2025年6月2日(月)

曇っているようだが、陽が出る時もあるらしい。

  (どくだみ)の花さかりなり公園の(ふち)いろどれる真白き花

  どくだみの花むらふかく歩み入りわれも蕺の如くにあらむ

  見る間にも降りだしさうな曇り空、春土(おこ)す田の色変ず

  最近は蓮華の赤き田んぼ無く土ひっくりかへし何か建つべし

  空中にあざけりつつも飛ぶ鷺の地上はるかに遠ざかりゆく

『大学』第二章 三 康誥(こうこう)に曰く、「(よ)く徳を明らかにす」と。大甲(たいこう)に曰く、「天の明命を(おも)(ただ)す」と。(てい)(てん)に曰く、「克く(しゅん)(とく)を明らかにす」と。皆自ら明らかにするなり。

(とう)の盤の銘に曰く、「(まこと)に日に新たに、日々新たに、又日に新たなれ」と。康誥に、曰く、「新たなる民を(おこ)せ」と。詩に曰く、「周は旧邦なりと雖も、その命は維れ新たなり」と。是の故に君子はその極を用ひざる所なし。

詩に云ふ、「邦畿(ほうき)千里、維れ民の止まる所」と。詩に云ふ、「緡蛮(めんばん)たる黄鳥(こうちょう)は丘隅に止まる」と。子曰く、「(黄鳥すら)止まるに於いてはその止まる所を知る。人を以てして鳥に(し)かざるべけんむや」と。詩に云ふ、「穆穆(ぼくぼく)たる文王は、於、緝熙(あきらか)に止まるところを(つつ)しむ」と。人の君たりては仁に止まり、人の臣たりては敬に止まり、人の子たりては孝に止まり、人の父たりては慈に止まり、国人(くにたみ)と交はりては信に』止まる。

  さまざまなる典拠を引きて意を誠とする工夫述べたり

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 与謝野鉄幹

大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙の流るるものを (歌集・相聞)    ひ、ろい宇宙からすれば人間などまるで空に浮遊している塵みたいなものかもしれないが、自分はけっしてそんなふうには思はないのだ。なんとならば、このように人を思って熱い涙を流しているのではないか、とこれは第七歌集『相聞』の巻頭歌だから、まさしく相聞の歌にちがいない、(略)ほとんど独語にひとしい形で歌われているだけに、反発を感ぜず、作者とともに「熱き涙の流るるものを」と唱和してしんみりするのである。(略)この「大空の塵とはいかが」の歌の方が、どれほど立ちまさっているかは、技術ひとつにしてみてもこれほど巧みなものはなく、その高く美しき詩精神に至っては同時代類を見ないのである。

2025年6月1日(日)

明るい。雨ではない、曇りつづき。しかし明るい空だ。

鎌田東二さんが5月30日午後6時15分、盲腸がんのため京都市の自宅でなくなった。74歳。

最初の出会いは、あまり楽しいものではなかったが、すべての根源をエロスと言い切ったことには驚いた。おもしろい人だった。著書はたくさんあるが、最初の二冊『神界のフィールドワーク』に驚き、『翁童論』は楽しかった。本当に惜しむべき人であり、まだまだ早い。

  惜しむべき人亡くなりて茫然とこの世にをりぬ何なすことなく

  また一人この世とあの世を繋ぐもの失せてぞいやないやな世になる

  わが周囲(めぐり)と若葉のあひだをめぐりとぶ紋白蝶のうるはしき白

  黄の花に拠りて離れて飛ぶ蝶に手をば伸ばせり愛らしきゆゑ

  紋白蝶いづくに消ゆるか郵便ポストへわづかの時に

『大学』第二章 二 詩に云ふ、「彼の(き)(くま)(み)るに、(りょく)(緑)(ちく)猗猗(いい)たり。有斐(ゆか) しき君子は、切るが如く(みが)くが如く、(う)つが如く(す)るが如し。(しつ)たり(かん)たり、(かく)たり(けん)たり。有斐(ゆか)しき君子は、(つい)(わす)るべからず」と。切るが如く(みが)くが如しとは、学ぶを(い)ふなり。(う)つが如く(す)るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僩たりとは、(じゅん) (りつ)なるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に誼るべからずとは、盛徳至善んいして、民の忘るる能はざるを道ふなり。

詩に云ふ、「於戯(ああ)、前王、忘れられず。」と。君子はその賢を賢としてその親を親しみ、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。(ここ)を以て世に(お)うるも忘れられざるなり。

