2025年4月23日(水)

朝から雨だ。夕方まで降るらしい。あとは曇り。

春の風を思い出しつつ

  木蓮の純白の花散り果てつ花びら汚れ樹下に散らばる

  花散れば花はさっそく穢れをり一枚拾ひたしかめてゐる

  この花は江戸の女郎ごときにてたちまち汚れなまいき申す

『論語』微子七 子路従ひて後れたり。丈人(じょうじん)の杖を以て(あじか)を荷なふに遇ふ。子路問ひて曰く、「子、夫子を見るか。」丈人の曰く、「四体勤めず、五穀分たず、孰をか夫子と為さん。」其の杖を植てて芸る。子路拱して立つ。子路を止めて宿せしめ、鶏を殺し黍を為りてこれに食らはしめ、其の二子を見えしむ。明日、子路行きて以て(もう)す。孔子曰く、「隠者なり。」子路をして反りてこれを見しむ。至れば則ち(さ)る。子路曰く、「仕えざれば義なし。長幼の節は廃すべからざるなり。君臣の義はこれを如何ぞ其れ廃すべけんや。其の身を潔くせんと欲して大倫を乱る。君子の仕ふるや、其の義を行なはんとなり。道の行なはざるや、已にこれを知れり。

  子路が言ふ丈人の世話になりながらその勝手な行なひ許しがたし

前川佐美雄『秀歌十二月』二月 作者不詳

はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は(くも)らひにつつ (万葉集巻十・二三二二)

「冬の雑歌」の「雪を詠む」九首中の第七番目の歌。よみ人知らずの類とはいえ稀に見る秀歌だ。(略)それに「はなはだも」の語の使い方がなじみうすく縁遠く思われるものだから、えてして見過ごされてしまいやすい。このつかい方をした歌は万葉では他に次の二首があるきり。

はなはだも降らぬ雨ゆゑ行潦(にはたずみ)いたくな行きそ人の知るべく (同巻七・一三七〇)

はなはだも夜深けてな行き道の辺の五百(ゆざ)小竹(さ)が上に霜の降る夜を (同巻十・二三三六)

前のは譬喩歌で平凡だが、後のは冬の相聞歌で、これはなかなかの秀作だ。(略)
それは案外に近代的だ。三句「こちたくも」はぎっしり雲のつまっている状態であるにはしても、また人のうわさなどする時の「言痛くも」の思いもひそんでいる。降るだけ降ったならば天候に支配され、その重圧に堪えかねている怨みとも諦めともつかぬ複雑な心情をめだたぬ独語体の、ゆるき調べのしずかな口付きで歌いあげているだけに、いっそう思いが深い。この歌を大いに推奨したい。なお結句「曇りあひつつ」と訓むのもあるが、私は「陰らひにつつ」の古調をよしとする。

2025年4月22日(火)

今日も晴れ、春らしい日である。そして父が死んだ日である。あれから三十六年。生きていれば九十七になる。

朱川湊人の小説をはじめて読んだ。『花まんま』、これが面白かった。大阪のあまり上等ではない町内の怪異譚。短編六作である。意表をつかれたような、どこか哀しく、寂しい、しかしユーモアのある作品たちであった。朱川は1963年大阪生まれ、物語世界も、十歳前後。年代がそう遠くないので時代性もおおかたわかる。「トカピの夜」の朝鮮、「妖精生物」の摩訶不思議の住民たち、「花まんま」の生れ変り、「送りん婆」における人生の終い、「凍蝶」の生と生物のかかわり、いやいや普通のようで普通ではない。平明だけど深い。驚異的な凄さがある。

