9月19日(金)

朝は雨、そして曇り。気温も20℃前半、長袖か。

  稲の穂の稔りの真中の畦道をたどらむとするに稲穂垂れ來る

  黄金の稲穂稔ればやうやくに気温下がるか海老名の田圃

  田んぼの土の干乾び虫も死にすれば鷺もより来ず炎天のもと

『孟子』梁恵王章句下22 滕の文公問うて曰く、「滕は小国なり。力をして以て大国に事ふるも、則ち免るるを得ず。之を如何でば則ち可ならん」と。孟子対へて曰く、

「昔者、大王に居る。之を侵す。之に事ふるに疲弊を以てすれども、免るるを得ず。之に事ふるに犬馬を以てすれども、免るるを得ず。之に事ふるに珠玉を以てすれども、免るるを得ず。乃ち其のをめ、而して之に告げて曰く、『狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾之を聞く。君子は其の人に養ふ所以の者を以て人を害せずと。二三子、何ぞ君無きを患へん。我将に之を去らんとす」と。邠を去り、梁山を踰え、岐山の下に邑して居る。曰く、『仁人なり。失ふ可からざるなり』と。之に従ふ者、市にくが如し。或ひは曰く、『世々の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり。死をすも去ること勿れ』と。君請ふ斯の二者に択べ』と。

  小国の王が択るならば二つなり民に信頼するか絶対ここを去らず

林和清『塚本邦雄の百首』

われの青年期と竝びつつ夜の驛の濕地に行きづまるレールあり (『装飾樂句』)

塚本が転勤生活を終え、家宅を構えたのは、大阪府東大阪市。当時は中河内郡だった。古代には湖であった一帯を鴻池善右衛門が田地に開拓したので、鴻池新田という。何度もうかがった塚本宅へは、大坂の京橋駅から片町線に乗り、鳴野、放出、徳庵など、歴史は古いがローカルな名の駅を過ぎ鴻池新田駅で下車、そこから一キロほど歩く。とにかく湿度が高い、というのが第一印象だった。湿度を極度に嫌う塚本が、何故長年住んでいるのか不思議だったが、うとましい現実から絢爛たる象徴世界が生れたのはまちがいない。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も (『日本人霊歌』)

高度成長黎明期。戦後も総括されないまま、すさまじい勢いでビルや道路が建造されていた。社会変革への若者たちの熱気と、うらはらに進む資本主義帝国への道。国中に閉塞感が高まっていた。

菱川善夫はこの歌を天皇と主権在民の譬喩であると明確に解いた。確かに塚本にも昭和天皇のイメージはあったのだと思う。ただ決定してしまうのは図式的過ぎるのではないか。多重的解釈を生む暗示力をもって「今日の現實の世界に參加」したと跋にもある。ただ確実なのは、脱出は不可能だという事実だけだろう。

9月18日(木)

暑いが、午後から雨のようだ。

  けやき木の大木の葉の繁るところ空の青さに翳りを作る

  欅樹の広き木影に入りゆきて少し体温も低くなりゆく

  けやきの翳りなす所にけさもまたホームレス一人ものを考ふ

『孟子』梁恵王章句下21 滕の文公問うて曰く、「斉人将にに築かんとす。吾甚だ恐る。之を如何せば、則ち可ならん」と。孟子対へて曰く、「、大王に居る。之を侵す。去つての下に之きて居る。択んで之を取るに非ず。已むを得ざればなり。も善を為さば、後世子孫、必ず王者有らん。君子業を創め統を垂れ、継ぐ可きを為す。の成功の若きは則ち天なり。君彼を如何にせんや。めて善を為さんのみ」と。

  滕の文公問ふ斉の力の迫り来るいかにせむとや。みずから善をつくすのみ

林和清『塚本邦雄の百首』

ジョゼフィヌ・バケル唄へり 掌の火傷に泡を吹くオキシフル (『装飾楽句』)

世界を魅了した黒人レビュアーで、人種差別と闘いながら、歴史に名を刻んだ「黒いヴィーナス」。その活躍を知る世代の読者には、この歌を絶賛する人が多い。

それは下の句との二物衝撃の取り合わせによるのだろう。当時は家庭に常備されていたオキシフル。傷口の消毒には欠かせないものだった。血液中の成分と反応して泡が出る、というが最近では見ない現象かもしれない。

