2025年6月16日(月)

今は曇りだが、晴れて29度になるらしい。

  邪悪なる心は誰のうちにもある人を殺してよろこぶ心

  夏木立見上げてこころみどりなりこのみどり少し濁りがあらむ

  さがみ川の青く見ゆる日わが知らぬ一人溺れて死すといふなり

『中庸』第二章二 子曰く、「舜は其れ大知なるか。舜は問ふことを好み、而して(じ)(げん)を察することを好み、悪を隠して善を揚げ、その両端を執りて、その中を民に用ふ。それ斯に以て舜と為すか」と。

子曰く、「人は皆な(われ)は知ありと曰ふも、駆りて諸れを罟擭(こか)陥穽(かんせい)の中に納れて、これを辟くるを知ること莫きなり。人は皆な予は知ありと曰ふも、中庸を択びて、期月も守ること能はざるなり」と。

  孔子言ふ舜はまさに大知なりわれに知ありと人言へど舜には及ばず

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 北原白秋

(し)(らん)咲いていささか(あか)き石の(くま)目に見えて涼し夏さりにけり (歌集・雀の卵)

紫蘭はラン科の多年生草、初夏葉心より花茎を出し、紅紫色の数花をつける。小さい花で、アヤメやショウブのようにはでではないが、そのいくぶん黄色の勝ったみどりの葉とともに、いかにも初夏らしい感じの花だ。ふと気がつくとシランの紅紫色の花が咲いていた。それがさんさんと輝く五月の午前の日に反射して、いささかながら庭石のかげもうっすらと紅みがさしているような気がしたのだ。ここがこの歌のいちばんだいじなところだが、それを「目に見えて」と受け「涼し夏去りにけり」と「き」をはぶいて「涼し」と終止形にしてあっさりと詠嘆した。この「さりにけり」は去るのではなく、ここでは来るの意、万葉集でも去る、来る両方に使いわけている。ここでは夏が来た、夏になったことをいっている。

この歌は第三歌集『雀の卵』のうち「葛飾閑吟集」の部に出ている(略)第三歌集『雀の卵』に至って、白秋成長せりの感を深うする。(略)さまざまな苦悩をなめて、白秋はかえって成長した。天与の質をそこなうことなく、いっそうりっぱになって行った。この「紫蘭咲いて」の歌は、それをはっきり物語るものだ、白秋ならではのすぐれた諸特徴をあらわしながら、しかも歌におちつきが加わり、いかなる人にも愛せられる、清澄のしらべをなすに至った。

2025年6月15日(日)

朝、雨。やがて曇り、晴れらしい。しかも暑くなるようだ。

原田ひ香『その復讐、お預かりします』を読む。軽い読み物だが、心に残る。美菜代と成海慶介との復讐屋の仕事のあれこれ。ほとんど復讐はしないのだが、それが復讐につながる。最後の五話は、美菜代の復讐譚だが、成海の優しさを引き出して、ロマンチックな色合いもある。たのしい読書の時間であった。

  太陽が雲のむかうにぼんやりと浮かぶがごとく上りくるなり

  くもり空のつづく日ありてけふ明るく青空よろこぶ私がゐる

  雲の切れ間に青空、そして太陽が覗くときありうれしきごとし

  夏つばきの枝に小さな花つけて風にさゆらぐ中庭の木は

  愛らしき小さき花を咲かせたり沙羅の木の枝、釈迦が降り来

『中庸』第二章一 仲尼(孔子)曰く、「君子は中庸し、小人は中庸に反す。君子の中庸は、君子にして時に中すればなり。小人の中庸に反するは、小人にして忌憚(きたん)するなければなり」と。

子曰く、「中庸は其れ至れるかな。民(よ)くする(すくな)きこと久し」と。子曰く、「道の行なわれざるや、我れこれを知れり。賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。人は飲食せざるもの莫きも、能く味を知るもの(すくな)きなり」と。

子曰く、「道は其れ行なはれざるかな」と。

中庸―鄭玄(古注)は「庸」を作用と解し「中和の働き」をいうとしたが、朱子(新注)は「中とは不偏不椅で過・不及のないこと、庸とは平常(平凡恒常)の意」とした。偏りのない平常で程のよい中正の徳をいう。

