2024年5月10日(金)

朝は寒かったが、空は晴れていて、そのままつづく。リハビリがあって塗絵をもらう。「こんてぬうあ」の発送をほぼ終わる。

  この扉のむかふにひろがるみどりの国若みどり濃みどりとりどりのみどり

  若みどりの葉を茂らせて並木なす道を歩めりまほろばの国へ

  仏像の金箔まだらが曼陀羅のやうな円陣に迷ひ入りたり

『論語』述而二三 孔子が言う。「二、三子、我れを以て隠せりと為すか。吾れは爾に隠しこと無し。」「私はどんなことでも諸君とともにする。これが丘(孔子)なのだ。」

  われ常に皆といっしょにことを為すこれが丘なり何も隠さず

『正徹物語』131 三体の中でも、慈鎮和尚こと慈円の「ねぬにめざむる」が優れた歌である。まず「ねぬにめざめる」というのは、たとえば、宵の口に寝ないでいたところ、郭公が鳴いたのを聞けば「おお」と言ってはっとするものなので、なるほど寝入っていないのにはっと驚くのが目覚めるということだ。これを理解できない人が、「寝てもいないのにどうして目覚めることができようか」など言うことはもっともだが、それは言うに足らない。但し、この句は卓越して深いが、名人ならば思いつくことがあるかも知れない。しかし思いついても、上句には「夕されの雲のはたてを眺めて」、あるいは「宵のまに月をみて」と詠むにちがいない。それなのに「まこもかる美豆の御牧の夕まぐれ」とあるのは、およそ人智を過ぎていて、理屈をも超えた深さは、まったくどうにもできない。このように上句下句で隔絶した内容を取り合わせているのは、歌人として自由自在の段階に達した上での所業だ。

  寝ぬに目覚める老いのねむりありここは牧場の夕まぐれにて

『伊勢物語』八十一段 さる左大臣(源融)は、鴨川のほとり六条あたりに趣向をこらした邸をもっていた。庭園は、陸奥の塩竈の景色を模し、難波から運んだ海水に塩を焼く煙までたちのぼらせた。

十月のすえごろ、菊の花はさかり、かえでは紅葉していた。左大臣は、親王たちを招き宴を催した。一晩中、管弦を愉しんだ。夜があけてくるころ、邸の風情をたたえ、歌を詠んだ。いあわせた「かたゐ翁(業平であろう)」は板敷の縁の下あたりで、身を低くしていた。皆が詠みおえると、翁は、
・塩竃にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ

と詠んだ。陸奥の国には、たいそう興趣の深い場所が多い。だからこそ翁は、左大臣邸をほめたたえ、「塩竃にいつか来にけむ」と詠んだのである。

  歳老いても業平はなりひら上手なり邸をたたへ歌を詠みけり

2024年5月9日(木)

朝、ゴミ捨てにゆく時は降っていなかったが、やがて雨降り、午前九時過ぎには曇り空。

  許し難きウクライナ侵攻けふもまたプーチンのしたり顔テレビに映る

  二十年以上もたてばプーチンの痩せたる顔も太りたるかな

  強引なる権力を行使するプーチン、習近平、そしてネタニヤフ

『論語』述而二二 孔子のたまふ[宋の国で迫害を受けたときに」「天がわが身に徳をさずけられた。桓魋(宋の軍務大臣。孔子を殺そうとした)ごときがわが身をどうしようぞ。」

  桓魋が孔子を殺さうとしてはたせざる桓魋ごときと孔子強気なり

『正徹物語』130 「とはばとへかし」は嫌味な詞である。不実な恋人に手紙を出して「とはばとへかし」というのは嫌だ。ただ、何もせず一人で居て、「とへばとへかし」というのはあわれであると以前にも書いた。

  恋人に「とはばとへかし」嫌味なりあてなく一人言へばあはれなり

『伊勢物語』八十段 家運の衰えた家の者が、藤を植えた。三月の末、雨のそぼ降る日、藤の枝を折り、藤原氏のもとへ献上しようと詠んだ。
・濡れつつぞしひて折りつる年のうちに春はいく日もあらじと思へば

落剝した業平の在原氏の衰退を歎き、藤原氏の繁栄にすがったということだろうか。

  衰運を歎きたるかなこの世の春は幾許もなからんとおもふ

2024年5月8日(水)

