5月28日(木)

朝、熱海は晴れていたが、途中茅ヶ崎辺りで雨。海老名は曇り。

  大峰山寺より下りし蔵王権現のやや小ぶりなり。右足上げて

  秘仏を運ぶ運搬人に背負はれて奈良の町中に神気を放つ

  常には見えぬ秘仏なればかものはゆく衆目環視に馴るることなし

『孟子』告子章句上157 孟子曰く、「(たふと)きを欲するは人の同じき心なり。人人(ひとびと)己に貴き者有り、思はざるのみ。人の貴くする所の者は(りやう)(き)に非ざるなり。(てう)(もう)の貴くする所は、趙孟能く之を(いや)しくす。詩に云ふ、『既に酔ふに酒を以てし、既に飽くに徳を以てす』と。仁義に飽くを言ふなり。人の膏粱(かうろやう)の味を願はざる所以なり。令聞(れいぶん)(くわう)(よ)身に施く。人の文繍(ぶんしう)を願はざる所以なり。

  貴きを欲するは人の同じき心なり人毎に貴きものを持つ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

滝は多かれど うれしやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも絶えでとうたへやこれことつとう    (四句神歌・雑・四〇四)

【現代語訳】滝はたくさんあるけれど、うれしいと思うことだよ、鳴り響くこの滝の水は。たとえ日は照りつけるとも水は絶えることなく流れトウタヘと鳴っている。ヤレコトトウ。

【評】豊かに流れる滝をほめたたえる一首。「とうたへ」は『義経記』や能の「翁」などに見える後代の類歌においては「とうたり」となっていることも多いが、滝の水漲り落ちる音を表す。「やれことつとう」は囃し詞。『綾小路俊量卿記』(永正一一年<一五一四>奥書)の五節間鄙曲の「鬢多々良」などにも「やれことうとう」という囃し詞が見える。

この今様は、諸書に見え、広く歌われたらしい。

たとえば、『平家物語』巻一「額打論」には、一条院の御墓所の周囲に寺々の額を打つ際、其の順序をめぐって興福寺と延暦寺の間に争いがあったことが記されるが、先例に背いた延暦寺の額を切っておとした興福寺の二人の僧・観音房と勢至房は、額を散々に打ち割って「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えずとうたへ」と囃したと言う。

『明月記』建永元年(一二〇六)九月二三日条に「実信一人はやす、うれし水、六位以上卿相以下乱舞」とあり、天福元年(一二三三)二月二〇条には「十八日未刻南谷より無動寺を襲い合戦す。……今一手存外の谷底より討ち入る。房二宇を切る。宝積房。仙寿房。うれしや水之曲はやして南谷に帰り入る」とある。これらの記事からは、「うれしや水」が曲の名前として定着している様子が窺われる。

また、『弁内侍日記』の宝治元年(一二四七)の記事には、叙位が行われて昇進した者に対し、「「うれしや水」囃す」とあり、ここでも「うれしや水」が曲名として現れている。弁内侍はこの時、しほりつる袖の名残を引きかへて包むあまりになる滝の水
(名残の涙で袖をぐっしょり濡らしたかと思えば、打って変わって、出世した喜びを袖に包みかねて「鳴る滝の水」と歌い囃していることよ)

の和歌を詠んでいるが、この中には「鳴る(は)滝の水」という今様の歌詞の一節取り込まれている。以上のように、この今様は、祝いの歌として、遊宴に囃されたり、戦の勝利を喜ぶ場面で 歌われたり、官位昇進を喜ぶ時に歌われたりしており、広い流布の様子が知られる。

5月27日(水)

晴れ。

  吉野杉の樽酒を飲むも旨きもの商店街の夜の酒店(しゆてん)

  わが朋ふたりと妻と吾と奈良の一夜に歓を尽くせり

  いつのまにかくらやみの中。目の赤き蔵王権現降臨したまふ

『孟子』万章章句156 孟子曰く、「天爵(てんしやく)なる者有り。人爵(じんしやく)なる者有り。仁義忠信、善を楽しみて(う)まざるは、此れ天爵なり。(こう)(けい)大夫は、此れ人爵なり。古の人は、其の天爵を修めて、人爵之に従へり。今の人は、其の天爵を修めて、以て人爵を(もと)む。既に人爵を得て、其の天爵を棄つるは、則ち惑ひの(はなは)だしき者なり。終に亦必ず(ばう)せんのみ」

