4月2日(木)

今日も雨。

  なにもかもが中途半端に終らんとす。われの一生不甲斐なきもの

たたかふ仏像(静嘉堂文庫美術館)

  広目天眷属立像のたくましき赤熱(しやくねつ)の色、(まなこ)怒りて

  会場の木造十二神将立像(午神)の右手愛らし。頬をささへ

『孟子』万章章句上129-3 吾未だ己を(ま)げて人を(ただ)す者聞かざるなり。況や己を(はづかし)めて、以て天下を正す者をや。聖人の行ひは同じからざるなり。或ひは遠ざかり或ひは近づき、或ひは去り或ひは去らず。其の身を潔くするに帰するのみ。吾其の堯舜の道を以て(たう)(もと)むるを聞く。未だ割烹を以てするを聞かざるなり。(い)(くん)に曰く、『天誅攻むることを(な)すは、牧宮(ぼくきゆう)(よ)りす。(われ)(はく)自り(はじ)む』と」

  伊尹が湯王を助けるはその都の毫から始む

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

春の焼野(やけの)(な)を摘めば 岩屋(いはや)(ひじり)こそおはすなれ ただ一人 野辺にて たびたび会ふよりは な いざたまへ聖こそ あやしの(やう)なりとも わらはが(しば)(いほり)
               (四句神歌・僧歌・三〇二)

【現代語訳】春の焼野で若菜を摘んでいると、岩の洞窟に聖がいらっしゃる。一人ぼっちで。野辺でたびたび会うよりは、ね、さあいらっしゃいませ、聖よ。見苦しい所ではあるけれど、私の粗末な柴の庵へ。

【評】若菜摘みの女性が修行の聖を誘惑する歌。

「焼野」は早春に枯れ草を焼き払った野。その後に萌え出てきた若葉を摘む。「聖こそ」の「こそ」は呼びかけ、「わらはら」は女性の謙遜した一人称代名詞「わらは」に、卑下の意を添える「ら」がついたもの。聖への敬意を示しながら巧みに誘惑する女性の言葉遣いには、つい引き込まれそうな臨場感がある。『梁塵秘抄』の中で次に置かれた三〇三番歌と連作と考えると、天魔が美女に変身して(あるいは天魔が魔性の女を送り込んで)、聖の修行を妨げる歌とも読めるし、もう一首後に置かれた、若く美しい僧に対する関心を歌った三〇四番歌のように、教えを受けるべき女性が聖に恋愛感情を抱いた歌とも読めよう(→三〇三・三〇四)。いずれにせよ、若菜摘みをする女性と一人石窟で修行する聖とがいる状況を独白的に説明する導入部に、聖に誘いかける女性の台詞が続くという戯曲的な構成を持っており、演劇に伴う歌謡であった可能性が高いようにも思われる。

藤原明衡(あきひら)(九八九?~一〇六六)の記した『新猿楽記』には、「(やま)(しろ)大御(おほいご)(さし)(あふぎ)」という寸劇の演目が記されるが、これは、扇で顔をさし隠し、つつしまやかに装いながらも、男性をじっと見つめて気を引こうとしている女性の様子を滑稽に演じたものと考えられる。当該今様がこうした寸劇に伴う歌謡であったと考えると、この今様を台詞として歌っている女性に対し、その誘惑に負けそうになっている、あるいは負けてしまったという聖の(役者の)身振りは、観客を大いにわかせたことであろう。

2026年4月1日(水)