  ゆたかなる才ある君子はいつまでも前の代の王たちもまた忘れることなく

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 加納諸平

沖さけて浮ぶ鳥船時のまに翔りも行くかいさな見ゆらし (柿園詠草)   「沖さけて」は、沖を離れて遠くに。「鳥船」は、鳥のように早い船という意味だが、作者の造語なのではなく、古事記に「鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船」とある、その鳥船から来ている。もともと楠で造ったじょうぶな船の意だが、鳥の語がついたのは、鳥は空でも海の上でも行くことができるからである。その鳥船の語をここにつかった。「いさな」はクジラの古名。沖遠くはるかな海上に鳥船みたいに浮かんでいた船が、見てるまに飛ぶようにところをかえて行ったよ、あれはきっとクジラの泳いでいるのが見つかったからだろう、とこれは諸平が熊野めぐりをした時の歌である。実際にそういう情景を見て作ったので、それにふさわしいことばづかいもすばしこく、かるがると歌いあげてさっぱりしている。爽やかな感じで重苦しいところは少しもない。心のもちかたがどこか近代的(略)それにしてもクジラ取りの歌だけにめずらしい。さすが紀州の歌人である。

2025年5月31日(土)

朝のうち、ちょっとだけ曇りだった。ゴミ捨てに。やがて雨が降りだす。夕刻からまた曇りらしい。

六十九歳である。五十歳を目前にして悪性リンパ腫と診断され、再発を経て、昨年から三回目。発話、書記、歩行に不具合が残る。この症状というか不具合は完全には治らないらしい。ああ、やだねぇ。

ここ数日プレゼントのような本が送られてくる。一冊は森山さんから『戦後京都の「色」はアメリカにあった!』。戦後、進駐軍がパーソナルに撮った写真集。それに、これは贈物ではないが砂子屋書房から『佐竹彌生全歌集』をいただいた。どちらも嬉しいのだ。

  赤茶けた芽がいつのまにか真みどりに変りてやがて(あけ)の濃き花

  何本も並べ植ゑたる百日紅しんねり曲がる枝に花着け

  毎年のやうに幻想するこの幹にこの枝に猿がおっと滑る

『大学』第二章 一 謂はゆるその意を誠にすとは、自ら欺く(な)きなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如くする、此れを自ら(こころよく)すと謂ふ。故に君子は必ずその(どく)を慎しむなり。

小人閒居して不善を為し、至らざる所なし。君子を見て、而る(のち)(えん)(ぜん)としてその不善を(おほ)ひてその善を著はす。(然れども)人の己を視ることその肺肝(はいかん)を見るが如く然れば、則ち何ぞ益せん。故に君子は必ずその独を慎むなり。

曾子曰く、「十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな」と。富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広ければ体も(おほひ)なり。此れを中に誠なれば外に(あら)はると謂ふ。故に君子は必ずその意を誠にす。

  君子なれば身を慎みて誠なす心をひろく持つべきならむ

やはり自分なりの解として短歌のかたちにしておこうと思う。

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 加納諸平

旅衣わわくばかりに春たけてうばらが花ぞ香に匂ふなる (柿園詠草)

「わわく」はハララク、バラバラになる、破れ乱れるぐらいの意。「うばら」はイバラ(茨)で、ここは野イバラ、野バラをさしている。長い旅をしているものだから着物もすり切れてぼろぼろになった。そうだ、春がふけたのだ。まっ白に咲いた道ばたの野バラがやるせないばかりきつく匂うている。と、それも駕籠などを用いず、ひとりぶらぶらと歩いて行くらしい気楽さを、またそれとなく旅愁の情にふくめて歌っているのである。気分がよく出ていて、感情も感覚もともに現代人に近いようだ。「旅衣」の語さえなければ、今の人の歌としても通用しそうである。(略)どことなしに人間がくだけていて、庶民的な感じがする。江戸時代も末ごろの何か近代を思わせる。

諸平は遠州の人夏目甕麿の子だが、飛んだことから和歌山の加納氏に養われて医業を継いだ。とんだことというのは甕麿は酒飲みだったからだ。本居宣長の弟子で国学を修め歌を作る人であったが、詩人でありすぎたようだ。子の諸平をtれて諸国を旅行し摂津まで来た時、酔っぱらったあげくに、子や友人のとどめるのも聞かず、月をつかまえるのだといって池に飛び込んで溺死した。この父の血が諸平に流れているのはあたり前だが、医業を継ぎながら宣長の養子の本居大平につて歌学を修め、諸国から詠歌を集めて『類題鰒玉集』を編したりして歌名しだいに高まり、藩命によって紀州国学所の教授もつとめた。安政四年、五十二歳で没している。(略)家集『柿園詠草』によって歌人諸平があるのである。(略)しかし輝く歌人はやはりる。その中の随一人が諸平だといえるかもしれない。この歌はそういう諸平が遠州に母をたずねて行く時の歌である。ひとりでいる母をはるばるとたずねて行くのである。それを思ってこれを読むなら、この「旅衣わわくばかりに」が普通でない思いもさせるようである。

