6月18日(木)

雨だけども曇り、そして晴れてくるらしい。

  あぢさゐの藍の花咲くその上に沙羅の木あれば白き花着く

  沙羅の木の花に守られ咲くごときあぢさゐどこか臆病に見ゆ

  スマートフォンに今朝の曇りの端にあるあかるきところ朧日みゆる

『孟子』告子章句下169 孟子曰く、「今の君に(つか)ふる者は曰く、『我能く君の為に土地を(ひら)府庫(ふこ)(みた)す』と。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に(むか)はず、仁に志さざるに、而も之を(と)まさんことを求む。是れ桀を富ますなり。『我能く君の為に(よ)(こく)を約し、戦へば必ず克つ』と。今の所謂良臣は、古の所謂民の賊なり。君、道に郷はず、仁に志さざるに、而も之が為に強戦(きやうせん)せんことを求む。是れ桀を(たす)くるなり。今の道に(よ)り、今の俗を変ずること無くば、之に天下を与ふと雖も、一朝(いつてう)も居ること能はざるなり」

  君が正し道に向かはず仁に志さなきに現在の悪風を糺さざればだめだ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

春の野に 小屋を(か)いたるやうにて突い立てる(かぎ)(わらび) 忍びて立てれ下衆(げす)に取らるな
                          (二句神歌・四五一)

【現代語訳】春の野に、小屋を建てたように突っ立っているよ鉤蕨よ。こっそり立っておいで、卑しい男たちに採られるなよ。

【評】蕨を擬人化して呼びかける一首。「鉤蕨」は、頭が鉤状に曲がっているところから言ったもの。蕨を少女によそえたものとする説、小屋の中のものを盗られるな、の意を掛けた言葉遊びの歌と見る説がある。当該今様の後には撫子の歌が置かれており(四五二)、『梁塵秘抄』の配列上は、植物に見立てた少女への愛着を歌う歌が並べられたものと見られる。さらに、「鉤蕨」の「鉤」は戸締りの道具であり、盗む、盗まれるといった内容を連想させやすく、言葉遊びの要素も含んだ一首と言えよう。建長六年(一二五四)に成立した説話集『古今著聞集』巻一二には、山の蕨がたびたび盗まれるのに閉口して、

山守のひましなければ鉤蕨盗人にこそ今はまかすれ
(いくら山の番をしても、蕨がこんなにどんどん盗まれてしまってはどうしようもない。今はもう鉤蕨のその鉤を盗人にまかせてしまうほかあるまい)

という歌を詠んだ話が見える。また貞治三年(一三六四)成立、第一九番目の勅撰集

『新拾遺和歌集』には、

けふの日はくるる外山の鉤蕨あけば又みんをり過ぎぬまに (雑下・藤原知家)
(今日の日はもはや暮れてしまった。外山の鉤蕨は夜が明けたら〈鉤が開けば〉見ることにしよう。折り採る時期が過ぎてしまわまいうちに)

とあるが、この和歌の「くるる」は「暮るる」と「枢」の掛詞であり、扉を回転させる装置である「枢」と戸締りの道具である「鉤」を並べたおもしろさをねらっている。

蕨の独特で可憐な形は、人々の興味を引くものであったらしく、『和漢朗詠集』巻上「早春」所収の小野篁(八〇二~八五二)の漢詩では、「紫塵の嫩き蕨は人手を握る」と、人の手を握った形に譬えられている。今様に先行する歌謡・催馬楽の「庭生」には、

庭に生ふる 唐薺は よき菜なり はれ 宮人の さぐる袋を おのれ懸けたり

とあって、薺(ぺんぺん草)の三角形の実を、宮廷に仕える人がさげている袋に見立てている例がある。当該今様とも共通する、植物への親愛に満ちた視線がよく表れていよう。

6月17日(水)

朝は晴れているが、だんだんに曇って、やがて雨が……

  予定どほりにあぢさゐに藍の花咲けば六月にふる雨とおもひし

  早速に梅雨と名づけてこの雨の下ゆくわれはビニール傘に

  あぢさゐの青、そして藍の花見つつよろけてゆくは老いたるわれなり

『孟子』告子章句下168-2 曰く、「吾明らかに子に告げん。天子の地は方千里、千里ならざれば以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地は方百里、百里ならざれば以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるるや、方百里(た)り。地足らざるに非ず。而も百里に(けん)せり。太公の斉に封ぜらるるや、亦方百里為り。地足らずに非ず、而も百里に倹せり。今、魯は方百里なるもの五あり。子(お)(も)へらく、王者作ること有らば、則ち魯は損する所に在るか。益する所に在るかと。(ただ)(これ)を彼に取りて以て此に与ふるすら、然も且つ仁者は(な)さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に(つか)ふるや、努めて其の君を引きて、以て道に当り仁を(こころざ)さしむるのみ」と。

