7月28日(月)

さて、今日も暑い。

  ひさびさに生きてゐる蚯蚓に会ひにけり蠕動しつつ草むらに入る

  なぜかくも乾らぶるみみずの多きなり場所を変へつつ死にけるものぞ

  雨降れど乾ぶるみみず彼方此方踏まざるやうに俯き歩む

『孟子』梁恵王章句3-5 狗彘人の食を食ひて、検するを知らず。塗に餓莩有りて、発するを知らず。人死すれば、則ち我に非ざるなり、歳なりと曰ふ。是れ何ぞ人を刺して之を殺し、我に非ざるなり、兵なりと曰ふに異ならんや。王歳を罪する無くんば、斯に天下の民至らん」と。

  王もまた責任をこそ考えて実りに罪を着せなければ民慕ひ寄る

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 会津八一

まゆねをよせたるまなざしをまなこにみつつあきののをゆく (同)

「戒壇院をいでて」とある。戒壇院は大仏殿の前庭に鑑真が中国五台山の土をもって築いたのが、後に今の大仏殿の西がわの地に移されたといわれ、有名な四天王像が遺っている。それぞれ等身大の塑像だが、類まれな傑作として評判が高い。「毘楼博叉」は梵語で広目天をいう由だが、堂の西北隅に立っていて、この歌のとおりにひたいにしわを寄せ、眉をきつくひそめている。四天王中また一段とすぐれていて、たれの心をもひきつける。この歌はその広目天が忘れられず、戒壇院を出て、秋日照る春日野の方へ歩いて来ても、その「まゆねよせたる」目が忘れられない。いつまでもついて離れないのを「まなこにみつつ」といった。ちょっととまどわされるようだが、よく読むとこれでよいので、かえってよく調べられてあることに気づく。

この毘楼博叉は例外だが、八一の歌はほとんどといってよいほどみな仮名書きである。これは日本語の性質なり調べを重視することから来ている。確かによく調べられていて独特の歌風を思わせるが、正直いって読みづらい。一度ぐらいでは意味さえつかめない。そこで息を入れて繰り返し読むということになるが、かつて私はその歌を人をして漢字まじりに書きかえさせたことがある。すると急にその独自性のうすらぐのを感じた。やはり世間なみの表記法によるべきではなかったか。八一は渾斎とも秋艸道人とも号していた。とくに大和古寺社の歌で知られている。

7月27日(日)

暑さ、暑さ。

梶山季之『李朝残影』読了。日本の植民地時代の創氏改名や妓生をモデルにした中編小説が集められて、読むものには、その時代の朝鮮人への差別や日本人であることの強さと弱さがわかる。

かつて、「族譜」も「李朝残影」も読んだはずだが、印象がえらく違う。二十代の私は、いったい何を読んでいたのだろう。

  なにがなしかの官能などやありもせず死の予感ただ怖ろしきのみ

  喜びも苦しみもここで終はらんと思ふにすっきりとはせず

  後戸に踊る宿神のすがたおもふこの世からあの世へいざなふごとく

『孟子』梁恵王章句上3-4 の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。百畝の、其の時を奪ふ勿くんば、数口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之をぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路に負戴せず。七十の者帛を衣、肉を食ひ、黎民飢ゑずえず。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  飢ゑず凍えずあれば然り而して王たらざるものこれ勿し

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 会津八一

おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ (鹿鳴集)

「唐招提寺にて」の詞書があるが、なくても唐招提寺の歌だということはたれにもわかる。「まろきはしらのつきかげにつちをふみつつ」というのでわかる。とうっ用大寺金堂は、四柱造り本瓦葺の屋根の美しさもさることながら、特徴は基壇の上、正面一間を吹き放しにした八本の列柱びある。柱にはわずかだがエンタシス(ふくらみ)があり、柱間は中央が広く、漸次左右が狭くなっていて大様だ。吹き放しだから月はななめに列柱に射し込む。(略)季節を記していない。けれども「つきかげをつちにふみつつ」だからよい月夜だったには違いない。それに「ものをこそおもへ」である。ものを思う、ものが思われるの意を強調したので、それはやはり秋だったのではあるまいか。私には中秋名月ごろのように思えてならない。(略)

7月26日(土)

今日も、今日も暑いのだ。朝、五時代に歩いてくる。

井波律子の遺著になる『ラスト・ワルツ』を読む。夫、井波陵一の編である。作者紹介によると律子さんより三つ若いことになる。京都大学の後輩なのだろうかと思いつつ、エッセイのような遺著を楽しんだ。『水滸伝』や『三国志演義』の和訳だけでなく多くの論を書いていたことを知って、また全共闘世代であり、身の内に抵抗の心を持っていられたことも敬すべきであろう。

