9月12日(金)

少し涼しいが、湿気が多い。

中田整一『盗聴 二・二六事件』を読む。買ったまま忘れていた。著者はNHKのプロヂューサーで、二・二六事件の裏で電話の盗聴が行われていたことを明らかにした人だ。新しい資料を利用し、より深く。盗聴の闇を描く。陸軍の北一輝や西田税の扱いや事件を起こした青年将校たちの扱い。「かかる不逞の輩に、純真な将校が踊らされて理非を誤ったのが今次叛乱の実情」であると電話の盗聴をもとに、陸軍の統制派が、都合のよいように捻じ曲げて、第二次世界大戦に結びつけていったことがよくわかる。北と西田に判決が出た時の北の態度など興味深い点がいろいろあるが、ここでは多くを省く。著者の怒りも、おそらくある。そして私にも。

  葉を洗ひ赤松の幹を伝ひくる。しばし雨降る、音立てて降る

  赤松の葉にも照り葉のみどりにも一様に降る夕べの雨は

  雨やみて遠くの連山を見はるかす。なほ奥の山かすみつつあり

『孟子』梁恵王章句下17-2 孟子対へて曰く、「之を取りて燕の民悦ばば、古の人之を行ふ者有り、武王是なり。之を取りて燕の民悦ばずんば、則ち取ること勿れ。古の人之を行ふ者有り、文王是なり。万乗の国を以て、万乗の国を伐つ。して、以て王の師を迎ふるは、豈他有らんや。水火を避けんとてなり。水の益々深きが如く、火の益々熱きが如くんば、亦運らんのみ」と。

  水火を避けんとて万乗の国を伐つさすればなにも変はらざりけり

林和清『塚本邦雄の百首』

當方は二十五、銃器ブローカー、秘書求む。――桃色の踵の (水葬物語)

前原佐美雄主宰「オレンヂ」誌上で出会い、意気投合した杉原と塚本。同人誌「メトード」を牙城として、杉原は理論的に旧態依然の短歌を革新することに賭け塚本はそれを作品化しようと奮闘していた。杉原の理論と塚本の試行は、韻律・思想・美学など多岐にわたるが、その多くが無国籍的物語性を特徴としている。

ランボーめいた青年が出す秘書の募集広告。文言が謎めいていてハードボイルドの冒頭のようだ。初出は一九五一年九月「日本短歌」、その時は「鮭色の踵の」だった。なぜ桃色に変えたのだろう。鮭のほうがよくないか。

受胎せむ希ひとおそれ、新緑の夜々妻の掌に針のひかりを (水葬物語)

塚本の結婚は昭和二三年(一九四八)、翌年には長男靑史が誕生している。商社に勤務していた塚本は、西日本一帯にあった支社への転勤がつづき、慶子夫人も不安な中での妊娠出産であったと思われる。

受胎への願いと怖れは、当然夫のものでもあり、繊細な感情が五月の夜の光と掌と針に象徴されている。

同じ章「優しき歌」に「卓上に𦾔約、妻のくちびるはとほい鹹湖の暁の睡りを」という歌もあり、実人生に即した素材とも言えるが、その後も塚本に継続して現れる〝産む性〟への懐疑的な視線は顕著である。

9月11日(木)

暑そうであるが、午後雨が来る。

また蓼科へ行ってきた

ことしまたに

  SAにつばめくる大きく廻り、低きにも来る

  蓼科といっても狭き一隅のいろりの宿にこよひは泊す

  蓼科の山の夕べに雨来り。ひとしきり激しく、やがて止みなむ

『孟子』梁恵王章句下17 斉人、燕を伐ちて之に勝つ。宣王問うて曰く、「或るひとは寡人に取る勿れと謂ひ、或るひとは寡人に之を取れと謂ふ。万乗の国を伐ち、五旬にして之を挙ぐ。人力は此に至らず。取らずんば必ず天の殃有らん。之を取ること如何と」。

  宣王が燕の国を取るものか取らざるものか如何にせむとや 

林和清『塚本邦雄の百首』。副題に「塚本邦雄の血のあと」とある。

革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ (水葬物語)

昭和二六(1951)八月七日、第一歌集『水葬物語』が上梓され、塚本邦雄はこの歌をもって、華々しい脚光を浴びた――わけではなかった。

限定一二〇部和綴じ本という世に広まることを想定しまいような出版形態をとったのは、夭折した盟友・杉原一司への追悼の意をこめたからである。

塚本は歌人よりも、畏敬する作家や文学者に多く謹呈した。その中でこの才能に反応したのが三島由紀夫と中井英夫であった。これが塚本の歌人としての出発となる。上梓の日、八月七日は三一歳の誕生日だった。  

聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火藥庫 (水葬物語)

革命家作詞家とは誰か。革命家でもピアノを弾く作曲家でもない。戦後日本への社会批判、ダリの絵との類似、定型と意味の切れ目の拮抗など、議論百出したが、やはり液化ピアノの黒い冷たさには魅了される。

それにくらべて聖母像と火薬庫のつながりは構図的に理解しやすい。母性の森をぬけたところには爆発寸前の火が待つのだ。人間の歴史はそのようにくり返されて来た。

「もはや戦後ではない」と言われたのがこの五年後。塚本はそこにつづく戦前を見た。

掲出した二首ともに、歌集巻頭「平和について」の章にある。

9月10日(水)

またまた暑い。

  けふもまた大き欅の影に入りほっと息する安らかさある

  けふもまた酷暑の報のありしかも耐へがたしわが軀変色したり

  公園の砂利道をゆく右足と左足のバランス取れず

『孟子』梁恵王章句下16-2 今、此に有らんに、と雖も必ず玉人をして之を彫琢せしめん。国家を治むるに至りては、則ち曰く、『くの学ぶ所をいて、而して我に従へ』と。則ち何を以て玉人の玉を彫琢することを教ふるに異ならんや」と。

  王が国家を治むると素人が本職に玉の磨き方を教ふると同じやうなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 柿本人麿

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ (万葉集巻一・四八)

「東の野を見ると、空はすでに暁の光がみなぎり、雲はくれないに染んでいる。ふとふりかえると月は西に落ちかかっていた」というので、情景がただちに読者の目に浮かんでくる。雄大な天地自然の景をとらえて一挙のうちに詠歌した。このしらべの美しさは格別のものだ。(略)

この歌は後に文武天皇となる軽皇子が安騎野へ行かれた時、人麿が従って作った長歌五首の中の一首。この時軽皇子はまだ十歳ぐらい。それは皇子の父である故日並皇子(草壁皇子)がかつて安騎野で狩猟されたことっがあり、それがやはり十歳ぐらいの少年であったことをなつかしく思っての安騎野行であったようだ。長歌は有名だけれどはぶくとして、他の三首の短歌も秀れた作だからあげておく。

   安騎の野に宿る旅人うちなびき寝も寝らめやも古おもふに (同・四六)

   真草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し (同・四七)

   日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向ふ (同・四九)

はじめて安騎野へ行ったのは大正十二年関東大震災の直前、八月の暑い日盛りだった。初瀬から吉隠を山越しに榛原に出、そこから現在の大宇陀町の中心地の松山に至り、そのころ神戸村だった迫間の阿紀神社にたどり着いた。そうしてこの神社を中心とする松山町へん一帯の山野が安騎野であろうと考えた。現在は阿紀神社にほど近い長山という丘陵の上に、この歌の碑が建っている。(略)けれど碑は畑の中で、行く道も定かにはわかりにくい。ようやくたずね当てても今ごろなら麦生を踏まねば立つ場所さえない。(略)そうしてこの歌の作られた年月は持統天皇の六年十一月十七日であるから、太陽暦では十二月三十一日午前五時五十五分前後、(略)この歌には雪は直接には歌われていないが、長歌には歌われている。それを思ってこの歌を味わうとまたひとし おに感深いものがある。

これで前川佐美雄『秀歌十二月』を読み終えることになる。なかなか苦労であった。鑑賞のことばが長すぎて、冗漫なところがあって、なんとかならないものかと思いつづけていた。(略)が多いのはそのせいである。つぶさに読みたいものは、本文に寄るがよかろう。しかし知らない歌もあっておもしろかった。
ありがとうと言って置きたい。

9月9日(火)

今朝、少し涼しい。しかしすぐに暑くなる。

  尾長鳥の三羽がつぎつぎに飛びこんでかすかに揺れありすぐに消えたり

  まづ一羽があけぼの杉の葉叢より飛びだすつづけて二羽も飛びだす

  あけぼの杉の繁る葉々より脱けだすはおそらく家族なりつぎつぎに出る

『孟子』梁恵王章句下16 孟子 斉の宣王に謂ひて曰く、「巨室をらば、則ち必ず工師をして大木を求めしめん。工師大木を得ば、則ち王喜びて、以て能く其の任にふと為さん。匠人りて之を小にせば、則ち王怒りて、以て其の任に勝へずと為さん。

夫れ人幼にして之を学び、壮にして之を行はんと欲す。王曰く、『くの学ぶ所をいて、而して我に従へ』と。則ち如何。

  王とすれば「くの学ぶ所をいて、而して我に従へ」といへばどうにもならん

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 山部赤人

田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける (万葉集巻三・318)

