7月2日(水)

曇りだが、暑い。

  となりて各地を行脚する人になりたき若き日ありき

  ほかひして持て余し者になりたきよ病みて痩せたるわが軀おもへば

  もともとにもてあまし者この社会よりこのよりはみだしてゐる

『中庸』第十章二 下位に在りて上に獲られざれば、民は得て治むべからず。上に獲らるるに道あり、朋友に信ぜられざれば、上に獲られず。朋友に信ぜらるるに道あり、親に順ならざれば、朋友に信ぜられず。親に順なるみ道あり、諸れを身に反りみて誠ならざれば、親に順ならず。身を誠にするに道あり、善に明らかならざれば、身に誠ならず。

  君子の道は遠くして善をはっきり認識しすくなくとも身を誠実に

前川佐美雄『秀歌十二月』 太田水穂

豆の葉の露に月あり野は昼の明るさにして盆歌のこゑ (歌集・冬菜)

このマメの葉はむろん大豆の葉である。枝茎ながらに抜きとるから枝豆ともいわれ、また田の畔によく植えるから畔豆ともいわれる。青田の畔の大豆の葉である。盆歌は盂蘭盆の夜に灯火を持って町内を歩きながらうたう唄(略)一般には盆踊り唄のことをいうので、水穂の郷里である長野県あたりは、とくにその唄もたくさんあって、盆踊りのさかんなところであるようだ。この歌は大正十三年八月、お盆に際して久しぶりに帰郷した時の作、松本市に近い広丘村である。

「野は昼の明るさにして」というほどの月だから、旧のお盆だ。そうしてそれは十六日か十七日ぐらいの月なのだろう。盆踊りは十五日の盂蘭盆が過ぎないとはじまらないからだが、むし暑い夜をいねがたく、またひさびさに見るその夜の月が惜しまれて、外に出た。もの思うともなく歩いていたのだ。少年のころから知りつくしている故郷の野である。すでに夜ふけで畔豆の葉に露がおりて光っている。天心に澄みわたる月は昼をあざむくばかり明るい。するとどこか遠くの方で盆踊りをしている唄ごえが聞こえる。

感懐ひとしおといったおもむきの歌で、かくれた意味があるのではない。(略)秋の稔りを待つばかりである。盆踊りをしているのは、それを祈っての前祝いの遊びでもあるが、また何よりも事もなくおだやかであることの証しでもある。この歌の結句「盆唄のこゑ」からはこのような思いがくみとれる。それは余情として感じられるので、やはり巧みな据え方であると思われる。

けれども「豆の葉の露に月あり」という一、二句、それにつづく三、四句の「野は昼の明るさにして」などは、どことなく俳句的である。俳句的手法によっているのが看取される。(略)水穂の芭蕉への打ちこみようはすさまじかった。赤彦や茂吉とのはげしい論戦をくり返し、まっしぐらにその主義主張をおし通した。俳諧臭を批判されながらも年齢が加わるとともにようやく大きく成長し、欠点は次第に目立たなくなり、水穂独自の歌風ができ上がる。この『冬菜』は第四歌集、そうしてこの歌は五十二歳の時の作である。

2025年7月1日(火)

朝からよく晴れている。暑くなる。

小野泰博『谷口雅春とその時代』(法蔵館文庫)を読む。これは名著だろう。一新宗教の創始者だけの話ではない。谷口が宗教的に育つ時代の世界の思想・宗教が取り上げられ、時代の霊の世界を覗いているかのようだ。「生長の家」時代から後が未刊なのが、きわめて残念。亡くならなければ、「生長の家」の時代、またいえば日本会議につながる線なども解き明かされたかもしれない。そういえばわが家には、父の少ない蔵書に『生長の家』全巻が揃っていた。幼少の頃、ひらいた覚えはあるが内容は全く覚えていない。「生長の家」に関する選挙を応援していたことがあるからその際もらったのだろう。私以外開いたこともなかっただろう。いつ消えたのかもわからない。

  地下室に無数のワイン寝てをりぬわれまた六月の死者のひとりか

  死と生のあはひさまよふごとくなりどちらか決めむ死ぬのは嫌だ

  いつまでも死があらはには見えざるにぼんやりとゐるわれならなくに

『中庸』第十章一 凡そ事はめすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す。前に定まれば則ちかず。前に定まれば則ちまず。行なひ前に定まれば則ちまず。道前に定まれば則ち窮せず。