雨だ。

  春の気配ここにもありて菜の花の連なるところにわれも佇む

  あくせくとしても命は一つなり苦しまぬがよし命のつごもり

  陰画には心微動す。しかれども肉体はなべて反応をせず

『孟子』万章章句上129-2 (たう)、人をして(へい)を以て之を(へい)せしむ。囂囂(がうがう)(ぜん)として曰く、『我何ぞ(たう)(へい)(へい)を以て為さんや。我豈(けん)(ぽ)の中に(を)り、是に由りて以て堯舜の道を楽しむに(し)かんや』と。湯三たび往きて之を聘せしむ。既にして(はん)(ぜん)として改めて曰く、『我(けん)(ぽ)の中に(を)り、是に由りて以て堯舜の道を楽しまんよりは、吾豈是の君をして堯舜の君(た)らしむるに(し)かんや。吾豈吾が身に於て親しく之を見るに若かんや。天の此の民を生ずるや、先知(せんち)をして(こう)(ち)を覚さしめ、先覚(せんかく)をして(こう)(かく)(さと)さしむ。(われ)(てん)(みん)の先覚者なり。予将に斯の道を以て此の民を覚さんとす。予之を覚すに非ずして誰ぞや』と。天下の民、匹夫(ひつぷ)匹婦(ひつぷ)も堯舜の(たく)(かうむ)らざる者有るを思ふこと、己、推して之を溝中に(い)るるが(ごと)し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること(かく)の如し。故に(たう)に就きて之を説くに、(か)を伐ち民を救ふことを以てす。

  伊尹は天下を背負ひ暴虐なる夏の桀王を討たんとすなり

   *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

われらが修行に(い)でし時 珠洲(すず)の岬をかい回り うち巡り 振り捨てて 一人越路(こしじ)の旅に出でて 足打(あしう)ちせしこそあはれなりしか  (四句神歌・僧歌・三〇〇)

【現代語訳】私が修行に出た時は、珠洲の岬をぐるりと回り、ずっと巡って行き、ついには岬を振り捨てて、一人北陸路の旅に出て、足を痛めたことこそしみじみとつらいことだったよ。

【評】孤独で苦しい修行の日々を回想した一首。「われら」の「ら」は、後の句に「一人」とあることから、複数を表す接尾語ではなく、自らを卑下していうものと考えられる。

「珠洲の岬」は能登半島の北東端の岬。承元三年(一二〇九)長尾社歌合に「海辺帰雁」の題で詠まれた和歌として、いくつらぞ珠洲の岬を振り捨てて越なる里へいそぐ雁がね (『夫木和歌集』顕昭)
(幾列になるだろうか、珠洲の岬を振り捨てて越の里へと急ぎ飛んでいく雁たちよ)の一首が見える。「珠洲」に「鈴」を掛け、「鈴」の縁語である「振る」に続けていく表現、「珠洲の岬」から「越」への移動を詠む点は(人と雁との違いはあるものの)、当該今様と共通している。

『源平盛衰記』巻四六によれば、文治元年(一一八五)九月に能登国へ流罪となった平時忠の配所は「鈴の御崎」であった。都から遠い辺境の地というイメージが見て「能登国 珠洲郡三座」の筆頭にも「須須神社」が挙げられれているが、一一世紀後半から一二世紀にかけて、修験霊場へと変貌していった。

「越路」は北陸道のことで、日本海沿岸の若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡の七国(現在の福井・富山・石川・新潟の四県)を指す。

「足打」は、足がもつれること、足を痛めること、地団駄を踏むこと、足の疲れをとるためにたたいて揉みほぐすことなど諸説あり、「足占」(歩いて行って左右どちらかの足で目標の地点に着くかによって吉凶を占うこと)ととる説もあるが、「あはれ」と直接つながることからすると、足を討ちつけて痛めたというような直接的な苦痛を言っているものと考えたい。しかしその肉体的苦痛は回想の中に歌われていることによって、ややおぼるげになり、珠洲の岬といった都からはるかに遠い場所に焦点を当てることとあいまって、感傷的な気分を漂わせてもいよう。

3月31日(火)

今日は一日、雨。

  この世をば滅ぼすことには否といへどされど刻々に海面上がる

  白梅、紅梅の花咲けば匂ひ充ちたり春来んとする

  ローソンに購ふ冷凍食材を電子レンジに六分温む

『孟子』万章章句上129 万章問うて曰く、「人言へること有り。『伊尹(いゐん)割烹(かつぽう)を以て(たう)(もと)む』と。(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。然らず。伊尹は有莘(いうしん)(や)に耕して、堯舜の道を楽しむ。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、之を(ろく)するに天下を以てするも、顧みざるなり。繋馬(けいば)千駟(せんし)も、視ざるなり。其の義に非ざるや、其の道に非ざるや、一介(いつかい)も以て人に与へず。一介も以て(これ)を人より取らず。

