6月11日(木)

曇りだというが、結構晴れてる。

  酒に酔ひ懐石を食ふ安穏に笑ひをかはす妻とわたくし

  静岡の酒に酔ひ酔ふ二人なり。(くら)くなり見えぬ熱海の海原

『孟子』告子章句下166-2 曰く、「魯の繆公(ぼくこう)の時、公儀子(こうぎし)、政を為し、(し)(りう)子思(しし)、臣たり。魯の削らるるや、滋々(ますます)甚だし。(かく)の若きか、賢者の国に益無きことや」と。曰く、「(ぐ)百里奚(ひやくりけい)を用ひずして亡び、秦の繆公は之を用ひて(は)たり。賢を用ひざれば則ち亡ぶ。削らるること何ぞ(う)(べ)けんや」と。

  賢者を用ひざれば国は滅び、削らるるくらいで済むものか

また『梁塵秘抄』は、お休み。

6月10日(水)

今日は曇りだ。

  いつのまにか旅することを楽しむか江戸の人々(みやこ)をめざす

  山を下りまた上りして今日の宿り山の中腹にようやつと到る

  露天湯からの眺望に感嘆したり。熱海の町、そして海原

『孟子』告子章句下166 淳于髠(じゆんうこん)曰く、「名実を先にする者は人の(ため)にするなり。名実を後にする者は自ら為にするなり。夫子、(さん)(けい)の中に在りて、名実未だ上下に加わらずして(これ)を去る。仁者は(もと)より(かく)の如きか」と。孟子曰く、「下位に居り、賢を以て不肖に(つか)へざる者は、伯夷なり。五たび(たう)に就き、五たび桀に就く者は伊尹(いゐん)なり。(お)(くん)を悪まず、小官を辞せざる者は、柳下恵なり。三子者は道を同じうせざるも、其の趨は一なり」と。「一とは何ぞや」と。曰く、「仁なり。君子も亦仁のみ。何ぞ必ずしも同じからん」と。

  君子たるもの仁だけが目標。三者の道は同じではない

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳    

多分、今日はお休み。6月8日(日)に孫が来る。

6月9日(火)

午前雨、午後曇り。

  東海道庄野あたりは雨の中。上るも下るも一苦労なり

  やつとこさつとこ京の三条大橋へ。欄干に覗く鴨川の流れ

  一枚一枚はそんなに大きくない版画なり。江戸のわれなら幾枚か買ふ

『孟子』告子章句下165 孟子(すう)(を)る。(き)(じん)(じん)(しよ)(しゆ)(た)り。(へい)を以て交はる。(これ)を受けて報ぜず。(へい)(りく)(を)る。儲子(ちよし)(しよう)(た)り。幣を以て交はる。之を受けて報ぜず。他日、(すう)(よ)(じん)(ゆ)き、季子(きし)を見る。平陸由り斉に(ゆ)き、儲子を見ず。屋盧子(をくろし)喜んで曰く、「(れん)(かん)を得たり」と。問うて曰く、「夫子(ふうし)(じん)(ゆ)きて季子を見、斉に之きて儲子を見ざるは、其の、(しやう)(た)るが(ため)か」と。曰く、「非なり。書に曰く、『(きやう)は儀を多くす。儀、物に及ばざるを、不享(ふきやう)と曰ふ。(こ)れ志を享に(えき)せざればなり』と。其の、享を成さざるが為なり」と。屋盧子悦ぶ。或ひと之を問ふ。屋盧子曰く、「季子は鄒に(ゆ)くことを得ざるも、儲子は平陸に(ゆ)くことを得たりしなり」と。

儲子は斉の宰相なれど孟子を訪ねず礼物のみ送る

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

ゐよゐよ蜻蛉(とうばう)よ 堅塩(かたしほ)参らんさてゐたれ 働かで (すだれ)(しの)の先に(むま)の尾(よ)り合はせてかい付けて (わらはべ)冠者(くわざ)ばらに(く)らせて遊ばせん  (四句神歌・雑・四三八)

