









花火も昨夜無事に終え、今日また暑い。
マンションの中庭にみみずが干乾びて死んでいる。
幾日も日にさらさるるみみずなり乾び干乾び一寸ほどに
この暑さ夜間這ひ廻るみみずかな朝には干乾び死にゆくものを
みみずに幸せなどいふものあるか日に照らされて死にゆくものに
『孟子』梁恵王章句上5-3 彼は其の民の時を奪ひ、して以て其の父母を養ふことを得ざらしむ。父母し、兄弟妻子離散す。彼は其の民をす。王往きて之を征せば、夫れ誰か王と敵せん。故に曰く、「仁者は敵無し」と。王請ふ疑ふこと勿れ」と。
「仁者は敵無し」梁の恵王よ孟子を疑ふことぞなからん
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 源実朝
萩の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ (同)
日の暮れるまで萩の花は美しかったが、月の光ではそれが見えなくなったというだけの歌である。何でもない歌のようだが、物をよく見ている。この時代としては新しい見方である。現代人に通じる詩情である。この歌を見て、なるほどそうだったと気づく人も多いのいいではないか。しかしこの歌ではそれをはかないと観じている。そこにその時代の無常感が出ているので、実朝といえども時代の子であるといわれたりする。(略)これは表にあらわれただけを美しとし、はかなしとしてその詩情に溶け込めばよい。この歌を好きだといったのは小林秀雄であった。(略)畢竟は実朝調といってよいのである。(略)
台風の被害はほとんどなかった。朝から暑いのだ。
反転し腹をさらして乾涸ぶるヤモリの子なり街上に死す
乾きたるヤモリの子死ぬとき何思ふ絶望の声あげざるものか
乾涸ぶる蚯蚓の隣に死したるかヤモリの子ああ何ともせんなき
『孟子』梁恵王章句上5-2 孟子対へて曰く、「地、方百里ならば以て王たる可し。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き、を薄くし、深く耕しめらしめ、壮者は暇日を以て其の孝悌忠信を修め、入りては以て其の父兄に事へ、出でては以て其の長上み事へば、を制して以てのをたしむ可し。
孟子曰く地、方千里ならば王たるべしされど大国なれば仁政を敷け
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 源 実朝
時によりすぐれば民のなげきなり八代竜王雨やめたまへ (金槐集)
「建暦元年七月洪水漫天、土民愁嘆せむことを思ひて一人奉向本尊、聊致祈念」との詞書がある。それは相模の大山の阿夫利神社に祈念した(略)八代竜王は仏教では天象風雨を支配する神で、難蛇、跋難蛇、沙迦羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の八王をいう。建暦元年七月とあるだけで何日であったかはわかりかねるが、新暦では八月中旬ごろから九月中旬ごろまでということだから、台風期である。洪水漫天は豪雨の降りつづいているさまであり、土民愁嘆は、百姓のなげきをいっているので、その生活をうれえている。その秋の稔りを心配しているようだ。実朝は将軍である。鎌倉幕府の征夷大将軍なのだから、その立場からすると民衆ははすべて民であり、また土民であったのだろうが、(略)歌の中ではそれを民といっている。
この歌は三句切れになっている。この「なげきなり」の「なり」が心深く感じられる。ひたすらに祈願している心の声である。(略)こういう口つきはやはり将軍である。一心をこめて神に祈りながら、しかも神にむかって命令しているかのような口吻である。(略)歌を見ただけでわかる。どうして大した傑物である。この歌はむろん実朝の代表作の一つだが、将軍としての貫禄は十分である。同時にそういう条件を抜きにしても、やはり希有の傑作である。
早いもので、もう八月です。
朝毎に飲むトマトジュース一杯を卓にこぼせり情けなきこと
歳とれば手もと不如意もあることと布巾にふき取る妻の笑顔