  古は天爵は自ら修し人爵を得るに今は人爵を求めるために天爵になる

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

隣の大子(おほいこ)が祀る神は (かしら)(しじ)け髪ます髪(ひたひ)(がみ) 指の先なる(てづつ)(がみ) 足の裏なる歩き神(四句神歌・雑・四〇二)

【現代語訳】隣の一の姉さんの祀る神は、頭の縮れ髪、入れ髪、額髪、指の先にくっついた不器用の神、足の裏にある浮かれ歩きの神。

【評】隣に住む娘について、不細工で不器用で身持ちが悪いと、数々の悪口三昧の歌。ふられた男の腹いせででもあろうか。「大子」は貴人の長女もことで、本来は敬称だが、ここではわざと丁寧に言って、からかいの気持ちを込めているのであろう。

悪口の筆頭は髪に関することである。当該今様では、「神」と「髪」との同音を楽しむ言語遊戯的側面も大きいが、『徒然草』九段に「女の髪のめでたからんんこそ、人の目にたつべかめれ」(女性は髪が見事であってこそ、人の目をひきつけるようである)とあるように、長く豊かでくせのないつややかな髪は、女性の美の題一条件であった。したがって、髪が美しくないということは、女性への悪口の筆頭にあげられるものだったのである。

「縮髪」は縮れた髪。つややかな癖のない髪がよいとされていた当時、縮れ毛は最も目立つ欠点であった。『枕草子』能因本「にげなきもの」(似つかわしくないもの)の段には「しぢけたる神に葵つけたる」とあって、賀茂祭の飾りの葵も縮れた髪には似つかわしくないと捉えられている。鎌倉時代に成立した絵巻物『男衾三郎絵詞』には、珍しく縮れ髪の女性が描かれている。これは主人公男衾三郎の妻であるが、三郎は、美しい妻を持つのは武士にとって「命もろき相」であって不吉だと考え、わざと器量の悪い妻を迎えたのであった。その描写の筆頭に「髪は縮み上がりて、もとゐの際にわだかまる」とある。ひどい縮れ毛で」根本の方にとぐろを巻いたようになっていると言うのである。

「ます髪」は「増髪」で入れ髪、添え髪のことと解したが、能面の「十寸髪」(女神や巫女が心の高ぶりを見せる場合に用いる面で乱れ髪に特色がある)から乱れ髪のことと見る説もある。いずれにしても縮れ毛と並んで、髪の美しくないさまを指している。入れ髪は髪の豊かさを補うものであって、美を追求するための工夫ではあるが、『梁塵秘抄』には、「似而非鬘」としてごまかしの鬘を揶揄するような歌もある(三六九)。

「額髪」は額から左右の頬のあたりに長く垂れる髪で、女性が額をあらわに見せないためのもの。「額髪」だけなら悪口にはならないが、額髪で隠さなければならないような容姿だとの主張を込めているのだろうか。

鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』八五話には、天竺の留志長者が「我に憑きて物惜しまする慳貪の神祭らん」(私にとり憑いて物惜しみをさせるけちで欲深い神を祭ろう)と述べる場面がある。これは多くの酒食を用意させるための偽りの言葉ではあるが、とり憑いた神が人の性質を左右するという考え方が窺われる。

なお、体の各部分に「神」が憑いて、女性に悪い行動をさせるという発想は、次にあげるような、民俗芸能の歌謡の中にも見出され、広い普遍性が知られるが、当該今様は、特に「神」と「髪」の語呂合わせによってつなげてゆく構成展開が巧みである。

女房達の所に追ふべきものあり、およそなるおぐさ神、目もとなるは眠り神、足なるは歩き神        (愛知県鳳来寺の田楽歌謡)