  伊尹は人に与へず人からも取らずただ清廉な人物である

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

文殊の(かい)に入りにしは 娑竭(しやが)(ら)(わう)波をやめ 龍女(りゆうによ)が南へ行きしかば 無垢や世界にも月澄めり
   (四句神歌・経歌・二九三)

【現代語訳】文殊菩薩が海にお入りになった時には、娑竭羅王は荒波をしずめてお迎えし、龍女が南へ行ったので、南方無垢世界にも月が澄み渡っている。

【評】龍女成仏(→二〇八)とそれに先立つ文殊菩薩の竜宮行きを歌った一首。『法華経』提婆達多品には、文殊菩薩が海中で『法華経』を説いたことは記されるが、海に入る時の描写は見られない。当該今様は、龍女の父・娑竭羅王が荒波をしずめて文殊を歓迎したであろうと想像し、荒海に入ろうとする文殊、命令する娑竭羅王、静まる波、といった動きのある劇的な場面を作り上げている。

「無垢や世界」の「や」は音の調子整えるために添えた間投助詞で、「無垢世界」と同じ。龍女の浄土は「南方無垢世界」と呼ばれる。『法華経』提婆達多品によると、龍女は文殊菩薩の教えを聞いて悟りを開き、たちまちに男子と成って南方無垢世界へ行き、蓮華の上に坐して、衆生のために法を説いた。月の描写も経本文には見えないが、当該今様は、龍女の悟りを澄んだ月に譬え、静かな波と対比させて美しい一首に仕立てている。    
なお、鎌倉時代には、獅子に乗った文殊菩薩が四人の侍者とともに海を渡る、渡海文殊像(彫刻・絵画)が制作されるようになる。一群の像は、中国における文殊の聖地五台山信仰を背景に生まれた図像に基づくが、海を渡る表現は日本に独特のものとされる。古い作例として、文永一〇年(一二七三)康円作、渡海文殊像があるが、この像では台座の框の上面に波が描かれている。また、醍醐寺蔵「文殊渡海図」(一三世紀)では海の波の上に雲が描かれ、その上に、四人の眷属を従えて獅子に乗った文殊菩薩が描かれる。平安時代の現存例は知られないが、海に入る文殊を歌う今様の成立は、このような図像の成立と軌を一にするものと言えるのではないだろうか。

3月30日(月)

まあ、晴れてます。

  ノアの箱舟には乗る資格なきはこのわれなり。階段(タラップ)を前にただ呆然と

これだけの薬を服用している。

  バクトラミン・リクシアナ・アシクロビル・セレスタミンそしてべレキシブル

北海の氷山壊れ全地球の海面上昇す。滅びに近く

『孟子』万章章句上128-3 伊尹(いゐん)(たう)(しやう)として、以て天下に王たらしむ。湯崩じ、太丁(たいてい)未だ立たず。(ぐわい)(へい)は二年。(ちゆう)(じん)は四年。(たい)(かふ)、湯の典刑(てんけい)(てん)(ぷく)す。伊尹、之を桐に放すること三年なり。太甲過ちを悔い、自ら怨み自ら(おさ)めて、桐に於いて仁に処り義に(うつ)ること三年、以て伊尹の己に(をし)ふるを聴くや、(はく)に復帰す。周公の天下を(たも)たざるは、猶ほ(えき)(か)に於ける、伊尹の(いん)に於けるがごときなり。孔子曰く、『唐・(ぐ)(ゆづ)り、夏后・殷・周は継ぐ。其の義は一なり』と」

  唐堯と虞舜は賢者に譲り、夏・殷・周は子孫が継承すいづれも天意なり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

妙見大悲者は 北の北にぞおはします 衆生願ひを満てむとて 空には星とぞ見えたまふ
     (四句神歌・仏歌・二八七)