  前もって考へあれば行きづまり進まなくなることなかるべし

前川佐美雄『秀歌十二月』 東歌・
 彼の子ろと寝ずやなりなむはだ薄の山に月片寄るも (万葉集巻十四・三五六五)
「子ろ」の「ろ」は接尾語で意味はない。「はだ薄」は「はた薄」と同じであろうが、異なるかもしれない。(略)この歌のように「波太須酒伎」とあるものはよくわからない。けれどもこれは「宇良野」にかかる枕詞としてつかわれている。宇良野は長野県小県郡に浦野町があるが、(略)そのころはどこの国の歌かわからなかったのだ。(略)これは高木市之助博士の解が妥当なようだ。もうあの子といっしょに寝ないようになるのだろうか(待っていても来ず)月は宇良野の山に片寄ってしまった、というのである。つまり約束した女が出てこなかった。今か今かと待っているうちに夜がふけて月が宇良野の山に傾いたのだ。それを男が残念に思って悲しみの情を叙べたのである。これも「寝ずやなりなむ」などといっていて少しも卑猥な感じはしない。飾らない心の純粋さのゆえだろう。それを受ける三句の「はだ薄」は枕詞ではあるが、なおその野のさまが目に浮かんでくるとともに、下句のしらべがじつによい。やはり東歌の中での最優秀歌である。ついでだが高木博士は万葉をいう諸学者中、もっとも詩情を解する人である。

2025年6月30日(月)

今日も朝から暑い。

  極端に踏切の減りし私鉄沿線自殺するにも処を択ぶ

  かんかんと踏切鳴れば待ちつづく四輌電車の軽やかに過ぐ

  踏切に溜る人々それぞれに腹に一物隠してをらむ

『中庸』第九章二 (さい)(めい)盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を脩むる所以なり。

(ざん)を去り色を遠ざけ、貨を(いや)しみて徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり。その位を尊く

しその禄を重くし、その好悪を同じくするは、(しん)を親しむことを勧むる所以なり。官盛んにして任使(にんし)せしむるは、大臣を勧むる所以なり。忠信にして禄を重くするは、土を勧むる所以なり。時に使ひて薄く(おさ)むるは、百姓を勧むる所以なり。日に省み月に試みて、既稟(きりん)事に(かな)ふは、百工を勧むる所以なり。往くを送り来たるを迎え、善を嘉して不能を(あわれ)むは、遠人を(やはら)ぐる所以なり。絶世を継ぎ廃国を挙げ、乱れたるを治め危ふきを持し、朝聘(ちょうへい)は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、諸侯を(なつ)くる所以なり。

凡そ天下国家を(おさ)むるに、九経あり。これを行なふ所以の者は一なり。

  天下国家を治むるには九経を実践すその根本は一なり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 東歌(あずまうた)上野(かみつけぬ)国歌(くにのうた)

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野(いりぬ)のおくもかなしも (万葉集巻十四・三四〇三)

「まさか」は現在ということ。まさしく、現に今というほどの意。「草枕」は旅にかかる枕詞だが、ここでは「多胡」にかかる。万葉集中ただ一つの変則例である。「多胡」は群馬県多野郡多胡村(現在、吉野町)であり、入野は山の方へ深く入りこんでいる野であろうが、地名のような感じもする。一首の意は「自分の恋ごころは現在このようにせつないけれど、多胡の入野の奥ふかいように遠い先々も悲しいばかりせつなく思われる」というのである。「草枕多胡の入野の」は「おく」をいうための序詞であり、「おく」は場所だけでなく時間もいうので、将来もせつなく悲しく思われるといっている。

一首の中に「かなし」の語をくり返しているが、少しもわずらわしくない。かえって結句の「おくもかなしも」は泣き甘えているがごとき口調の感じられる切実な語で、またつつましい女ごころのあわれさをうったえているいる。東歌に似合わず俗な民謡調の感じられぬ、そうしてどこか奥深いものを思わせる、何ともいいようのない、よい響きをつたえる可憐の作だ。

