2025年5月19日(月)

朝から曇り、ちょいと寒い。

平尾道雄『維新暗殺秘録』読了。変革の時代は「暗殺の時代」と言っても、巻末の「維新暗殺年表」を見ても、本文を読んでも、その多さに驚く。本書では井伊直弼からはじまり象山や竜馬・慎太郎を経て明治の広沢真臣まで三十人を択び暗殺の顛末に触れる。知っているものも多いが、それぞれ歴史資料が掲げられ興味深いものであった。それにしても維新期の暗殺、テロ行為は普通ではない。犠牲者の悲しみをこそ知るべきであろう。

成瀬有、中井昌一、畠山英治、鈴木正博、棗隆と熊野の大辺路を辿ったことがある。

  熊野路を辿れば道のまん中にわれらに挑むか古代蝦蟇(がま)の色

  赤、みどり、黄色に青の原色に鎧ひたるごとし(がま)(がえる)なり

  (づ)を挙げて四つん這ひになり挑みくる(ひ)(き)よわれらを通さぬ覚悟

『論語』子張二二 衞の公孫朝、子貢に問ひて曰く、「仲尼焉にか学べる。」子貢曰く、   「文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢者は其の大なる者を識し、不賢者は其の小なる者を識す。文武の道あらざること莫し。夫子焉にか学ばざらん。而して亦た何の常師かこれ有らん。」衛の公孫朝が子貢にたずねた、「仲尼(孔子)はだれに学んだのか。」というと、子貢は答えた、「文王・武王の道はまだだめになってしまわないで人に残っていた。

すぐれた人はその大きなことを覚えているし、すぐれない人でもその小さなことを覚えている。別にきまった先生は持たれなかった。」

  孔子の偉さを解きて子貢がいふ何の常師かこれ持たざらん

前川佐美雄『秀歌十二月』 正岡子規

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり (竹乃里歌全集)

明治三十四年四月二十八日の作。「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽……」の歌をつくってからまる一か年経っている。そして子規の病気はいよいよ悪化している。(略)子規ほどの人だ。人一倍勝気の人が、ちょっとやそっとで「うめくか、叫ぶか、泣くか」などわめくはずがない。よほど苦しかったのだろう。(略)しかし「をかしければ笑ふ」場合もあったのである。このフジの歌は十首の連作からなり「墨汁一滴」記載の作だが、そのおわりに「おだやかならぬふしもありがちな病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や」とある。病中子規のめずらしき好日であったようだ。(略)私の若いころの話だが、赤彦や茂吉がいかほどにこの歌を称賛しても、そのおもしろさもよさものみこめぬ人が多く、〝花ぶさ長ければ〟〝とどくなりけり〟とか、からかうものもあったりしたのだ。けれどやはりこれはすぐれた歌で、病中の子規の心を思いやるなら、それが純客観的な歌であるだけにかえってつきぬ味わいがある。

2025年5月18日(日)

ずっと曇りらしいが、明るい。

  靴下を脱ぎ捨てて野をかけりゆく老い病むわれは子どものごとし 

  叫びつつ気持ちよきかな野に遊ぶ老い病むわれが声発しつつ

  この下には死後に逝くべき熱地獄餓鬼が喿げば死者も叫ぶや 

『論語』子張二十一 子貢曰、「君子の過ちや、月日の蝕するが如し。過つや人皆これを見る、(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。」

君子の過ちというものは日蝕や月蝕のようなものだ。過ちをするとはっきりしているので誰もがそれを見るし、改めると誰もがみなそれを仰ぐ。

  君子過つは日月の蝕するごとく過てばみなそれを仰ぐ

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 前田夕暮

わが妻が女中にものをいひをれりくろば(、、)(、、)の青き葉をつみながら (歌集・陰影)

『陰影』に出ている。『陰影』は夕暮の第二歌集で、大正元年に刊行された。先の『収穫』の歌にくらべるとかなり現実的になっているが、たいがいは『収穫』の延長とみてよい。(略)これは現実の家庭生活の歌である。(略)女中の語をつかったのはこの歌がはじめてではないのか、案外に生きている。(略)しかし庭に出てくろばあの葉をつんでいるのは妻と女中なのだ。ひまがあって時間をもてあましているのだ。作者は歌でも作りながら、その声を聞いていたのかもわからない。