【現代語訳】じっとしているんだよ、蜻蛉よ。堅塩をあげよう。だからじっとそのままでいて、動かないでね。篠竹の先に馬のしっぽの毛を縒り合わせて、そこに蜻蛉をくくりつけ、子どもや若者たちに繰らせて遊ばせよう。

【評】蜻蛉とりに関わる童謡風の歌。前半部分は蜻蛉をとらえようとする子どもたちが蜻蛉へ呼びかけるような表現、「簾篠の先に」以下の後半部分はとらえた蜻蛉で子どもたちを遊ばせてやろうという大人の側からの表現になっている。「遊ばせん」は蝸牛に「花の園まで遊ばせん」(四〇八)と呼びかけるのと同じ形式であり、蜻蛉への呼びかけともとれるが、「童冠者ばらに繰らせて」と蜻蛉と遊ぶ対象を提示するとろからは大人の目の存在が感じられ、前半の歌い方と直接にはつながらないように思われる。蜻蛉で遊ぶ子どもたちへのあたたかい目は加賀千代女(一七〇三~一七七五)の名句「蜻蛉釣今日はどこまで行つたやら」を思い起こされる。

「堅塩」は精製していないかたまりになっている塩、「簾篠」は簾を作る細い竹、「冠者」は元服をして冠をつけたばかりの若者。

前半部分は蝸牛の童謡(四〇八)と同じく、褒美(ここでは堅塩)が提示されている。」高知県や兵庫県の伝承童謡として紹介された次のような歌とつながりがあろう。

とんぼ とんぼ とんぼ 止まれ 塩焼いて食わそ  (兵庫)

とんぼ とんぼ おとまり 明日の市で塩買うて ねぶらしょ  (高知)

塩がさまざまな飲み物や食べ物に変化したものもある。

蜻蛉(あけず) 蜻蛉 お茶飲ませっから 垣の木 とうまれ  (宮城)

とんぷ とんぷ 飛んで来い 粟の御飯を煮てやるに (長野)

蜻蛉(たんぼ) 蜻蛉とまれ 明日の市に 飴買うてとらしょう (石川)

蜻蛉(たんぼ)来い 虻くれる                (石川)

とんぼとまれ (とと)(さい)で飯くわす とんぼとまれ   (大阪)

とんぼ とんぼ 止まれ (あ)げ買うてくわす     (広島)

ねんばあじょ とまれいじょ 蠅を打って食わしゅうで (長崎)

これらの童謡においてあげられる現実的な餌(虻・蠅)や全く人間の食べ物といってよいもの(粟の御飯・魚の菜・揚げ)とは異なり、当該今様では蜻蛉への褒美として塩が持ち出されている。蜻蛉は生きた虫を餌にするため、塩との取り合わせは不審だが、あるいは、腹に青白い粉を帯びた蜻蛉が塩辛蜻蛉と呼ばれるように、蜻蛉の体の白っぽい粉と塩との連想が働いたものか。

古く平安時代末に編まれた『今昔物語集』巻一六‐二八話に見え、後世わらしべ長者の昔話として喧伝された話では、藁の先に虻をくくりつけて飛ばしていると、しかるべき身分の女性が興味を寄せてそれを欲しがる場面がある。このように、ただ虫を飛ばして歩くことも十分楽しい遊びになり得ようが、今様で歌われているのはオトリの蜻蛉(雌)で、篠竹を振り回してそこに組みついてくる雄の蜻蛉をとらえたのではないかと思われる。蜻蛉釣りの方法には大きく二つがあり、このようなオトリを使う方法と、もう一つは、ごく小さな砂利を二粒糸でつないで、飛んでいる蜻蛉の側に投げ上げるという方法である。小石を餌の虫と間違えた蜻蛉が近づいてきて糸にからまり、地面に落ちてくるという。沖縄には、二つの方法それぞれに独自の蜻蛉釣りの歌が伝わっている。

あーけーじゅー (たん)もーりー(とんぼを下さい)

たーまか(しー) うっ飛ばし(やんまの精をとばすから)

てィんたーまよ 来いよ(大やんま来いよ)