朝は晴れているが、だんだんに雲が増え、雨になるらしい。

  匿名性にまぎれてゴミ集積場生ゴミの山にわが家の生ゴミ

  天候は朝はもっぱら晴れてゐるわが家の生ゴミいきいきとして

  皐月つつじの連なるところ赤き花ぽつぽつ笑ふ五月八日

『論語』述而二一 孔子が言う。「我れ三人行へば必ずわが師を得。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む。」

  そんなに容易に師は見つかるか見つかってもその善き者に従ふべきか

『正徹物語』129 枕草子は、とりたてての主張や方針なく書いたものである。三冊である。徒然草は、枕草子を受けて書いたものだ。

  とりわけて主張・方針なく記す『枕草子』もそれを継ぐ『徒然草』も

『伊勢物語』七十九段 在原家に親王が生れた。産屋の祝いに、人々は歌を詠んだ。

祖父方の翁(業平51歳)が詠んだ歌。
・わが門に千ひろあるかげを植ゑつれば夏冬誰か隠れざるべき

  千尋あるかげあればわが在原の家もわれらも安泰とうたふ

2024年5月7日(火)

朝は曇りだったが、すぐに雨に変わる。今日は一日雨空らしい。

  姫紫苑さつきつつじの花に雑じり抽んでて咲く風に揺られて

  雨の日は姫紫苑も皐月も濡れてゐるいつものかがやきけふは失ふ

  姫紫苑の多く咲きたるところすぎふとふりかへるその白き花

『論語』述而二〇 「子、怪力乱神を語らず。」『論語』の中の有名な章句である。訳には、「怪異と暴力と背徳と神秘とは、口にされなかった」とある。これらは『論語』外である。

  怪力乱神われは語らずと潔し怪力乱神こそ興味あるもの

『正徹物語』128 十訓抄は、菅原為長卿の作と思われる。為長卿は、優れた歌人で有職故実に通じ、書道にも秀でていた。官の長でしたので、文学を第一とした。面白きことを書いた書である。私も持っていたが、今熊野で焼いてしまった。

  今熊野の庵炎上し幾多の書灰燼に帰すいたしかたなし

『伊勢物語』七十八段 多賀幾子という女御が亡くなった。四十九日の法要を安祥寺で行った。右大将藤原常行が、法要に参列した。その帰りに、山科の禅師の親王(人康親王か高丘親王)の邸に寄った。滝を作り、水を走らせた、趣向をこらした邸だった。常行は、「長年、よそながらおしたい申しあげていましたが、おそば近くにお仕えしたことがありません。今宵はおそばに控えさせてください」と言った。親王は喜び、夜の宴のしたくをさせた。右大将は、退出して、供のものとその夜の趣向を相談した。

「宮仕えのはじめだというのに、ただ何もせずにいていいものだろうか。以前、帝が父良相の三条の屋敷に行幸があった折、紀伊の国の千里の浜にあった石を献上した人があった、しかし、献上は行幸が終った後だった。そのまま、ある女房の部屋の前の溝のところに石は置いてある。親王は、庭園に趣向をこらす、ぜひともあの石を献上しよう。右大将は言い、武官の舎人に石を取りにいかせた。ほどなく石を持ってきた。かねて聞いていたより、石はすぐれていた。これをただそのまま献上するのもつまらない。右大将はさらに言い、歌を詠ませた。そして右の馬頭であった人の詠んだ歌を、石の青い苔にきざみ、蒔絵模様のようにしるして献上した。
・あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ
この馬の頭は業平かと。

  苔石にしるす一首の歌を献ず皇子親王さてよろこびたるか

2024年5月6日(月)

昨日の夜、風呂に菖蒲をいれるのを亡失。それこそ六日のあやめである。新しい歌集の掉尾をかざるのが「六日のあやめ」だから、まあいいか。

  中庭のけやき樹ことしはたくさんの若葉繁らせ生き延びたるか

  枯れきった幹からも若きみどり葉を伸ばしてわれら生きているのだ

  歩みゆくにけやきの葉々の影を踏むその影濃くなることしの欅

『論語』述而一九 孔子が言った。「我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず。古へを好み、敏にしてこれを求めたる者なり。」

  古へを愛してこれを求めたるそれだけの者生まれながらに

『正徹物語』127 法楽(神仏を悦ばせる和歌連歌を奉じたり、芸能を演ずる)のために百首を詠みました。どちらの法楽でしたでしょうか、神を慮って題を書くようにとのことであった。理由は不吉な先例があり、題を悪く出したので、人に非難された。