  朱川湊人の「トピカの夜」の妖しさは死せるチャンホと遊ぶ少年

「トピカの夜」を読みて涙するわれがゐる老いぼれたれど心ふるふ

  つつじの花に朱の色とうす桃色の花が咲くわれの眼下に垣なすところ

  西洋たんぽぽの黄の色のあざやげば西洋たんぽぽわが好みなり

  常葉樹の楠の木に新旧の葉のせめぎあふ旧きはおちて代替はりする

『論語』微子六 長沮・桀溺、耦して耕す。孔子これを過ぐ。子路をして津を問はしむ。長沮が曰く、「夫の輿を執る者は誰と為す。」子路曰く、「孔丘と為す。」曰く、「是魯の孔丘か。」対へて曰く、「是なり。」曰く、「是ならば津を知らん。」桀溺に問ふ。桀溺が曰く、「子は誰とか為す。」曰く、「仲由と為す。」曰く、「是れ魯の孔丘の徒か。」対へて曰く、「然り。」曰く、「滔滔たる者、天下皆是れなり。而して誰か以てこれを易へん。且つ而の人を(さ)くるの士に従はんよりは、豈に世を(さ)くるの士に従うに若かんや。耰して輟まず。」子路以て告す。夫子憮然として曰く、「鳥獣は与に群を同じくすべからず。吾斯の人の徒と与にするに非ずして誰をか与にかせん。丘は与に易へざるなり。」

孔子の弟子でむだな骨折りをするよりは、われわれ隠者の仲間入りをせよと子路にいっているが、こうしはがっかりして「私は人間の仲間といっしょに居るのでなくて、だれといっしょに居ろうぞ。」といって、長沮・桀溺の言を採用しなかった。

  長沮・桀溺が耕すところ孔子が通る結果隠者の仲間にはならず

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 山上憶良

ひさかたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて(なり)(し)まさに (万葉集巻五・八〇一)

「惑へる(こころ)を返さしむる歌の」のこれは反歌であるが、長歌には序がついている。「ある人、父母を敬ふことを知れれども(じ)(やう)を忘れ、妻子を顧みずして、脱屣よりも(あなづ)れり」云々と漢文口調の名文がつづき、そうして「父母を、見れば、尊し、妻子を見れば、めぐし愛し、世の中は」と長歌がはじまる。ともにいずれも憶良の思想がよく出ている。それは儒教の道徳観で、後には実生活の常識ともなるけれど、この時代では儒教はなおもっとも進歩的な思想として、(略)尊敬せられもすれば一面けむたがれもしたことだろう。うるさいおやじであったろうが、親切であった。おせっかいだったろうが、ものわかりがよかった。
この「為まさに」がよい。心憎いほどよい。命令しているのでなく「しなさいや」とやさしくさとしているのである。憶良の歌はときどき反発を感じるけれど、こういうふうだとなかなかよい。

2025年4月21日(月)

晴れて、暖か。

  中庭は百日紅の葉が萌えてるさみどり色の木のみではなく

  さるせべりはもう勝手色オレンジの葉の燃え立ちて自己を主張す

  躑躅やうやく蕾む見ゆわづかに赤き芽立ちや四月

『論語』微子五 楚の狂(せつ)輿(よ)、歌ひて孔子を過ぐ。曰く、「(ほう)よ鳳よ、何ぞ徳の衰へたる。往く者は諫むべからず、来たる者は猶ほ追ふべし。(や)みなん已みなん。今の政に従ふ者は(あや)ふし。」孔子(お)りてこれと言はんと欲す。(はし)りてこれを(さ)く。これと言うことを得ず。

もの狂いの説與―乱世をあきらめて狂人のまねをしている隠者。鳳―鳳凰。治世に現れている乱世に隠れる瑞鳥。孔子にたっとえる。歌の内容は早くこの世に見きりをつけて隠者になれと孔子にすすめている。

  鳳よ鳳よ、徳のおとろへたる世には孔子よ早く隠士ならむか

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 山上憶良

天ざかる鄙に五年(いつとせ)住まひつつ(みやこ)のてぶり忘らえにえり (万葉集巻五・八八〇)

