1月31日(土)

夜明けが遅い。ゴミ捨ても遅くなる。

  矢柄(やがら)魴鮄(ほうばう)を刺身にてそれぞれの味舌にころがす

  地の酒を一盃、二盃。酔ひ気味の妻とかはせばわれも嬉しき

  金目鯛の煮物をくづし身と汁をかけて食ふ(めし)ただただに美味

『孟子』離婁章句上84 孟子曰く、「人の(うれひ)は、好んで人の師と為るに在り」

  人がだめなのは好き好んで人の師になろうとすること

川本千栄『土屋文明の百首』

二人三人の友とありし日少しはしやぎ少女は声に我を呼びにき 『青南後集』

<二、三人の友と一緒にいた日、少しはしゃいで、少女は声に出して私の名を呼んだのだった。>

昭和五十年「少女と姫萩」より。八十四歳の文明は姫萩を見て、七十数年前、この花の咲く道で同級生の少女から名を呼ばれたことを思い出す。教室で隣に座る少女だった。二人は自分の気持ちが何なのか分かっていなかったが、「声に」によってそれを意識する。少女と一緒にいた女の子たちは、文明と少女の仲を噂し始めた。二人の淡い思いは、十四歳での少女の病死によって終わる。少女は、後に妻となるテル子の二歳下の妹だった。

思ひ出よ夏上弦の月の光病みあとの汝をかにかくつれて 『青南後集』

<思い出しておくれ、あの夏の上弦の月の光を。病み上がりのお前をともかく連れて行った日を。>

「汝」は「なれ」。昭和五十年「白雲一日」より。前年、長男の夏実が五十一歳で病没した。あの夏の日、午後の空に浮かんだ上弦の月を思い出しておくれ、と亡きわが子に呼びかけている。大病後の子を連れて遊びに出かけた時の記憶だ。貧しく、質素な食事しかさせてやれなかったから、幼少期の虚弱な体質が残ったのかという悔恨も、同じ連作で歌にしている。白く薄い昼の月が、ひ弱だった幼い頃の息子に重なって思われるのだ。

1月30日(金)

晴れているが、ひどく寒い。

  大島をはじめ利島(としま)新島(にひじま)も、晴るれば遠く三宅島まで

  油槽(タン)(カー)や貨物船も遠くゆつくりと右手に動く下田を越えて

  東に面する宿の七階の湯に沈む。昼の明るき伊豆の海なり

『孟子』離婁章句上83 孟子曰く、「人の其の言を易くするは、責め無きのみ」

  人がまた軽々しくもものをいふ責任感が乏しきゑなり

川本千栄『土屋文明の百首』

作るほど下手になるといふ理論自ら明かす如く作り来たりぬ 『続々青南集』

<歌は作るほど上手くなるのでなく、下手になるという理論を、自ら証明するように作ってきた。>

「来りぬ」は「きたりぬ」。昭和四十八年八十二歳の作。長く続けると、歌を作る知識や技術は増えても、新鮮な感覚や、素材に向かう熱量は失われてゆく。自己模倣に陥る危険性も増える。老歌人の卑下と取られかねない内容を臆さずに口にする。どんなに劣化しようが、それでも歌を作らずにはいられない業のような何かが、歌を作る人間にはある。その何かに駆られて歌って来た自覚が底にあり、卑下や謙遜とは違う歌になっている。

東西南北中高層ビルにかこまれてすぐに分るよぼろ屋文明 『青南後集』

<東西南北を中高層ビルに囲まれたぼろ家だから、すぐに分かるよ。ぼろ屋文明より。>

昭和四十九年「老の家居」より。一家が疎開先から帰った昭和二十六年、あたりはまだ戦後の荒廃が残っていたが、それから二十年以上経ち、東京青山の風景は一変した。この歌は、家への道案内を記したはがき歌風の文体で、「分るよ」と会話体で気さくに話しかけ、姓「土屋」を「ぼろ屋」に変えて署名のように付け加える。文明八十三歳、歌壇の重鎮の位置に安住せず、軽みとユーモアを武器に飄々と新しい試みを続けていた。