(く)(くー)らせん (ふ)(むん)ど(これを食わないのは狂ったやつだ)

前者はオトリを使う方法の時の歌、後者は砂粒を投げる方法の時の歌である。

二〇〇九年に発見紹介された、上越市内個人蔵の『御所参内・聚楽第行幸図屏風』は天正一六年(一五八八)の聚楽第行幸を描いたものとされるが、その中に、蜻蛉(あるいは紙を蜻蛉形に切り抜いたものかとも)を結びつけた糸の細い棒の先につけて持ち歩いている二人の子どもの姿が描かれている。蜻蛉釣りの遊びは時代を越えて子どもたちの心をとらえてきたのである。

当該今様は前半と後半で歌の主体の視点が変っているように見えるが、子どもの遊びを生き生きと描写しており、楽しく明るい一首に仕立てられている。

6月8日(月)

朝方は雨、そして曇り。昨日、関東地方も梅雨に入ったらしい。

  蒲原は雪の坂道上り下る誰もが蓑笠に雪積もらせて

  御油の宿に女中に引き込まるる禿げ頭軟弱さうなり。われかも知れず

  四日市は風吹く、荒く、男一人、笠を飛ばして笠追ひかける

『孟子』告子章句下164-3 先生仁義を以て秦・楚の王に説かんに、秦・楚の王仁義を悦び、而して三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを楽しんで仁義を悦ばん。人の臣(た)る者、仁義を懐いて以て其の君に(つか)へ、人の子為る者、仁義を懐いて以て其の父に事へ、人の弟為る者、仁義を懐いて以て其の兄に事へば、是れ君臣・父子・兄弟、利を去り仁義を懐いて、以て相接するなるり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利と曰はん」と。

  仁義あれば君臣・父子・兄弟接すべし利害の説明などいらざることなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

法師博打の(よう)がるは 地蔵よ迦旃(かせん)二郎(てら)(し)とか 尾張や伊勢のみみづ新発意(しもち)無下に悪きは(けい)足房(そくばう)              (四句神歌・雑・四三七)

【現代語訳】法師姿の博打うちで一風変わっておもしろい連中は、地蔵よ、迦旃、二郎、寺主とかいう者たち。尾張国や伊勢国のみみづ、新発意。ひどく腕の悪いのは鶏足房。

【評】法師姿の博打うちの名を列挙した歌。仏教に関わる名を持っているものが多く、人名の羅列ながら大仰なおかしみを誘う。「迦旃」は釈迦の十大弟子の一人・迦旃延からきた名前であろう。「二郎寺主」「みみづ新発意」はそれぞれ一人の名と見る説もある。後者については、尾張国(現在の愛知県西部)、伊勢国(現在の三重県北部)と二か所の場所が出されているので、二人と見た方がよいか。この部分を個人名とせず、「みみづ新発意」で意気地のない新発意たち(新発意は発心して新たに仏門に入ったもの、新参の僧)ととるや説「水屑新発意」でつまらない新発意たちととる説もある。なお考える余地があるが、前後はすべて個人名と見られるので、この部分についても、「みみづ」「新発意」の二人の名と解した。虫の「蚯蚓」の仮名遣いは正しくは「みいず」であるが、『梁塵秘抄』現存本の仮名遣いがかなり乱れていることと、新参の僧の意味の「新発意」と並べられる名であることから、暗い土の中でごそごそしているつまらない虫といった揶揄的な意味合いで「蚯蚓」と呼ばれた可能性も捨てがたい。

「無下に悪き」は、ひどく悪いという意味であるが、何を対象としているのかについては、容貌が悪いと見る説、方法があくどいと見る説、運が悪い、ついていない、と見る説、腕前が悪い、下手であるとする説など見解が分かれている。『梁塵秘抄』には、博打を歌った次のような一首もある。

博打の好むもの 平骰子(ひようさい) 鉄骰子(かなさい) 四三骰子(しさうさい) それをば誰か打ち得たる 文三(もんさん)刑三(ぎやうさん) 月々清次とか (一七)
(博打うちが好むものは、平骰子、鉄骰子、四三骰子。その骰子を誰が上手に打てるのか。文三、刑三、月々清次とかいう連中さ)