憶良としてはこれはめずらしくすなおな歌だ。(略)何かものたりないし、憶良らしくないという気もしないではない。それでも一時代前の歌にくらべるとその思う心は複雑だ。それは裏がわに回されてあるとはいえ、やはり憶良の歌だ。新しい時代のさかんな文化ののにおいがする。「京のてぶり」といい「忘らえにけり」というなかにそこはかとなくただよっていて、うっとりする。善くも悪しくも最高の文化人でないといえない感懐にちがいない。

この歌は上司である太宰師の大伴旅人が大納言となって帰京するに当たって、「敢へて私の懐を布ぶる歌三首」を作って旅人に「謹上」したその一首目である。

他の二つは、

かくのみや息づきをらむあらたまの(き)(へ)行く年の限り知らずて (同八八一)

吾が主の御魂賜ひて春さらば平城(なら)(みやこ)召上(めさげ)げ給はね (同八八二)

2025年4月20日(日)

曇りだ。気温は上がるようだが、家の中はどこか寒いのだ。

  小手毬の花ぎつしりと咲くところしばし憩ふてまた歩きゆく

  つつじも花の赤き花びら捥ぎとりて毒だといへど蜜啜りをり

  つつじの花咲くところ目を瞑り歩きを止めてしばし息吸ふ

『論語』微子四 斉人(せいひと)(じょ)(がく)(おく)る。季桓子(きかんし)これを受く。三日(ちょう)せず。孔子(さ)

斉の人が女優の歌舞団を(魯に)贈ってきた。季桓子はそれを受けて三日も朝廷に出なかった。孔子は(魯の政治に失望して)旅立たれた。

  斉の国の妨害工作に浸りたる魯に絶望し孔子旅立つ

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 与謝野晶子

源氏をば一人となりて後に書く紫女年わかくわれは然らず (白桜集)

「紫女は年わかくわれはし然あらず」は、それが式部は年が若かったけれど、今の自分はそうではない老年だと、その事情を無愛想と思われるほどに抑揚もなくいい捨てたのがあわれである。式部にはとても及びもつかぬという歎きがある。それと年とって夫に先立たれたという悲しみもある。それやこれやの人にはいえない無量の思い、その千万言がこのことばの中にこめられてある。読みかえしていると涙がこぼれる。

青空のもとに楓のひろがりて君なき夏の初まれるかな

やうやくにこの世のかかりと我れ知りて冬柏院に香たてまつる

2025年4月19日(土)

今日もいい天気で、暖かくなる。

北方謙三『絶影の剣 日向景一郎シリーズ③』読む。景一郎がまた不気味なほどの活躍をするのだが、ほとんど無駄なことは語らない。しかし、滅法剣は強い。今回は医師丸尾修理が中心になる。修理を囲むようにして景一郎、森之助らが奥州・一関の山村における村の滅亡、謎解きにあたる。剣も圧倒的だが、幕府に対する修理の対応がなんともいえずおもしろいし、そこにエロスも加わりちょっと言いようもない。

  花水木に白き花咲くこの花の咲き盛るころ父死ににけり

  父の死後いっせいに咲く花水木ささげるごとく天に向き咲く

  この花の咲くとき少し涙ぐむ父よ父よこの花水木見よ

『論語』微子三 齊の景公、孔子を待つに曰く、「季子の(ごと)きは則ち吾能はず。季孟の間を以てこれを待たん。曰く「吾老いたり、用うること能はざるなり。」孔子(さ)る。

斉の景公が孔子を待遇するについて、魯の上卿である季氏のようにはできないが、季子と孟氏との中間ぐらいで待遇しよう。」といったが、やがてまた「わたしも年をとった。用いることはできない。」といった。孔子は斉から旅立った。

  斉の国の景公がいふ孔子の待遇しかれども用いることできず孔子は去りき

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 与謝野晶子

君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時 (『白桜集』)