【現代語訳】妙見菩薩様は、空の北の果てにいらっしゃるよ。衆生の願いをかなえようというので、空には星としてのお姿を現していらっしゃるのだよ。

【評】星の信仰を歌った一首で、四句神歌・仏歌の最終歌。

「妙見大悲者」は北極星を神格化した妙見菩薩を言うが、信仰の対象にはしばしば北斗七星も含まれる。「大悲者」は大きな慈悲の心を持つ者の意で、ふつう、観音菩薩の尊称に用いるが、妙見菩薩の本地を観音とする考え方もあり(『覚禅抄』)、ここでは妙見菩薩に用いて、信仰の深さを強調しているのであろう。妙見菩薩は、国土を擁護し、災難を消滅させ、敵を退ける菩薩とされ(『七仏八菩薩諸説大陀羅尼神呪経』)、三井寺では、この菩薩を本尊とする修法・尊星王法は、秘法中の秘法とされる。尊星王法は今様の流行した院政期に特に重んじられるようになり、白河・鳥羽両天皇によって、三井寺には二つもの尊星王堂が建てられた。応永年間(一三九四~一四二八)に、三井寺の記録を集大成した『寺門伝記補録』によると、「尊星王堂 北院」は承歴四年(一〇八〇)、白河天皇によって建てられたものであり、等身の尊星王菩薩(妙見菩薩)像が安置された。また、「尊星王堂中院」は、三井寺の平等院内に鳥羽天皇が一堂を建てて、尊星王菩薩像を安置したことに始まるが、後白河院もまた信仰が深く、永暦二年(一一六一)には、この尊星王堂の供養に臨幸した。こうした時代背景を考えると、今めかしい素材としての妙見菩薩は、仏歌の最後を飾る一首にふさわしいものと言えよう。

3月29日(日)

晴れて、温かくなるらしい。

  万物の霊長などと言ふものの人類ほど醜悪なるもの他にはあらず

  いつの世も戦ふことを専らに世界全土に平和来たらず

  われを含め人類こそが滅ぼすか。この地球を去るノアの箱舟

『孟子』万章章句上128-2 丹朱は不肖、舜の子も亦不肖なり。舜の堯に相たり、禹の舜に相たるや、年を(ふ)ること多く、(たく)を民に施すこと久し。啓、賢にして、能く(つつし)んで禹の道を承け継ぐ。(えき)の禹に相たるや、年を歴ること少く、沢を民に施すこと未だ久しからず。舜・禹・益、相去ること久遠(きうゑん)に、其の子の賢不肖なる。皆天なり。人の能く為す所に非ざるなり。之を為すこと莫くして為る者は天なり。之を致すこと莫くして至る者は、命なり。匹夫にして天下を有つ者は、徳必ず舜・禹の(ごと)くにして、又天子の之を(すす)むる者有り。故に仲尼は天下を有たず。世を継いで、以て天下を有つもの、天の廃する所は、必ず桀・紂の若き者なり。故に益・伊尹(いゐん)・周公は、天下を有たず。

  天命があれば容易に見捨つることなしされば益・伊尹・周公はなれず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

極楽浄土の東門(とうもん)に (はた)織る虫こそ(けた)に住め 西方(さいほう)浄土の灯火(ともしび)に 念仏の(ころも)ぞ急ぎ織る
                       (四句神歌・仏歌・二八六)

【現代語訳】極楽浄土の東門たる四天王寺の西門で、機織る虫こそはその桁に住んでいるよ。西方浄土の灯火をたよりに、念仏の衣を急ぎ織っているのだよ。

【評】大阪の四天王寺西門で見出したキリギリスを、一生懸命に念仏の衣を織っていると捉えてみせた一首。自由自在な見立てと聞きなしが楽しい。

舞台となる大阪の四天王寺の西門は、極楽浄土の東門と向かい合っている、あるいは極楽浄土の東門そのものであるという考え方があった。前者の考え方を表すものとして、『梁塵秘抄』には「極楽浄土の東門は難波の海にぞ対へたる」と歌う今様(一七六)があって、極楽浄土の東門と四天王寺の西門は難波の海(大阪府)をはさんで向かい合っているという認識が示される。二八六番歌においては、四天王寺西門を極楽の東門そのものとして、桁(柱と柱を結ぶように渡してその上に構築するものの支えとする材木)に住むキリギリスに焦点が当てられている。