一七番歌では、博打うちの名人上手をあげており、博打うちにとって一番問題なのは勝負に勝てるかどうかの腕前だと考えられる。「運」も勝負を左右するものではあるが、それも博打うちと見て、ここでは腕前の悪さを言っていると解した。

「鶏足房」は、鶏足山(釈迦の十大弟子の一人で、釈迦の信頼を得て教団の長老にもなった訶迦葉が入寂したとされる山一八五)からきた名前であろう。

人名の解読には難しいところもあるが、法師姿で抹香くさい名を持つ博打うちたちが活発に動き回っていたことが想像されておもしろい。

6月7日(日)

午前は曇り、午後一時頃より雨らしい。

  おいおいこんな山道を行く果てにあるのかMOA美術館は

  歌川広重画く東海道五十三次。つぶさに観つつただ疲れたり

  箱根の山はこんなだつたかと思ひつつ雨や雪降る宿場を越えつ

『孟子』告子章句下164-2 曰く、「先生の志は則ち大なり。先生の号は則ち不可なり。先生利を以て秦・楚の王に説かんに、秦・楚の王利を悦び、以て三軍の師を(や)めば、是れ三軍の士、(や)むるを楽しんで利を悦ばん。人の臣(た)る者、利を(いだ)いて以て其の君へ(つか)へ、人の子(た )る者、利を懐いて以て其の父に事へ、人の弟為る者、利を懐いて以て其の兄に事へば、是れ君臣・父子・兄弟、終に仁義を去り、利を懐いて以て相接するなり。然り而うして亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  君臣・父子・兄弟だれも仁義を捨て利害にむかへば国は滅びむ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

春の初めの歌枕 霞鶯帰る(かり) (ね)(び)青柳梅桜 三千歳(みちとせ)になる桃の花 
(四句神歌・雑・四三二)

【現代語訳】春の初めの和歌の素材としては、霞、鶯、北に帰る雁、子の日、青柳、梅、桜、三千年に一度実を結ぶという桃の花

【評】春の景物を並べた物尽くし今様。「帰る雁」は冬鳥である雁が春になって北に渡っていくことをいう。「子の日」は正月の初めの子の日。またその日の行事をいう。野外に出て小松を根ごと引き抜いたり、若菜を摘んだりして、長寿を願った。中国の風俗にならったもので、奈良時代から宮中ではこの日に遊宴のあったことが知られるが(『続日本紀』天平一五年<七四三>正月条)、平安時代に入って一般に広まり、初春の代表的な行事となった。勅撰集では『後撰和歌集』以後、春の部立の中に置かれる。「三千歳になる桃の花」は、仙女西王母が漢の武帝に与えた桃の実が三千年に一度結実するものであったという故事による(『漢武故事』〈前漢の武帝[前一五六~前八七]の生涯を描いた小説。後漢の班固[三二~九二]に仮託した六朝時代[三~六世紀]の作など]〉。

和歌にも多く詠まれ、

三千歳になるてふ桃の今年より花咲く春にあひにけるかな
                    (『拾遺和歌集』賀・凡河内躬恒)
(三千年に一度実がなるという桃が、今年から花咲くというめでたい春にちょうど巡り合ったことだよ)

三千代経てなりけるものをなどてかはももとしもはた名づけそめけむ
                    (『後拾遺和歌集』春下・花山院)
(三千年に一度なるものだというのに、その桃の実を「千」ではなく「もも〈百〉」などとまあどうして名づけはじめたのであろうか)

のような例がある。

全体の構成を見ると、第二句「霞鶯帰る雁」は、視線が空にあり、後の二者が鳥であることで共通している。第三句「子の日青柳梅桜」は、子の日に小松を引くことを詠む和歌の類型を背景に置くと、松・柳という緑の木に、梅・桜という紅や白の木の花が取り合わされることになる。樹木の連想が連なって最後に紅の桃の花が歌われる。このように視線の移動、すなわち空間的対比や色の対比によって素材配列がなされていることがわかる(三三三・三八六)。最終句は先にふれたように仙桃の故事を踏まえているが、このように最後に説話・伝説を盛り込むのも物尽くし今様の一つである(三五六)。