不尽山を望んで詠んだ長歌の反歌である。「田児の浦」は静岡県。(略)だからこの歌は現在の静岡を経て清水を過ぎ、興津のあたり田児の浦まできて富士山を仰ぎ見たと考えてよい。

「田児の浦ゆ」の「ゆ」は、(略)ここは当然「に」の意味に解すべきである。ただここを「に」としたのでは「真白にぞ」「高嶺に」の「に」の音が重なってしらべも悪く、またことわりすぎることにもなるので「に」を避けて「ゆ」にしたのであろう。「うち出でて」の「うち」は接頭語で意味はないが、『出でて』を強調する若干の役は果たしていると見られる。

微妙な心づかいは作者内がわのこと。作られた歌は秀麗富士さながらにすがすがしくも神々しい。堂々としていてりっぱなのだ。古来富士山を詠んだ歌は数多いが、未だこの一首に及ぶものがない。その一部分、その特殊な場合などを詠んだのと違って、これは真正面から詠んでいる。誰もが見、誰もが感じると同じ富士山なのである。

富士山は完璧に表現せられ、人は富士山とはこの歌のようであると信じている。叙景歌の絶唱であり、赤人の作中でも傑作であるが、(略)しかし、新古今集、百人一首によって歌がなり下がった。(略)純粋な原作者の感動を観念的に情趣化したりして新古今集歌風の悪い反面を暴露した。これあそのまま百人一首に入れられて坤為地に至っているわけだ。それにわずらいされたのは赤人だけではなく、われわれもである。これらの迷妄を一掃し純粋無垢な心に立ちかえり、もう一度この歌を見なおしたい。

9月8日(月)

朝晩はまあまあだが、昼はまた暑い。

  公園の大き欅の影を出で太陽光の中にし入らむ

  太陽のひかりの中に立ちあがるまぶしき女人

  けやき大樹葉叢の繫りにすずめ数羽自由自在に飛びだしてくる

『孟子』梁恵王章句下15 斉の宣王問うて曰く、「湯、桀を放ち、武王、紂を伐つと。諸有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「臣にして其の君を弑す、可ならんや」と。曰く、「仁を賊ふ者之賊と謂ひ、義を賊ふ者之を残と謂ふ。残賊の人、之を一夫と謂ふ。一夫紂を誅するを聞く。未だ君を弑するを聞かざるなり」と。

  武王が紂王を弑逆したと聞きしかど君たる者は殺さざりけり

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 松村英一

しづかなる明暮にして渡り鳥わたるとき来ぬあかつきの声 (歌集・雲の座)

昭和二十九年の作で「篠の葉」九首中ひとつである。これは歌集『雲の座』に登載されるはずだが、この歌集は未刊である。しかし『松村英一全歌集』の下巻に入れられてある。この歌の前に、

   目上びと大方死にて終戦後の十年にわが老いもしるけし

   武蔵野のむらさきの種まきおきて必ずとわが頼むにもあらず

   朝の空鳴きて四五羽の飛びゆくは椋鳥ならむまれまれに見し

というような佳作がある。いずれもしずかな口つきの歌で、何か思いあきらめているのかのようなおもむきが感じられる。この歌の渡り鳥は何だろう。ムク鳥があるからムク鳥かもしれないが、ムク鳥も四、五羽だけでなく群れをなすと数千羽ぐらいの時もある。夜明けごろねぐらをいっせいに飛び立って空を渡る。そうして夕方に小群をなしてあちこちからもどって来る。秋から冬中を来ているから、朝々ねぐらを飛び立って鳴きながら空を渡るのは壮観である。

この歌のあとに

   心待つあかつき空に騒然と音はちかづくわたり鳥の群

というのがある。この方がいっそう優れているかもしれないが、その羽音、その鳴き声は騒然というにふさわしい。作者の家は城北である。新宿に近い西大久保の地だが、東京は森が多いから渡り鳥が来る。これは確かにムク鳥の歌だが、この人の歌としてはめずらしく美しい調べの、そうして心の澄んだ清らかな歌である。六十五、六歳の時の歌か。悪戦苦闘してようやくここにたどりついた。努力して来た人のおもかげがしのばれ、その心境に同情する。

9月7日(日)