  悪性リンパ腫に罹患してよりわが歩く姿いつのまにかうつむき加減

  うつむきて歩くにも良きことあり乾びし蚯蚓避けて行きたり

  中庭より舗道に多きみみずのことしもみづから死地を求む

『孟子』梁恵王章句上3-3 農の時を違へずんば、穀げて食ふ可からず。に入らずんば、価値げて食ふ可からず。時を以て山林に入れば、材木勝げて用ふ可からず。穀と魚鼈と勝げて食ふ可からず、材木勝げて用ふ可からざるは、是れ民をして生を養ひ死を喪して無からしむるなり。生を養ひ死を喪して憾無きは、王道の始めなり。

  生活や葬儀に憂ひなくばこそまさに王道の始めなるかな

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 鏡王女

秋山の樹の下がくり逝く水の吾こそ益さめ御思よりは (同・九二)

右の天皇の歌に鏡王女の和えた歌である。「秋山の木の下を隠れつつ流れゆく水の水かさがだんだんふえるように、私のあなたをおしたいする思いはあなたの私を思い下さるよりは一層多いのでございます」とういのである。三句までが序詞だが、序詞らしいおもむきの少しもしない、これはこれだけでもしずかな秋をよく表現していて、もみじした木の下を流れゆく水が見え、その 音さえ聞こえるようだ。それにこの下の句である。「吾こそ益さめ御思ひよりは」のつつましさ、心くばりが行きとどいていて、しかも情緒はこまやかである。甘美で幽艶、この上もなく品がよい。天皇への和え歌ということもあろうが、この歌などとくにすぐれていて、女性歌人のよさを最高限に示したものと思われる。

(略)一概にはいえぬことだが、私は姉の鏡王女の歌に同情している。好き嫌いだけからいうのではない。王女の歌のどことなしに近代的な新しさがあると思っている。歌だけからして妹よりはおとなしい人だったようだ。その墓は桜井市忍阪、舒明天皇陵の奥がわにある。それは鏡のような円墳だが、その左上の古墳らしい丘があるいは額田王の墓ではないかと思ったりもする。

7月25日(金)

暑いねぇ。

ずいぶん前のラジオテキストだけれど金岡秀郎『文学。美術に見る仏教の生死観』を読み終えた。仏教哲学が理解できて、その周辺が興味深く思われた。なかなかよく出来たテキストである。

  われには古き謀叛を思ひたかぶれるただ雪つもる赤坂界隈

  銃口を向けたるは大内山の暗闇ぞ騙されたるか陸軍幹部に

  昭和天皇への怒りを育て一年経ての銃殺の刑

『孟子』梁恵王章句上3-2 孟子対へて曰く、「王戦ひを好む。請ふ戦ひを以て喩へん。塡然として之を鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵を曳いて走る。或ひは百歩にして後止まり、或ひは五十歩にして後止まる。五十歩を以て百歩を笑はば、則ち如何」と。曰く、「不可なり。直百歩ならざるのみ。是れ亦走るなり」と。曰く、「王如し此を知らば、則ち民の隣国より多きを望むこと無かれ。

ここは『孟子』の中でもよく知られた箇所だ。私も高校時代教わった記憶があるし、教員時代には生徒に教えた記憶がある。

  甲を棄て兵を曳くには百歩でも五十歩でも逃げるに違はず

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 天智天皇

妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを (万葉集巻二・九一)

天智天皇が鏡王女に賜った歌である。一首の意は、「あなたの家をも絶えず見ていたいものだ、大和の大島の山の上にその家があってくれるとよいのだが」というぐらいだろう。「家も」と同じ語が重ねてある。「見ましを」「あらましを」と「ましを」が繰り返されてある。語を揃え、調子をととのえてあるのはわかる。それでも結句に疑問を持った。(略)なおよく納得できなかった。それがいつのまにかこの古調を愛するようになった。思う心をそのまま調べにのせて飾るところがない。かえって無限の妙味を感じるようになった。

(略)これは天皇が皇太子として孝徳天皇の難波の宮にいた時分の歌だろう。難波の宮からは信貴、高安、生駒の山々は一目に東に眺められる。けれども恋しい王女の家は山のむこうがわ、大和の平群だ。そこで王女の家が高安山の上にあったなら、いつでも見られるだろうに、と恋しのばれているのである。

7月24日(木)

またまた暑いのだ。

文庫になっている『今スグ知りたい日本国憲法』を読んだ。古い文庫本だが、ひょっとしたら日本国憲法を全文読み通すのははじめてかもしれない。国民に総意があることはわかるが、そんなもん選挙で問えるわけなかろう。

  ハワイコナの癖ある味のどことなくやさしさもある夏の昼どき

  珈琲の香りただよふキッチンに引き寄せられて老いも従ふ

  珈琲の豆挽くときの香りよさ妻が豆挽く、わたくしが嗅ぐ

『孟子』梁恵王章句上3 梁の恵王曰く、「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ。凶なれば、則ち其の民をに移し、其のを河内に移す。河東凶なるも亦然り。隣国の政を察するに、寡人の心を用ふるが如き者無し。隣国の民少なきを加へず、寡人の民多きを加へざるは、何ぞや」と。

  梁の恵王く「わたくしは民政に力を注いでゐる。而るに隣国はいかならむや

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 長塚節

白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり (同)