2025年5月30日(金)

朝から雨、夕刻に曇りになるらしい。

大岡昇平『わが復員わが戦後』を読む。帯文に「『俘虜記』誕生前夜から昭和末へ」とある。大岡の復員次第、戦争次第がよく分かる。裕仁天皇への思いを描いた「二極対立の時代を生き続けたいたわしさ」、そう昭和天皇は「いたわしい」のだ。それと付属した阿部昭と城山三郎の短文がいい。

  よもぎ餅やはらかねつとりを喰へるかも歯にねばりつくこの旨きもの

  この日ごろ和菓子買ひきて喰らふなり水無月品よきわれには過ぎつ

  みたらし団子を頬張る妻のひとつぶひとつぶ口を大きく

『大学』第一章 三 天子より以て庶人に至るまで、(いつ)に是れ皆身を脩むるを以て(もと)と為す。その(もと)乱れて末治まる者は(あら)ず。その厚かる(べ)(可)き者薄くして、その薄かる(べ)き者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂ひ、此れを知の(きは)まりと謂ふなり。

  天子より庶民に至るまで身を脩めそれを本なすことたいせつなり

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 土岐善麿

じめじめとこの泥濘路のくらやみに人間住めり何にも知らず (歌集・街上不平)

「貧民窟巡察」と題する連作の一首である。「泥濘路のくらやみ」は多分当時における東京市江東地域の貧民街をいうのであろうが、昭和の初めごろ私もその地域を何回かみているから、この歌のいわんとする心がよくわかる。どんなにみじめな、また陰惨な生活をしていても、ひとびとは今日のように目覚めていなかった。運命としてあきらめいたのだが、それが善麿には歯がゆく思われたのである。その思いを「何にも知らず」の中にふくめているものの、これが善麿としてはせいいっぱいなのだ。爆発する心をおさえている。それがわかるだけに、またそれゆえにこそこの歌は人の心に深くしずかにしみこむのである。その歌が「貧民窟巡察」であり、その歌集の名が「街上不平』「であった。それが善麿の歌なのだ。いや哀果の歌なのであった。(略)いつから哀果の号を廃したのか。その歌の三行書きを廃したのと無関係ではなさそうだ。その社会部長であった読売新聞を辞し、伝統に「還元」した表記形式による第六歌集『緑の地平』を出した大正七年ごろからのようだが、(略)私などには土岐哀果の名が親しいのだ。ここにとりあげた二つの歌も(略)哀果の歌なのであった。土岐哀果の歌であったのだ。

2025年5月29日(木)

曇り空、だが夕刻より雨が降りだすらしい。夜、雨。

いつのことだか

  一年のうちに数日あるかなきかこのよき日なりわれ破天荒

  病ひのこともとんと忘れてあばれたき欅大樹の真下に遊ぶ

  楠の木も旧葉落として新葉に変はるその下を行く息荒く吐き

『大学』第一章 二 古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先づその国を治む。その国を治めんと欲する者は先づその家を斉ふ。その家を斉へんと欲する者は先づその身を脩(修)む。その身を脩めんと欲する者は先づその心を正す。その心を正さんと欲する者は先づその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先づその知を致む。知を致むるは物に格(至)に在り。

物格りて后至まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉ふ。家斉ひて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。

  身を脩め心を正し誠なすさすれば天下平らかになる

『秀歌十二月』四月 土岐善麿

指をもて遠く辿れば水いろのヴォルガの河のなつかしきかな (歌集・黄昏に)

第二歌集『黄昏に』は(明治)四十五年二十八歳の時、ローマ字こそつかわなかったものの、表記の仕方は依然として三行書き。(略)善麿は大正四年三十一歳、第五歌集『街上不平』を出すまでなおそれをつづけた。この歌は『黄昏に』の巻頭に出ていて次のように書かれてある。

指をもて遠く辿れば水いろの
ヴォルガの河の
なつかしきかな

今からすれば何でもない歌だ。何がなつかしいのか、と若い世代はいぶかるだろうが、時代は明治の末ごろである。それがミシシッピーやナイル河でなしに、革命前夜の騒然たるロシヤの国のヴォルガ河である。地図をひろげてたどって行くなら、上流はモスクワのへんにも及びつくだろう。その水いろの線をなつかしがっている。自然主義から出発し、啄木と併称される善麿は次第に社会主義傾向を帯びるようになるが、この歌はそういう道程における多感な青年のあこがれごころが清々しく歌いあげられていて、読者をとらえるのである。当時としてはじつに新しかった。進歩的だったのだ。三行書きの新形式もこれと無縁であるはずがなく、根岸派や明星派の歌に激しく抵抗し反逆して生活派ともいわれる一新風を開拓した。

2025年5月28日(水)