  法楽の百首読み終へずに帝死す不吉なりけり時案ずべし

『伊勢物語』七十七段 田邑の帝(文徳天皇)の女御、多賀幾子という方が亡くなった。安祥寺で法要をした。人々は捧げものをした。たくさんの捧げものであった。木の枝に結び付け、堂の前に建てた所は、さながら山のようであった。

法要の説法が終るころ、右大将藤原常行(死んだ多賀幾子の兄弟)が、歌を詠む人を集め、法要を題として、春の心ばえのある歌を詠んで、堂に奉らせた。右の馬頭であった翁(業平)は、老いの目のためか、捧げものがほとうの山と見間違えたまま、詠んだ。
・山のみなうつりて今日にあふことは春のわかれをとふとなるべし

今見れば、よくもあらざりけり。その時は、すぐれた歌としてもてはやされた。

  だいたいは業平翁の勘違ひ山にはあらず捧げものあまた

2024年5月5日(金)

端午の節供だ。リハビリで画いた塗絵(兜と鯉のぼり図)を息子たちの子どもへ贈るものの、おそらく着くのは明日以降。六日のあやめどころか七日のあやめになりそうだが。

  花ひらく皐月つつじの花の垣沿ひつつ歩むに老いはよろける

  空高くめぐりて降りる鳩の群れぽぽぽぽぽぽと鳴きつつ歩く

  蹴飛ばすやうに鳩の群らがる所ゆく平気で声あぐ憎らしいほど

『論語』述而一八 葉公(楚の葉県の長官)が孔子のことを子路に問うた。子路こたへず。「お前はどうして言わなかったのか。「其の人と為りや、憤りを発して食を忘れ、楽しみて憂ひを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ」

子路から見ても、まあ、人物として楚公はダメだということですね。

  楚の国の葉県の長が子路に問ふ。子路は無言なり人物わるし

『正徹物語』126 「まし水」は、ただの清水である。本当の清水の意である。」

「増水」と誤解があるからだろう。作例として、
・涼しさはまし水あさみさざれ石もながるる月の有明の声 草根集3239

  ましみづは真清水の意なり決して増水にあらず間違ふ勿れ

『伊勢物語』七十六段 二条の后が、まだ東宮の御息所と呼ばれていた頃。氏神に参詣の折、御息所は、お供に禄物を与えた。近衛府につかえていた翁にも、車から、じかに禄物を与えた。

男は、歌を詠んで献上した。
・大原や小塩の山も今日こそは神代のことも思ひ出づらめ

男もまた昔日に思いをはせたのだろうか。彼の心を、誰が知ろうか。

  なかなかに逢うことできず翁になる業平のこと誰か知るらむ

2024年5月4日(土)

朝から晴れて、午前10時を過ぎると暑くなってきた。28℃くらいまで上がるそうだ。

  野の花の姫紫苑咲くつつじ垣つつじの白き花は散り落つ

  青き皐月にぽつぽつと赤き花の咲く日にあたたまる老いも温くとし

  五月つつじ一輪、二輪花着けて春から初夏へときも移らふ

『論語』述而一七 孔子が雅言するのは、詩経・書経を読むときと礼を行なうときで、みな正しい言語であった。

  孔子が雅言するのは詩経・書経を読みそして礼を執るとき

『正徹物語』125 堀河百首の作者の歌で勅撰集に入集したもので、たとえ近来に成立した集でも、本歌である。堀河百首の作者の歌で勅撰集に入集していないものは証歌にはなるが、本歌ではない。

  本歌取りのうるさき規則勅撰に選ばるること肝要ならむ

『伊勢物語』七十五段 男が、女に「伊勢に行ってともに暮らそう」と言った。けれども女は、
・大淀の浜に生ふてふみるからに心はなぎぬ語らはねども

とつれない。男は、また詠んだ。
・袖ぬれて海人の刈りほすわたつうみのみるにあふにてやまむとやする

すると女が詠む。
・岩間より生ふるみるめしつれなくは潮干潮満ちかひもありなむ

男は返した。
・涙にぞぬれつつしぼる世の人のつらき心は袖のしづくか

「世にあふことかたき女になむ。」

  何といへど女つれなし逢ふことのかなはざりけりこの女には