2025年3月31日(月)

朝から曇り、時々雨。寒い。

  ひよどりの姦しき声。(ごみ)を出す妻とわれらの頭上を移る

  あけぼの杉の冬木の枝にひよどりの二羽が来てゐるやかまし、姦し

  ひよどりが低きところを移りゆくいまだ春には遠き日々なり

『論語』陽貨一〇 孔子、伯魚(孔子の子、鯉)に謂ひて曰く、「(なんじ)周南と召南を(まな)びたるか。人にして周南・召南を(まな)ばずんば、其れ猶ほ正しく(かき)に面して立つがごときか。

『詩経』の国風の最初の二地方の歌。道徳的なものか。塀をまん前にして立っているようなもの。何も見えていない。一歩も前進できない。

『詩経』にある周南、召南を学びたるかこれなくばまるで牆にたたずむ

『古事記歌謡』蓮田善明訳 百四 雄略天皇

この饗宴の日に、また春日のヲドヒメが酒を奉る時に、天皇が歌った、
(みな)(そそ)ぐ (み)嬢子(をとめ)          臣のおとめが酒をつぐ
秀罇(ほだり)取らすも            かよわい手つきでしっかりと
秀罇取り 堅く取らせ        重そな酒器(さけつぎ)手に持って
(した)(かた)く (や)(がた)く取らせ        しっかりともて しっかりと
秀罇取らす子            酒器捧げて酒つぐ子

これは「盞歌(うきうた)」である。

  臣の嬢子が酒をつぐ重そな酒器を手にもってしっかりとして酒をつぐ

2025年3月30日(日)

朝は少し寒いけれど、じきにそこそこ日が出るようです。

  バスタブを洗剤まみれに洗うときわれは何者ただの爺か

  片腕に洗剤まぶしたスポンジを掲げて踊るひょっとこならむ

  ひょっとこひよっとこ唄ひながらにバスタブを洗へば楽し洗剤まみれ

『論語』陽貨九 孔子曰く、「小子、何ぞ夫の詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興こすべく以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事へ、遠くは君に事へ多く鳥獣草木の名を知る。」

  必ずや詩を学ぶべしあれこれと良きことがある鳥獣草木の名

『古事記歌謡』蓮田善明訳 百三 オオハツセワカタケルノ命
天皇も、
百敷の 大宮人は       大宮仕えの女たち
鶉鳥 領巾取り掛けて     この新嘗に奉仕して
鶺鴒 尾行き合へ       鶉のようにひれをかけ
庭雀 うずすまり居て     鶺鴒のように裳をたれて
今日もかも 酒みづくらし   雀のように群れ集い
高光る 日の宮人       今日こそ酒に酔うらしい
琴の 語り言も こをば    顔もほんのり赤らめて

この三首(百一、百二、百三)は「天語歌」である。こうして、この饗宴では、

三重の采女を賞し、たくさんの賜り物があった。

  鶉のやふに、鶺鴒のやふに、雀のやふに今日こそ酒に酔ふらしき

2025年3月29日(土)

朝から雨、昨日から14度低いそうだ。

  公園の太き桜は今日のあたたかさ二輪、三輪咲きはじめたり

  駐車場に一本だけある染井吉野いつもより白き花咲かせをり 

  わたり鳥には国境あらずロシアより琵琶湖に到る長き空路を

  コハクチョウの醜き子らも混じりをり宍道湖に蜆食ひたるかなや

  ロシアより日本に渡るマガモをばどちらの鳥とも言ひがたくして

『論語』陽貨八 孔子曰く、「由よ、汝六言(六つの善言)の六蔽(六つの害)を聞けるか。」対へて曰く、「未だし。」「居れ、吾(なんじ)(つ)げん。仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩。信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊。直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞。勇を好みて学を好まざれば、其の幣や狂。」

  孔子説く六言六蔽、学問を好まざれば六蔽ならむ

『古事記歌謡』蓮田善明訳 百二 ワカクサカベノ王
この時、皇后もまた、歌って、
倭の この高市に        都に名高い槻の木の
小高る 市の高処        聳えた市の高丘に
新嘗屋に 生ひ立てる      今年の新嘗食す時に
葉広五百箇真椿         殿の間近の大椿
そが葉の 広り坐し       その葉の広くあるように
その花の 照り坐す       君の御心また広く
高光る 日の御子に       花のかがやく色に似て
豊御酒 奉らせ         君が御心麗しく
事の 語り言も こをば     いざいざ召しませこの御酒を

  大和の国の高市に生ひたるここの大椿その葉の広し豊御酒を乾せ

2025年3月28日(金)

