8月26日(火)

今日も無茶苦茶暑い。

その三

  一日目の夜にビナウォークを訪れてカルディにふおやつ三点

  この世ならぬホテルの部屋にこもりをり。煙草の臭ひ気にはしつつ

  禁煙室は満室なりき。わが入る喫煙室はわづかに空きあり

『孟子』梁恵王章句下10-2 王曰く、「大なるかな言や。寡人疾有り、寡人勇を好む」と。対へて曰く、「王請ふ小勇を好むこと無かれ。夫れ剣をし疾視して曰く、『彼んぞ敢て我に当らんや』と。此れを匹夫の勇、一人に敵する者なり。王請ふ之を大にせよ。詩に云ふ、『王赫として斯に怒り、爰に其の旅を整へ、以てにくをめ、以て周のを篤くし、以て天下に対ふ』と。此れ文王の勇なり。文王一たび怒りて、而して天下の民を安んぜり。

  文王に勇ありてひとたび怒れば民平らかなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓

しらぬひの筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖けく見ゆ (万葉集巻三・三三六)

「しらぬひ」は筑紫の枕詞、筑紫は九州全体の総名であった。「綿」は真綿で絹綿のことである。(略)一首の意は「筑紫の絹綿はかねがねから聞いてはいたが、身につけて着ないうちから、なるほど見ただけでも暖かそうだ」というので、大宰府に収納せられた絹綿を賛美したものと思われる。その心が上の句に感じられるが、下の句「いまだは著ねど暖けく見ゆ」は平凡なようでありながら、心も調子も素直にとおっているので、単純な一首をよく救って、情趣こまやかなものさえ感じさせるのである。

(略)

作者沙弥満誓は、僧でであるが、在俗の時は笠朝臣麿といい、美濃守に任ぜられて木曽路開通に功があり良吏の聞こえ高かった。元明天皇不予のおり、天皇のために僧となって満誓と名のり、のちに筑紫観世音寺造営の長官に任ぜられて九州へ遣わされた。これはその任官中の歌だが、そこでは大宰府の長官大伴旅人と親しくしており、旅人が帰京した時に次の二首を作って贈っている。

まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ (同巻四・五七二)

ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には会ふ時ありけり (同・五七三)

ともになかなかの佳品だが、これに対して旅人の和えたのか次の二首である。

此処にして筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし (同・五七四)

草香江の入江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして (同・五七五)

やはりすぐれた歌だが、あとの歌の「友無しにして」など、その友情を思いしのばせる。

8月25日(月)

今日一日暑いようだ。

その二

  海老名駅の南も暑く、サングラスに暴漢きどれどかよわき爺

  四階のスターバックスに席を得て、ガラス戸にむかふ。空を見てゐる

  雲一つなき夏の空かくもかくもぞわが左右の人

『孟子』梁惠王章句下10 斉の宣王問うて曰く、「隣国に交はるに道有るか」と。孟子対へて曰く、「有り。仁者のみ能く大を以て小に事ふることを為す。是の故にはに事へ、文王はに事へたり。惟智者のみ能く小を以て大に事ふることを為す。故に大王はに事へ、は呉に事へたり。大を以て、小に事ふる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事ふる者は、天を畏るる者なり。天を楽しむ者は天下を保ち、天を畏るる者は其の国を保つ。詩に云ふ、『天の威を畏れ、時にて之を保つ』と」

『詩経』にいふ「天の威を畏れ、時に于て之を保つ」さてさてかくのごとくなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 待賢門院堀河

長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ (千載集)

「百首の歌奉りける時、恋の心を詠める」とある。「長からむ心も知らず」はいつまでも心変わりしないかどうかも知らずに。「黒髪の」は「長からむ」の縁語だが「乱れてけさは」の掛詞となっている。「ものをこそ思へ」はこの場合は恋の物思いをする。思い悩むというほどだろう。一首の意は、「いつまでも心変わりなさらないかどうかがわからないので、寝乱れた黒髪のように心が乱れて、今朝はさまざまに案じられる」というぐらいである。(略)この歌は拾遺集のおち紀貫之の、

朝な朝な梳ればつもるおち髪の乱れて物を思ふころかな

を本歌としたものとされているが、貫之の歌は汚らしい。はたしてこのような歌を本歌としたか、作者に聞いてみなければわからぬことだ。(略)貫之の歌とはくらぶべくもないすぐれた歌なのだから。

これも百人一首に入っている歌だが、玉石混淆の百首中にはこのような秀歌もあるのだから、救わるる思いがする。作者は中古六歌仙の一人、鳥羽天皇の皇后待賢門院に仕えていたが、皇后が出家されたので、したがて尼になった。祖父の兄が堀河左大臣であったところから待賢門院堀河と呼ばれた。

8月24日(日)