  君子は中庸の徳を守るが小人には分からず正道は其れ行なはざるか

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 柿本人麿

荒栲(あらたへ)(ふぢ)(え)の浦に鱸釣る泉郎(あま)とか見らむ旅行くわれを (同・二五二)

「荒栲の」は藤にかかる枕詞。藤江の浦は現在明石市大久保町のへん、昔はそこまで海が入りこんでいたのだろう。「泉郎」はもと部族の名、「海部」でも「海人」でもよいが、漁人、漁夫と解しておこたい。スズキは夏から初秋へかけての魚だし、前の歌の「夏草」と季節もあうし、共に近くの海の歌だから、これは同じ旅行の時の歌なのだろう。第四番目に置かれてある。ことばどおりに解すると、肱江の浦でスズキを釣っている漁夫と見るのであろうか、旅行く自分を、ということでこれもそっけないみたいだが、前の歌にくらべて深い旅情が感じられて、歌も一段とすぐれているように思われる。(略)第三者の立場から自分を見ているので、反省というほどではないにしても、他国の海をゆく自分をふりかえり、わびしい思いをするとともに、その漁人を親しいものと考える。おそらく声をかけて挨拶でもして過ぎたのだろうが、めずらしく心のこまやかな歌である。表に出して多くをいわず、余情に託したのがこの歌のよいところ、八首中いちばんおもむきが深い。

(いな)日野(いぬ)の行き過ぎがてに思へれば心恋しき可古(かこ)の島見ゆ (同・二五三)

(ともし)(び)の明石大門に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず (同・二五四)

天離(あまざかる)(ひな)の長路ゆ恋ひ来れば明石の門より倭島見ゆ (同・二五五)

(け)(ひ)の海の庭(よ)くあらし刈薦の乱れ出づ見ゆ海人(あま)の釣船 (同・二五六)

あとにつづく歌で、いずれもすぐれている。このうち「天離る夷」の歌は西から帰ってくることがわかる。しかし「飼飯の海の」歌をなぜこのあとへ置いてあるかがわからない。

2025年6月14日(土)

朝は曇りだが、やがて雨になるらしい。

  わづかづつ声あげて鳴くいかる鳥。黄色の嘴つつきて歩む

  黄色のくちばしをもつ鵤かな花の回りを鳴きつつ移る

  マンションの花の周囲(めぐり)に拠り来たるいかる黄色のくちばしを持ち

『中庸』第一章二 喜怒哀楽未だ発せざる、これを(ちゅう)と謂ふ。発して皆な節に(あた)る、これを和とふ。中なる者は天下の大本(たいほん)なり。和なる者は天下の(たつ)(どう)なり。中和を致して、天地(くらい)し、万物育す。

  中こそは宇宙の大本、和こそは達道、中和致せば天地万物安泰なり

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 柿本人麿

(たまも)(も)(か)(みぬ)(め)を過ぎて夏草の野島(ぬじま)が崎に船近づきぬ (万葉集巻三・二五〇)

「球藻刈る」は「敏馬」の、「夏草の」は「野島」の枕詞である(略)一首の中に二つも枕詞があり、しかも二つの地名が詠まれている。だから枕詞をはぶくと、敏馬を過ぎて野島の崎に船が近づいたというだけの味もそっけもない歌になる。だから鑑賞する場合は枕詞を心に思っている方がよいので、という必要もないほどに皆たれでもそう解しているのではあるまいか。(略)一首の意は、海藻を刈りとっている摂津の敏馬のへんの海を通り過ぎて、船はいよいよ夏草の生い茂っている淡路の野島の崎に近づいた、ということになる。簡単な内容の歌には相違ないが、それだけではない。二つの枕詞はかりそめにつかわれてあるのではなく、十分心得ているので、枕詞がもつことばの機能がじつにたくみに活用されてあるのに驚く。目立たないけれど、おのずから豊かな大きなしらべをなすに至った。もとより作者の主観が強くはたらいているからだが、それが結句へ来て「船近づきぬ」と客観的にいい据えた。ごく自然な結句だが感慨がこもっていて、読者もにわかに旅情を覚えて感動する。

