2024年5月23日(木)

今日は朝から曇り。それほど厚くはないが、薄曇りだ。

  郷ひろみのバラード曲を聴きにつつ寂しきよせつなきよこの世の恋は

  われになほ人恋ふこころあることを郷ひろみのバラード聴きつつおもふ

  わたしよりたった一歳の年上が自由に手足うごかして歌ふ

『論語』述而三五 孔子が言う。「贅沢をしていると尊大になり、倹約していると頑固になるが、尊大であるより、むしろ頑固の方がよい。」

贅沢の方が害が大きいということだ。

  奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固まあ倹約の方が害なかるべし

『正徹物語』143 俊成の家は、五条室町にあった。定家が母と死別した後に、父俊成の家に行ってみると、秋風が吹いて荒廃し、早くも俊成も心許ない様子に映ったので、定家の一条京極の家から、父のもとへ、
・玉ゆらの露もなみだもとどまらずなき人こふる宿の秋かぜ 新古今788

と詠んできたのは、哀れさも悲しさも際限なく、悶絶するばかりの巧緻な歌ぶりである。俊成の返歌に、
・秋になりかぜの涼しくかはるにも涙の露ぞしのにちりける

そっけなく返しているのが、理解できない。しかし、定家は自分の母のことなので、哀れにも悲しく悶絶するように詠んでいるのは当然である。俊成は、妻のことであり、もう老人なので、今更「やるせない、哀しい」などと言っては不釣合なので、「ただ季節が秋になって、風が涼しく」と何ともないように言っているのが、かえって何も思いつかないほど感動的だ。

  母の死と、妻の死との違ひありわれは俊成の歌を好めり

『伊勢物語』九十三段 低い身分だった男が、高貴な人に思いを寄せていた。ほんの少しは望みがあったのだろう。男は寝ては思い、思いにたえかねて詠んだ。
・あふなあふな思ひはすべしなぞへなくたかきいやしき苦しかりけり

身分不相応な恋の苦しみは、昔も今も同じだ。

  いやしきがわれよりまさる人を恋ふ苦しかりけりいまも変はらず

2024年5月22日(水)

朝から晴れ。なかなかいい日だ。リハビリ。

  郷ひろみのバラードを聴く「さよなら哀愁」せつなかりけり

  われにまだ恋する心ありしかも郷ひろみうたふ「さよなら哀愁」

  わたしより一歳上のはずである郷ひろみまだまだからだ動く

『論語』述而三四 孔子の病が重かった。子路はお祈りしたいと願った。孔子が「そういうことが有ったか。」というと、子路は答えて、「有ります。誄のことばに『なんじのことを天地の神々に祈る。』とみえます。」と言った。孔子は、「自分のお祈りは久しいことだ。」

  珍しく孔子病の重ければ天地の神に祈らむものを

『正徹物語』142 何であろうか「源氏物語では、作中の和歌は本歌に取らないで、物語の内容を取る」と書いてあったと思うが、実際は和歌も多く取っている。「思ふかたより風や吹くらん(恋ひわびて音にまがふ浦浪は 源氏物語須磨巻・光)」とあるのを、定家は、
・袖にふけさぞな旅ねの夢もみじ思ふかたよりかよふ浦風 新古今980

と、詠んでいる。「袖にふけ」とは、願っている。旅寝では寝られないので、せめて自分の恋しく思う方角から風が袖に吹け、というのだ。

  旅寝には夢にもみぢの散るばかりせめて恋ひしき人よ風吹け

『伊勢物語』九十二段 恋しい女の家のあたりに、たびたびやってくる男がいた。けれど逢うことはかなわない。手紙を渡すこともできない。その男が詠んだ。
・蘆辺こぐ棚なし小舟いくそたび行きかへるらむ知る人もみな

ちょっと可哀そうではあるが。

  いくたびも棚なし小舟を漕ぎだしてゆくへも知らぬ君ならなくに

2024年5月21日(火)

朝から晴れて、気温も上昇するらしい。けれども夕刻より雨が降るらしい。

  夜の廊下に交錯せしは老母なりもののけのごとく鈍重に動く

  脈絡なく手足それぞれに動くらし老婆廊下をふらりふらり

  真っ暗なる夜の廊下をさまよふは九十二歳の老婆とおもふ

『論語』述而三三 孔子が言う。「聖とか仁などというのは、とてものことだ。ただ、行ってあきることがなく、人を教えて怠らないということは、言ってもらっても宜しかろう。」公西華は言った。「正に弟子学ぶこと能はざるなり。」