  君子が君に仕ふるはつとめて君を仁になさしめむ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

月は船、星は白波、雲は海 いかに漕ぐらん(かつら)(をとこ)はただ一人して (二句神歌・四五〇)

【現代語訳】月は船、星は白波、雲は海。どんなふうに漕ぐのだろう、船頭の桂男はたった一人で。

【評】古歌の比喩を用いながら、天空の航海を幻想的に歌った一首。二句神歌は短歌

体(五・七・五・七・七)やそれに近い比較的短い詞章を持つ。

「桂男」月の中に住むとされた男。唐の段成式(八〇三?~八六三)著の『西陽雑俎』巻一によれば、呉剛という名で、月の中の桂の木を一人で切っているとする。当該今様では月の船を漕ぐ船頭に見立てている。

当該今様の発想の源ととしては、次のような万葉歌が指摘されている。

天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ (巻七・一〇六八・柿本人麻呂)
(天の海に雲の波が立ち、月の船は星の林に漕ぎ入り隠れようとしているよ)

天の海に月の船浮け桂梶懸けて漕ぐ見ゆ月人をとこ(巻一〇・二二二三)
(天の海に月の船を浮かべ、桂の梶を取り付けて漕いでいるよ、月の若者が)

天平勝宝三年(七五一)成立の漢詩集『懐風藻』に収められた文武天皇の詩に「月の舟は霧の渚に移り、楓の楫は霧の浜に泛かぶ。……独り星間の鏡を以ちて、還に雲漢の津に浮かぶ」(月の舟は霧の立ち込めた渚に移り、桂の木で作った楫は霞のかかった浜に浮かぶ。……ただひとり月は星の間に照る鏡のような光をはなち、いよいよ更に天の河の渡し場に浮かぶ)という句がある。

「月」を船に譬えることはほぼ固定しているが、星、雲、霧、霞などがさまざまな比喩のバリエーションをもって表現されている。万葉歌で「林」に譬えられていた星を、当該今様は、「白波」として歌っており、比喩の具体的対応(白くきらめく星と波)が興味深い。星の美を歌った歌人として著名な建礼門院右京大夫(一一五七?~一二三三?)は、星空を「花の紙に、箔をうち散らしたるによう似たり」(縹色〈薄い藍色〉の紙に金銀の箔を散らしたようだ)と表現しているが、当該今様は雲の海の中で輝く星きらめく白波に見立てている。

6月16日(火)

朝から晴れ。なかなか気持ちがいい。

  池の底にひそむなまづが動きだす地上ははげしき地震(なゐ)に揺れたり

  池の底に潜りてなまづをつかまへる粘りて人なすままにならず

  大き口の上下にひげを生やしたるなまづ愛しやいとしやなまづ

『孟子』告子章句下168 魯、慎子(しんし)をして将軍(た)らしめんと欲す。孟子曰く、「民を教へずして之を用ふるは、之を民を(わざはひ)すと謂ふ。民を殃する者は、尭舜の世に容れられず。一たび戦ひて斉に勝ち、遂に南陽を(たも)つとも、然も且つ不可なり」と。慎子勃然(ぼつぜん)として悦ばずして、曰く、「此れ則ち滑釐(くわつり)の識らざる所なり」と。

  魯、慎子を将軍にするといふ孟子それに反対す。慎子「滑釐の識らざるところ」

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

聞くにをかしき経読みは とうかく高砂の明泉房(みやうせんばう) 江口のふちにたのやけの君 淀には大君次郎君

【現代語訳】聞いてほれぼれする読経上手は、とうかく明泉房、江口の岸辺にたのやけの君、淀には大君次郎君

【評】経読みの名人を列挙した歌。「とうかく」は未詳。「とにかくまあ第一に」の意とする説、「同学」と読んで仏教修行をする者ととる説などがある。

「高砂」は兵庫県高砂市。景勝地として有名な海岸。「江口」は大阪市東淀川区の港、「淀」は京都市伏見区にあった河港で、いずれも遊女の一大拠点であった。「たのやけの君」「大君」「次郎君」はそれぞれ遊女の名であろう。