人麿の「羇旅の歌八首」の第二首目の歌である。(略)

2025年6月13日(金)

曇りだが、蒸し暑い。

  ティッシュをテイッシュの箱から引き出して鼻水を拭く老いぼれならむ

  何枚もテイッシュを引き出し鼻汁をかむわれならなくに

  テイッシュを何枚も被りこの世よりあの世へ去らむとしたるわれなり

『中庸』第一章一 天の命ずるをこれ性と謂ふ。性に(したが)ふをこれ道と謂ふ。道を脩むるをこれ(おしへ)と謂ふ。道なる者は、須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。是の故に君子はその(み)ざる所に戒慎(かいしん)し、その聞かざる所に恐懼す。隠れたるより(あら)はるるは(な)く、微かなるより顕はるる莫し。故に君子はその(どく)を慎むなり。

  君子といふは道を思ひて公明正大隠しごとせず独りを慎む

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 石川啄木

灯影(ほかげ)なき室に我あり父と母壁のなかより杖つきて出づ (同)

いつのまにか日は暮れ沈んでいたが、電灯をつけるのも忘れてもの思いにふけっていた。すると暗い壁面から年老いた両親が杖をついて出てくるような気がした。いやその幻影をまざまざと見て、世にもつたなき自分を恥じて涙が流れてしかたがなかった。これは親孝行の歌として有名だが、(略)それもふくめてもっと切実な、ひろい意味の人間の悲しみを歌っているので、たれの心も嘆かせる。前の歌にくらべると、いっそう切実である。現実生活に密着して歌われているだけに、その幻影はたれの目にも見えて来て、限りなく悲痛である。これらの歌をふくむ「我が愛する歌」百五十一首は『一握の砂』の中でももっともすぐれた歌が多いだけでなく、またその全作品の中でも圧巻たるはいうまでもない。そうして『一握の砂』は前の歌につづく、

  頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず

から来ているのはむろんだが、歌は全部三行書きになっている。(略)一行書きにすると啄木の歌の技術の冴えがいっそうよくわかるのである。才にまかせて歌いぱなしに歌ったのではない。技術には案外に苦労している。その歌が新しいようにその技術もまたそれにともなって新しかったが、なみなみならぬ勉強をしていたのである。啄木はわずか二十七歳で世を去っている。若かったことは若かったけれど、だからといって組みしやすいなど思ってはならない。若き世代にいうのである。この「若い世代」とは、私どものことを指しているのであろう。肝に銘じてあなどりなどするまい。

2025年6月12日(木)

朝、周辺が靄でかすんでいた。

今村翔吾『童の神』読了。平安時代の差別なき世の中を目ざして戦う虐げられたものと権力との葛藤が筋になっている。まずテーマが私の好みだし、この差別の構造は現代にも通ずる。酒呑童子じいと呼ばれるようになる主人公が登場、それが「童の神」なのだ。その戦いの顛末おもしろかった。

  昨夜雨、朝よく晴れてここちよし今日一日の穏やかであれ

  雨に濡れみどりの葉々にしづくありあればあざやぐ夏の木ならむ

  つつじの花の萎れてしぼむに五月には赤きつぼみの少し覘く

『大学』第六章四 財を生ずるに大道あり。これを生ずる者(おお)く、これを食らう者(すく)なく、これを(つく)る者(と)く、これを用うる者(ゆるや)かなれば、則ち財は恒に足る。仁者は財を以て身を発し、不仁者は身を以て財を発す。未だ(かみ)仁を好みて(しも)義を好まざる者は有らざるなり。未だ義を好みて其の事の終えざる者は有らざるなり。未だ府庫の財其の財に非ざる者は有らざるなり。

孟献子(もうけんし)の曰く、「馬乗を(やしな)へば鶏豚を察せず。伐冰(ばつひょう)の家には牛羊を畜はず。百乗の家には聚斂(しゅうれん)の臣を畜はず。其の聚斂の臣あらにょりは、寧ろ盗臣あらん」と。此れを、国は利を以て利と為さず、義を以て利となす、と謂ふなり。