  聖と仁。為して厭はず、教へて倦まず弟子らに真似できず孔丘のみかは

『正徹物語』141 六百番歌合で定家卿は、「歳暮」の題でこう詠んだ。
・たらちねやまだもろこしに松浦舟今年も暮れぬ心づくしに

「歳暮」の題で「もろこし」「松浦舟」を詠んでいるのは、なぜか。想像するに、親が唐土に居て、迎えを待っているところ、年も暮れようとするのは、不安気には漠然と思えるが、それにしても実際は何を詠んだのか判然としないでいました。

昔、松浦宮物語という物語草子を見ましたところ、松浦の中納言という人が、遣唐

使の身分で、唐土へ渡ったことを描いていた。これを下敷きにして、定家は詠んだのだ。同じ六百番歌合に、
・夜もすがら月にうれへてねをぞなく命にむかふ物おもふとて

と詠んでいる。この「命にむかふ」という詞も、松浦宮物語にある詞だ。このように定家の歌は、本説を踏まえて詠んでいる。

  本絶を踏まへて一首をなすといふ定家中世の名人なりき

『伊勢物語』九十一段 月日の行くをさへ嘆く男が、弥生のつごもりがたに詠んだ。
・をしめども春のかぎりの今日の日の夕暮れにさへなりにけるかな

  三月のつごもりの日に今日のみの春を惜しみてうたふべらなり

2024年5月20日(月)

朝から雨、午後には上がり、曇り空の予想だ。

  雲の重さに圧せられたるごときなり臙脂の熱き血潮流れよ

  懈怠とはこの雲の下に圧せられしわが身なるらむこの痩せ老人

  少しだけ流るる風のとほりみちあけぼの杉の葉が落ちてゐる

『論語』述而三二 孔子が言った。「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私はまだ十分ではない。」

孔子は、自分に対して厳しいものをもっているようだ。

  君子としてはまだ未熟なりわがことを謙遜したり孔子先生

『正徹物語』140 題はまずすべて和訓で読むのが基本だ。「旅宿帰雁」は「旅の宿へかへる雁」と読むはずが、あまりに冗長なので、「旅宿のかへる雁」と読む。それでも帰雁は「かへる雁」と読むのがよい。昔は山家は「山の家」、田家は「田の家」と読んだ。

  出されたる題の読み方も微妙なり山家、田家は山の家、田の家

『伊勢物語』九十段 つれない女を思い続けてきた男がいた。女も、心を動かされたのだろうか。「それならば、明日、簾越しに逢いましょう」と言った。男は、このうえなく嬉しく思った。同時に信じられない思いでもあった。咲き満ちる桜の枝に、歌を付けて届けた。
・桜花今日こそかくもにほふともあな頼みがた明日の夜のこと

男は信じられなかったのだ。女の心が。

  さかりのさくらの枝にことよせて君にし逢へば嬉しきものよ

2024年5月19日(日)

朝から曇り。やがて雨になるらしい。この季節、天気悪いのいやだねぇ。

  おほかたは木の花終へてさびしきに桜は結ぶ枝に黒き実

  さくら木のみどりの葉々を見上げをり葉のもとに小さき実をつけてをり

  歩みつつ若きさくら木見過ぐるに黒き小さき実の落ちてくる

『論語』述而三一 孔子は、「人と歌ひて善ければ、必ずこれを反へさしめて、而して後にこれに和す。」

孔子が歌好きだとは知らなかった。

  うたはせてうまければまたうたはせてあげくのはては合唱である

『正徹物語』139 懐紙では作者名を、官・姓・名と書いて、実名の下に「上」の字を書くのは、謙遜の気持ちからだ。

  官・姓・名を書き記しその上に「上」と書く卑下のこころなり懐紙の書き方

『伊勢物語』八十九段 いやしからぬ男が、自分より身分の高い女性を好きになった。幾年も経った。
・人知れずわれ恋ひ死なばあぢきなくいづれの神になき名負わせむ

  恋ひ恋ひて死にすることのあるべきやあまりの恋ひに神も許さじ

2024年5月18日(土)

よく晴れて、暑い。井出トマトへ行ってきた。富士山の雪が少なくなり、どっしり感がある。

  薄青き春シャツ羽織り出でゆかむこの野の涯てはかがやくうなばら

  わが夢に海に沈める骸骨がとびだして来る踊りはじめる

  水母たちのダンス・ダンス・ダンス一斉に踊ればそろふ足けりあげて

『論語』述而三〇 陳の司敗(司法官)が「昭公(魯の先代君主)は礼をわきまえられていましたか。」と尋ねた。孔子は「礼を知れり。」孔子が退出すると、司敗は巫馬期(孔子の門人)に会釈して前に進み「君子は仲間びいきをしないと聞いていたが、君子でも仲間びいきはするか。殿様(昭公)は、呉の国にからめとられていたが、同じ姓であるため夫人のことを呉孟子とよばれた。この殿様が礼をわきまえていたとすると、礼をわきまえない人などいますでしょうか。」巫馬期が知らせると、孔子が言った。「私はしあわせだ。過ちがあれば、人がきっと気づいてくれる。」

