7月21日(月)

今日も暑い。

  山に近き墓処には一基の墓が立つたつた一つ父の名のみ刻まれ

  誰にでも必ずやつてくる死なるもの空無の如きを俟ちつつをりぬ

  日々を送るこのあはただしさの果てにある死といふものを怖れつつをり

『孟子』梁恵王章句上2 孟子、梁の恵王にゆ。王、に立ち、を顧みて曰く、「賢者も亦此を楽しむか」と。孟子対へて曰く、「賢者にして後此を楽しむ。不賢者は此有りと雖も楽しまざるなり。」

  沼上に鴻雁麋鹿を楽しむは賢者なり不賢者は楽しむことなし

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 柿本人麿歌集

あしひきの山川の瀬の鳴るなべに弓月が岳に雲立ち渡る (万葉集巻七・一〇八八)

巻七の「雑歌」で、「雲を詠む」の題のついている二首目の歌。「あしひきの」は山の枕詞。「なべに」は語源「並べに」で、「と共に」「と一緒に」の意。この三句の「なべに」が耳に聞く「山川の瀬の鳴る」と、目で見る「弓月が岳に雲立ち渡る」とをみごとに結び合わせ、それからして一首を生動させた。ここを「鳴りにつつ」「鳴る時に」「鳴るゆゑに」「鳴るなれば」「鳴りひびき」その他いくらでも変えてみるとよい。するとこれ以上の語のないことはだれにでもわかる。「さっきから山川の瀬音が急に高まったと思ったら、弓月が岳に黒雲が立ちこめている。今にも驟雨がやって来そうだ」というぐらいが表の歌意だが、かき曇って、あたりが急に暗くなって来たことや、降り出す前のはげしい風が吹いて草木のなびいているさまも同時に感じさせる。複雑な自然 現象が、よく単純化せられ、いささかも遅滞するところがない。声調ゆたかに行きわたり朗々のひびきをもつ、稀に見る大きい歌だといってよい。

7月20日(日)

朝晴れているが、もうすぐ気温は上昇するのだろう。参議院選挙。

  箱根湯本の陶器を扱ふ商店に贖ふ珈琲カップ一つ破れたり

  お気に入りの珈琲茶碗の緑の色やや濃きにカフェの香り

  カップに立ちのぼる珈琲の湯けむりを冷房効いた部屋に見てゐる

『孟子』梁王章句上1-3 未だ仁にして其の親を遺つる者有らざるなり。未だ義にして其の君を後にする者有らざるなり。王も亦仁義と曰はんのみ。何ぞ必ずしも利と曰はん」と。

  王はまた仁義を言へり心がけよ利など口にせざるが王なり

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 古泉千樫

ふるさとの 最も高き山の上に青き草踏めり素足になりて (歌集・青牛集)

いったん健康をとりもどした千樫は、翌年三月姪の婚礼に列するために帰郷した。郷里安房郡吉尾村。この時、「ふるさとの最も高き山」である「嶺岡山」というのにのぼった。三百メートルに達しない山だが、それでももっとも高い山に相違ない。健康を案じのぼったことは同じ時の他の歌でわかるが、病気回復のよろこびは青草を素足で踏んでみたかった。その冷たい青草の感触をたのしみたかったのだ。幾年ぶりのことなのか。千樫は心ゆくばかり故郷の村を、その生家を見おろしていたことだろう。心の素直な歌で、感情が行きわたっていて、たれでもが同感する。

千樫は若くして左千夫の門に入りもっとも左千夫に可愛がられた人だ。しかし赤彦や茂吉とちがって、その全力を出しきらずして昭和二年八月、数え年四十二歳でなかなった。迢空は千樫は骨惜しみをするといったが、かなり怠惰なところもあったようだ。生活だ苦しくても案外のんきであったという性格だろうか、その歌はだからして少しも暗くないのである。

7月19日(土)

今日も暑くなるらしいが、朝はまあまあ。

  山の木はそれぞれに深きみどりなりおぼろけなるは雨来るらしき

  どことなくどんよりするは雨近き夏の箱根の山ならむかな

  金目鯛の干物を網に焼く匂ひ部屋にただよふ旅を終へたり

  金目鯛の干物の身をばせせり食ふこのたのしさや旅すればこそ

『孟子』梁恵王章句上1-2 王は何を以て吾が国を利せんと曰ひ、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰ひ、士庶人は何を以て吾が身を利せんと曰ひ、上下交利を征れば、国危ふし。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取る、多からずと為さず。苟も義を後にして利を先にすること為さば、奪はずんば饜かず。

