8月9日(土)

蓼科の旅から一日。ひどく疲労がたまる。

西川照子『京都異界紀行』を読み終える。京都界隈の小社を細かく追って霊界や祟りを論じて、なかなか愉しいものであった。「あとがき」を読んで、筆者が横井清の教え子であったことに、なるほどと共感する。ただ横井清は2019年4月7日午後4時21分に亡くなったとのことである。本は2019年9月20日に出版されている。

  卓上のに立ちのぼる湯気見ゆしあわせが立ちのぼる見ゆ

  手にふれてコーヒーの湯気のあたたかし右と左に妻と向き合ふ

  深き緑のコーヒーカップ卓上にまぎれもなく湯気たちのぼる

『孟子』梁惠王章句上7-4 曰く、「む無きなり。是れ乃ち仁の術なり。牛を見て未だ羊を見ざればなり。君子の禽獣に於けるや、其の生を見ては其の死を見るに忍びず。其の声を聞きては其の肉を食ふに忍びず。是を以て君子はを遠ざるくるなり」と。王んで曰く、「詩に云ふ、『他人心有り、之を忖度す』とは、夫子謂なり。夫れ我乃ち之を行ひ、反つて之を求めて吾が心に得ず。夫子之を言ひ、我が心に於てたる有り。此の心の王たるに合する所以の者は何ぞや」と。

「他人心有り、予之を忖度す」これまたわれのごとくなり戚戚焉と

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 良寛

月よみの光を待ちてかへりませ山路は栗のいがの多きに (同)

「月よみ」は月の古語、月読の字が当てられツクヨミと訓む。ここではツキヨミ。「多きに」は多いので、多きゆえに。「もう少しお待ち下さい。月が出て明るくなってからお帰り下さい。そうでないと山みちは栗の毬がたくさん散らばっているので、足にお踏みになって傷ついてはいけませんから」というほどの意。話がはずんでかなり夜がふけているようすがわかる。それに友人をもっと引きとめておきたいという気持も「いがの多きに」の結句ににじみ出ていて、心あたたかいその人柄がよくわかる。良寛の歌の中でも私のもっとも好ましく思う一首である。それは万葉集の湯原王の秀歌があっても少しもかまわない。

月読の光りに来ませあしひきの山を隔てて遠からなくに (巻四・六七〇)

むろんこれから来ていることはたしかだ。良寛自身も承知の上だ(略)この頃は万葉集を読んでいるから好きな歌句が思わず口をついて出て来たのだ。作意あってのことではない。歌はまことに正直である。それがたれにもわかるものだから、湯原王の歌があるにもかかわらず、また趣を異にする秀歌として愛せられるのだ。この良寛の友人は阿部定珍。新潟県西蒲原群渡部の庄屋で、風雅を心得て良寛と親しく、かつその庇護者でもあった。

8月8日(金)

蓼科三日目、御射鹿池へ寄って、再び観光農園へ。そして帰り、釈迦堂に寄っただけで、相模湖から抜ける。そして海老名へ。旅の終わりである。

  この暑さゆゑにかあらむ幾たびもティッシュペーパー鼻に宛てたり

  鼻水は老いの所為かも近年は特に酷くてティッシュはなせず

  ティッシュを小さく丸め持て余す捨てる処あれば顔がほころぶ

『孟子』梁惠王章句上7-3 王曰く、「然り。誠になる者有り、なりと雖も、吾何ぞ一牛をまんや。則ち其のとして、罪無くして死地に就くに忍びず。故に羊を以て之に易へしなり」と。曰く、「王百姓の王を以て愛めりと為すをしむこと無かれ。小を以て大に易ふ、彼んぞ之を知らん。王若し其の罪無くして死地に就くことまば、則ち牛羊何ぞ択ばん」と。王笑つて曰ぅ。「是れ誠に何の心ぞや。我其の財を愛みしに非ず。而も之に易ふるに羊を以てす。なるかな、百姓の我を愛めりと謂ふや」と。