  おのれのみに礼するならずわが側にはおのれを糺す人やありけむ

『正徹物語』138 中頃、素月という禅僧がいた。ただ一首、『新後撰集』(新後拾遺か?)に入った。一首であるが。憧れる歌である。
・思ひ出のなき身といはば春ごとに馴れし六十年の花や恨みん

と歌った。慶月の「花や恨みん」のついでに思い出した。

  わたしにも六十年のさくらばな散り来ればたしかに花恨めしき

『伊勢物語』八十八段 もう若くはない友たちが、あのひと、このひとと集まった。みなで月を眺めた。中の一人が詠んだ。
・おほかたは月もめでじこれぞこのつもれば人の老いとなるもの

なかなか気が利いている。

  月をみて日々を暮らせばたちまちに老い人となるなさけなきもの

2024年5月17日(金)

初夏らしいいい天気だ。9時20分からリハビリだった。裏のベランダから中庭を睥睨すると皐月つつじの赤い花がつらなって、まるで赤い絨毯が敷きつめられているようだ。

  つつじ萎え皐月つつじの赤き花連なり咲けばはつなつのひかり

  はつなつの風に揺れたる皐月つつじこの垣くだる地獄の門へ

  皐月垣に沿ふて歩めば老いの身のそれなりに疲るこれも浄土か

『論語』述而二九 孔子が言った。「仁遠からむや。我れ仁を欲すれば、斯に仁至る。」孔子が得意げに言ふ仁遠からず欲すればここに仁は至れり

『正徹物語』137 慶運の子に慶孝という者がいた。東山の黒谷に住んでいた。

花の盛りに、冷泉為尹いまだ宰相にてありし頃、父の為邦、了俊など同道し、東山の花見を見物した。「題を懐に入れて、道すがら案じて、鷲尾の花の下にて講ずべし」ということになり、「さらば慶孝をさそふべし」と庵室に訪ねていった。ちょうどいたところを誘いつつ、「花を尋ぬ」という題を出したところ、慶孝は、
・さそはれて木のもとごとに尋ねきぬ思ひの外と花や恨みん

と詠んだ。

  突然におしかけてきて一首を詠め花がなければかくもせざるに

『伊勢物語』八十七段 摂津の国兎原のさとを領地として所有する男が住んでいた。むかしの歌に、
・蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみつげの小櫛もささず来にけり

とあるが、それは蘆屋の灘のこと。

男は、かたちばかりの宮仕え、男の兄は、衛府の長官だった。男とその兄のもとに衛門の佐たちが、周囲に集まってくる。男たちは、蘆屋の海のほとりをそちこちあそび歩いた。「山の上の布引の滝を身に行こう」という者があり、のぼって行った。

長さ二十丈、広さ五丈ばかりの滝が流れ落ちている。あたかも大岩を白絹が包みこんでいるごとく。岩壁の上部には、座布団ほどの嵩にまるく突きだしているところがある。その部分の滝は、蜜柑や栗ほどの大きさの白い玉になって、こぼれ落ちる。

男たちは、それぞれに詠んだ。まず男の兄、衛府の督
・わが世をば今日か明日かと待つかひの涙と滝といづれ高けむ

つぎにあるじ、
・ぬき乱る人こそあるらし白玉のまなくも散るか袖のせばきに

みなは笑った。男の歌をもてはやし、自分たちはもう詠まなかった。

帰り道は遠かった。日は暮れ、邸の前にさしかかった。帰ろうとする男の家の方を見ると、海人の漁火がたくさん見える。
・晴るる夜の星か川べの蛍かもわが住むかたの海人のたく火か

そう詠んで家に帰った。その夜は南風が吹き、波は高かった。

翌朝には、女たちが海辺に出て、浮海松が波にうちよせられたものを拾い、持ち帰った。家刀自は、海松を高坏にもって、柏の葉をおおいかぶせた。そして柏にこう書いた。
・わたつみのかざしにさすといはふ藻も君がためにはをしまざりけり

「ゐなか人の言にては、よしや、あしや。」

私は、それほど悪いとは思えませんが。

  わたつみに近ければ海松ひろふたる歌よしやあしやと問ふこともなく