(略)東歌はだいたいが民謡であり、民謡ふうのものが多いのだから、そうしてそれは民謡ゆえに恋愛の歌が中心であるのだから、特定の夫とか妻の歌と解したのでは東歌らしさがなくなるだろう。(略)それにしても東歌は個人の作でもあろうし、集団の中から生まれたものもありうが、東国地方で行われていた歌であって、作者はむろんわからない。その作られた地方にしてもわかっている国のものもあり、わからない国のものもある。

2025年6月29日(日)妻の誕生日である。年は言わないでおこう。

朝から晴れているし、すこし温度が下がっているようだ。しかしここからはどうだろう。

  天人がこの地に降りてとまどふか松の林の今日も鳴りをり

  巨大なるトランク載せて走り行く何処へ行くか物を運びて

  大空には女神の美しき脚がある曇りのなかにそれを探る

『中庸』第九章一 凡そ天下国家を(おさ)むるに、九経あり。曰く、身を脩むるなり、賢を尊ぶなり、親を親しむなり、大臣を敬するなり、群臣を体するなり、庶民を(いつく)しむなり、百工を(ねぎら)ふなり、遠人を(やはら)ぐるなり、諸侯を(なつ)くるなり。

身を脩むれば、則ち道立つ。賢を尊べば、則ち惑はず。親を親しめば、則ち諸父・昆弟怨みず。大臣を敬すれば、則ち(まよ)はず。群臣を体すれば、則ち士の報礼重し。庶民を子しめば、則ち百姓勤む。百工を来へば、則ち材用足る。遠人を柔ぐれば、則ち四方これに帰す。諸侯を懐くれば、則ち天下これを畏る。

  天下国家を治むるには九経、つまり九つの原則があるさすれば威光あり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 島木赤彦

谷の入りの黒き森には入らねども心に触りて起伏す我は (歌集・柿蔭集)

大正十四年作、死ぬ一年前の「峡谷の湯」四十余首中「赤岳温泉数日」の中にある。これと並んで奥山の谷間の栂の木がくりに水沫飛ばして行く水の音 

というような佳作がある。赤彦らしい歌でこの方がいっそうすぐれており、りっぱかもしれないが、「谷の入りの黒き森には入らねども」というあたり、かまえをなくした赤彦の心が感じられる。「心に触りて起臥す我は」は赤彦自身にしてもよく説明がつかないのではないか。そういう心境である。神秘のようなものを感じる人は感じてよいので、私はこの「黒き森」に赤彦の人生が象徴されているような気がして、読んだ当時不安であった。危い、恐いという感じがしたのである。

赤彦の歌は茂吉に及ばないというものもあるが、けっしてそういうことはない。(略)赤彦は歌境も狭く、またいくばくかやぼなところもあるが、勝負は一首ずつだ。そうすると赤彦の方がすぐれていはしないか。心の持し方が違うのである。位が高いといってもよいが、おおかたの歌人はわからないのではないか。比べるのが無理だが、

しかし赤彦に学べと強くいいたい。明治・大正・昭和三代の歌人では、私は赤彦をもっとも高く評価している。蒙った恩恵はいいがたいほどである。

2025年6月28日(土)

今朝も暑い。よく晴れている。いつになったら梅雨が明けるのだろう。

  探偵に尾行されたるか駅からの暗き道迷はずわが後をくる

  死ぬことはまちがひないが苦しまずに死ねるかどうかそんなことはない

  さう遠くなく死の世界に被われてそちらに移るか死ねば空白

『中庸』第八章 天下の達道は五、これを行なう所以の者は三。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟(兄弟)なり、朋友の交なり。五者は天下の達道なり。知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。これを行なう所以の者は、一なり。

或いは生まれながらにしてこれを知り、或いは学んでこれを知り、或いは困しんでこれを知る。そのこれを知るに及んでは、一なり。或いは安んじてこれを行なひ、或いは利としてこれを行なひ、或いは勉強してこれを行なふ。その功を成すに及んでは、一なり。

子曰く、「学を好むは知に近し。力めて行ふは仁に近し。恥を知るは勇に近し」と。斯の三者を知れば、則ち身を脩むる所以を知る。身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。