何でもない歌のようだが、しみじみとした味わいがある。庶民的な親しみが感じられて、心のうちがあたたかになる。

(略)夕暮が不定形のそのその自由律短歌に走る前ごろで、私を喜び迎えてくれたあの温容を忘れない。しかし夕暮も矢代東村もすでに故人である。夕暮のその後における代表歌をかかげておく。

洪水(でみづ)(がわ)あからにごりてながれたり(つち)より虹の湧き立ちにけり (歌集・原生林)

いろいろ引っ掛かるところはある。女中は、庶民的なのか。女中のいる家で暮らしたことなど私にはない。そして妻が上位なのだ。う~ん

2025年5月17日(土)

朝から細かな雨が降っている。昼遅く曇りになるようだが。

北方謙三『鬼哭の剣 日向景一郎シリーズ④』読了。糸魚川を舞台にして、森之助の成長が描かれる。景一郎が、圧倒的強さを持っているが、森之助はその途上にあり、お鉄との性交、十五歳にして成長していく姿がたくましい。角兵衛獅子の村とのかかわり、柳生流との闘いなど、息吐く暇もない物語の展開がたのしい。このシリーズも後一冊だ。

  スマートフォンをじっと観ている若者のなにしてゐるか老いにはわからず

  突然にスマートフォンをのぞきながら足踊らして無気味なりけり

  ああ、おおと素っ頓狂な声をだすスマートフォンをいじくりながら

『論語』子張二〇 子貢曰く、「(殷の)紂(王)の不善や、是くの如くこれ甚だしからざるなり(それほどひどいわけではなかった)。(その悪事によって下流に落ちこんだので、後から事実以上の大悪人にされたのだ。是を以て君子は下流に居ることを悪む。天下の悪皆な焉れに帰す。(世界中の悪事がみなそこに集まってくるのだ。)」

  紂王の不善やそれほどではない然るに悪事は下流に集まる

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 前田夕暮

木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな (歌集・収穫)

明治四十二年、夕暮二十七歳の作、処女歌集『収穫』におさめられている。しかし実際は『収穫』よりも前に『哀楽』というパンフレットが出されており、そこに次のような秀歌がある。

春ふかし山には山の花咲きぬ人うらわかき母とはなりて

(略)両者は全然関係がない。関係があるのはその歌のしらべである。(略)ともに哀楽の感がある。「春ふかし」の歌が「木に花咲き」の歌となっていちだんとよくなったことがわかる。それは「山には山の花咲きぬ」だけではたよりないが、「木に花咲き」は言葉のやさしさに似ず、四句の「四月」と対応して、じつに自然に、またあざやかにそれがどのようにな木や花であるかをいわずして思い感じさせる。たくらみのない清い心だ。だからそのよろこびの日を待つ「なかなか」の思い、二つの詠嘆の助詞を含む「遠くもあるかな」の終わりまで、作者といっしょについて行ける、そうして長い深い息をつくのである。

この歌ははじめから終わりまで休止しない。めずらしく長い感じのする歌で、しらべがよい。それにほがらかで明るい感じの歌だが、どこか哀感に似るさびしさがただよっている。明星の観念的な歌に激しく抵抗しながら、なお甘い。ほどほどの甘さというのであろうか、それが夕暮独特の歌風としてもてはやされ、やがて若山牧水とともに牧水・夕暮時代をつくり、大正のはじめ、しばしの間であったが歌界に一時代を画した。世間はそれを短歌における自然主義と称したが、この歌は夕暮初期の代表作として聞こえが高い。

前川佐美雄の『秀歌十二月』の紹介をつづけているのだが、今日朝の新聞に、佐美雄の長男 佐重郎氏の訃報が出ていた。八十一歳。彼も歌人、数日前夢に見ただけに、より慎んでお悔み申し上げる。

2025年5月16日(金)