女房達の所に寄るまじきものあり、目の上のねぶり神、指の先のをくさ神、足の先の歩き神          (長野県新野の田遊詞)

5月26日(火)

ほぼ晴れのようですが、今(午前九時)には曇ってます。

  初夏(はつなつ)の日差しの強さ、容赦なし。登大路を足弱が行く

  山の木の半分白き山法師。青丹よし奈良の山の彩り

  吉野より奈良に(お)りたつ蔵王権現。姿たくましき一本立ちなり

『孟子』告子章句上155 (こう)都子(とし)問うて曰く、「(ひと)しく是れ人なり。或ひは大人(たいじん)と為り、或ひは小人(しせうじん)と為るは、何ぞや」と。孟子曰く、「其の大体に従へば大人と為り、其の小体に従へば小人と為る」と。曰く、「鈞しく是れ人なり。或ひは其の大体に従ひ、或ひは其の小体に従ふは、何ぞや」と。曰く、「耳目(じもく)の官は、思はずして物に蔽はる。物、物に(まじ)はれば、則ち之を引くのみ。心の官は則ち思ふ。思へば則ち之を得るも、思はざれば則ち得ざるなり。此れ天の我に与ふる所の者、先づ其の大なる者を立つれば、則ち其の小なる者奪ふこと能ずはざるなり。此れ大人為るのみ」と。

  大なれば小なる耳目にまどはされず大なる心奪ふことできず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

海にをかしき歌枕 磯辺の松原(きん)を弾き 調(しら)めつつ 沖の波は磯に来て鼓を打てば (みさ)(ご)浜千鳥舞ひ(こだ)れて遊ぶなり  (四句神歌・雑・四〇〇)

【現代語訳】海に関する面白い和歌の材料といえば、磯辺の松は琴を弾き、美しい音楽を奏でている。沖の波は磯に寄せて鼓を打っているので、雎鳩や浜千鳥もしなだれるようにして舞い遊んでいるよ。

【評】海辺の自然が歌舞奏楽にいそしんでいるとする聞きなし、見立ての歌。

「歌枕」は、現代語においては、古来多く歌に詠まれた名所を指すが、古くは地名に限らず、和歌に詠まれる素材を広く言った。

「琴」は七絃の琴で、日本へは奈良時代に中国から伝来し、『うつほ物語』や『枕草子』『源氏物語』などにもしばしば描かれているが、次第に衰微し、平安時代末期にはほとんど廃れてしまった(三七九)。しかし文芸表現の上では、漢詩文の影響によって、風に吹かれて松のたてる音は琴の音と類似していると捉えられ、楽器としての琴が廃れた後も、松風に琴の音の響き合いは表現され続けた。松と琴の組み合わせは、当該今様が「歌枕」としてあげるにふさわしい事項と言ってよい。ただし、伝統的な和歌の世界では、琴の音が松風に「通ふ」「響き合ふ」といった表現にとどまっており、松が琴を「弾く」「調ぶ」とする当該今様は、松の積極的な擬人化という点で、今様としての新しさを持っていたと考えられる。続く、波が鼓を打つという発想は、和歌にはほとんど見ることができない。そもそも和歌に「鼓」が詠まれること自体、あまりないことである。

「雎鳩」は海浜に生息する猛禽で、急降下しては魚をとらえる。「浜千鳥」は浜辺にいるチドリ科の鳥の総称。日本の海辺(干潟)で多く見られるのは、シロチドリやメダイチドリ、ダイゼンなどである。両者とも海辺の鳥として和歌に多く詠まれる素材である。しかし、雎鳩は「雎鳩居る」という形で荒磯に属するものとして、固定したほとんど動きのない姿で詠まれ、また千鳥の方は姿よりもその鳴き声を詠まれる場合が多いことを考慮に入れると、雎鳩や浜千鳥の飛翔するさまを「舞ひ傾れて遊ぶ」とする表現は新鮮である。後世、芭蕉の著名な一句「古池や蛙飛びこむ水の音」は、伝統和歌でもっぱら扱われる「鳴く蛙」の声ではなく、伝統にない「飛ぶ蛙」の水音をとらえたところに俳諧美の発見があると評されるが、当該今様にも同様の俳諧性が認められよう。