朝、雨。九時過ぎには晴れて、暖かい。

  今日も朝から雨模様しとしとしとに気分不快なり

  朝から圧迫強き低気圧に抑へられたる病老歌人

  この雨は南岸低気圧の通過中どうしようもなきただ耐へるのみ

  マンションの裏の辛夷も花着けてさても春なりよろこびの声

『論語』陽貨七 仏肹(hつきつ)(晋の大夫の苑氏の家宰として中牟の町を取り締まっていたが、孔子六三歳の時に謀反したという)、召く。子往かんと欲す。子路曰く、「昔者由(子路)や諸れを夫子に聞けり、曰く、「親ら其の身に於いて不善を為す者は、君子は入らざるなりと。」仏肹、中牟を以て畔く。子も往くや、これを如何。」子の曰く、「然り、是の言有るなり。堅しと曰はざらんや、磨すれど磷がず。白しと曰わざらんや、涅すれども緇まず。吾豈にほう瓜ならんや。焉んぞ能く繋りて食らわざらん。」

  用ゐてくれる人あれば謀反起こせし主君にも仕ふ

『古事記歌謡』蓮田善明訳 百一 三重の采女

また、天皇が、長谷の百枝槻の木の下で、饗宴をした時、伊勢の国の三重から来ている采女が、杯を捧げ持って奉った。ところが、槻の木の葉が落ちてその杯に泛んだ。采女はそれを知らず、そのままに奉ったのを、天皇はその葉を見て、その采女を打ち伏せ、刀をその首にさし当てて切ろうとした時に、采女が、「お待ち下さいまし、申し上げたいことがございます。」と言って、
(まき)(むく)の 日代(ひしろ)の宮は     この地はむかし纏向の 日代の宮のお跡とて
朝日の 日照る宮      朝にはかがやく日照る宮
夕日の 日陰る宮      夕べはかげる宮の跡
竹の根の (ね)(だ)る宮     竹の根ひろく匐い固め
木の根の (ね)(ば)ふ宮     木の根の深く張り固め
八百土(やほに)よし い(きづ)きの宮   土盛り上げて築き立てた
真木(まき)さく (ひ)御門(みかど)     宮の御門は檜の御門
新嘗屋(にひなへや)へ (お)ひ立てる    香り新たな新嘗の
(もも)(だ)る (つき)(え)は      殿に生い立つ大槻の
上枝(ほつえ)は (あめ)が覆へり     槻の上枝は天を覆い
中つ枝は (あづま)を覆へり    中枝は東の国を覆い
下枝(しづえ)は (ひな)を覆へり     下枝は西の村を覆う
上枝の (え)末葉(うらば)は     この大槻を陰にして 大饗宴を遊ばせば
中つ枝に 落ち触らへば   折から風に誘われて 上枝の末葉が中枝に
中つ枝の 枝の末葉は    落ちて触るれば中枝の
(しも)つ枝に 落ち触らへば   末葉が下枝に落ち伝い
下枝の 枝の末葉は     下の末葉はわたくしの
あり(ぎぬ)の 三重の子が    捧げた玉の杯に
(ささ)がせる 瑞玉盞(みづたまうき)に     落ちて浮かんでその昔
浮きしあぶら 落ち(なづ)(さ)ひ  くらげがぽかぽか浮くようで 潮がころころ固まって
水こをろこをろに      大八島国が出来た様に
(こ)しも あやに畏し     わが大君がこの国を 治め遊ばすめでたさに
高光る 日の御子      葉が浮いたのでございましょう
事の 語り言も 是をば   わたしの語るこの歌を 日の御子様に捧げます
この歌を奉ったので、その罪を許した。

  大八島の国が出で来しごとくにぞこをろこをろと搔きをる大君

2025年3月27日(木)

今日は昨日より少し下がるらしいが、暖かであるらしい。

  知らぬうちに分断はある。病み老いてわれは下級民さびしげに言ふ

  これの世の差別、区別に悩まされ正義といふも全うせざりき

  もっとも弱きものの立場にたたずみて見あぐるばかりに底より覘く

  無残なり純白の花びら散らばれば木蓮の木の風に吹かるる

  公園の大樹のさくらの枝ごとに蕾付けたり二、三が(ひら)

『論語』陽貨六 子張、仁を孔子に問ふ。孔子曰く、「能く五つの者を天下に行うを仁と為す。」これを請ひ問ふ。曰く、「恭寛信敏恵なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち攻あり、恵なれば則ち以て人を使ふに足る。」

  仁を問へば五つのこと恭寛信敏恵これ仁なりと孔子答ふ

『古事記歌謡』蓮田善明訳 百 雄略天皇

また、天皇が、丸邇のサツキノ臣の娘ヲドヒメを婚しに、春日へ行幸した際、道に会った少女が、行列を見て、岡に逃げ隠れてしまった。そこで、天皇は歌をよんだ。その歌は、
嬢子(をとめ)の い隠る岡を       おとめの隠れたその岡を
金鉏(かなすき)も 五百箇(いほち)もがも      五百も鉏を持ってきて
(す)(は)ぬるもの         掘って返してさがし出そ
だから、その岡を金鉏の岡というのである。

  をとめの隠るる岡を鉏をもて掘り返し掘り返すをとめを探して

2025年3月26日(水)