今日も朝からまあまあの天気だ。

  あちこちに携帯(スマート)電話(フォン)を持つものが電話をするのかゲームをするか

  音楽も演歌にはあらず若者にしか通じぬ楽音があるらしきなり

  それぞれに調子はいいが歌詞(うたことば)聞きとれなければ老いにはつらき

『論語』子張一九 孟氏、(よう)(ふ)をして士師(しし)たらしむ。曾子に問ふ。曾子曰く、「(かみ)其の道を失ひて、民散ずること久し。(も)し其の情を得ば、則ち哀矜(あいきょう)して喜ぶこと勿れ。」

孟孫氏が陽膚(曾子の門人)士師(罪人を扱う官)にならせたとき、陽膚はその職について曾子にたずねた。「上の者が正しい道を喪っているために人民もゆるんでいること久しい。もし犯罪の実情をつかんだときは、あわれんでやって喜んではならぬ。

  犯罪には哀れむことが重要なり上の者が道を失ふことこそ恐る

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 藤原定家

春の夜の夢のうき橋とだえして峰にわかるる横雲の空 (新古今集)

春の夜の夢が浮き橋のようにはかなく途中でとぎれてしまい夢ともうつつとも覚えぬさかいはもう暁に近いらしく、雲が峰から離れて空にたなびいているようだというのである。(略)夢うつつの心情世界を歌いあげた心象風景である(略)散文に移すなどもってのほかである。(略)これはこのまま読んでその心を感じとるほかない。(略)定家の定家らしいその艶美なる象徴歌、その人工美の極致を行くものとして、私は純粋にこれを高く評価して珍重する。

かつて川田順はこの歌を激賞し「平安朝時代の貴族的和歌が辿り辿った道の最高峰に登りつめたものがこの一首であり、この一首残して他の何万首は湮滅し去っても平安朝和歌の存在理由は確実である。実に、この歌は和歌史上、柿本人麿の傑作と拮抗すべきものである」といっ た。いさぎよき言葉だ。私は忘れないでいるが、しかし順ほどに私はぞっこんではない。

2025年5月15日(木) 五・一五事件(1932年)から九十三年になる。この事件をきっかけに軍部独裁がはじまりやがて欧米との滅亡的な戦争に入る。

今日も晴れ、25度くらいになるらしい。

ちょっと前のことだが、

  つつじの花二輪がひらくマンションの近くの垣に隠れるやうに

  躑躅に花の着けはじめ近傍の公園に赤き花咲く

  とびとびにつつじ花がひらきゆくそろそろ季節の変り目ならむ

『論語』子張一八 曾子曰く、「吾れ諸れを夫子に聞けり、孟荘子(魯の大夫)の孝や、其の他は能くすべきなり。其の父の臣と父の政とを改めざるは、是れ能くし難きなり。」

猛荘子の孝行は、ほかのことはまだまねもできるが、父親の臣下と父親の治め方とを改めないというのは、これはまねのしにくいことだ。

孔子が珍しく猛荘子を褒めているということか。

  猛荘子を褒めたるか孔子よ父に孝、父の臣と政あらためざるは

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 藤原定家

大空は梅のにほひに霞みつつくもりもはてぬ春の夜の月 (新古今集)

この歌の本歌といわれる大江千里の、

照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき (新古今集)

がうまいぐあいに説明してくれる。これは新古今集にでているが、千里は新古今代の人で、白楽天の嘉稜春夜の詩「明ならず暗ならず朧朧の月」の心を詠んだものだから、定家のこの歌も千里を通じて白楽天へまでたどれるわけだ。(略)しかし千里はまずい結論をつけて、古今集ふうの悪いくせを出したのに反し、それを踏まえたとはいえ、本歌とは似ても似つかぬ、身も心もまったく異なる、このような秀歌をなしえたのはさすが定家だ。春の朧月夜の情景を詠んでこれほど完璧、これほど高尚の作は、あとにも先にもないといいたい。

(略)結句は「春の夜の月」と体言止めで余情を残した。そこで思い出されるのは蘇軾の詩「春夜」だ。

春宵一刻直千金 花に清香有り月に陰有り 歌管台声細細 鞦韆 院落夜沈沈

吟唱していると情景が目に浮かぶ。美しい春宵の情景が手に取るように見えてくる。けれど定家の歌はさだかにはなにも歌われていない。それを象徴して情趣だけが歌われている。しかも空、梅、におい、霞、春、月など、なんの奇も変哲もないありふれたものの組み合わせだけれど、いずれももっとも美しいものばかりだ。(略)最高級の材料のみをもって処理した、これはまこと にぜいたくきわまる歌だ。