「傾る」とは、倒れかかる、しなだれるという意味で、和歌の中で使われた例は見出だせない。「舞ひ傾る」のほか「折れ傾る」「笑み傾る」のような複合語を作る。例をあげると次の通りである。

「まして宗教が舞はざらめやは、舞はざらめやは」とて折れ傾れ、身をなきになして舞ひたりし  (弁内侍日記)
(「まして宗教が舞わないことがあろうか、舞わないことがあろうか」と言って、体を折り曲げ、骨がないように身をくねくねさせて舞った)

「うれしや水、鳴るは滝の水」と歌ひて、折れ傾れ、一時ばかりに舞ひたりける。(『源平盛衰記』巻二・額打論)
(「うれしや滝の水、鳴るは滝の水」と歌って、体を折り曲げ、折り曲げ、一時ほど舞を舞った)

横座の鬼、盃を左の手に持ちて、笑み傾れたるさま、ただ、この世の人のごとし。(『宇治拾遺物語』三話)
(正面の座の鬼が盃を左の手に持って、<瘤のある老人の舞を見て>わらいころげているさまは、全く人間のようであった)

これらの例によると「傾る」という言葉は、宴における歌舞またはその鑑賞の描写に用いられるなど、芸能と関わりの深いところで使われていて興味深い。当該今様の結句で鶏の飛翔のさまを「舞ひ傾れて遊ぶ」と擬人化した表現には、芸能の場の興奮が生き生きと映し出されていると言えよう。

以上のように、「歌枕」を標題に掲げながら、当該今様の内容は、実際の和歌表現と微妙なずれを見せている。当該今様は、積極的な擬人化によって、自然がダイナミックに歌舞奏楽をなすさまを表現しており、壮大なファンタジーの世界を垣間見せてくれる。

5月25日(月)

久方ぶりに晴れ。

近鉄特急

  青丹よし奈良の都の址どころ芝草の上にまどろみてゐる

  まほろば大和の五月なり。妻と(あ)と来し朋に会はんと

  いくつもの新しき殿舎。朱に塗られ、古へ大和かくもあざやぐ

『孟子』告子章句上154-2 今、場師(ぢやうし)有り。其の梧檟(ごか)(す)てて、其の(じ)(きよく)を養はば、則ち賤場師(せんぢやうし)と為さん。其の一指(いつし)を養ひ、而も其の(けん)(はい)を失ひて知らざれば、則ち狼疾(らうしつ)(じん)と為さん。飲食(いんしよく)の人は、則ち人之を(いやし)む。其の小を養ひて以て大を失ふが為なり。飲食の人も失ふこと有る無ければ、則ち口腹豈(ただ)尺寸の(ふ)の為のみならんや。

  植木屋もやぶ医者も大なる志を忘れねばこれこそ最も大事なること

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

樵夫(きこり)は恐ろしや 荒けき姿に鎌を持ち (よき)を提げ うしろに柴木(しばき)(ま)(のぼ)るとかやな 前には山守寄せじとて杖を提げ  (四句神歌・雑・三九九)

【現代語訳】木こりは恐ろしいことだ。荒々しい姿で鎌を持ち、斧を下げ、背後には柴木が巻き上がっているとかいうことだ。前には山守を寄せつけまいとして、杖をさげているよ。

【評】不動明王の歌(二八四)をもじった木こりの歌。剣が鎌に、索が斧に、火炎が柴木(雑木を薪用に切ったもの)に、悪魔が山守に、それぞれ丁寧に対応した形で替えられており、滑稽味にあふれている。

当該今様においては、替え歌の制約から鎌・斧・杖の三つを二本の手に持たせることになり、不自然であるとの指摘もあるが、、斧を提げているのを腰と見れば、不自然さは解消する。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』三話には「腰に斧といふ木伐る物さして」とある。