本来、四天王寺の信仰の中心は、宝塔・金堂にあったが、西方極楽浄土への憧れが高まると、信仰の中心は、より西側にある西門に移った。鳥羽院の頃から盛んになってきた新興の西門信仰を歌った当該今様は、まさに今様(=当世風)の一首だったのである。

3月28日(土)

まあ晴れてるか。

  正倉院宝物の一つ伎楽面、獅子児どことなくわが孫に似る

  この(わらしべ)の伎楽面。あるときは虚空に(いつはり)を申す

  嘘・嘘・嘘。嘘、嘘だらけの現世(うつしよ)は戦乱はびこり人殺すなり

『孟子』万章章句上128 万章問うて曰く、「人言へること有り。『禹に至りて徳衰へ、賢に伝へずして、子に伝ふ』(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。然らざるなり。天、賢に与ふれば、則ち賢に与へ、天、子に与ふれば、則ち子に与ふ。昔者(むかし)、舜、禹を天に薦むること、十有七年。舜崩じ、三年の喪(をは)りて、禹、舜の子を陽城に避く。天下の民之に従ふこと、堯崩ずるの後、堯の子に従はずして、舜に従ふが(ごと)し。禹、益を天に薦むること、七年。禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山(きざん)(きた)に避く。朝觀(てうきん)訟獄(しようごく)する者、益に(ゆ)かずして、(けい)に之く。曰く、『吾が君の子なり』と。謳歌する者、益を謳歌せずして、啓を謳歌す。曰く、『吾が君の子なり』と。

  わが君の子であるからに益を謳歌せず啓を謳歌す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

不動明王恐ろしや 怒れる姿に剣を持ち 索を下げ うしろに火炎燃え上るとかやな 前には悪魔寄せじとて降魔(がま)の相    (四句神歌・仏歌・二八四)

【現代語訳】不動明王は恐ろしいことだ。忿怒の姿で剣を持ち、縄を下げ、背後には火炎が燃え上がるとかいうことだ。前には悪魔を寄せつけまいとして、猛々しい降魔の形相をしているよ。

【評】不動明王の姿を具体的に生々しく歌う一首。不動明王は、仏法を悪から守り、すべての悪を退治すると信じられた神。煩悩を断ち切る剣と、言うことを聞かない者を調伏する縄(羂索)を持つ。背後の火炎は、毒蛇を食らうという迦楼羅(金翅鳥と訳される伝説上の巨鳥)を象ったもの、「降魔の相」は、悪魔を降伏させる時の怒りの形相。『梁塵秘抄』には、仏・菩薩の慈愛に満ちた優しい姿を歌う今様が多く収められているが、一方で当該今様のような全身に怒りを漲らせた不動や、猛火の地獄を訪れる地蔵(→四〇)などの荒々しさ、勇猛さに焦点を当てたものもあって印象的である。

不動明王は、今様の流行した平安時代末期から鎌倉時代には修験道における主要な崇拝対象になっていった。たとえば、熊野の那智の滝で修行した文覚(一一三九~一二〇三)の不動明王信仰はよく知られている。今様には、修験者としての聖や山伏を歌ったものも多く(→三〇六、四二五、四二七)、恐ろしくも霊験あらたかな不動明王への関心は、山伏らの活躍を通しても、今様を支えた人々の間にも高まっていったであろう。

不動明王は多数の絵画・彫刻に表現されているが、今様と同時代の画像で著名なものは、身の色から「青不動」と通称する青蓮院蔵のもの、「赤不動」と通称する高野山明王院蔵のものである。平安前期の作で園城寺蔵の「黄不動」と合わせて三不動と呼ばれる。当該今様はこうした画像を目の前にしたような具体的な表現を持っている。

