの下り、そして上りがつらく、ほとんど数百メートルを歩いて、そこで引き返した。こんなにも私の体力は衰えている。かなり高く上ったので、そこからの海の光景は忘れられない。

  ひさかたの海のひかりのまばゆさにこころたちまちにはれゆくばかり

  新緑の木々のあひまに見ゆる海青く波立つ雨の後なり

  湯河原の山の上なり舟いくつか浮かべて海はかがやきの色

というわけで、この日も『論語』以下は休み。

2024年6月2日(日)

湯河原へ一泊旅。茅ヶ崎から西湘バイパスを通って湯河原温泉へ。午後から雨、烈しい雨。夜も雨。

  窓からの景色けぶらせ降る雨の条くっきり見えて激雨なりけり

  宿の部屋のむかひ大平山の新緑の霞みて雨の降りくるならむ

  夕の料理色、味とりどりに旨くして完食したりこの老い耄れも

というわけで、入院後初の旅行中につき『論語』以下休み。

2024年6月1日(土)

六月である。今のところ天気はいい。

  よろこびはことしの梅の大き実を手にもてあそびその香嗅ぐとき

  よろこびは梅の実それぞれに振り分けてあばたあるもの寄せあつめたる

  よろこびは実から熟した液指に潰したるのち梅の実匂ふ

『論語』泰伯七 曾子が言う。「士はおおらかで強くなければならない。任重くして道は遠い。仁をおのれの任務とする。なんと重いことよ。死ぬまでやめず、なんと遠いことか。」

  士の道の死して後やむ遠からず仁もておのれの任となすべし

『正徹物語』152 初心のうちは、「月に寄する恋」「花に寄する恋」などの寄物の題は、詠みにくく感ずる。そして「見る恋」「顕るる恋」などの題でも、何かに寄せない題は詠みやすいように感ずる。熟達して、寄物はやさしく、ただ「聞く恋」「別るる恋」などが大変である。「暮春に鐘を聞く」という題でこのように詠んだ。
・この夕入相の鐘のかすむかな音せぬかたに春や行くらん 草根集2674

このようになだらかに詠み馴れるのがよい。そうはいっても、それは極北に到達した後で、初心者の境地に戻って、こんな歌が詠める。水上の月は、手で取れそうで、撮れないようなものだ。「ここの程はさうなく得がたきことなり。」

  正徹のわが歌自慢。春の暮れ入相の鐘の音遠ざかる

『伊勢物語』百二段 歌は詠まなかったが、男女の機微は心得ていた男がいた。親族に高貴な身分の女がおり、尼になった。女は、世間を疎んじて京を離れ、遠く山里に住むようになった。すると男は女へ、歌を詠んで贈った。
・そむくとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ

男がこの歌を送った相手は、かつての斎宮である。

  時を経て尼になりけるをみなへも歌を詠みたるむかし男は

明日は湯河原の宿に一泊の予定。明日の欄は明後日書くことになる。

2024年5月31日(金)

温帯低気圧に変わった台風一号が、南の海を遡っているようで、雨が止まない。風はそう吹いてはいない。

今日は、私の誕生日である。六十八歳、あんまりめでたくないが、まあまあか。

  もらひ梅を等級に分けそれぞれに梅干し、梅ジュース、梅ジャムにする

  トリアージにあらねど梅に優先順あれば傷ある梅の等級

  梅の実の匂ひ部屋内に充満す最初は爽やかやがてじっとり

『論語』泰伯六 曾子が言った。「小さいみなしごの若君をあずけることもできれば、諸侯の国家の政令を任せることもでき、大事にあたってもその志を奪うことができない。これこそ君子の人であろうか、君子の人である。」

  曾子が言ふ君子の人は孤を託し命を寄すべく奪ふべからず

『正徹物語』151 建保名所百首の題で、初心者は歌を詠んではならない。名所には、その場所で昔より詠み慣わしている題材があるので、新しく読む歌もおおよそは昔の歌と同じである。独創の余地はわずかである。初心の頃は名所の歌を詠みたがる。簡単に見えるからだ。私どもも歌が詠めないときは、名所を詠む。名所を詠むと二句や三句すぐに詞が埋まるので、それほど力を込めなくてよい。「高嶋や勝野の原」や「さざ浪や志賀の甘松」など詠めば、既に二句埋まる。私はもう四十年余歌を詠んでお学の稽古に詠んだものだ。しかしながら堀河百首は、ちょっと詠みにくい題である。初心者は二字題など、もっと自然で単純な、詠み慣れているものがよい。月や花といった、まっとうな題で詠むのがいい。弘長・宝治・建久・貞永といった年代の百首歌の題で詠むのがいいだろう。

  名所の題で詠むこと難き初心者は名所は名所でも詠みなれたもの

『伊勢物語』百一段 左兵衛府の長官である在原行平の邸には、いい酒があるという噂をきき人々が集まった。その日は、昇殿が許されている左中弁である藤原良近が、宴の正客であった。主の行平は、風雅を好み、瓶に花を活けさせていた。花の中に、目を奪わんばかりの立派な藤の花がある。花房の長さは三尺六寸(一メートル以上)。

皆は、その藤を題に歌を詠んだ。

詠みつくした頃、業平の兄弟(おそらく業平)が、客をもてなしていると聞いてやってきた。皆は、この男に歌を詠ませた。歌の詠み方など知らぬと男は辞退した。しかし無理に男に歌を詠ませた。こんな歌だ。
・咲く花の下にかくるる人多みありしにまさる藤のかげかも

意味を訊いた。男の答え。「今の世の頂点、太政大臣は藤原氏。その藤原一門の栄華のさかりを思い、詠んだ。」皆は黙った。なぜなら宴席には、藤原氏ゆかりの者と共に、藤原氏から遠い者たちも同席していたからだ。すぐにはわからなかったため、歌の底にある複雑な陰影を、皆は心の中でかみしめたのだった。

  場に応じ歌つくることは業平の得意技なり藤は藤原