今日も猛暑だ。

ほぼ一月前のこと その一

  キッチンの総入替に時を合せホテルへ逃げ出すわれならなくに

  外界は酷暑なり。冷房の度合高めてこの部屋出ず

  朝がらすここにも鳴くや。目覚めたるホテルのベッドの頭の上に

『孟子』梁恵王章句下9-2 曰く、「文王の囿は、方七十里、の者も往き、の者も往く。民と之を同じうす。民以て小なりと為すも、亦宜ならずや。臣始めて境に至るや、国の大禁を問ひ、然る後敢て入れり。臣聞く、『郊関の内、囿方四十里なる有り。其のを殺す者は、人を殺すの罪の如し』と。則ち是れ方四十里、阱を国中に為るなり。民以て大なりと為すも、亦宜ならずや」と。

  方四十里も大なりとそこに麋鹿を殺す者人を殺すと同じことなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大弐三位

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする (後拾遺集)

「かれがれなる男のおぼつかなくなどいひたりけるによめる」の題詞がある。「かれがれ」は、はなればなれ、「おぼつかなく」は、はっきりしない、たよりないというほどの意。しばらく逢わないで疎遠になっている男から、あなたの心が不安だ、たよりなく思われるといって来たのに対した歌である。

有馬山は摂津の有馬郡、猪名野はその山の付近で、(略)歌枕として知られている。

初句から三句までが「いでそよ人を」の「そよ」を引き出すための序詞、笹原に風が吹くとそよそよと音を立てるからだ。「いで」は「さあ」と相手を誘い出し、また呼びかける場合と、「いやどうして」と相手にはんぱつする場合などに用いる感動詞だが、ここでは後者の意。「そよ」はそれよ、それですよの意。「忘れやはする」の「やは」は反語で、忘れない、忘れなんかするするものかの意である。それでこの歌は、「いやどうしてあなたを忘れなどするものですか」というだけのことである。ただそれだけの下二句で足りるところを、有馬山をいい、猪名の笹原をいい、吹く風をといって上三句を費やしている。(略)そんなことはかかわりなく言葉どおりに、調べにしたがって読みさえすればよいのである。下手な注釈書なんかかえって邪魔だ。くりかえし読んでおれば自然に妙味がわかって来る。すなわち上三句は序詞であるが、なお有馬山のふもとの猪名の笹原を吹きわたる秋風のさびしさを表現しながら、同時に失恋に近い心のわびしさを象徴してもいる。この上の句を受ける下句が大事であるが、四句「いでそよ人よ」の鮮かな変転ぶりに感嘆する。言葉の駆使斡旋が自在である。微妙な心情をその調べに乗せて結句に移る。それが「忘れやはする」の反語に納められて、心もとないなどとはとんでもない、それはあなたですよ。私はあなたをけっして忘れなどするものですか、とやりかえしたのである。この場合「君を」といわずに「人を」といった。当代のならわしでもあったが、「君を」では歌がこわれるだろう。

この歌は芥川竜之介が好きであった。彼の文学を思うとそれがわかるようだ。百人一首に入っているからだれでも知っている歌だ。作者は紫式部の女である。

8月23日(土)

今日も暑いらしい。う~ん

  毎日々々かんかん照りの世の中なりわがからだ溶けてなにものならん

  かんかん照りとふ語を思ひだすこの暑さこれくらいではこの暑さ謂へず

  暑さ、あつさ この汗だくのシャツを脱ぎ洗濯機のなかシャツ積もりゆく

『孟子』梁恵王章句下9 斉の宣王問うて曰く、「文王のは、方七十里と。有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「是の若く其れ大なるか」と。

曰く、「民猶ほ以て小なりと為すなり」と。曰く、「寡人の囿は方四十里。民猶ほ以て大なりと為すは、何ぞや」と。

  斉の宣王が問ふわが囿は方四十里さするにかくも大に過ぐると

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 岡麓

雪やみて降かはりたる黄昏の雨に小鳥のよびあふ低し (同)

「黄昏」は元来の意とは別に今日の日の暮れ方の意に用いられている。降りしきっていた雪が雨になったうすら明かりの日暮れ方である。ねぐらについた小鳥がこのひと時をとしきりに鳴きあっている声が低く聞こえる、というおもむきの歌である。(略)小鳥といったのは用意あってのことだ。読者の自由なる想像にまかせている。この結句の「よびあふ低し」がよい。その声が低く小さく聞こえるからだが、よく情景をとらえているというだけではなく、暖かな人間の愛情がこもっている。しかし一首全体から受ける感じはやはりさびしそうだ。同じような歌がある。

雨にならぬ曇のままに夕づくや鳥一時にはたとしづまる

小鳥らはゆふべになればあつまりより一日の無事を告げあふならむ

あとの歌など若い人にはおもしろくないだろう。(略)あまりにも地味だったからだ。(略)しかしよく見ると秀れている。

はなやかだった幾人かの歌人にくらべて遜色を見ない。むしろ立ちまさっている。(略)昭和二十六年七十五歳で東京に帰り住むことなく信州で没している。

8月22日(金)