『梁塵秘抄』には、

春の初めの歌枕 霞たなびく吉野山 鶯佐保姫翁草 花を見捨てて帰る雁(一三)   の一首もある。一三番歌は和歌にほとんど詠まれない「翁草」を取り上げて、「佐保姫」と「翁草」の「翁」を対比するところに意外性と面白さがあったものと思われる。このように、同じテーマの今様が、さまざまに素材を組み替えた形で歌われ、楽しませていたのであろう。

6月6日(土)

曇りらしい。

ちよつくら熱海

  伊豆山のあたりを曲りまた登るまたまた登る妻の自動車(くるま)

  (ね)をあげる自動車(くるま)ではないが後部座席に(ね)をあげさうなる(わたくし)がゐる

『孟子』告子章句下164 宗牼(そうけい)将に楚に(ゆ)かんとす。孟子、(せき)(きう)に遇ふ。曰く、「先生将に何くに之かんとする」と。曰く、「(われ)秦・楚兵を(かま)ふと聞く。我将に楚王に(まみ)えて、説いて之を(や)めしめんとす。二王のうち我将に遇ふ所有らんとす」と。曰く、「(か)や請ふ、其の(しよう)を問ふこと無く、願はくは其の(むね)を聞かん。之を説くこと将に如何せんとする」と。曰く、「我将に其の不利を言はんとす」と。

  孟子、宗牼に言ふ戦争をすることは不利だと思ふ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

讃岐の松山に 松の一本(ひともと)歪みたる (もぢ)りさの(すぢ)りさに (そね)うだるかとや 直島の さばかんの松をだにも直さざるらん      (四句神歌・雑・四三一)

【現代語訳】讃岐国の松山に、松が一本歪んで立っている。身をねじりひねりして悔しがっているとか。直島という名前があるのに、どうしてそれくらいの松さえ直さないのだろうか。

【評】崇徳院をめぐる時事批判の歌。崇徳天皇は鳥羽院の後を継いで皇位についたが、白河法皇の没後、鳥羽院と美福門院の間に体仁皇子(後の近衛天皇)が生まれると、鳥羽院は崇徳天皇に譲位をせまる。近衛天皇が幼くして亡くなると、それは崇徳院・藤原頼長らの呪詛のせいだとの世評が流れた。そのため、崇徳院の皇子である重仁皇子は即位できず、皇位についたのは崇徳院の弟にあたる後白河天皇であった。こうして鳥羽院・後白河天皇と崇徳院方との対立は深まり、鳥羽院の没後、保元の乱がおこるに至ったが、崇徳院方は敗北し、院は讃岐(現在の香川県)に流されることになった。『保元物語』によると崇徳院は讃岐の松山から直島に移され、さらに鼓岡に移されている。「松山」「直島」の地名が歌い込まれた当該今様において、ゆがんだ松は印の怨念のすさまじさを巧みに表現していると言えよう。「捩りさの捩りさに」は身をねじりくねらせるさま、「猜うだる」は「猜みたる」の音便。「猜る」は憎む、恨むの意。

さらに、この今様は、ゆがんだ松を直そうとしない者たち、すなわち、崇徳院に冷酷な仕打ちをし続ける後白河院方にまで風刺が及んでいると見ることができる。『梁塵秘抄』には、他にも保元の乱に関わると思われる今様がある。

侍藤五君 召しし弓矯も持ちながら 讃岐の松山へ入りにしは (四〇六)
(侍の藤原氏の五郎君よ、崇徳院のお取り寄せになった弓矯〈弓の曲りを直す道具〉も持っていながら、讃岐の松山へ入ってしまったのはどうしてか)