1月29日(木)

晴れだが……

稲取

  稲取もご多分に洩れず坂の町。駅より海へ傾斜したりき

  駅前から送迎バスにおよそ十分けふの宿りの温泉宿へ

  部屋に入れば窓いつぱいに海が見ゆ。その明るさに妻と驚く

『孟子』離婁章句上82 孟子曰く、「(おもんぱか)らざるの(ほまれ)有り。(まつた)きを求むるの(そしり)有り」

  予期せぬ名誉を得ることあり全きにかえつて毀りあることもある

川本千栄『土屋文明の百首』

議員さんを人気商売と言ふなかれ人気なくなればダッコチャンも売れず 『続々青南集』

<議員さんを人気商売などと言ってはいけない。人気が無くなれば、あの爆発的に売れたダッコちゃん人形だって売れないのだ。>

昭和四十五年七十九歳の「老耄年を迎ふ」より。ダッコちゃんは昭和三十五年の大ヒット玩具で、腕などに抱きつかせる人形だ。ブームは去っていたが、まだ人々の記憶には鮮明だった。この歌は上句と下句に転換があるのがおもしろい。上句で政治家を庇ったかと思えば、下句で人気が無くなればダッコちゃん同様に用済みだよとほのめかす。老耄と自称するが毒舌と諧謔は健在だ。

橙の年を越えたる一つ実を囲む青実も色づきそめつ 『続々青南集』

<橙の、年を越えて色づいた一つの実を囲む。今年の青い実たちも色づき始めた。>    昭和四十八年「窓のそと窓のうち」より。橙は数年分の実が同時に枝に生るため「代々」に繋がり縁起がいい。この木は文明の部屋のすぐ前に植えられ、しばらく実らなかった。この頃から実り始めた。毎日窓から眺めるお気に入りで、たちばなとも呼んでいた。「亡き人は見ゆることなきことわりも散るたちばなの花の下にて」(青南後集)「ただ一つ下れる去年の橙あり木の実は孤独といふこともなく」(同)など次の歌集にも作品が多い。

1月28日(水)

寒い、寒い。けど晴れ。

  朝がらす一声二声鳴き過ぐるいつものところに鳩むれ見えず

  朝がらす一羽が鳴けば二羽、三羽続けば拠らず鳩どもならむ

  鳩どもがいたずらものと思ひたりところかまはず糞を落とす

『孟子』離婁章句上81 孟子曰く、「人は与に(せ)むるに足らざるなり。政は関するに足らざるなり。惟大人のみ能く君の心の非を格すことを為す。君仁なれば仁ならざること莫く、君義なれば義ならざること莫く、君正しければ正からざること莫し。一たび君を正しくして、而して国定まる」

  いったん君を正しうすれば而して国は定まるものぞ

川本千栄『土屋文明の百首』

仄かなる三日月立ちて夕紅九十九里の方をまたかへりみる 『続青南集』

<ほのかな三日月が立って空は一面夕焼けている、その九十九里浜をまたふり返って見る。>

昭和四十年「上総安房」より。文明の師、伊藤佐千夫は千葉出身で生家近くの九十九里浜を愛し何度も歌にしている。文明にとって左千夫は単に歌の師にとどまらず人生の恩人でもあった。生涯を通じて数多くの左千夫を偲ぶ歌を作り、特に九十九里浜は何度も訪れ、太平洋をのぞむその雄大な風景を歌っている。自身が年を重ねるのちれて益々、左千夫に対する恩義の情は深くなった。この歌の鮮やかな色彩に左千夫への思慕がにじむ。