力の限り歌う彼女の黒い肌と白い歯、赤い唇。その衝撃と傷口の泡、塚本は俳句から得た取り合わせの技法のもっとも成功した一首であろう。

原爆忌昏れて空地に干されゐし洋傘が風にころがりまはる (『装飾楽句』

塚本自身が「劇しく希求していた」と跋に書いているように、この歌集ではリアリティが追及されている。色彩喩や二物衝撃の象徴技法の高度化により目立たないが、基盤にあるオーソドックスな文体と緻密な観察眼は、随所にその特長を発揮している。

この歌の初句を「夏の日の」とでも替えてみたら、干された傘が転がる光景が、写実短歌として普通に通用するレベルになる。しかし塚本はそこに「原爆忌」という限定を冠する。その瞬間、阿鼻叫喚の世界が幻視される。かつて呉から遠望した茸雲がよみがえる。

9月17日(水)

今日も暑い。

  トーマス、バージ―、ゴードンの名を呼ぶ孫の声の大きさ

  トーマスのテレビ番組の始まれば画面のまん前孫は動かず

  むちむちのからだを抱けば老いの軀も少しは若くなりたるものか

『孟子』梁恵王章句下20 の文公問うて曰く、「滕は小国なり。斉・楚に間す。斉にへんか、楚に事へんか」と。孟子対へて曰く、「是のは吾が能く及ぶ所に非ざるなり。已む無くんば則ち一有り。斯の池をち、斯の城を築き、民と与に之を守り、死をすも民去らざるは、則ち是れ為す可きなり」と。

文王の問ひ難しき城の掘りを深くして城壁を高く民と共に戦へ (『装飾樂句』)

林和清『塚本邦雄の百首』

  賣るべきイエスわれにあらねば狐色の毛布にふかく没して眠る

塚本はいち早く『水葬物語』の世界に別れを告げ、次の次元に進もうとしていた。無国籍的物語性から、日本の戦後世界に生きる「われ」の立場を確保し、文語文体をもって短歌の文脈に切り込もうとしたのだ。

聖書を文学として愛読していた塚本には、おびただしい数のキリスト教関連の歌がある。それは信仰ではなく、この歌のように反信仰的な思想を帯びている。

また「狐色の毛布」には、色彩喩というべき試みがある。この後にも「艾色の墓群」「牛肉色の煙突」などの多彩な色彩喩が、塚本の象徴世界を彩ってゆく。

暗渠の花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮しモスクワ (『装飾樂句』)

私の考える塚本邦雄の最高傑作の一つ。二〇二二年二月に開始されたロシアによるウクライナ侵攻の時、真っ先に脳裏に浮かんだのもこの歌だった。この歌が作られて七〇年経て、未だにモスクワは冷え冷えと理解を拒む存在なのだ。「識らざれば」は見事な要。なまじな見解よりも多面的な暗示力を発揮している。「鮮し」は皮肉を超えて、不安感を醸し出す。

暗渠にもまれる花を、散った桜とする解釈もあるが、私は直観的に、捨てられた花束がバラバラになり見えない渦に蹂躙されているイメージが浮かんだ。

9月16日(火)

今日も暑くなりそうです。

工藤美代子『小泉八雲 漂泊の作家 ラフカディオ・ハーンの生涯』を読む。漂泊のハーンは、ギリシャのサンタ・モウラ島に生れ、日本で息を引き取った。各地をさまよい日本に辿り着き、セツと結婚し、『怪談』のような日本紹介を書いた。「ここでは、すべてが眠りのなかに見るもののように、柔和で優しいのです。

  蹴上げたるふくらはぎの痛さは筋肉痛。歩き過ぎたる昨日の歩み

  けやき木の間に見えける太陽光ときをり枝葉に隠れて見えず

  わが行手に枝葉大きく広げたる欅のむかう鋭きひかり

『孟子』梁恵王章句下19-2 孟子対へて曰く、「凶年には、君の民、はに転じ、壮者は散じて四方に之く者、幾千人ぞ。而るに君のは実ち、は充つ。

有司以て告ぐる莫し。是れ上慢にして下をふなり。曾子曰く、『之れ戒めよ、之を戒めよ。に出づる者は爾に反る者なり』と。夫れ民今にして後、之を反すことを得たるなり。君むること無かれ。君仁政を行なはば、斯に民其の上に親しみ、其の長に死なん」と。

  曾子いふ「戒めよ、之を戒めよ。爾より出でたるものは爾に反る

林和清『塚本邦雄の百首』

海も葡萄も眞靑に濡れて秋が來る老人のゆあに坐つてゐるな (第一歌集以前)