朝から18度、27度になるらしい。

  白梅の花爛れたやうにほころびて淫靡なる香に滅びかゆかむ

  この頃は梅の花ほろび香らざる然るに茫と立つわれなむ

  ときをりは三人官女のしろき肌いづれも若く熟れたるやうな

『論語』陽貨五 (こう)山不擾(ざんふじょう)(公山氏は季氏の家臣。陽虎の反乱のあと季氏に叛いた)、費を以て(そむ)く。招く。子往かんとす。子路説ばずして曰く、「(ゆ)くこと(な)きのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。」孔子曰く、「夫れ我を召く者にして、豈に徒ならんや。如し我を用うる者あらば、吾は其れ東周を為さんか。」招く者が本気ならば、孔子はその国にゆく。そして東の周を興す。

  いづこにも本気で招くことあればただちに往って東の周興す

『古事記歌謡』蓮田善明訳 九九 オホハツセワカタケルノ王

またある時、天皇が葛城山の上に登った。すると、大きな猪がとび出してきた。

天皇は見るより早く、(なり)(かぶら)(や)で射たところが、猪は怒って寄ってくる。天皇は、その怒号に恐れて、(はん)の木の上によじ登った。そして、
やすみしし わが大君の     わが大君が射止めたる
遊ばしし (しし)の         手負いの猪が荒れ狂い
(やみ)(しし)の (うた)(かしこ)み       唸りをあげて飛びかかる
わが逃げ登りし        幸いこれなる丘の上の
在丘(ありを)の (はり)の木の枝      榛の枝へと逃げ登る
と、歌を詠む。

  病猪の激しく怒り大君に突進してくれば榛の木に登る

2025年3月25日(火)

暖かである。

文庫版の松下竜一『私兵特攻 宇垣纏と最後の隊員たち』を読んだ。昭和天皇の玉音放送があっての後、特攻に向かった宇垣長官とそれに従った若い隊員たち。なぜ宇垣は若い隊員を引き連れて死への飛行を実施したのか。宇垣たちだけではない終戦の後の特攻などの謎に取り組んだルポルタージュ。寺司勝次郎の追跡調査が中心テーマのように書かれるが、筆者は松下竜一であり、その点でも変わっているのだが、やはりこの「私兵特攻」とも言うべき事態をどう見るかが、読者それぞれに問われている。戦争が終わっているにもかかわらず若者を死に導いた宇垣を許せるのかどうか、命令が絶対だった、反意を告げることもできない純粋な若き隊員たちの姿が戦争経験のない私には痛烈な問いが課せられているように思われる。それは、実際に戦争が行われている世界を思うと、よりつらいものであった。

宇垣ら特攻には二人乗りの彗星が使われている。宇垣は、その彗星に3人目として乗り込んだのだ。ちなみに彗星は、太平洋戦争に於いて日本海軍の飛行機の中で私のもっとも好きな機種である。

  冬の木の枝移りつつ小雀がちひさく鳴きをり枝をゆらして

  水木の枯たる枝に雀ゐるふるへて鳴くか枝動かして

  木を移り枝を移れる雀ゐるてっぺん近き枝に鳴きをり

『論語』陽貨四 孔子、武城に之きて絃歌の声を聞く。夫子莞爾として笑ひて曰く、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用ひん。」子遊対へて曰く、「昔者偃や諸れを夫子に聞けり、曰く、「君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易しと。」孔子曰く、「二三子よ、偃の言是なり。前言はこれに戯れしのみ。」

  孔子にても弟子を前にし揶揄したることもあるべしそれも聴きにき

『古事記歌謡』蓮田善明訳 九八 オホハツセワカタケルノ命

阿岐豆野に行幸して、狩りする時に 天皇が椅子に倚っているところへ、虻が来て天皇の腕にくいついたのを、蜻蛉が来てその虻をくって飛び去った。ここに歌を詠みんだ、
み吉野の 袁牟漏(をむろ)が岳に       吉野の奥の袁牟漏岳
(し)鹿(し)伏すと たれぞ大前に(まを)す    いのししや鹿が多いと
やすみしし わが大君の       お誘いしたのは何者じゃ
猪鹿待つと (あ)(ぐら)(いま)し       呉床に(ま)して(しし)鹿(しか)
白妙の (そで)(き)(そな)ふ          出てくるやつを待っていりゃ
手腓(たこむら)に 虻掻(あむか)きつき      虻が飛びつき手腓に 食いつくところを飛びついて
その虻を (あき)(づ)早咋(はやぐ)ひ        蜻蛉(とんぼ)がぱくっと食い殺す
かくのごと 名に負はむと   これは蜻蛉の国の名を、自分の名にして仕えようと
そらみつ 倭の国を         忠義を尽くしたものだろう
蜻蛉(あきづ)島とふ
だから、その時から、その野を阿岐豆野というのである。

  大君の手腓(てtaむら)に虻がくらひつく(あき)(づ)早咋(はやぐ)ひその名を呼びき