老い朽ちし桜はしだれ匂はむも此の淋しさは永久のさびしさ 『続々青南集』

<老い朽ちた桜はしだれ桜で、今咲こうとしている。この淋しさは永久のさびしさだ。>

昭和四十四年七十八歳、昔の恩人の疎開跡を訪ねての歌。その人が逝去してから既に二十年ほど経っている。そこでは老いて朽ちかけた桜がそれでもなお枝を伸ばし咲こうとしていた。いつか枯れ切るまで、わずかな生きる力を振り絞って、来る春ごとに花を咲かすのだろう。恩人も友人も多くは既に亡く、永久に続くようなさびしさの中に一人立っている。老いた桜に自らを重ねるかのように、抒情豊かに歌い上げている。

1月27日(火)

朝は曇っていたが、晴れてきた。しかし寒い。

今村翔吾『イクサガミ』天を読む。天は、前に一度読んでいるのだが、ほとんど初読同然。京都から東海道を通って江戸へ。「蟲毒」殺害、生き残りの旅である。後、地・人・神の巻がある。感想は全冊読んだ時にしたい。

  珈琲のカップに上る湯気あればしあわせと思ふ冬の午後なり

  缼くるものわれにもありて鬱然と珈琲を喫む冬の快楽(けらく)

  珈琲に苦さなければ旨くなしその苦さこそ快楽につづく

『孟子』離婁章句上80-1 曾子、曾晳を養ふに、必ず酒肉有り。将に徹せんとすれば、必ず与ふる所を請ふ。『余り有りや』と問へば、必ず『有り』と曰ふ。曾晳死す。

曾元、曾子を養ふに、必ず酒肉有り。将に徹せんとするも、与ふる所を請はず。『余り有りや』と問へば、『亡し。将に以て復び進めんとするなり』と曰ふ。此れ所謂口体を養ふ者なり。曾子の若きは、則ち志を養ふと謂ふ可きなり。親に事ふること、曾子の若き者は可なり」

  親に仕えんとすれば将に曾子のごとくせむ口腹を求めず

川本千栄『土屋文明の百首』

牛の子の如くにからびしくそつけて臥やる一日は侘しかりけり 『続青南集』

<牛の子のように干からびた糞をつけたまま横になっている一日は侘しかったなあ。>

「一日」は「ひとひ」。昭和三十七年「病みて」より。同年一月、七十一歳の文明は心筋梗塞に倒れ、三か月間入院した。四十四年間続けた「アララギ」の選歌も辞した。この歌は自分で尻も拭けない状況を、事実そのままに歌っており、それが滑稽でもあり物悲しくもある。尻に糞を付けたままの仔牛、というのは農の人らしい観察だが、その比喩により、病気の老人が弱々しく頼りなく、どこか可愛らしい存在に感じられる。

立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし 『続青南集』

<何度も何度も引き返しきて恋しくおもうけれども、全てを残らず見ることはできない大和、大和が恋しい。>

「大和し」の「し」は強調。七十三歳の文明は「短歌研究」昭和三十九年一月号に「やまとの国」と題する全百三十二首の大作を発表した。三十七年に心筋梗塞を病んだことを考えると、旅程も含めて驚異的な復活だった。文明は歌会や万葉踏査のため何度も同じ地域を訪れており、大和(奈良)には特に愛着があった。同じ語の繰り返しによって韻律を整えつつ、大和への愛を歌い上げる。倭健命の「大和しうるはし」も思わせる。

1月26日(月)

今日も寒い。晴れだが。

  朝・昼・晩すがたを変へて変幻自在あけぼの杉の正体見えず

  杉の木を下から仰げば冬の空透明にして飛ぶ鳥も見ず

  日中はただの冬の木、夜となれば闇の中なりすがた隠す

『孟子』離婁章句上80 孟子曰く、「(つか)ふること(いづ)れか大なりと為す。親に事ふるを大なりと為す。守ること孰れか大なりと為す。身を守るを大なりと為す。其の身を失はずして、能く其の親に事ふる者は、吾之を聞けり。其の身を失ひて、能く其の親に事ふる者は、吾未だ之を聞かざるなり。孰れか事ふると為さざらん。親に事ふるは、事ふるの本なり。孰れか守ると為さざらん。身を守るは、守の本なり。