昨夜雨だったらしいが、晴れている。

  あじさゐの藍色の花咲きにけりひつそり三輪目に著くして

  地獄の底を這ひつくばるがわれが身の果つるところやこの場所にして

  覗き見る火炎地獄の中にゐる鬼に甚振られわれやありけむ

  いつのまにか熱湯地獄を這ひずりニヤリと笑ふ衰亡のわれ

『大学』第一章 一 大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り。

止まるを知りて后定まる有り、定まりて后能く静かにして后能く安く、安くして后能く慮り、慮りて后能く得。物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。

『論語』にくらべれば、言わんとするところが明瞭であるように思うが、どうだろう。

  大学の道とは明徳を明らかにし至善にとどまることに在りにき

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 厚見王

(かはづ)鳴く神奈備(かむなび)(がは)ににかげ見えて今か咲くらむ山吹の花 (万葉集巻八・一四三五)

「蝦」は「蛙」だが、この歌の場合は「河鹿」である。あの美しい声で鳴くカジカである。ヤマブキの咲くころはカジカはまだ鳴かないけれど、河とカジカはつきものである。だから神奈備河をいうのにカジカを持ってきた。一つの習慣でもあり歌を作るための技術でもあったわけだ。枕詞とまではなっていないが「蝦鳴く」は神奈備河の清流をたたえるための修飾語の役を負っている。神奈備河は神奈備山のふもとをめぐる河をいうので、飛鳥川か竜田川かなどといわれるけれど、三輪も春日もそれぞれに神奈備河を持っているから、この歌はいずれこの河なるや知りがたい。

カジカの鳴く神奈備河にかげをうつして今ごろヤマブキの花が咲いているのであろうか、というのでたれにも受けいれられる美しい歌である。(略)「かげ見えて」の「かげ」はヤマブキの水に写っているかげではなく、神のかげであるかもしれない。(略)そういう用意があっての「かげ見えて」であるなら、この歌はいっそう美しさを増す。とまれ、調子のよい流麗な歌だから、これが本歌となって後世さまざまの模倣歌を生んだ。厚見王の系統は未詳、この歌とともに万葉集に三首でているにすぎない。

2025年5月27日(火)

今日も曇りつづきらしい。

北方謙三『寂滅の剣』、日向景一郎シリーズ5。最終巻を読んだ。五冊、読みでがあった。最終は半ばですこし緩みがあるように感じたが、最終決戦、また景一郎と森之助の対決場面は圧巻、圧倒された。結局、景一郎が森之助を斬ることになるのだが、これも予想通りであった。景一郎は、たたただ虚しく、旅に立つ。

  睾丸(きんたま)の役目は疾うに終へたるか役にたたざるふぐりぶら提げ

  男の性のほとんど役に立たざるに欲望のみはいまだ失せず

  男女差のなき世を願ふわれならむしかれど残る好みや欲は

  ひよどりが鳴かねばすずめの二羽がくるけふの中庭(パティオ)は親しみがある

『論語』堯曰五 孔子曰く、「命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。」

  命・礼・言これを知らずば君子ならず立つこともなし人も知らざる

これで、ようやっと『論語』もお終いだ。『論語』を最初から最後まで読んだのは、私にとってはじめてだが、身になったかといわれたら、ふ~む、という疑問がある。多くの章段の意義も忘れているし、覚えていることも説明できるわけではない。しかし、読み切ったことはたしかだ。その足跡はここに刻まれている。読み切って、かかった時間(一日一章段)も膨大だが、その間の私をたいしたものだと思うのである。自分で褒めてやりたいのだ。

明日からは四書のうちの『大学』をまた一章づつ読むことにしよう。ありがとう『論語』と言っておきたい。

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 志貴皇子

(いは)(ばし)垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも (万葉集巻八・一四一八)

巻八の巻頭歌、志貴皇子の「懽の御歌」である。岩の上を走り流れ落ちる滝のほとりのワラビがもう芽を出す春になったよ、とよろこんでいる。(略)「岩ばしる」の方が音調がよい。「垂水」もほそぼそと落ちる水ではなく、勢いよく流れ落ちる滝であった方が、よろこびをいうのに似つかわしい。「さ蕨」は早蕨ではなく、「さ」は接頭語。「石激る」の初句から「垂水の上のさ蕨の」と「の」の助辞をかさねて終りまで休止しない。とくに四句を一音多い字あまりにして調べを高め、ゆたかに大きく「なりにけるかも」の結句を得て、まれにみる丈高い歌になった。

(略)志貴皇子の宮は奈良の春日にあった。そのあとが白毫寺であるといわれる。だからこの「石激る垂水」は春日山から流れでる能登川、率川、宜寸川のいずれかの滝と考えられる。(略)志貴皇子の歌は全部で六首だが、いずれもすぐれており、この歌は万葉集中でも傑作の一つに数えられる。