  孔子が言ふ学を好むは知に近く、努めて行なふは仁に近く、恥を知るには勇に近し

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 島木赤彦

山道の昨夜の雨に流したる松の落葉はかたよりにけり (歌集・太虚集)

大正十一年作、「有明温泉」行の一首である。同じ時に

たえまなく鳥なきかはす松原に足をとどめて心静けき

いづべにか木立は尽きむつぎつぎに吹き寄する風の音ぞきこゆる

  しらくもの遠べの人を思ふまも耳にひびけり谷がはのおと

   などの傑作がある。(略)私は掲出した歌を当時における赤彦の代表作としてとくに取りあげるのである。意は明瞭だからあえていう必要はないが、これは雨あがり、朝早い山道を歩いているのである。それは人通りのない山道をただひとり歩いているのである。そういう説明語は何もないけれど、そうしたおもむきが感じられる。同行者があってはいけないのである。(略)これはあくまでひとりの歌だ。(略)川のようになって流れた雨水に片寄せられている松の落葉だけをいったのがよかった。さすがに赤彦である。清潔であり、清澄である。一読して心をぬぐわれる思いがする。声調が冴えきっているのだ。しかも赤彦自身のとなえていた自然人生の寂寥感というようなものもわかるような気がする。    もくもくと山道を歩いている赤彦の心は孤独の思いに堪えていたのだ。(略)赤彦は日夜懊悩したはずだが、それはけっして表にださなかった。それを自然風景の写生歌の中に韜晦せしめたといっては語弊があるが、しかし一途にそれこそまっしぐらにその写生道にうち込んで行った。その態度はすでに前に述べたように覇者的思想を根底に持っていた。修行をいい鍛錬を説いたが、けれども根はやさしく、そうしてさびしい人だったようだ。この歌は冷たいばかり清く冴え澄んでいるけれど、赤彦の本心が出ている。それはいつでも本心を歌っているのだが、時にきつく出すぎて、態度が目立つきらいがあった。

2025年6月27日(金)

朝は涼しいが、やがて猛暑。

  宇宙線に刺さるがごとく挫けたり動かなくなる地球人われ

  宇宙線に刺されて病めるわが軀なり今日もよろけて木の影過る

  血圧の変化は空の上にある気圧のせいなり気圧が動く

『中庸』第七章 哀公(魯の君主)、政を問ふ。子曰く、「文・武の政は、布きて方策(書籍)に在り。その人存すれば、則ちその政挙がり、その人亡ければ、則ちその政(や)む。人道は政に(つと)め、地道は樹を敏む。夫れ政なる者は蒲蘆(ほろ)(難解)なり」と。

故に政を為すは人に在り。人を取るには身を以てし、道を脩むるには仁を以てす。

仁とは人なり、親を親しむを大と為す。義とは宜なり、親を親しむの(さい)、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。

故に君子は以て身を脩めざるべからず。身を脩めんと思はば、以て親に事へざるべからず。親に事へんと思はば、以て人を知らざるべからず。人を知らんと思はば、以て天を知らざるべからず。

  仁とは人なり義とは宜なり政を為すには天を知るべし

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 作者不詳

琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に嬬や隠れる (万葉集巻七・一一二九)

琴の歌といえばこの歌が思い出される。詞書に「倭琴を詠む」とあるが、巻五の大伴旅人の「梧桐の日本琴一面」の序詞の「君子の左琴」でもわかるように、そうして何も君子でなくとも琴は女だけがひくのではなく、もともと祭祀に供される楽器だったのだから女もひけば男もひいた。

この歌は「雑歌」の部はいっているけれど挽歌に近い。「琴の下樋」は琴の胴のうつろなところをいうので、なき妻の琴を取り出してひこうとしたところが琴の胴に妻がかくれているような気がする。嘆きが先だってひいてもしらべをなさない、と妻に

先だたれた男の悲しみを歌いあげてあわれである。せめて妻の琴でもひいたなら気がまぎれようかと取り出したのだ。けれどもかえって悲しみを深からしめた。そういう思いもこめられていて、哀憐の情せつせつとして身に沁むものがある。万葉集中高く評価されてしかるべき一首である。