  誠に百姓なるものあり財を惜しむにあらず牛、羊と変ふ

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 良寛

紀の国の高野のおくの古寺に杉のしづくを聞きあかしつつ (良寛全集)

「たかののみてらにやどりて」の詞書がある。一首の意は、「紀州の国の高野山金剛峰寺の奥の古寺に参籠して、老杉から滴り落ちる露しずくの音を聞きながら一夜明かした」したというのである。三句「古寺」までの一、二句は、その古寺をいうための説明だが「の」の助辞を四つも重ねてあるにかかわらず耳ざわりでない。かえつてはるばると高野山の奥まで来たという感慨をもよおさせるのは、これにつづく「杉のしづくを聞きあかしつつ」の秀句があるがゆえだ。何でもないことばのようだけれど、

こうはなかなかいえないものだ。

雨雲に濡れた深山の老杉は昼となく夜となくしずくしている。しとしとと絶えまもあらぬそお音を「聞きあかしつつ」と現在形でいった。たくらみのない素直さである。おのずからよく単純化せられその夜のさまをさながらに感じさせる。

これは量感が亡父の菩提とむらうために高野山へのぼった時の作かといわれている。

(略)これはなおさら思い深い歌で、一夜眠らずにあれをこれをと父の一生を思い、また自分の来し方、行く末を思うて慚愧し悔悟し懊悩しながら輾転していたのかもわからない。けれどもそれは考える必要がない。(略)ことばにあらわれただけを、その調べだけを感じとればよいのだ。するとこれはいよいよ純粋な心の歌であることがわかる。高野の奥の古寺に、杉しずくする夜を眠らずに起きている。そのさまを思い見るだけでよいのである。

(略)帰国したのは寛政七年、三十八歳おころと推定されており、そうしてこの歌はそのころのものと考えられている。すなわち良寛としては初期の作だが、その中でもっともすぐれた一首である。

8月7日(木)

蓼科二日目。尖石に入ったり観光農園で買物をしたり温泉に入ったり。

  ハンディファンを今年も使ふ交差点に首すぢあたりに風を当てたり

  わづかではあるものの風が吹き来れば生き返るごとし歩みは停めず

  右手にはカップ珈琲、左手にハンディファンをぢぢいが歩く

『孟子』梁恵王章句上7-2 曰く、王堂上に坐す。牛をいて、堂下を過ぐる者有り。王之を見て曰く、『牛にく』と。対へて曰く、『将に以て鐘をらんとす」と。王曰く、『之をけ。吾其のとして、罪無くして死地に就くに忍びず』と。対へて曰く、『然らば則ち鐘にること廃せんか』と。曰く、『何ぞ廃す可けん。羊を以て之にヘよ』と。識らず有りや』と。曰く、「之有り」と。曰く、「是の心以て王たるに足る。百姓は皆王を以てめりと為すも、臣はより王の忍びざるを知るなり」と。

  世間では王はもの惜しむといひたれど哀れみをもつことわれは知りたり

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

秋の昼の小島に石を切る音のしづけき海をひびかせにける (歌集・草の上)

大正三年二月刊行の第七歌集『草の上』に出ている。第六歌集『山河』の出たのは明治四十四年だから、この『草の上』は薫園三十六歳から三十九歳までということで、意気最も盛んなころの歌だ。(略)この時分は歌詞歌調も平明になり、叙景歌とともに身辺の雑事も多く歌って、薫園調ともいうべき歌風がかなりはっきりするに至っている。(略)これは「灯台」と題する六首中の歌だが、しずかな声調の、かつ明るい心の歌である。下句「しづけき海をひびかせにける」がこの歌の生命だが、おおざっぱというなかれ。のびのびと屈託なしに歌っているのがこの歌のよいところ。薫園は生涯老熟したようなおもむきの歌は作らなかった。わりあいのその歌の品はよいのである。

8月6日(水)