今日も暑いのだろう。

  朝には紅顔ありて夕べには白骨となる人のさだめぞ

  始めもなく終りもなきがこの世をばすごすぞ肯ふべきや

  小町の髑髏の目にもの飾られて、あなめあなめと申す

  絶世の美女も美男も死にすれば九相観にすがたあらはなり

『孟子』梁恵王章句下14-2 左右皆賢なりと曰ふも、未だ可ならざるなり。諸大夫皆賢なりと曰ふも、未だ可ならざるなり。国人皆賢なりと曰ひ、然る後之を察し、賢なるを見て、然る後之を用ひよ。左右皆不可なりと曰ふも、聴く勿れ。諸大夫皆不可なりと曰ふも、聴く勿れ。国人皆不可なりと曰ひ、然る後之を察し、不可なるを見て、然る後之を去れ。左右皆殺す可しと曰ふも、聴く勿れ。諸大夫皆殺す可しと曰ふも、聴く勿れ。国人皆殺す可しと曰ひ、然る後之を察し、殺す可きを見て、然る後之を殺せ。故に曰く、国人之を殺すなりと。此のしんお如くにして、然る後以て民の父母たる可し」と。

  国民の世論によって慎重に生伐決めるされば民の父母ならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 松村英一

雨冷ゆるゆふべ俄かに火を熾し吾にあたれといふかわが妻 (歌集・山の井)

昭和二十三年の作で「小居雑銀」と題する十首中の一つである。冷たい雨の日の夕べに妻が炭火をおこして自分にあたれといった、というだけのことだからうっかりしていると見のがしてしまう。しかし心をとめて読み味わえば尽きぬ味わいがにじみ堕してくる。これは長い人生を、苦楽をともにしてきた老夫婦が、たがいにその身を思いやりいたわりあっているので、すでに愛情などという言葉を越えている。昼間から降っていた雨が日暮れになって冷え出した。寒いと思っていたらとたんに妻が炭火をおこしはじめた。それが「ゆふべ俄かに」である。この「俄かに」の語に感慨がある。妻の心がわかるからである。そうして「吾にあたれりといふかわが妻」と感謝している。「いふか」は「いうてくれるのがうれしいよ、ありがたいよ」という思いをこめているので、この「か」は疑問ではなく感歎の意につかわれている。仔細に見るとやはり年季のはいった人だけに一言一句もゆるがせにしていない。じみすぎるほどの歌だけれど、そうしてそれがこの人の歌風でもあるが、何となく米の飯を食っているようで、飛びつくほどのことはことはないが、いつまでも飽きないのである。この十首中には次のような佳作がある。

 みじめなる記憶の一つ糠をさへ煎るてくらひし妻とわが過去

 わが妻はもんぺをはずす時ありや深き歎きといふにもあらず

 髪白くなりて遥けき四十年妻虐げしわれにあらぬか

 わが手より受取る金を罪犯す如しと言ひて妻の持ちゆく

 思出を苦しといひ亦甘しといふ老いての心むなしとはせず

 両の手に膝をかかへて寒からず光はながき今日の夕ばえ

糟糠の妻とはこういうものであろうか。(略)これがこの人の歌の心である。

9月6日(土)

台風15号が行き、少し涼しいが、すぐに30℃になるらしい。

古墳相

  立ちのぼるけむりも消えて、わがありし。この世とやらも亡失のかなた

  古き卒塔婆の泣くごとく鳴るさびしさに、風吹けばいのちはてなむものぞ

  古きに埋めらるるかこのいのち。ただ何もなし、くだけはてつる

『孟子』梁恵王章句下14 孟子 斉の宣王に見えて曰く、「所謂故国とは、喬木有るの謂を謂ふに非ざるなり。世臣有るの謂なり。王には親臣無し。昔者進むる所、今日其の亡きを知らざるなり」と。王曰く、「吾 何を以て其の不才を識りて而して之を舎てん」と。曰く、「国君賢を進むるには、已むを得ざるが如くす。将に卑をして尊を踰え、疏をして戚を踰えしめんとす。慎まざる可けんや。

  王として慎重であれ賢者を進めるにはくれぐれも慎み深く

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 半田良平

一日の或る時刻には雀らは見ゆるところに一つもをらず (同)

病間の作であろう。ふと気がついてみるとスズメはひとつもおらない。屋根や庭木にとまってにぎやかに鳴きあっていたスズメがひとつも影を見せない。いったいどうしたのか、どこへ行ったのかと小首をかしげている歌である。そこで思いかえしてみると「一日の或る時刻には」必ずそのようなことがある。そのようなことがあったと気がついたのである。何でもない歌のようだが、そうではない。言葉と内容がひとつになっているので「一日の或る時刻」という感じ方、把握の仕方は「見ゆるところに一つもをらず」のそれと渾然一体化している。地味な歌だけれど深い味わいがある。詩人としての良平のよい面が最高度に出ている歌である。これを良平の代表作としてもよいだろう。私は大いに推奨するが、良平のよさはやはり師の窪田空穂のよさを継承するものであろう。(略)歌にくせがなく、たれにも共感される歌が多いように思う。