四〇六番歌は意味の取りにくいところもあるが、崇徳院の北面の武士であった侍が、持っていた弓矯や箆矯を十分に使うこともなく、戦に敗れて崇徳院の配所にお供していったことを歌っているらしい。崇徳院が讃岐に流されたのは保元元年(一一五六)、その地で没したのは長寛二年(一一六四)であるから、これらの今様は、成立時期がかなり新しい歌と見られる。崇徳院はその死後、しばしば怨霊として発動し、都の人々を恐怖におとしいれた。建久二年(一一九一)、後白河院が病に倒れた時には、崇徳院の怨霊をなだめるべくさまざまの手段が尽くされたが、その甲斐もなく、翌年三月、後白河院は絶命する。崇徳院怨霊はその復讐を遂げたことになるのである。

上田秋成の『雨月物語』「白峯」に登場する崇徳院の亡霊は、膝元に鬼火を伴い、乱れた髪に手足の爪が獣のごとくのびているという恐ろしい姿で描かれるが、それにはるかに先行する当該今様の表現も、崇徳院の恨みの激しさをあますところなく伝えてみごとである。

6月5日(金)

  あつというまに平城すぎて京に入る京は寂しきにはか雨ふる

  京にふる雨の激しく地を叩き、寒くなるのもあまりに急なり

  奈良の町萬萬堂通則に贖ひし餢飳(ぶと)饅頭を頬張る妻と吾

『孟子』告子章句下163 公孫(こうそん)(ちう)問うて曰く「高子(かうし)曰く、『小弁(せうばん)小人(せうじん)の詩なり』と」

孟子曰く、「何を以てか之を言ふ」と。曰く、「怨みたればなり」と。曰く、「(こ)なるかな高叟(かうそう)の詩を(をさ)むるや。(ここ)に人有り。越人(ゑつひと)弓を(ひ)きて之を(い)んとせば、則ち(おのれ)談笑(だんせう)して之を(い)はん。他無し、之を(うと)んずればなり。其の兄弓を(ひ)きて之を射んとせば、則ち己涕泣(ていきふ)を垂れて之を(い)はん。他無し。之を(いた)めばなり。小弁(せうばん)の怨めるは、親を親しめばなり。親を親しむは仁なり。(こ)なるかな高叟(かうそう)の詩を(をさ)むるや」と。曰く、「凱風(がいふう)は何を以てか怨みざる」と。曰く、「凱風は、親の過ち小なる者なり。小弁は、親の過ち大なる者なり。親の過ち大にして怨みざるは、是れ愈々疎ずるなり。親の過ち小にして怨むは、是れ(き)(べ)からざるなり。愈々疎んずるは不孝なり。(き)す可からざるも亦不孝なり。孔子曰く、『舜は其れ(し)(かう)なり。五十にして慕ふ』と。

  舜こそは至孝の人なり。五十になつても親を慕ふ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

心凄きもの 夜道(ふな)(みち)旅の空 旅の宿 (こ)(ぐら)き山寺の経の声 思ふや仲らひの飽かで退(の)

【現代語訳】心細く恐ろしいものは、夜道、船での移動、旅にある身の上、旅の宿、うっそうと木々が茂って暗い山寺から聞こえる経の声。愛し合う二人が、飽きたわけでもないのに、心ならずも別れ離れてしまうこと。

【評】心凄きもの尽くし。「心凄し」は寂しくて心細い意。

心細い旅の情景を並べた最後に、恋人同士の余儀なき別れを配置する。最後に意表をつくものを置くことは物尽くし今様の手法としてしばしば見られるが、当該今様は、特に、修行の旅らしい心細さから恋の孤独感へ、趣の急変ぶりが鮮やかである。

「思ふや仲らひの飽かで退く」は、思い合った二人が飽きてしまったわけでもないのに遠のく、の意で、不本意な離別を「心凄し」と表現するが、次に示す用例は、むしろ、飽きないうちにこそ離れようという屈折のある歌で、「飽く」ことと「退く」こととのいろいろな関係性が窺われよう。

飽かでこそ思はむ仲は離れなめそをだに後の忘れがたみに
                      (『古今和歌集』恋四・よみ人しらず)
(飽きないうちに思い合っている二人の間柄を切ってしまいましょう。飽きて別れたのではないというそのことだけでも、後々の忘れられない思いでの形見として)