  義を後にして利を先にはからんとすれ奪はずんば厭かず

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 古泉千樫

うつし世のはかなしごとにほれぼれと遊びしことも過ぎにけらしも(歌集・川のほとり)

十一首連作の「稗の穂」の中の一首だが、この歌の前にある佳作、

ひたごころ静かになりていねて居りおろそかにせし命なりけり

でもわかるように、これは病臥中の歌である。千樫はこの前年、すなわち大正十三年

に突然喀血して肺病を宣告された。もともと頑健を自信していただけに打撃は大きかった。千葉県の田舎から東京に出て来て職にありついたものの薄給だった。毎日が苦しい陋巷の生活だったのに、不治の病気にかかったのだ。自分を大切にせず、身体を乱暴に、ぞんざいにあつかって来たことを後悔している。この歌はそれのつづきで過去を反省している。

「はかなしごと」は、はかなきこと、はかないことどもというほどの意味だが、千樫の造語だろう。あるいは先用者があるかもしれぬが、よく定着している。ここはどうしてもこれでなければならないようだ。「ほれぼれと遊びし」はおおかたうつつを抜かし遊んだということだろうが、うかうかとしていた、迂闊だったというような思いもこめられてある。むろんこの世の中のことは何もかもがはかないのではないが、心が弱るとそういう気になるものか。酒はきらいな方ではなかったけれど、別に放蕩をしていたわけではない。四人の妻子をかかえて生きあえいでいたのだから「ほれぼれと遊びし」というほどのこともないはずだが、しかし千樫は詩人である。心のぜいたくな人だっただけに、外がわから見ただけではよくわからない。もしかしたら命をかけて作って来た自分の歌を、その歌の世界をいっているかもしれないのだ。そう思うと結句の「過ぎにけらしも」の悲しみは深い。夜を徹して気ままに歌を作ったのも過去のことだ。今はそれも出来なくなったと歎いている。

おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕かたまけてすずしかるらし

これも同じ時の作だが、おびただしい書物に狭められた二階の室に臥しながら、涼しくなる秋を待ちかねていた。

秋さびしもののともしさひと本の野稗の垂穂瓶にさしたり

「稗の穂」一連はいずれもすぐれているが、発表当時、中でもこれが一番好評だったと記憶する。「稗の穂」の題もこれによったのだから千樫も自信があったのだろう。(略)今となってみると、この野稗の歌よりは「うつし世のはかなしごと」の歌の方が千樫らしい。本質的な歌人としての千樫をよくあらわしていると思われる。

7月18日(金)

いい天気である。暑くなりそうだ。

昨日で『中庸』を読み終えたことになる。これで『老子』『論語』『大学』『中庸』までを読んだということだ。しかし道は遠い。せめて四書をと思い、今日からは『孟子』と考えている。宇野精一全訳注『孟子』を使う予定である。

  ユトリロの絵を飾りたる喫茶店しづかなりここに珈琲を喫す

  パリの町、人を描きて哀感あるユトリロの水彩画親しきものを

  硝子箱の中なる球体関節人形ぶきみなるかな夜に動きだす

  箱根湯本の商店街のなつかしく温泉饅頭よろこびて買ふ

  温泉饅頭にかぶりつくなり妻とわれ旅の途中のよろこびなりき

『孟子』梁恵王章句上1-1 孟子、梁の恵王にゆ。王曰く、「、千里を遠しとせず来る。亦将に以て吾が国を利する有らんとするか」と。孟子対へて曰く、「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。

  さてさて恵王何をばのたまふ利などなしただ仁義あるのみ

今日よりいよいよ『孟子』である。宇野精一に従い、各章断片に分けたものを一編一編読んでいこうと思っている。時間はかかるであろうが。

前川佐美雄『秀歌十二月』 長意吉麿

苦しくも降りくる雨か神が埼狭野のわたりに家もあらなくに (同・二六五)

神が埼(三輪崎)も狭野(佐野)も今は新宮市に編入せられたが、紀勢線で和歌山から新宮に着く一つ手前の駅が三輪埼であり、二つ手前の駅が紀伊佐野で、ともに人家にさえぎられるけれど車中より望みうる海岸の地である。「わたり」は「あたり」ではなく、渡し場で、海にも川にも用いる。この歌はむろん「降り来る雨か」と詠歌しているところがよいのであるが、「苦しくも」という語の意味内容、それに感じがどこか新味を思わせるからか、万葉集中の秀歌として新古今集時代でも評判がよかったらしい。それだからこれを本歌として藤原定家は、

駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ

と詠んだ。(略)しかし定家の歌は口調はよいけれど、しょせんは机上の作である。

(略)いきいきとして実感みなぎる意吉麿の歌とは比ぶべくもないのである。(略)行路困難のさまが思いやられて、情景目に見ゆるごとき作である。

7月17日(木)

朝雨だった。その後晴れている。

今村翔吾『茜雲』下を読み終える。現代語版『平家物語』のようで、その初志もわかり、平知盛をほぼ主人公に据えて、彼の死後は妻の希子が琵琶法師西念に物語を伝授して行く。時の正史は権力に都合のよいように書き換えられるが、平家物語は敗者のものである。新しい『平家物語』なのだろう。堪能した。

  旅の宿の階をたどれば大小の部屋ありわれらは中くらいの部屋

  窓からはむかひの山ぞ立ち上がる夏の木々にて彩られたり

  アンパンマンの誕生をこそしたき朝のドラマを凝っと見てをり

  木を曳く音、鳥の鳴声、からすのこゑ箱根の山は少しうるさい

  早川の河原に淡きの花紋白蝶の来てまたる

『中庸』第十九章二 詩に曰く、「するに言なく、れ争ひあることし」と。

是の故に君子は賞せずして民勧み、怒らずして民はよりもる。

詩に曰く、「ひに顕らかなり惟れ徳、百其れこれにる」と。是の故に君子はにして天下平らかなり。

詩に曰く、「れ明徳を懐ふ、声と色とを大にせず」と。子曰く、「の以て民を化するに於けるは、末なり」と。詩に曰く、「徳のきこと毛の如し」と。毛は猶ほあり。「のは、声も無く臭も無し。」至れるかな。

  上天のしわざには声もなければ臭ひもないそれこそ徳の至れるかな   

のまでゆすとととのふるのごゑ (万葉集巻三・二三八)

意吉麿はまた興麿、奥麿などと記される。いかなる人かわからないが、歌から見てかなりの身分の人だったろう。人麿時代からやや後までの人かといわれている。これは詔に応えた歌であるが、天皇は持統か文武か、大宮は難波宮であることだけは確かなようだ。(略)この歌は応詔は応詔でも表にあらわすに帝徳を賛美したおもむきはない。皇居の内まで聞こえてくる威勢のよい漁師らの声をいっただけだが、かえってりっぱな応詔歌になっている。大和の山国から行幸に従駕して難波の離宮に来たのである。海を見たよろこび、ものめずらしさも手伝って、さわやかな情景をありのままに歌ったのである。

7月16日(水)

朝、少しだけふらなかった。その間にゴミ捨てに。しかし、後は雨。

大浴場

  温泉の床に古びし石のタイル細かき傷あり足裏痛む

  温泉の湯はよけれども浴場の敷石にある傷に苦しむ

  痛い、いたいと声に小さく告げたれどだれひとりすら親身にあらず

  すっきりとは晴れぬ箱根の山ののぼやけるごときは暑さのゆゑか

  さねさししき箱根の山々の深きところの湯に浸かりをり

『中庸』第十九章一 詩に曰く、「錦を衣てをふ」と。その文の著はるるを悪むなり。故に君子の道は、として而も日々にかに、小人の道は、として而も日々に亡ぶ。君子の道は、淡くして厭はれず、簡にして文あり、温にして理あり。遠きの近きことを知り、風の自ることを知り、微の顕なることを知れば、て徳に入るべし。

詩に云ふ、「潜みて伏するも、亦ただこれ昭かなり」と。故に君子は内に省みて疚しからず、に悪むことなし。君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見る所か。

詩に云ふ、「の室に在るをるに、はくはに愧じざれ」と。故に君子は動かずして而も敬せられ、はずして而も信ぜらる。

  錦を衣てをふと詩経に云ふ君子の道は人目をひかず

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 平賀元義

在明の月夜をあゆみ此園に紅葉見にきつ其戸ひらかせ (同)