塚本が鳥取県八頭郡丹比村の杉原宅を訪ねたのは、昭和二四(一九四九)七月。それまでに膨大な量の往復書簡がある。誌上での論作を読み、文書で批評を交わしあい、塚本が開眼してゆく様子は、前衛短歌がどのように萌芽したのかを物語る貴重な記録である。

塚本は感じた。戦後何もかもモノクロームに色褪せた光景が、杉原の語る言葉により海も葡萄も青く色を取り戻して輝き始めるのを。そして滴り落ちるしずくが虚無に覆われていた自らの渇きを癒してくれるのを。

塚本は生き直そうとした。すべてはここからだと。

五月祭の汗の生年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる (『装飾樂句』)

やっとめぐりあった同志・杉原一司は二三歳の若さで他界する。塚本は翌年に追悼

の意をこめて『水葬物語』を上梓し、その才能に刮目してくれた中井英夫や三島由紀夫によって発表の場を得ることになった。

総合誌などに発表された作品を集めて編まれたのがこの『装飾樂句(カデンツア)。

巻頭作にある「病むわれ」は、実際にこの時期、肺結核で求職していたことに由来する。

当時盛んだった労働運動の青年たちと孤独をもってへだたる主人公。それが燃える火であるのは、羨望と嫉妬、そして詩歌への情熱の熾火なのであろう。

9月15日(月)

朝の内は涼しいが、上がるようだ。

  鶺鴒があけぼの杉に没入すすぽっすぽっと三羽が消ゆる

  あけぼの杉の葉叢にこもり音もせず鶺鴒いづくにゆきしものかな

  真緑の夏のメタセコイアにかくれたり鶺鴒、鳩がしきりに鳴けば

『孟子』梁恵王章句下19 鄒と魯と閧ふ。穆公問うて曰く、「吾が有司死する者三十三人。而るに民之に死する莫きなり。之を誅せんとせば、則ち勝げて誅す可からず。誅せざれば、則ち其の林和清『塚本邦雄の百首』

花をへだてていとほしき胸のふくらみよぎりぎりまで清く君を保たむ (第一歌集以前)

塚本は戦中から「調音」系の結社誌「青樫」に所属しており、誌上での竹島慶子の名と歌を知っていた。昭和二二年(一九四七)歌会にて初めて顔を合わせた。

蘇芳色の着物に身を包んだ清楚な姿に魅かれたという。慶子夫人の父も酒で命をちぢめていて、結婚するなら酒を飲まない人がいい、と思っていたらしい。その点塚本ならぴったり。共に両親を亡くし、孤独の中、歌を救いとして細々生きている。その孤独の魂が魅かれ合ったのだろう。昭和二三年五月一〇日、婚礼。

塚本の思いも歌からよく伝わる。まさに純情至極。

おほよそは飢ゑにかかはるものいひのさむざむと霜に咲く花八つ手 (第一歌集以前)

塚本には食に関する著作も多く、美食家、健啖家として知られていた。食べることに対する意欲が旺盛な分、戦中戦後の飢饉は人一倍辛かったろう。

第一歌集以前の作を収めた歌集『透明文法』(一九七五)の作品は、戦後を生きる青年の虚無感がストレートに表出されている。「やぶれはててなほひたすらに生くる身のかなしみを刺す夕草雲雀」など、歌集の前半は抒情的な悲しみに満ちている。しかし後半にいたると、頭韻を試みたり外来語を多用したりと、変化が見られる。

何があったのか。そう杉原一司と出会ったのだ。

9月14日(日)

朝は涼しいが、35℃になる。

  激しき豪雨の後にたちまちに雨滴るみどりの山は

  尖石の記念館のがちゃがちゃに、仮面土偶を得る。さてもやったり

  雨あがれば蟬鳴く声の忩忩し。森の中なる露天湯に沈み

  坂登りめざしにくる。しづかなる池は浮かべり

『孟子』梁恵王章句下18-2 今、燕其の民を虐ぐ。王往きて之を征す。民以て将に己を水火の中よりはんと為す。して以て王の師を迎ふ。若し其の父兄を殺し、其の子弟を係累し、其の宗廟を毀ち、其の重器を遷さば、之を如何ぞ其れ可ならんや。天下固より斉のきを畏るるなり。今、又地を倍して仁政を行なはずんば、是れ天下の兵を動かすなり。 王速やかに令を出し、其のを反し、其の重器を止め、燕の衆に謀り、君を置きて而る後之を去らば、則ち猶ほ止むるに及ぶ可きなり」と。