2025年5月14日(水)

今日も晴れてる。25度くらいになるらしい。

  すずめ三羽がつらなりて花水木咲く枝移りゆく

  ひよどりの鳴く声聴かずばこすずめの三羽よりくる喜々として鳴く

  花水木の白き花をも吹き飛ばすやうにすずめも飛ばされてゐる

『論語』子張一七 曾子曰く、「吾れ諸れを夫子に聞けり、人未だ自ら致す者有らず。必ずや親の喪か。」

曾子が先生からお聞きしたのだが、人が自分の真情を出しつくすというのはなかなかないことだ。あるとすれば親の喪であろう。
まあ、そうかな。

  人が自分から真情を出さんとするは親の喪ならんか

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 坂門(さかとの)人足(ひとたり)

巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思はな巨勢の春野を (万葉集巻一・五四)

大宝元年秋、持統太上天皇が紀伊の国に行幸された時の歌で、巨勢は道のわかれるところ。(略)「つらつら椿」はたくさんの椿があるということで、たくさん連なっているとまで語にこだわらずともよい。次に「つらつらに」は「つくづくに」の意だが、「つらつら椿」はこの副詞と音をそろえるために作者の作ったことばだろう、と土屋文明はいっている。私はそれに同意する。そうしてその新造語がここでりっぱに生きてる。声調がよいのだが、その「つらつら」は椿の葉のつやつやと、またてらてらとしていることの感覚からもきている。この歌の作られたのは冬だ。そうして椿の咲く春を思いしのんでいる。(略)椿の花はよい。私は好きだ。そうしてこの歌も。

2025年5月13日(火)

今日は晴れ。

呉明益『複眼人』をやっとこさ読み終えた。前の『自転車泥棒』よりは早く読めたが、『歩道橋の魔術師』ほどではなかった。じつに読み応えがあったのである。帯には「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」(ル・グィン)とか「台湾民俗的神話化×ディストピア×自然科学×ファンタジー」「いくつもの生と死が交錯する感動長篇」と書いてある。そのとおりであり輻輳する台湾の現在と未来が、先住民と台湾人の葛藤とかが描かれる。説明しにくいので、ぜひ読んでほしい。   絶対、損はしないことは保証する。

  七色の微塵となりて降る雨の驟雨のごとしたちまちに止む

  嘉永時代の箪笥ひらけば虫の音がどことなく聞こゆ春の虫なり

  わがからだを巻きてたちのぼる煙ありああこの地には老いの(み)が立つ

『論語』夏張一六 曾子曰く、「堂堂たるかな張や、与に並んで仁を為し難く。」

  堂々たるかなや張といへどもともに仁はなしがたし

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 (は)多少(たのお)(たり)

さざれ波(いそ)巨勢(こせ)(ぢ)なる能登湍(のとせ)(がわ)の音さやけさたぎつ瀬ごとに (万葉集巻三・三一四)

さざれ波は小波。こまかく文なして立つ波で、さざなみと同じ。その小波が磯を越すの意味から同音の巨勢に掛けて序詞とした。だから「さざれ波磯」はこの場合意味はないのだけれど、能登湍河やたぎつ瀬をいうのにいくらか間接的または補助的な役をはたしていると考えてよい。それとともにしずかな「さざれ波」を受けて「磯」と強いアクセントをつけ、「巨勢道なる」で自然な息づかいに戻り、そうして「能登湍河」と三句を名詞で切って、下の句はお音を先に言ってそのたぎつ瀬の河を説明している。

この下の句みよって、(略)その河に添ってその道を歩いていることがわかる。(略)その河のたぎつ瀬を見、その音を聞きながら歩いている。いいようもなくさわやかな感じのする歌で、ここが、この歌の一番大切なところだが、それを云った人はかつてない。(略)なおこの歌の作者は伝未詳、万葉にはこの歌一首しかない。