「青不動」は特に華麗な迦楼羅炎が特徴的だが、当該今様の持つ視覚的鮮やかさはこのような画像によって育まれたものと考えられる。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』三八話には、絵仏師良秀が自分の家の焼けるのを見て、不動明王の火炎の描き方を会得したと喜ぶ話が見え、不動明王の背負う炎が絵画制作上の重点になっていたことが窺われる。

3月27日(金)

やっと晴れた。

  こぶし・白木蓮・小出毬の花ことしの春も白き花咲く

  苦しみて苦しみ苦しむその果てに死と呼ぶもののわれにもくるか

  死後に(ゆ)場処(ばしよ)などあらず生のことさつぱりと忘れゆくもよからふ

『孟子』万章章句上127 万章曰く、「『尭は天下を以て舜に与ふ』と。(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に与ふること能はず」と。「然らば則ち舜の天下。を(たも)つや、(たれ)か之を与へたる」と。曰く、「天之を与ふ」と。「天の之を与ふるは、(じゆん)(じゆん)(ぜん)として之を命ずるか」と。曰く、「否。天言はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ」と。曰く、「行ひと事とを以て之を示すとは、之を如何(いかん)」と。曰く、「天子は能く人を天に(すす)むれども、天をして之に天下を与へしむること(あた)はず。諸侯は(よ)く人を天子に薦むれども、天子をして之に諸侯を与へしむること能はず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を与へしむること能はず。昔者(むかし)、尭、舜を天に薦めて、天之を受く。之を民に(あらは)して、民之を受く。故に曰く、『天(ものい)はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ』と」

  天は何も言はず行為と事柄のみに天意を示す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろしおもしろや われらも参らば ていとんとうとも響きなれ 響きなれ 打つ鼓 いかに打てばか この音絶えせざるらむ
     (四句神歌・神分・二六五)

【現代語訳】金峰山にいる巫女が打つ鼓よ、打ち上げ打ち下ろししえ面白いことだよ。われらも鼓を打ち申し上げたいことだ。テイトントウとも響き鳴れ。打つ鼓よ。どんな風に打っているから、このように音が途絶えることなく響くのだろう。

【評】巫女が神を降し、神がかりするために鼓を打つ様子を歌った一首。金の御嶽は奈良県吉野郡の金峰山。名高い霊山で源顕兼(一一六〇~一二一五)編の『古事談』巻三‐二五話には、金峰山の「正しい巫女」(占いのよくあたる巫女)が登場する。

「打ち上げ打ち下ろし」は、鼓の音の緩急(高く強くなったり、低く弱くなったり)を示すとともに、それと連動して鼓を構える位置に高低が生じているものと考えたい。

中世の絵巻物を繙くと、『春日権現記絵」巻一五には、座って、左肩の上に置いた鼓を打つ巫女の姿が描かれ、『馬医草紙』には胸の下あたりで縦向きに持った鼓の下面を右手で打っている巫女の立姿が描かれる。また、『石山寺縁起』巻五には、座った膝に上に横に倒した鼓を置き、右側の革を右手で打っている巫女の姿も描かれている。体に対してさまざまな高さで鼓が打たれていることが窺われるのである。当該今様では、巫女の持つ鼓自体のダイナミックな動きと音の変化があいまって「おもしろや」の感嘆につながるものと思われる。

「参る」は、従来、「参詣する」の意に解されてきたが、当該今様ではすでに参詣して巫女の鼓の音を「この音」として聴いていると考えられるから、この「参る」は「する」の謙譲語で、鼓を打つことそのものを指しているのであろう。神を降す巫女の興奮状態に引き込まれ、巫女と一体になって、鼓に「響き鳴れ、響き鳴れ」と命じる歌い手の様子が髣髴する。『梁塵秘抄』には、

寝たる人 うちおどろかす鼓かな いかに打つ手のたゆかるらん いとほしや (四七一)
(寝ている人の目をはっと覚まさせる鼓の音だよ。その鼓を打つ手はどんなにだるいことだろう。かわいそうにね)

という一首もある。鼓を打つ巫女に寄り添う表現を持つ点で二首は共通するが、二六五番歌が巫女への称賛を、四七一番歌が巫女への同情を歌っている点で好対照をなしている。