いやいや手もと不如意に気をつける六十九歳なんとかせんか
『孟子』梁恵王章句上5 梁の恵王曰く、「晋国は天下より強きは莫きは、のしれ所なり。寡人の身に及び、東は斉に敗られ、長子死す。西は地を秦に喪ふこと七百里。南は楚に辱められる。寡人之を恥づ。願はくは死する者のまでに一たび之をがん。之をせば則ち可ならん」と。
梁の恵王が孟子にきくわが世になりて負けつづけ如何にせんとや一死すすげり
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 落合直文
父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり (同)
直文三十九歳、「明治三十二年の春、病にふしてよめる歌どもの中に」の詞書ある十九首中の一首である。
わが歌をかきてと人に乞ふばかり病おもくもなりにけるかな
寝もやらでしはぶくおのがしはぶきにいくたび妻の目をさますらむ
このすぐ前に並ぶ佳作だが、なおこの歌の方がすぐれている。直文の代表作として聞こえ高いが、これを見るとたれでも島木赤彦の歌を思い出すはずだ。
隣室に書よむ子らの声きけば心にしみて生きたかりけり
赤彦の代表作の一つだが、どちらがすぐれているか今はいうまい。しかし「死なれざりけり」というも「生きたかりけり」というのも人間真実の声である。歌風や時代を越えてともに読むものの心をうつ。(略)だからといって直文を軽んじることは誤っていよう。一口に古いというものも多いようだが、いうはたやすかろう。それでも直文は明治の大先進だった。どうしてなかなか手ごわいものも蔵しているのである。
今日も暑い。七月も終わりだ。
絶壁にたたずむはわれ今にも跳びこむごとき痩せたるすがた
どこかに自殺願望があるのだらうかいやいや年経てもわれにはあらず
明瞭快活でいつまでもいたしと思ふこの暑さにも
『孟子』梁恵王章句4-3 仲尼曰く、「始めて傭を作る者は、其れ後無からんか」と。
其の、人に象りて之を用ふるが為なり。之れ如何ぞ、其れ斯の民をして飢ゑて死なしめにや」と。
孔子曰くはじめて傭を作りしものそれ子孫無からんや
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 落合直文
萩寺の萩おもしろし露の身のおくつきどころここと定めむ (萩之家歌集)
萩には露が置く。露ははかないもの。はかないのは人の身であるから「露の身」といい、その縁語から露の「置く」を掛詞として「おくつきどころ」といった。古い技巧のようだが、さすがである。それがそれと目立たないのも、またいやみを感じさせないのも、清く歌われている心のゆえばかりではない。やはりずいぶんと苦労し、推敲を重ねていたのである。
(略)直文はこの歌に自信があったのか、ゝ〇〇の印を付している。
(略)この歌は年譜によると「明治二十六年(三十三歳)十月、弟鮎貝槐園、門主与謝野寛と共に、江東萩寺に萩を賞す」とあってこの歌が見えるが、のちに改作して寛の『明星』誌上に発表された。(略)萩寺の萩は有名である。それで萩の好きな直文も見に行ったというわけだが、この萩の歌はむろんすぐれているから直文の代表作には違いない。(略)萩が好きだっただけに萩の佳作が多い。
このままにながく眠らば墓の上にかならず植ゑよ萩のひとむら
庭ぎよめはやはてにけり糸萩をむすびあげたるその縄をとけ
あたらしくたてし書院の窓の下にわれまづ植ゑむ萩のひとむらその歌の願いどおり、青山墓地の直文の墓前には萩が植えてあるそうである。
35度まで上がるそうだ。暑い、あつい。
話題の王谷晶『ババヤガの夜』を読む。イギリスのダガー賞の受賞作だというが、この暴力、そして力の世界は、気分を一掃してくれる。私は好きだ。
うなだれて明るき街に迷ひ入る老残あはれやわれに非ざる
いたしかたなくまぢかに死をばおもひみる避けやうのないにあらむ
罪悪も不名誉もありし半生をかへりみてわれどうにかならぬか
『孟子』梁恵王章句上4-2 曰く、「に肥肉有り。に肥馬有り。民に有り。野にり。此れ獣を率ゐて人をましむるなり。獣相食むすら、且つ人之をむ。民の父母と為りて、政を行ひ、獣を率ゐて人を食ましむるを免れず。んぞ其の民の父母るに在らんや。