大正三年、節三十六歳、死ぬ一年前の歌である。五月からアララギに連載しはじめた「鍼の如く」其一の冒頭に見える。茂吉によると節は「僕の歌に対する考はこんなものだ」といってこの歌を示したそうであるが、節のいわゆる「冴え」「品位」のよく感じられる歌で、自信があったのだろう。この歌には「秋海棠の画に」と詞書がついている。それは病中世話になったお礼のため、平福百穂の描いた袱紗の画の賛をして久保猪之吉夫妻に贈った一首である。画賛の歌などは美辞麗句に終わりがちだが、これは実感のこもる真率な作で、シュウカイドウを活けるには白磁の瓶がよく似合うと考えている。それはやはり高い趣味性から来ているが、その瓶に霧といっしょに朝の冷たい水を汲んだといっている。井戸水とはいっていないが、これは流れの水ではなく、深い掘りぬき井戸の水である。「霧ながら」「水くみにけり」の調べにそれが感じられる。(略)私は左千夫よりは節の純粋な澄徹の高品を愛する。(略)節は孤高の人だった。

7月23日(水)

毎日暑い。

  立ち上がる珈琲の香に顔よせてその匂ひこれこそ大人の香り

  キッチンに珈琲豆を挽く音す期待が胸をふくらませたり

  ミルクたっぷりその上に砂糖三杯甘くして珈琲を飲む高校一年

「孟子」梁恵王章句上2-3 に曰く、「時の日か喪びん。と偕に亡びん」と。民之と偕に亡びんと欲せば、台地鳥獣有りと雖も、豈能く独り楽しまんや」と。

  呪ひの言葉にこの日いつか亡ぶとあれば台地鳥獣も早晩なくす

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 長塚節

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし (長塚節歌集)

「初秋の歌」と題する連作十二首中第五番目の歌。前後に次のような作がある。

小夜深にさきて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ

おしなべて木草に露を置かむとぞ夜空は近く相迫り見ゆ

芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

節の代表作としてよく問題にされる。いずれもが傑作で、優劣はにわかにきめら れないが、なお私はこの歌をこそ節のもっとも節らしき作として推奨する。(略)初秋の感はウマオイの声にきわまるといいたい。そのウマオイがあの長い触覚、その髭をうごかしながらやって来た。それを「髭のそよろに来る秋は」と表現した。「そよろ」はそろりと、ゆるりと、おもむろに、というほどの意だが、やはり「そよろ」でないとぴったりこない。だからどこに来たのかなどという愚問を発してはならない。それは庭の木の茂みに来るだけではない。縁がわに来ることもあり、机の上に来ることもある。じっとしている時でも絶えず触覚を動かしている。そういうウマオイを節は子供のころから知りつくしている。あえて写生しようとして写生したのではなく、巧まずしておのずから調べに出て来たかのごとく、天衣無縫を思わせる。とくに下句「まなこを閉ぢて想ひ見るべし」は、上句の繊細に似て、しかも的確なる表現と渾然相和し、冥想にふけっている作者の姿勢をさえも感ぜしめる。清澄限りなき希有の高、品、これをこそ真の象徴というのであろう。(略)この歌は明治四十年、節二十九歳の作、今の三十歳前後の歌人たちには以てゆく考え合わせるとよい。

7月22日(火)

今日も暑い。

米澤穂信『栞と嘘の季節』。高校の図書館係の話だが、とても高校生とは思えない。本格的な探偵だ。トリカブトの栞をめぐって推理が進む。

  クリスタルガラスがおこす乱反射ひかりの燦爛こそが夏なり

  透明硝子の輝く明るさ右の手に掲げてしばしひかりを灯す

  赤と黒の江戸切子卓に据ゑたりきこのカップ挟み媼と翁

『孟子』梁恵王章句上2-2 詩に云ふ、「をし、を経し之を営す。庶民之をめ、日ならずして之を成す。軽始かにすること勿れ。庶民のごとく来る。王に在れば、伏する、たり。白鳥鶴鶴たり。王に在れば、ちて魚躍る」と。文王民力を以て台をり、沼を為り、而して民之を歓楽す。其の台を謂ひて霊台と曰ひ、其の沼を謂ひて霊沼と曰ひ、その有るを楽しむ。古の人は民と偕に楽しむ。故に能く楽しむなり。

  古の賢者は楽しみを独占せず民らと偕に楽しむべきや

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 柿本麿歌集

ぬばたまの夜さり来ればまきむくの川音高しもあらしかも疾き (同・一一〇一)

「川を詠む」の二首目の歌。「ぬばたまの」は夜、夕、黒、昨夜、今夜、夢、妹、月などの枕詞だが、ここでは夜、その黒い夜に掛かる。「夜さり来れば」は「夜になって来ると」である。わかりやすい歌で解釈を要せぬが、これも前と同じおもむきの自然観照の歌だが、四句から五句への調べが高く、また急速で、はげしくあらしの吹き出した暗夜のさまをさながらに思いしのばせる。これも人麿の歌だろうといわれているが、私の考えは前の歌と変わらない。