(略)これを最も推奨したのは佐藤春夫である。万葉集中の優秀歌として機会あれば口に筆にしていた。(略)それにしても同じ琴を歌っていても万葉と王朝ではやはり大きな違いが見られる。万葉のこれは直接的生理的であるのに対して、王朝のあれは主観的心理的だった。万葉のこれはわかりやすいが、王朝のあれは複雑だった。

2025年6月26日(木)

朝から暑い、じめじめと湿気もある。

ひさしぶりに青山文平である。文庫本になった『本売る日々』、単行本の時に読んでいるのだが、実に新鮮、また佳い、熱い。店は構えているが、本を行商している松月平助。この男が魅力的だ。また江戸時代に刊行されていた『芥子園画伝』、『古事記伝』ほか国学書、そして『群書類従』、最後に医書などを紹介する。そして最後に『佐野淇一口訣集』を出版することになり、それこそ蔦屋重三郎らの仲間入りだ。

  西側の舗道に遊ぶこすずめの飛びまた戻り豁達なりき

  わが歩く足先に小さな虫動く逃げるように這ふ真っ黒な虫

  部屋の内を老いをからかふやうに飛ぶ蛾のごときものあっちへこっちへ

  玉虫の玉になりたるを拾ひ蒐めしばしは手のひらに玉をころがす

「中庸」第六章三 子曰く、「武王・周公は、其れ(たっ)(こう)なるかな。夫れ孝とは、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり」と。

春秋にはその祖廟を脩め、その宗器を(つら)ね、その(しょう)(い)を設け、その時食を薦む。宗廟の礼は、昭穆(しょうぼく)を序する所以なり。(しゃく)を序するは、貴賤を弁ずる所以なり。事を序するは、賢を弁ずる所以なり。旅酬(りょしゅう)(しも)(かみ)の為にするは、賤に逮ぼす所以なり。(えん)(け¥もう)(よわい)を序する所以なり。その位を践み、その礼を行ない、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事ふること生に事ふるが如くし、亡に事ふること存に事ふるが如くするは、孝の至りなり。

郊社(こうしゃ)の礼は、上帝に事ふる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼・禘嘗(ていしょう)の義に明らかなれば、国を治むること其れ(こ)れを掌に示るが如きか。

  孔子が言ふには孝行とは父祖の志をよく継ぎてその事業をよくひきつぐものなり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 斎宮(さいぐう)女御(にょうご)

琴の音にみねの松風かよふらしいづれのをよりしらべ初めけむ (拾遺集)

「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに松風夜琴に入るといふ題をよみ侍りける」の詞書がある。「野宮は斎宮だから嵯峨の野の宮(略)庚申は庚申待のことで、七月のかのえさるの日、今の夕四時から翌朝四時まで、帝釈と青面金剛、または三猴の象として猿田彦を祀って終夜行われた。この夜を守って眠らないため、人びとは歌を作ってつれづれごころを遊ばせた。その題が「松風夜琴に入る」というのであった。題そのものがすでに一つの詩である。至難の出題にさだめし人びとは当惑したと思われるけれど、これはまた何とさわやかなすがすがしい調べの歌のなのだろう。苦吟のおもむきはいささかもない。かき鳴らす琴の音の高まるのは、さつさつたる峰の松風が吹きかようからだという上三句を受ける第四句「いづれのをより」の「を」は、琴の「を」と峰の「を」とを掛けており、松風に人を待つの縁を持たせているなど、措辞が巧緻をきわめているだけでない。いいようもなく優しく美しく、またほのかな夢のような心のうちをにおわせる。つつましい恋ごころをほとんど絶え入るかのようにきつくそれとはなしにいい放っているなど、ことばに出して語りがたい思いを自分にいい聞かせ人にも訴えながら、さながらに放心したかのごとく、松風の音にあわせていよいよ高く琴をひいている。その琴の音が自分ひいている。その琴の音がまた人のひいている琴の音に聞こえてくる。人のひいている琴の音が自分のひいている琴のしらべにかよってきて、せつなくもまた空虚なようにも感じられるという思いをこめた、これはまことに複雑な幽艶象徴の叙情であって、同時代あまたある女流歌人の傑作中でもとくに出色の一首である。(略)後鳥羽院には認められていたようだが、一般にはそれほど知られていないわけである。品高くしずかな人柄であったようだ。

みな人のそむきはてぬる世の中にふるの社の身をいかにせむ (新古今集)