暑いが、今日から蓼科だ。圏央道を使って八王子ジャンクションを抜けて中央高速へ。

談合坂、双葉で休んで諏訪南。そして蓼科へ。

  いづこにも線状降水帯湧きだせり。扇子、sense、センスを吹き飛ばしたり

  コカ・コーラに氷五つを入れて飲むあまりの暑さは氷を増やす

  少しばかり甘い飲み物が欲しいときコカ・コーラ飲む、黒い液体

『孟子』梁恵王章句上7 斉の宣王問うて曰く、「斉桓晋文の事、聞くにきか」と。孟子対へて曰く、「仲尼の徒、桓文の事を道ふ者無し。是を以て後世伝ふる無し。臣未だ之を聞かざるなり。以む無くんば則ち王か」と。曰く、「徳如何なれば則ち以て王たる可き」と。曰く、「民を保んじて王たらば、之れ能く禦ぐ莫きなり」と。曰く、「寡人の若き者は、以て民を保んず可きか」と。曰く、「可なり」と。「何に由りて吾が可なるを知るや」と。曰く、「臣之を胡齕に聞けり。

  孟子曰ふ民を安んじ王たれば阻止することは誰にも出来ず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

鳳仙花照らすゆふ日におのづからその実のわれて秋くれむとす (歌集・片われ月) 

ホウセンカは鶏頭とともにその名に似ず鄙びた花である。(略)悲しきばかり日本の風土を思わせる花で、その莢のような実は自然に割れて茶褐色の種子をはじきとばせる。この歌はそういう状態に目をとどめて、何の作為を加えることもなく、たんたんと歌いあげて静かな晩秋の感を出すに成功した。これについて作者の自注がある。「明るい、乾いた大気の中に実のはぜる音を一首にひびかせたのです。秋のさびしさではなく、秋の明るさ、さやけささを現したものでなければなりません」といっている。たしかにそのいう秋の明るさ、さやけさが現れていて同感させられる。

処女歌集『片われ月』の巻頭に近いところに出ている唄だ。『片われ月』は明治三十四年一月の発行。薫園二十六歳になったばかりだから、これは二十歳をいくつも出ないころの作なのだろう。それを思うとやはりなかなかの才人だが、『片われ月』巻頭の

あけがたのそぞろありきにうぐひすの初音ききたり薮かげの道

おぼろ夜を何とはなしにひと枝をりてもたせてやりぬ白桃の花

駒ながらうたうを手むけて過ぎにけり関帝廟のあけがたの月

などとはかなりおもむきを異にしており、(略)しかし薫園の歌は、(略)清麗温雅、内容は淡、形式は雅などといって、その特徴を自然味ある温雅なおもむきにあるとしている。たしかにそれが薫園の持ち味であり本領であって、生涯ほとんど変わることがなかった。(略)一口にいえばその歌は温雅だけれど突き込みがたりない。対象への食い入り方が弱いようだ。詩心の充実に乏しく強い律動感がないように思われる。「あけがたのそぞろありき」の歌などは、当時薫園の代表作のようにいわれたものだが、今日となってみれば色あせた感じ。どこか古風で、古今集を現代に歌いかえたのではないかと思うほどである。かえってこのホウセンカの歌に本当の薫園が出ている。薫園のよさを代表する一首である。

8月5日(火)

今日は暑いらしい。海老名38℃の予定だ。

  がの蓋に映りたりああこの時を見張られてゐる

  逼塞感ただごとならず隠りゐて便器にしばし便ながしをり

  には神様がゐる柱背後に覗く

『孟子』梁恵王章句上6-2 対へて曰く、『天下せざる莫きなり。王夫の苗を知るか。七八月の間、旱すれば則ち苗れん。天油然として雲をし、沛然として雨を下さば、則ち苗浡然として之にきん。其れ是の如くなれば、か能く之をめん。今夫れ天かの人牧、未だ人を殺すことなきをまざる者有らざるなり。如し人を殺すこと嗜まざる者有らば、則ち天下の民、皆領を引いて之を望まん。誠にの如くならば、民の之に帰すること、ほ水のきに就きて沛然たるがごとし。誰か能く之をてめん』と。