また、天禄から長徳(九七〇~九九九)頃に成ったとされる『うつほ物語』菊の宴には、左大将家での霜月神楽で職芸の物真似を競い合う場面があるが、「山伏の才」「筆結ひの才」などと並んで、「樵夫の才」が見える。当該今様は、このような祝祭の場ではぐくまれたものと考えられる。その賑やかな祝祭空間では、不動明王の歌の替え歌は大いに喝采を浴びたであろう。

5月24日(日)

曇り、曇り。寒い。

  ページをめくりわが目指したる歌を読む。この喜びに涙ぐみたり

  『岡野弘彦全歌集』、無造作に畳の上にあればころぶ

  昭和百年の年に師の死あり。昭和にこだはるか戦中派として

『孟子』告子章句上154 孟子曰く、「人の身に於けるや、愛する所を兼ぬれば、則ち養ふ所を兼ぬ。尺寸(しやくすん)(ふ)も愛せざること無ければ、則ち尺寸の膚も養はざること無きなり。其の善不善を考ふる所以の者は、豈他有らんや。(おのれ)に於て之を取るのみ。体に貴賤有り、小大有り。小を以て大を害すること無く、賤を以て貴を害すること無かれ。其の小を養ふ者は小人為り。其の大を養ふ者は大人為り。

  小なるを養ふ者は小人なり大なるを養ふは大人ならむ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

見るに心の澄むものは 社(こぼ)れて禰宜(ねぎ)もなく (はふり)りなき 野中の堂のまた破れたる 子産まぬ式部の老いの果て  (四句神歌・雑・三九七)

【現代語訳】見ると心が澄みわたっていくものは、神社がこわれて禰宜もおらず、祝もいないもの。野中の堂のまた破損したもの。子を産まなかった女官の老いの果て。

【評】心の澄むもの尽くし。荒廃したもの時に凄惨と言ってよいようなものを見つめて、心が冴え冴えと澄みわたることを歌う。『梁塵秘抄』には、心の澄むもの尽くしとして、つぎのような今様も収められている。

心の澄むものは 秋は山田の庵ごとに 鹿驚かすてふ(ひ)(た)の声 衣して打つ槌の音  (三三二)
(心が冴え冴えと澄んでくるものは、秋になって山田の番小屋ごとに聞こえてくる、鹿を驚かして追い払うという鳴る子の音、家々でしきりに衣を打つ槌の響き)

心の澄むものは 霞花園夜半(よは)の月 秋の野辺 上下も分かぬ恋の路 岩間を漏り来る滝の水  (三三三)
(心が冴え冴えと澄んでくるものは、春霞、花園、夜半の月、秋の野辺。身分の上下を区別しない恋の路、岩の間を漏れ出て来る滝の水)

これらが、文学的伝統にのっとって、物寂しい趣を持ちながらも春秋の美しい風情や恋の情緒を歌うのに対し、当該今様は、荒れ果てた風景と孤独な女の老いの果てを取り上げて、新しい境地を切り開いている。「禰宜」「祝」は神官の一つで、宮司や社主の下に位置するのが禰宜、祝はさらにその下に位置する。「式部」は父や兄に式部省の役人がいる女官の呼び名で、紫式部、和泉式部などが例にあげられるが、ここでは式部に代表させて、女官一般を指していると見られる。しかるべき教養を身につけ、華やかな宮廷生活を味わった女官が、老いて宮廷を離れ、頼るべき子もない状態に置かれた心細さは、前半生が華やかであればあっただけい、いっそう強く身に迫ったであろう。

「子産まぬ式部」に、生涯異性と未交渉の清楚な聖女の姿を見る説もあるが、「子産まぬ」ことがすぐに聖性と結びつくとは言えないであろう。あるべきものが欠け、荒れ果てたものを列挙する一首の構成からは、「子産まぬ式部」は、頼るべき子も欠けている、その孤独を強調しているものと考えられる。

荒廃の美とでもいうべきものへの傾斜は、西行(一一一八~一一九〇)の和歌にも見られ、時代の美意識を考える上で興味深い。

つばな咲く北野の茅原褪せゆけば心すみれぞ生ひかはりける (『山家集』)
(茅花を抜き取った北野の茅原は荒れてゆき、菫が生えてくるのは心が澄む光景であるよ)