夫寛(鉄幹)に死別して、あとにのこった晶子のある日の述懐である。西の方はむろん西方浄土で、そこに亡き夫がいる。そこからひとりとなった自分をあわれむように夕日射すというので、普通人と同じ悲しみしている。それでよいのだし、其れだから心にしみわたる。(略)

「夕日射す時」はまだ述懐していない。述懐はこれから後にはじまるので、その中には今いったようなことどもが含まれる。それほどこの結句は重要な役を果たしている。同じようなつかい方はだれでもするが、そこはさすがに晶子である。と思われるとともに、そんなことにはこだわりなく、歌いたいように歌っている。

この歌でやはり晶子だと思わせるのは初句だ。他のものなら「君がゐる」または「君のゐる」くらいのところ。これは晶子の歌風のよい方面、その丈高さを象徴している。

2025年4月18日(金)

朝から雲はあるが、晴れてくる。

  明烏けさも電柱の上にゐるこの地の王のごとくふるまふ

  烏三羽が領したるこの一帯の上空に姿あらはすとんび数羽が

  木の枝にすずめ来てゐる胸の毛の白く愛らしまたすずめ寄る

『論語』微子二 柳下(りゅうか)(けい)(魯の賢大夫)、士師(罪人を扱う官)三たび(しりぞ)けらる。人の曰く、「子未だ以て去るべからざるか。」曰く、「道を直くして人に事ふれば、焉くに往くとして三たび黜けられざらん。道を枉げて人に事ふれば、何ぞ必ずしも父母の邦を去らん。」

人に仕えようとしたら、どこへ行っても三度は退けられる。退けられまいとして

道をまげて人に仕えるくらいなら、なにも父母の国を去る必要もないでしょう。

  仕へやうとして三度退けらるるとも道枉げず父母の国をも去らず

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 高市黒人

吾が船は比良の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり (万葉集・二七四)

この歌は、前の歌とともに黒人のもっとも黒人らしい歌として、私は愛誦するのである。けれども世間の人気はこれらにあるのではなく、黒人のなかから人麿的なものを見いだしてそれをよしとしていたようである。だからこれらの歌よりは同じ羇旅の歌八首中でも、

桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる (二七一)

何処にか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば  (二七五)

これらの方が評判がよい。そうして私もそれに賛同していたのだが、しかし次第に見方が変わってきたところへ折口信夫の説に誘導された。(略)その歌の心は繊細である。しかしけっして弱いのではない。たよりないしらべのようにみえても案外にひきしまっていて、瀟洒な感じだ。適当な軽みもあって、どこか近代的なにおいがする。黒人の歌のよいところだが、当時でも人びとに愛誦せられていたらしく、

「比良」が「明石」に変えられて人麿歌集にはいっている。

吾が船は明石の湊に榜ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり (同巻七・一二二九)

2025年4月17日(木)

朝から晴れ。二十五度くらいになるらしい。

  中庭は百日紅の葉が萌えるさみどり色の木々のみでなく

  さるすべりはオレンジ色の葉ぞ燃ゆるこんな色だったか新芽の色は

  つつじがようやく花にひらきゆく赤き新芽の蕾とならむ

『論語』微子第十八 一 微子はこれを去り、箕子はこれが奴と為り、比干は諫めて死す。孔子曰く、「殷に三仁あり。」

殷王朝の末に紂王が乱暴であったので、微子は逃げ去り、箕子は狂人を真似て奴隷となり、比干は諫めて殺された。孔子は言った、殷には三人の仁の人がいた。しわざは違うけれども、みな国を憂え民を愛する至誠の人であった。

  殷王朝の末期に紂王出でたりき殷の王三仁を皆避けられき

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 高市黒人

旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖に傍ぐ見ゆ (万葉集巻三・二七〇)

赤の反対色としての青を、沖の青さをいわずして感じささる。それらもこの歌のよいところで、はでではなく、しずかにその哀愁を歌いあげているあたり、同時代の人麿や赤人とはまたちがった感銘を受ける。