  親に仕へるが根本であり自らの正しさを守るが根本なり

川本千栄『土屋文明の百首』

一ついのち億のいのちに代るとも涙はながる我も親なれば 『青南集』

<その一人の命が億の人の命の身代わりになるとしても、その死への涙は流れる、私も親であるから。>

昭和三十五年七月の歌。同年五月、安保条約の成立に際し、何十万もの人々が国会議事堂を取り囲んだ。また、六月には学生のデモ隊と機動隊が衝突し、東大生樺美智子が死亡した。一首の背景にはこの事件がある。「億のいのち」は日本人全体の命を表す。親であればその億の命より、自分の子一人の命が惜しい。戦前の「まをとめや」や戦中の出征者に寄せる思いに繋がる気持ちだ。再びの戦争体制が人々に強く危惧された時期の歌である。

青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ 『青南集』

<青く広がる裾野の上に榛名連山を、永久の幻に思い浮かべながらも、故郷を出て帰らないのは私だけではない。>

明治時代、立身出世や自分の才覚による成功を夢見て故郷を去った人々の一人として、文明も東京に出て、生涯故郷に帰り住むことは無かった。彼にとって、青々と連なる榛名山系は永遠のまぼろしとして思い浮かべるものであり、故郷の象徴だった。歌碑嫌いの文明だったが、この歌を刻んだ生前唯一認めた歌碑が、出身地にある群馬県立土屋文明記念文学館の前庭に建てられている。

1月25日(日)

寒い。北国では盛んな雪らしいが、こちらは快晴。

  妻の体液とわが体液がまじり合ふ湯舟に浸かり淫蕩ならむ

  陶然と湯舟に浸かり陶然ともの考ふる女身について

  浸かりし湯を湯舟にこぼしわれが入る全裸のわれの体積分を

『孟子』離婁章句上79 公孫丑曰く、「君子の子を教へざるは何ぞや」と。孟子曰く、

「勢ひ行はれざればなり。教ふる者は必ず正を以てす。正を以てして行はれざれば、之に継ぐに怒りを以てすれば、則ち反って(そこな)ふ。『夫子我に教ふるに正を以てするも、夫子未だ正に出でざるなり』と。則ち是れ父子相夷ふなり。父子相夷へば、則ち悪し。古は子を易へて之を教ふ。父子の間は善を責めず。善を責むれば則ち離る。離るれば則ち不祥(これ)より大なるは莫し」と。

  父と子の善をそこなふを良しとせずされば子供を取り替へて教ふ

川本千栄『土屋文明の百首』

月にゆく船の来らば君等乗れ我は地上に年をかぞへむ 『青南集』

<もし月に行く船が来たら君等が乗れ。私は地上で老いていく自分の年齢を数えいこう。>

「来らば」は「きたらば」。昭和三十三年「新年の歌」より。第二次世界大戦後の冷戦中、米ソは宇宙開発競争を繰り広げた。この歌の前年十月、ソビエト連邦(現ロシア)による人類初の人工衛星スプートニク一号が打ち上げられた。文明は早速それを素材にしている。アメリカのアポロ十一号月面着陸より十年以上前のことだ。「君等」に比べて老いた「我」だが、まだまだ好奇心に満ちている。会話体を模した軽みの歌だ。

旗を立て愚かに道に伏すといふ若くあらば我も或は行かむ 『青南集』

<旗を立て愚かに道に伏せるのだと言う。もし若かったら私も或いは行くかもしれない。>    昭和三十五年「時のうつり」より。背景に六十年安保闘争がある。この年の一月、日米安全保障条約改定に向かう首相らの渡米を、反対を叫ぶ学生たちは、旗を立て道に身を横たえて阻止しようとした。結局は警察隊に排除されるそれらの行為を、文明は「愚かに」と言う。権力に逆らうことの困難さを経験して来た、理性の人の判断だ。しかし、同時に彼の中には、そうした行動へ駆り立てられるような情熱もあったのだ。