「在明」は月が天にありながら夜の明けること、十六夜以後の月であるが、この場合は月の明るい夜ふけごろのつもりだろう。月の明るい晩に女のところへ行ったのだ。「紅葉見にきつ」といってはいるが、どんなに月が明かるかろうと、紅葉の美しさは見えるはずがない。が、そうでもいわないではいかに元義といえどもばつが悪い。この歌は女にむかってお体裁をいった。よい月夜なので庭の紅葉を見にきた、さあ戸をあけよというのである。「其戸ひらかせ」と敬語をつかっているが、あけなさい、と命令しているような口調である。もしかしたらこうもあろうかと用意して作ってきたのが、あるいはそこで作った即興なのか、判じかねるけれど、これを女に歌って聞かせたことだけは確かなようだ。そんな口つきの歌である。

万成坂岩根さくみてなづみこし此みやびをに宿かせ吾妹

「ますらを」の好きな元義は、また「みやびを」が好きであった。この歌は岡山からそういう坂を越えたところにある宮内なる遊里の巷で、そこの貸座敷の門ごとに立っ

妹が家の板戸押し開き我入れば太刀の手上に花散り懸る

皆人の得がてにすとふ君を得て君率寝る夜は人な来りそ

女のところへ遊びに行くにも太刀を佩いて行く。あとの歌は得意思うべしである。吾妹子先生といわれただけあって、吾妹子の歌が多い。中でも「五番町石橋の上で」の歌は有名であるからいう必要もないだろう。

(略)脱藩して、放浪生活をし、古学を修めた。直情径行、磊落不羈、まれに見る好人物で常軌を逸する行為が多い。逸話に富む。近世におけるめずらしい万葉調の歌人、慶応元年六十六歳で没した。(略)しかしそのまっ正直な歌と、人物が愉快だから、実質以上の歌人として喧伝されている傾きがある。ただしくは平賀左衛門太郎元義というのがその名である。

7月15日(火)

朝、雨は止んでいる。ほんの二時間ばかりだというが。後は雨らしい。

六月八、九日、箱根湯本の宿へ一泊。その際の歌を、これから何日か載せさせてもらう。

湯本のみどり

  朝鳥の長鳴く鳥のこゑ聴ゆ山のなだりを木々覆ひたり

  濃きみどり薄きみどりにさみどりととりどりなれど夏山みどり

  夏の木々に埋もれて鳴くは何鳥かけきょけきょとのみ声しづかなり

  ここにも野がらすは居て悪声に鳴きつづけをり町と変はらず

『中庸』巻十八章二 唯だ天下の至誠のみ、能く天下の大経を経綸し、天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。夫れ焉んぞる所あらん。肫肫として其れ仁なり、淵淵として其れ淵なり、浩浩として其れ天なり。

もに聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、其れか能くこれを知らん。

  聡明聖知にて天徳に達するものなればこそその境地をぞ知れり

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 平賀元義

大君の加佐米の山のつむじ風益良たけをが笠ふき放つ (平賀元義歌集)

「七月十九日、加佐米の山を望む」の詞書がある。「大君の」は「みかさ」の枕詞であるが、「み」を省いて「加佐米」に冠らせた。なぜそういうことをしたか。元義は古学に通じていたので、姓氏禄の「応神天皇、吉備の国を巡行し、加佐米山に登るの時、飄風御笠を吹き放つ」の条を思い出し、それで臆せず「大君の加佐米の山」と歌いあげた。加佐米の山は「備中備前の境」とあるが、はじめは天皇巡行のさまを歌うつもりであった。天皇の御笠を吹き飛ばすほどの飄風が吹いたのだから、むろん 従駕の緒臣も笠を吹き飛ばされたに違いない。それを「大君の加佐米の山のつむじ風」と歌っているうちに錯覚した。いや、よい気分になって自分もその行列の中に供奉しているような気がしてきた。そこでこれもはばかることなく「益良たけをが笠ふき放つ」とやってのけた。もっとも「益良たけをが」だけでは自分のことをいったことにはならない。しかし供奉の行列をいうのなら、それにかわる適当な語はいくらでもあるはずだ。けれどそれがいいたかった。それをいうことによって満足した。元義は「ますらを」という語が好きであった。

大井川あさかぜ寒み大丈夫と念ひてありし吾ぞはなひる

鳥がなく東の旅に大丈夫がいでたちゆかむ春ぞ近づく

といったふうで、みずから「ますらを」をもって任じていた。ともに元義の歌の代表作だが、人がよいのか正直なのか。わしは「ますらを」だぞ、とそり返り、大手を振って歩いている魁偉な風貌が見えるようである。