  斉王よまづ速やかに令を出し而して後新しき君主をさだむ

林和清『塚本邦雄の百首』

ガスマスクしかと握りて伏しにけり壕内の濕り身に迫りくる (第一歌集以前)

すえての教科で優秀な成績を収めた塚本だったが、運動だけはまったくダメであったらしい。現代ならそれも個性と受け流せるだろうが、軍事教練ですぐに鉄拳をふるわれる時代にはまさに地獄であっただろう。

愛する美しいものすべてを奪い取り、青春を踏みにじった戦争への憎悪は、戦力にならぬ男はクズだという、自分の存在を全否定するような教官たちへ真っ先に向けられたに違いない。

ただこの歌はすごい。時空をへだて、防空壕内の濕度も土のにおいも現前させる。連体終止の臨場感よ。

碧澄む甕の秘色は杳き世の白鳥翔けし天とこそ見め (第一歌集以前)

アニメ『この世界の片隅に』(二〇一六)の舞台ともなっている呉の海軍工廠に塚本は徴用された。

その呉での友人・高橋忠臣の勧めで結社「木槿」に入会し、幸野羊三に師事する。作品を見せると「白秋の影響がある」と指摘され、兄から歌集や歌誌を譲られ読んだでいたことに思い至り、ハッとしたという。

この歌は師の宅「幸野苑」での歌会にはじめて参加して出詠したもの。「甕の秘色」は美学に力が入り過ぎ、係り結びも大仰。いささか凝りすぎている。点数がまったく入らなかったのも無理はない。

9月13日(土)

昨夜、雨だったのか地面が濡れている。そして、また雨。

  廃墟のごとき外観なれど人多し。熱きを好みたりしか

  尖石の庭に大きな栗の木あり。小さなの実、日におして

  栗の木に射すひかりあり。曇り日をわづかにとどく照らす

『孟子』梁恵王章句下18 斉人 燕を伐ちて之を取る。諸侯将に謀りて燕を救はんとす。宣王曰く、「諸侯寡人を伐たんと謀る者多し。何を以て之を待たん」と。孟子対へて曰く、「臣七十里にして政を天下に為す者を聞く。湯是なり。未だ千里を以て人を畏るる者を聞かざるなり。書に曰く、『湯めて征する、り始む』と。天下之を信ず。東面して征するなり。書に曰く、『湯一めて征する、葛自り始む』と。天下之を信ず。東面して征すれば西夷怨み、南面して征すれば北狄怨む。曰く、『奚為れぞ我を後にする』と。民の之を望むこと、大旱のを望むが若し。市に帰く者止まらず。耕す者変ぜず。其の君が誅し、而して其の民を弔ふ。時雨の降るが若し。民大いに悦ぶ。書に曰く、『我が后をつ。后来らば其れ蘇らん』と。

  我が君、湯王を待ちかねて君こそ来れば其れ甦る

林和清『塚本邦雄の百首』

眠る間も歌は忘れずこの道を行きそめしより夜も晝もなし (第一歌集以前)

塚本邦雄がいきなり『水葬物語』に至ったわけではなく、当然その前の長い初心時代があった。大正九年(1920)滋賀県神崎郡五個荘村宇川並に生れまれ、就職までそこに育った。兄の春雄は北原白秋主宰「多摩」の会員であり、家内に短歌のある感興であった。

最初はその影響で作歌をはじめ、書架にあった『万葉集』『古今集』『新古今集』をはじめとして、『みだれ髪』や『赤光』などを耽読した。

塚本はとにかく多作で、膨大な歌を詠みつづけた。まさに夜も昼も、起きている間も、夢の中でも。

粥煮ます母に寄り添ひ見る雨は木々の新芽に沁みゆきにけり (第一歌集以前)

塚本の父は欽三郎、近江商人として盆暮以外は本社のある大阪か東京で勤務していた。酒が元で健康を害し、塚本が生誕した年に三五歳で早世している。母の壽賀は、早くに寡婦となりつつ四人の子をそだてた。

こんな優しい、息子から母への愛の歌もめずらしい。雨のように心にしみてくる。母も短歌を愛好する人であり、二人で歌の本を開いて語り合う、という歌もある。

しかし戦争の黒い影は迫っており、徴用で呉へと発った息子の身を最後まで案じながら、空襲激化する昭和一九年(1944)に、母は五四歳で他界した。