今日も、まったく暑いのだ。

  『血団事件』『荷風のいた街』『精霊の王』読まねばならぬ文庫三冊

  本と埃の山の中から救ひだす『世界の果てまで連れてって!…』

  読まねばならぬ古井由吉『この道』を埃払ひつつ拾ひあげつ

『孟子』梁惠王章句下8-4 今、王此に鼓楽をせんに、百姓王のの声、の音を聞き、皆欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王無きにからんか。何を以て能くせんや』と。今、王此にせんに、王の車馬の音を聞き、の美を見、欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田猟せんや」と。此れ他無し、民と楽しみ同じうすればなり。今、王百姓と楽しみ同じうせば、則ち王たらん』と。

  王常に百姓をおもひ百姓と楽しめば則ち王たらむとす

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 岡麓

みちに見し小狗おもほゆ育つもの楽しくをりとこよひ安らぐ (歌集・冬空)

小狗は小犬だが、子犬のことである。生れてまもない子犬だったのだろう。それが路上に遊んでいた。通りがかると足もとによって来てまつわりつくようにした。いや子供たちにもてあそばれて、くんくん咽喉を鳴らしていた。その可愛い子犬を夜、床に就こうとしてふと思い出したのだ。「育つも楽しくをり」の三、四句がそれである。子犬のさまをいうと同時に自分の感慨を叙べているのだ。あの子犬もだんだん大きくなるだろう。遊びたわむれながらおいおい成長して行くにちがいない。という感慨である。それで何となく心の安らぐ思いをした。それが「こよひ」である。では「こよひ」ならざるいつもの晩はどうなのか。何か気がかりなことでもあったのだろうか。

子孫らのわれをたよりに生きをりと思へば老のいのち嘆かゆ

夜のまにひび割れたりし卵二つふたりの孫にゆでてあたへよ

というような歌がこの前後にあるから、あるいはそうした孫たちの身を案じていたのかもわからない。(略)子犬だってあのようにして育ってゆくのである。人の子だって変わりがないのではないか、そう心配するほどのこともなさそうだ、という思いが感じられる。けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

これは長野県の山村で作られた歌である。(略)北安曇郡会染村での疎開生活中の歌である。昭和二十年四月某日、かねてより神経痛で足腰の立たなかった麓は、瘭疽をわずらっていた老妻とともに、人に助けられ人に背負われて戦火の東京を脱出した。しらない土地の馴れない生活がはじまったわけだが、すでにこのころは一人の孫を戦死させており、また集まって来た幾人かの家族をかかえて、しかもみずからは病身、おおかた寝たり起きたりの毎日だったのだから、さだめし不如意な生活だったろうと思われる。そのようなある日、気分がよいので外出した。二人の小さい孫をつれていたのかもしれない。その途上、無心に遊びたわむれている子犬を見かけた。それがこのような形の歌になった。滋味あふるる佳作である。

8月21日(木)

暑い、暑い。

  肥満型と痩型の女二人肩をならべて日傘を開く

  一人は黒いワンピースもう一人はのしゃれた服いづこへ行くか肩を並べて

  この道を行けば間近に駅がある改札入れば二別れする

『孟子』梁恵王章句下8-3 「臣請ふ。王の為に楽しみを言はん。今、王此に鼓楽せんに、百姓王の鐘鼓の声、の音を聞き、を疾ましめをめ、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。今、王此にせんに、百姓王の車馬の音を聞き、の美を見て、挙首を疾ましめ、頞を蹙め、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。此れ他無し、民と楽しみを同じうせざればなり。

  王、民を省みず楽を楽しみ、猟を楽しむそれではだめだ民と楽しめ

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 大来皇女

現身の人なるわれや明日よりは二上山を弟背と吾が見む (同巻二・一六五)

右の悲報がただちに伊勢に伝えられ、姉大来(大伯)皇女は斎宮をしりぞいて上京して来る。その時の歌二首がこの歌のすぐ前にある。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに (同・一六三)

見まく欲りわがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに (同・一六四)

「何しか来けむ」とがっかりしている。たったひとりの弟だった。それがもういないのだ。それでも「馬疲るるに」といそいで上京したようすがわかる。

この歌は大津皇子の屍が移されて、後に葛城の二上山に葬られた。その時にさらに詠まれた二首の一つである。「生き残ってこの世の人である私は明日からは二上山を姉弟のように思って眺めましょう」というのだが、人の世のかなしさ、はかなさ、それにあきらめの心を噛みしめている。そうして生ける人にものいうごとくつぶやき、かつ訴えているのである。もう一つの歌は、

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに (同・一六六)

これも同じようにしっとりとして悲しみ深い歌である。「磯」は海岸のことではなく、巌のことである。これによって本葬は年を越えて早春のころに行われたことがわかる。二上山は文字通り峰が二つに分かれており、高い方が男岳、低い方が女岳。大津皇子の墓は男岳の頂上にあって西向きで河内の方に面している。陵墓は西向きまたは南向きが普通だからこれはこれでよいわけだが、あえて大和に背を向けているのではないかと思われもする。