  王たれば民のことを考えへるべしされば天下与せざるなし

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (同・一〇六)

二首目の歌である。ふたりともどもに行ってもさびしくてなかなか通り過ぎにくい秋の山を、いまごろ君はどんな思いをしながら一人越えていることであろうか、と大和へ帰る皇子をしのんでいる。秋の山はさびしいものだ。そのさびしさとともに道のけわしさをも「行き過ぎがたき」にそれとなくいいふくめてあるようだ。大事を企てている皇子の心中をおしはかり、心配しているおもむきは前の歌以上に切々として感じられる。これも恋愛情調の強く感じられる歌で、現代式に評するならばあまい歌ということになるのであろうが、さすがは古代である。まっ正直にたがいを信頼しあっている姉弟の心は、そういう語をさしはさむすきをあたえない。単純だけれど心がみちみちている。(略)皇女の挽歌は読むものの涙をしぼらせる。この二つの歌はその」悲劇の序をなすものである。

8月4日(月)

今日も特別に暑い。暑い。

  もつとも身近にある死の世界日々干乾びてみみず死す

  みみずの屍踏まぬやうにと歩くわれ右によりまた左に傾く

  この世からあの世へ渡るところには蚯蚓の死骸あまた干乾ぶ

『孟子』梁恵王章句上6 孟子 梁の襄王にゆ。出でて人にげて曰く、「之に望むに人君に似ず。之に就くに畏るる所を見ず。卒然として問ふて曰く、『天下にか定まらん』と。吾対へて曰く、『一に定まらん』と。『か能く之を一にせん』と。対へて曰く、『人を殺すを嗜まざる者、能く之を一にせん』と。『孰か能く之に与せん』と。

  梁の襄王が孟子に聞けり。退出して後にいふ君子としてはありがたからず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 大伯皇女

わが背子を大和へ遣ると小夜深けてあかとき露にわが立ち濡れし (万葉集巻二・一〇五)

「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時の大伯皇女の御歌二首」と詞書ある一首目の歌。大津皇子は天武天皇の第三皇子、母は天智天皇の皇女の大田皇女(持統天皇の姉)。幼少より好学博覧、才藻を謳われる。雄弁で度量が大きく、体軀堂々として多力、武技をよくして抜群の大器であった。天智天皇にとくに愛され、天武十二年には朝政をきくほどだったが、新羅の僧行心が骨相を見て、臣下にとどまっていたのでは身辺が危いといったので反逆を企てる。持統天皇の朱鳥元年十月二日発覚、翌日死を賜った。天武天皇崩御後わずか二十日余であった。この反逆事件は皇子をおとしいれるために仕組まれた陰謀であったともいわれる。大伯皇女は大津の同母姉。(略)十三歳で伊勢の斎宮となったが、皇子より二つ年上、この時は二十六歳である。

この詞書の「大津皇子、竊かに伊勢の神宮に下がり」がやはりただ事でない。天武天皇崩御のあと、皇位をねらった皇子は伊勢神宮に神意をただす必要があったからだろう。仁徳天皇の兄妹の隼別と女鳥王も場合も同じであった。(略)姉の大伯皇女はそれをうちあけられて、さぞかし驚いたことと思われる。」これはその皇子の大和へ帰るのを送る歌である。(略)わが弟の君を大和へ帰らせようとして夜のふけるのを見送っていて暁の露に濡れた、というのである。「あかとき」は、(略)いずれにしても夜ふけから夜明けへかけて、心配そうに見送っていたのであろう。(略)早く帰るようにと心をつかっているおもむきが感じられる。けれどもこの歌は、反逆事件など考えずに読むと、きょうだい愛というか、それ以上に恋愛情調に似たようなものが感じられる。それがこの歌の心である。