国家に長として財用を務むる者は、必ず小人を(もち)ふ。彼はこれを善と(うも)へるも、小人をしてを(おさ)くっかはめしむれば(さい)(がい)並び至る。善き(ひと)ありと雖も、亦たこれを如何ともするなきなり。此れを、国は利を以て利と為ず、義を以て利とす、と謂ふなり。

  国歌は利を以て利と為さず義を以て利とすべきなり

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 石川啄木

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる (歌集・一握の砂)

明治四十三年十二月刊行の『一握の砂』の巻頭歌。有名な歌であるから知らぬ人とてなかろうけれど、函館市外の立待岬にある墓碑に刻まれている。(略)そこで作った歌だときめつけてしまうことに異存がある。啄木自身は何もいってはいないのだし、いっていないからこそかえって自由に読者はその「東海」を、「小島の磯」を思いえがいて、存分に歌の心にはいりうるのだから、よけいな穿鑿はせぬことだ。啄木の真意にそむこなかれと注意を促したい(略)一首の意は明らかである。「東海の小島の磯べの寄せては返す波うちぎわの白砂の上に、自分は涙に泣きぬれながらこのようにカニと遊びたわむれている」と、たわいないしぐさを正直にいい放ってひとり嘆きをしているのである。(略)啄木は正直なのだ。純粋なのである。(略)人生に対して誠実だ。生きあえぎながら真実を求めて四苦八苦、七転八倒している。それがいいようもなくあわれであるから、いっそう心に沁みるのである。

(略)何よりも調べが明朗である、豁達でさえある。「東海の小島の」と大きくほがらかに打ち出したしらべは「蟹とたはむる」の終りまでかたくもならず弱くもならず、こころよい声のひびきを立てておさまるのである。啄木の歌は、たといそれがどのように苦しくみじめな生活を歌っていても、暗い感じは少しもしない。かえって明るく、したがっていとわしい思いはしないのである。啄木の歌がひろく愛誦せられる所以の一つは、こういうところにもある。

2025年6月11日(水)

雨、曇り。天気はよくない。

大嶋仁『日本文化は絶滅するのか』を読む。まあ軽快なこの国の文化の通史を読んだことになる。なるほど軽快なのだが、このままではたしかに未来は暗い。深く納得しつつ、著者同様、このままでいいわけはない。せめて短歌に親しんでいるだけ、自然に近いものとは思いつつ、あれこれ考えてみようではないか。とりあえず西田幾多郎の「無の場所」「絶対矛盾的自己同一」、そして「聖なるもの」を感じとる感受性をたいせつに考えよう。 

  シュークリームのやうなる雲が立ちあがるこの夏をすべて領するごとく

  しわしわのシュークリームが浮かびあがる夏の夕空しわしわ朱色

  夕雲のうすれ流れて山の端を朱色に染めて暮れてゆくなり

『大学』第六章三 楚書に曰く、「楚国には以て宝と為すものなし、惟だ善以て宝と為す」と。

舅犯(きゅうはん)曰く、「亡人には以て宝と為すものなし、仁親以て宝と為す」と。

(しん)(せい)に曰く、「若し一个(いっか)の臣ありて、断断兮(だんだんけい)として他の伎なきも、その心休休焉(きゅうきゅうえん)としてそれ(よ)く容るるあり。人の伎あるは、己れこれを有するが若く、人の彦聖なるは、その心これを好みす。(ただ)にその口より出すが若くするのみならず、(まこと)に能くこれを容れて、以て能く我が子孫を(やす)んずれば、(れい)(みん)も亦た尚利あらんかな。人の伎あるは媢疾(ぼうしつ)してこれを悪み、人の彦聖なるは、(すなは)ちこれを違ひて通ぜざらしむ、(まこと)に容るる能はずして、以て我が子孫を保んずる能はざれば、黎民も亦た曰に(あや)ふからんかな」と。