獣を率ゐて民に食はせずば民の父母たる資格あらんや
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 式子内親王
閑なる暁ごとに見わたせばまだふかき夜の夢ぞかなしき (同)
「百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を」の詞書がある。「毎日晨朝に諸定に入る」は、地蔵延命経の語。「晨朝」は午前六時で朝の勤行。「諸定に入る」は禅定に入って心身を澄ませて念じること。一首の意は、「しずかな暁ごとに起きて禅定に入ってゆくけれど、まだ夜ふかい感じで夢から覚めきらぬ思いがして悲しい」というおもむきである。(略)禅定の中を、自分自身を、と解して間違いではないが、なおそれだけでは不十分だ。こういうのは直観で感じとるほかないのである。人生をあきらめ、長夜の眠りを念じている人の歌だ。運命とはいえ、皇室制度の犠牲になって、一生を台無しにし、病身ついに出家して尼となった人の歌ではないか。煩悩も悟りもあったものではない。何もかもから抜け出して、ただしずかな死を待っている。その心を汲みとって、もっと純粋にことばのままを、そうしてそこからにじみ出るだけを感じとればよい。前の歌とともに、こういうのこそ真の象徴歌というのであろう。当代は才媛時代だが、だれも式子内親王には及ばなかった。じつに抜群の天才だった。それは前代の和泉式部と双璧の感があるが、運命はともに仏門に入り尼になって不遇の生涯を閉じた。内親王の法名は承如法と申し上げる。
今日は格別暑そうである。
左腕の手より上、肘より下がほぼ全面的に紫斑のごとし
この紫斑日毎に育ち大きくなる変色したる右腕ならむ
さして痛くも痒くもなくただ紫の血を蓄へてをり
『孟子』梁恵王章句4 梁恵王曰く、「寡人願はくは安んじて教へをけん」と。孟子対へて曰く、「人を殺すにを以てするともてすると、以て異なる有るか」と。曰く、「以て異なる無きなり」と。「刃を以てすると政もてすると、以て異なる有るか」と。曰く、「以て異なる無きなり」と。
梃、刃、政治に打ち殺すことに異なりあるか変はりなからう
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 式子内親王
暁のゆふつけ鳥ぞあはれなるながきねぶりをおもふ枕に (新古今集)
「ゆふつけ鳥」は鶏のこと。世に騒ぎのある時など、四境の祭とて鶏に木綿を着けて、
京都の四境の関で祭ったことから来ている。「木綿附鳥」の字を用いていたが、いつのほどにか「ゆふつげ鳥」といい「夕告鳥」の字を当てるようになった。これは誤まったのではなく、鶏は刻を告げる鳥だから、この方がかえって鶏をいうにふさわしいと思われ出したからだろう。それでこの歌も「夕告鳥」と読んでもかまわないわけだ。「ながきねぶり」は無明長夜というふうに解されている。これは仏教の語で、明りなく暗きこと。転じて煩悩が理性を眩まし、妄念の闇に迷って法界に出ないことをいう。そこでこの歌の意は、「夜明けを告げて人の目を覚まさせる鶏の声が、無明長夜を嘆いているわが枕に悲しく聞こえる」ということになる。私はそれでよいと思っているけれど(略)しかし「ながきねぶり」は文字通りに、永久の眠り、すなわち死を願っているのだと受けとってもよい(略)乱暴などというなかれ、(略)
これは正治二年に後鳥羽院が召された初度百首に奉られた歌の一つ(略)内親王は後白河天皇の第三皇女として生まれた(略)後に病を得て退出したけれど、生涯ついに独身だった。(略)それも新古今集中第一の才媛だ。その若き日のすぐれた歌のかずかず、とくに情熱的で理知的、幽艶哀切限りないいくつかの恋歌を見て来た目には、これが同じ人の歌かと疑われるほどだ。さびしい歌だ。悲しい歌だ。その心のうちが思いやられて涙が流れる。けれどもこれは傑作だ。晩年の傑作である。(略)私は信じて疑わない。それは新古今集などという歌風や時代を越えている。