読経は本来宗教的な行為であるが、一方では芸能化が進み、今様の歌唱・鑑賞と並ぶようなものにもなっていた。『紫式部日記』寛弘五年(一〇〇八)八月二十余日の記事には、中宮彰子の出産が近づいたために宿直している人々のうち、琴や笛などの管弦には熟達していない若者たちが、「読経あらそひ」をしたり、「今様歌ども」を歌ったりしていることが見える。時代は下るが『看聞御記』にも、「酒盛」の場で尼の「声明」が披露されている例が見られ(応永二三年<一四一六>三月一七日条、応永二四年閏五月四日条など)、読経のみならず仏教音楽が宴席で楽しまれていることが窺われる。

鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』三五話みは小式部内侍が恋人・藤原定頼の読経の声に感嘆した説話がある。(『古事談』巻二‐七七話にも)。定頼の読経は宗教者としてのものではないが、陽勝仙人がその読経に感じて聴聞に訪れたという説話も伝わり(『古事談』巻二‐七八話、『十訓抄』一〇‐一九)、広い階層の人々の、読経の優劣が取り沙汰されているのである。なお、小式部内侍の母・和泉式部読経の名手・道命との恋愛を語られており(一五)、母娘ともに読経に優れた美声の恋人を持っていたことになる。

6月15日(月)

雨だ。上がって来るらしいが。

  陰毛すらも巧みに描き記されたり。滅ぶ女の髪乱しつつ

  未完成といふバベルの塔のごときもの三層から上は朦朧として

  茅ヶ崎の町の蕎麦屋に十割そばぼそりぼそりと旅を終へたり

『孟子』告子章句下167-4 君の悪を長ずるは、其の罪小なり。君の悪を(むか)ふるは、其の罪大なり。今の大夫は、皆君の悪に(むか)ふ。故に曰く、今の大夫は、今の諸侯の罪人なり」

  今の大夫はみな君の悪心を引き出すゆゑに大夫は諸侯にすら罪せらるべき

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

いざれ独楽(こまつぶり) の城南寺(じやうなんじ)(まつり)(み)に われはまからじ恐ろしや (こ)り果てぬ作り道や(よつ)(づか)に 焦る上馬(あがりうま)の多かるに    (四句神歌・雑・四三九)

【現代語訳】「さあおいでよ、独楽よ。鳥羽の城南寺の祭見物に」「わたしは行きませんよ、恐ろしいこと。まったく懲り懲りしたよ。作り道や四塚にいらだつ暴れ馬がたくさんいてね」

【評】子どもと独楽との対話形式の一首。

「こまつぶり」は「こま」の古称。『大鏡』には、藤原行成(九七二~一〇二七)が幼かった後一条天皇(在位一〇一六~一〇三六、九~二十九歳)に独楽を献上した記事がある。帝は独楽を見て「あやしの物のさまや。こは何ぞ」と問う。このころ宮中では独楽はまだ珍しいものであったらしい。帝は、広い建物の中をくるくる回りながら動いていく独楽に夢中になり、他の人々が献じた、金銀をふんだんに使ったような高価な玩具は皆しまいこんでしまったという。

承平年間(九三一~九三八)に成立した辞書『和名類聚抄』には「独楽……和名古末都玖利 孔有る者なり」とあって、独楽の本体に穴が穿たれていることが示される。いわゆる唸り独楽で回すと音がしたものらしい。観応二年(一三五一)成立の絵巻『慕帰絵詞』には、独楽遊びをしている子どもたちが、地面にほとんど腹這いになり、回っている独楽に顔を近づけている様子が描かれるが、独楽の唸る音を楽しんでいるようにも見える。当該今様については、そのような独楽のたてる音を独楽の返事と捉えたとする説、また、軸が直立している時に呼びかけ、軸の傾いたことを独楽の返事と捉えたとする説が提出されている。比較的新しい玩具である独楽を身近によく観察した上で発想された一首と言えよう。

さて、寛治元年(一〇八七)、白河上皇は、現在の京都市伏見区竹田・中島あたりに造営した鳥羽離宮に移った。藤原季綱の別荘を改修したもので、以後、白河・鳥羽の上皇御所として使用され、後白河は一時、清盛によってここに幽閉された。鎮守社として離宮内に城南宮が祀られたが、城南寺はその別当寺で、城南宮の杜にあったらしい。

当該今様に歌われている祭は「城南寺明神御霊会」「城南寺祭」などと呼ばれ、現在指摘されている最も早い記録は『中右記』康和四年(一一〇二)九月二〇日条である。祭礼は毎年九月二〇日に行われたが、白河院や鳥羽院も見物に出かけており、その賑わいが想像される。流鏑馬(走っている馬の上から、矢で的を射る競技)や競馬(二頭の馬を走らせてその遅速で勝負を決める競技)が祭礼の中心だったらしく、後には「城南寺祭」ではなく、「鳥羽院競馬」「城南寺競馬」と記述されることも多い。当該今様で「上馬」(気の荒い暴れ馬。[三八四]/「じょうめ」と読むと立派な馬、駿馬の意[三五二]の多さが歌われているのは、そうした祭礼の内容を反映しているのであろう。「四塚」は朱雀大路の南末、羅生門跡の四辻で、「作り道」はその四塚から鳥羽に南下した直線路。