唯だ仁人のみ、これを放流し、(こ)れを四夷に(しりぞ)けて、(とも)に中国を同じくせず。此れを、唯だ仁人のみ能く人を愛し能く人を悪むと為す、と謂ふなり。

賢を見るも挙ぐる能はず、挙ぐるも先にする能はざるは、(おこた)るなり。不善を見るも退くる能はず、退くるも遠ざくる能はざるは、過ちなり。人の悪む所を好み、人の好む所を悪む、是れを人の性に(もと)ると謂ふ。(わざわい)必ず夫の身に(およ)ぶ。

是の故に君子に大道あり、必ず忠信以てこれを得、(きょう)(たい)以てこれを失ふ。

  君子には大道あらむ忠信を持てばこそにて驕りてはならず

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経

幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ (新古今集)

「浪にしをれて」は浪にひどく濡れてしおれてで、「貴船川」は洛北の貴船明神、濡れてきたことを貴船川にかけている。また貴船の縁語として「浪にしをれて」といって、その水しぶきの飛び散るのを「袖に玉散る」と袖に涙の落ちるのにかけた。

貴船明神に恋がかなうようにと祈願して、毎夜貴船川に添っておまいりするけれど、いまだに霊験があらわれないので、袖を濡らしてなげいている、というのである。

想句ともに凝りに凝った、これ以上はよくかなわぬと思われるぎりぎりのところまできている刻苦彫琢の作である。(略)内に詩情が充実している。切迫した感情があらわでなしに、品高く優美に、しかも流麗の調べ、よく朗吟にもたえうる。萩原朔太郎はこれをもって名歌絶唱並びなき作と推奨した(略)なおこの歌にも本歌があった。

奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ (後拾遺集)

物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる (同)

と歌ったのに対する貴船明神の「御かへし」の歌で、式部が男の声で聞こえたといい伝えられる歌である。それをふまえて作ったのだから、良経も上手をつくして力の限り歌いあげたのであろう。

2025年6月10日(火)

昨日まで一泊で箱根湯本に行ってきた。そして今日は朝から雨である。歌はもう少し後に。

  自動車の走行音に雨の降る異常を感ずマンションの横

  ひたひたとタイヤの音に微細なる雨降るを覚ゆ湿り気帯びて

  不機嫌と呼ぶほかなきか雨の中軽自動車に雑じりて走る

『大学』第六章二 是の故に君子は先づ徳を慎しむ。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。本を(うと)んじて末に(した)しめば、民を争はしめて奪うことを(おし)ふるなり。是の故に財聚まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。是の故に言悖りて出ずれば亦た悖りて入り、貨悖りて入れば亦た悖りて出ず。

康詰に曰く、「惟れ命は常に(お)いてせず」と。善なれば則ちこれを得、不善なれば則ちこれを失ふを道ふなり。

  徳はもとにて財はすえ間違へてはならず天命は常ならず

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経

うちしめりあやめぞかをる郭公鳴くや五月の雨の夕ぐれ (新古今)

ホトトギスの鳴いている五月の雨の降る夕ぐれごろだ。どこからともなく、しっとりとしたアヤメの花のにおいがしてくる。というような意味であろう。が、こう解釈したのでは元も子もなくなる。歌そのものをくり返し読み味わうことによって、このしずかな歌の気分にひたるほかないだろう。これを読むとだれでもすぐ思いおこすのは、次の歌だ。

ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな (古今集)

巻第十一の巻頭歌、題しらず、読み人しらずの恋の歌だが、これが本歌となっているのはいうまでもない。(略)五月の雨だから「うちしめり」である。そうして「あやめぞかをる」と二句でちょっと休止し、かすかににおうともなきアヤメの花の香にききいっているようすを示し、次の本歌の「ほとぎす鳴くや五月の」を借りてきて三句、四句にすえた。これは結句の「雨のしぐれ」をいうための序詞であり、序詞ではなくとも「ほととぎす鳴くや」は「五月」の枕詞みたいな役割をはたすもので、この時ホトトギスが実際に鳴いたかどうか問題ではない。(略)釈迢空は「ほんとうに優美」な歌として激賞していたが、本歌をもつものはなにも歌だけには限らない。こうした歌心を知ればこそ芭蕉も作っていたではないか。

ほととぎす鳴くや五尺のあやめぐさ