西行詠は、「菫」に「澄み」を言い掛けているが、和歌史において、菫が廃園に咲く 花と捉えられてきたことを考慮に入れると、この詠歌は当該今様と一脈通じるものがあろう。

5月23日(土)

曇り、くもり、クモリ……

  長き時を養はれしとおもへども師の心中には立ち入りがたし

  「人」短歌会解散の時と師の死の時われには重し何為し難く

  分厚く重い『岡野弘彦全歌集』手に持て余し頁を開く

『孟子』告子章句上153 孟子曰く、「(きよう)(は)(とう)(し)も、人(いやしく)も之を生ぜんと欲せば、皆之を養ふ所以の者を知る。身に至りては、之を養ふ所以の者を知らず。豈身を愛すること桐梓に若からざらんや。思はざるの甚だしきなり」

  桐や梓の育て方は知るものの事の軽重は考へざりき

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳 

海老漉(えびすい)舎人(とねり)はいづくへぞ 小魚漉(さいすい)舎人(とねり)が行くぞかし この江に海老なし (お)りられよ あの江に雑魚(ざこう)の散らぬ間に  (四句神歌・雑・三九五)

    ・

いざ(た)(となり)殿(どの) 大津の西の浦へ雑魚(ざこ)(す)きに この江に海老なし あの江へいませ 海老まじりの雑魚やあると    (四句神歌・雑・三九六)

    ・

粟津(あはづ)(きよう)(えん)は (ひんがし)の大津の西浦へ 海老まじりの雑魚(と)りに 大津の西の浦は悪し (のぼ)大路(おほぢ)ぞ何も良き       (四句神歌・雑・四四一)

【現代語訳】「海老漉舎人はどちらへお出かけせすか」「小魚漉舎人のところへ行くのですよ」「この入江に海老はいません、お下がりなさい、あの入江の方へ。雑魚がいなくなってしまう前に」

    ・

「さあ行きましょう、お隣さん。大津の西の浦に雑魚すくいに」「この入江に海老はいません、あの入江にいらっしゃい。海老まじりの雑魚がいるか探して」

    ・

「粟津の面白さといえば、東の方、大津の西の浦へ海老まじりの雑魚を捕りに行くことだね」「大津の西の浦はあまり良くないよ。都の上り大路こそ何もかもが良い具合だよ」

【評】海老すくい、雑魚すくいの芸能に関わる歌。簡単な筋を持つ猿楽芸などに用いられた掛け合いの歌と思われる。

藤原仲実(一〇五七~一一一八)の歌学書『綺語抄』には「小魚」の説明の中に「雑芸云、こひすき舎人はいづくへぞ さゐすき舎人はいづくへぞ」とあり、三九五番歌と関わる詞章の一節が見える。「海老漉舎人」は海老をすくいとる舎人(貴人に仕えて雑役をつとめた者)、「小魚漉舎人」は小魚をすくいとる舎人。小魚について、『綺語抄』は田のあぜのたまり水などにいる小さい魚と説明する。なお、弘化四年(一八四七)九月開版『重訂本草綱目啓蒙』四〇に「白魚 ミゴヒ〈和名抄〉 ニゴヒ サイノウヲ」と見え、淡水魚の似鯉の一名に「さい」があり、現在も、関東や東北に方言として残る。

藤原明衡(九一八?~一〇六六)の『新猿楽記』に記された平安時代後期の芸能に「蝦漉舎人が足仕」という演目が見え、特に足さばきに焦点を当てた書き方になっているが、舎人が海老や魚を探し、追う様子をおもしろおかしく演じたのであろう。三首の今様は、このような芸能と深く関わるものと考えられる。海老をすくう様子を演じる芸は、狂言にも見られ、民俗芸能に於ても奈良県生駒市壱分町の往馬大社の例祭(火祭り)や新潟県柏崎市女谷「綾子舞」に行われている。泥鰌すくいの芸などとあわせ、海老すくいの物真芸が時代を越えて人々の興味の対象となっていたことがわかる。