後世の伝承童謡に、次に掲げるような田螺と子どもの対話形式のものが見られ、当該今様はその淵源として注目されるが、院政期に栄えた鳥羽離宮と城南寺の祭礼を歌い込んでいる点は、まさに今様(当世風)であって、時代の流行を敏感に反映しており、興味深い。

田螺(つぶ) 田螺 山へ行け 己ゃいやだ 汝ゆけ 去年の春も行ったれば からすと申す黒鳥が あっちへつっつき つんまわし こっちへつっつき つんまわし 二度と行くまい あの山へ  (長野)

田螺(つぶ)や田螺や抜け田螺や 去年の春をへったれば からすという馬鹿烏に ずっくらもっくら刺されたずな (山形)

6月14日(日)

曇っているが明るい。

茅ヶ崎市美術館に「牧野邦夫その魂の召喚」を観に

  多くの絵に塗り込められたる異形のものただ無関心なる表情をして

  牧野の像と千穂さんが対峙する場面あり。周囲を多くの顔が囲む

『孟子』告子章句下167-2 天子の諸侯に(ゆ)くを(じゆん)(しゆ)と曰ひ、諸侯の天子に朝するを(じゆつ)(しよく)と曰ふ。春は耕すを省みて足らざるを補ひ、秋は(をさ)むるを省みて(た)らざるを助く。其の(さかひ)に入るに、土地(ひら)け、田野治まり、老を養ひ賢を尊び、俊傑位に在れば、則ち慶有り。慶するに地を以てす。其の疆に入るに、土地荒蕪し、老を遺て賢を失ひ、(ほう)(こく)位に在れば、則ち(せめ)有り。一たび朝せざれば、則ち其の爵を(おと)し、再び朝せれば、則ち其の地を削り、三たび朝せざれば、則ち六師(りくし)之を移す。是の故に天子は(たう)じて(ばつ)せず。諸侯は伐して討せず。(ご)(は)は諸侯を(ひ)きて以て諸侯を伐する者なり。故に曰く、五覇は三王の罪人なりと。

  五覇は諸侯せありながら諸侯を討つゆゑに三王から罪せらるべき者なり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳   

やっぱ休みだね。もうしばらくお待ちを。

6月13日(土)

晴れているらしい。

ちょこっと茅ヶ崎

  西湘バイパスは海に沿ふ。神奈川の海、伊豆と違ふ

  熱海から茅ヶ崎までを妻の自動車(くるま)。後部座席に揺れ揺られつつ

『孟子』告子章句下167 孟子曰く、「五覇は、三王の罪人なり。今の諸侯は、五覇の罪人なり。今の大夫は、今の諸侯の罪人なり

  春秋時代の五覇は、古代の三王からは罪あるもの現在の諸侯は五覇の罪人である。

    * 

今日も『梁塵秘抄』は休み。岡野弘彦『バクダッド燃湯』について書き終わるまでは、再会できそうもない

6月12日(金)

  酒に酔ひ懐石を食ふ安穏に笑ひをかはす妻とわたくし

  静岡の酒に酔ひ酔ふ二人なり。(くら)くなり見えぬ熱海の海原

『孟子』告子章句下166-3 曰く、「昔者(むかし)(おう)(へう) (き)(を)り、而うして河西(かせい)(よ)(うた)ふ。

(めん)(く)高唐(かうたう)(を)り、而うして(せい)(いう)善く歌ふ。(くわ)(しう)(き)(りやう)の妻。善く其の夫を(こく)し、而うして国俗を変ず。諸を内に有すれば、必ず諸を外に形す。其の事を為して其の功無き者は、(こん)未だ嘗て之を覩ざるなり。是の故に賢者無きなり。有らば則ち髠必ず之を識らん」と。曰く、「孔子魯の司寇(しこう)と為りて、用ひられず。従つて祭りしに、(はん)(にく)いたらず。(べん)を脱がずして(さ)る。知らざる者は以て肉の為なりと(な)し、其の知る者は以て礼無きが為なりと(な)す。(すなは)ち孔子は則ち微罪を以て(さ)らんと欲す。苟も去ることを為すを欲せざるなり。為す所は、衆人固より識らざるなり」と。

  かくのごとく君子のなすことには事情がありて衆人もとよりえあかることなし

    *   

今日も『梁塵秘抄』は休みにする。