朝は雨、そして曇り。気温も20℃前半、長袖か。
稲の穂の稔りの真中の畦道をたどらむとするに稲穂垂れ來る
黄金の稲穂稔ればやうやくに気温下がるか海老名の田圃
田んぼの土の干乾び虫も死にすれば鷺もより来ず炎天のもと
『孟子』梁恵王章句下22 滕の文公問うて曰く、「滕は小国なり。力をして以て大国に事ふるも、則ち免るるを得ず。之を如何でば則ち可ならん」と。孟子対へて曰く、
「昔者、大王に居る。之を侵す。之に事ふるに疲弊を以てすれども、免るるを得ず。之に事ふるに犬馬を以てすれども、免るるを得ず。之に事ふるに珠玉を以てすれども、免るるを得ず。乃ち其のをめ、而して之に告げて曰く、『狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾之を聞く。君子は其の人に養ふ所以の者を以て人を害せずと。二三子、何ぞ君無きを患へん。我将に之を去らんとす」と。邠を去り、梁山を踰え、岐山の下に邑して居る。曰く、『仁人なり。失ふ可からざるなり』と。之に従ふ者、市にくが如し。或ひは曰く、『世々の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり。死をすも去ること勿れ』と。君請ふ斯の二者に択べ』と。
小国の王が択るならば二つなり民に信頼するか絶対ここを去らず
林和清『塚本邦雄の百首』
われの青年期と竝びつつ夜の驛の濕地に行きづまるレールあり (『装飾樂句』)
塚本が転勤生活を終え、家宅を構えたのは、大阪府東大阪市。当時は中河内郡だった。古代には湖であった一帯を鴻池善右衛門が田地に開拓したので、鴻池新田という。何度もうかがった塚本宅へは、大坂の京橋駅から片町線に乗り、鳴野、放出、徳庵など、歴史は古いがローカルな名の駅を過ぎ鴻池新田駅で下車、そこから一キロほど歩く。とにかく湿度が高い、というのが第一印象だった。湿度を極度に嫌う塚本が、何故長年住んでいるのか不思議だったが、うとましい現実から絢爛たる象徴世界が生れたのはまちがいない。
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も (『日本人霊歌』)
高度成長黎明期。戦後も総括されないまま、すさまじい勢いでビルや道路が建造されていた。社会変革への若者たちの熱気と、うらはらに進む資本主義帝国への道。国中に閉塞感が高まっていた。
菱川善夫はこの歌を天皇と主権在民の譬喩であると明確に解いた。確かに塚本にも昭和天皇のイメージはあったのだと思う。ただ決定してしまうのは図式的過ぎるのではないか。多重的解釈を生む暗示力をもって「今日の現實の世界に參加」したと跋にもある。ただ確実なのは、脱出は不可能だという事実だけだろう。