三九六番歌と四四一番歌に見える「大津」は琵琶湖の南西岸の大津市付近、四四一番歌に見える「粟津」は大津市の南東。『梁塵秘抄』にも近江の名所尽くしの歌に「粟津」が見えている(三二六)。和歌においては、しばしば薄が詠まれ、粟津は閑寂な風情で捉えられるが、今様では、芸能化した賑やかな漁が取り上げられており、趣が大きく異なる。四四一番歌は、結句で、都の上り大路(京都の町を南北にはしる大通り)をほめたたえており、主題が海老すくいからややそれていく。三九五番歌も三九六番歌との関わりから大津を歌っているとすると、入江に「海老なし」、雑魚が「散る」、「浦は悪し」など、三首とも、大津をあまりよい場所として捉えてはおらず、 田舎に対して都をほめる点は、都市の芸能、都市の歌謡としの今様の性格がよく表れていよう。

5月22日(金)

朝から雨だったが、後曇り。そしてまた雨らしい。

  折口信夫に(したが)ひしことを良しとしてその死の後をつつましく生く

  折口博士記念古代研究所にほぼ十年なにものでもないわれが勤めし

  師に近く十年過ごすになにごとも為さずに共に昼餉(ひるげ)いただく

『孟子』告子章句上152 孟子曰く、「今、無名(むめい)(ゆび)(くつ)して(の)びざる有り。疾痛(しつつう)して事に害あるに非ざるなり。(も)し能く之を(の)ばす者有らば、則ち秦楚(しんそ)の路をも遠しとせず。指の人に(し)かざるは、則ち(にく)むことを知る。心の人に若かざるは、則ち悪むことを知らず。此を之れ(るゐ)を知らずと謂ふなり」

  指が曲がつて伸びないことを知るも心が人並みでないそれこそ物の類を知らず

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

女の盛りなるは 十四五六歳二十三四とか 三十四五にしなりぬれば 紅葉(もみぢ)下葉(したば)に異ならず  (四句神歌・雑・三九四)

【現代語訳】女の盛りなのは、十四、五、六歳から二十三、四あたりまでとか。三十四、五にもなれば、紅葉の下葉と変らないよ。

【評】女盛りを歌った歌。貴族の女子の裳着(成人式)が十二~十四歳くらいで行われたから、裳着を終えた頃が女盛りの起点として設定されていることになる。『平家物語』巻一「二代后」では故近衛天皇の皇后・藤原多子について、「御年二十二三にもやならせ給ひけむ、御盛りも少し過ぎさせおはしますほどなり」としており、二十二、三歳となれば女盛りも少し過ぎた時期であるとの認識が窺われる。「下葉」は枝の下の方で目立たない葉。容色の衰えを譬える。

女盛りの年齢は歌謡の普遍的なテーマとして、室町時代の小歌にもしばしば取り上げられる。小歌で取り上げられるのは、もっぱら十七、八である。

誰そよお軽忽 主ある我を締むるは 喰ひつくは よしや戯るるとも 十七八の習ひよ 十七八の習ひよ そとに喰ひついて給ふれなう 歯形のあれば顕るる(『閑吟集』)
(誰よ、軽はずみな。主ある私を抱きしめたり嚙んだりして。まあいいわ、少しぐらいふざけても、十七、八の女盛りとしては許されるでしょう。でも嚙むのはそっとしてね。歯形がついていたら、それであの人に知られてしまうわ)

十七八は早川の鮎候 寄せて寄せて 堰き寄せて 探らいなう お手で探らいなう(『宗安小歌集』)
(十七、八の娘は早い流れの川を泳ぐ若鮎みたいなもの。流れを堰き止め、こちらに寄せて引き寄せて、つかまえなさい、手を伸ばしてつかまえなさいよ)

これらの小歌は。女盛りの性的魅力を官能的に歌い、若さを謳歌する趣を持っているが、当該今様は「女の盛りなるは」と歌い出したのにもかかわらず、むしろ、紅葉の下葉に異ならぬという 盛りを過ぎた女の衰えの方に目を向けている。室町小歌とは対照的な歌い方になっていよう。