5月21日(木)

今日は朝から雨。ずっと雨かな。

  春の日の羽咋の墓処を訪ねしは何かの兆しを感じたるか

  師の亡くなる二十日ほど前ふらつく足に羽咋の塋域

  迢空に別れし時は二十八それからの日々も迢空とありし

『孟子』告子章句上151 孟子曰く、「仁は人の心なり。義は人の路なり。其の路を(す)てて(よ)らず。其の心を(はう)して求むるを知らず。哀しいかな。人、(けい)(けん)の放すること有れば、則ち之を求むるを知る。心を放すること有りて、求むるを知らず。学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ。

  仁は人の心、義は人の路見失いてそれを求めざれば学問も成らず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(うばらこぎ)小木(こき)の下にこそ (いたち)が笛吹き猿(かな)で かい奏で 稲子(いなご)麿(まろ)(め)拍子(はうし)つく さて蟋蟀(きりぎりす)鉦鼓(しやうご)の鉦鼓のよき上手(じやうず)   (四句神歌・雑・三九二)

【現代語訳】茨の若木の下にこそ、鼬が笛を吹き、猿が舞い、舞を舞い、バッタはおもしろがって拍子をとるよ。さて、蟋蟀は、鉦鼓の鉦鼓の名人だ。

【評】動物や虫を擬人化して、明るい奏楽の一場面を描いた一首。『狭衣物語』や『弁内侍日記』にも見え、広く愛誦されたらしい。

「鼬」は後足で立ち上がり、前足を顔の前に掲げるしぐさをすることがあり、「鼬の目陰」と呼ばれて、『源氏物語』の中にも出てきている。こうしたしぐさから笛を吹く動作が連想されたものであろう。

「稲子麿」は稲子を擬人化した呼び方でショウリョウバッタのこと。なぜショウリョウバッタが「拍子つく」と歌われたかについての明確な発言は西郷信綱が最初である。西郷説では、ショウリョウバッタが、神社の社人が立烏帽子を着けている姿に似ているため俗に「禰宜」と呼ばれていること(『本朝食鑑』)を引き、「禰宜」からの連想で笏拍子(笏を二つに割った形で、打ちならして拍子をとる楽器)を打つとしたのではないかと言う。さらにもう一つの可能性として、コメツキバッタの名があるように、後脚を持つと首を俯す姿に基づくものかもしれないという推測をあげるが、「禰宜」からの連想の方があたっているだろうと結論する。しかし、当該今様の鼬が笛を吹くという発想が、前足を顔の前に掲げる鼬の動作から生まれ、蟋蟀が鉦鼓(雅楽で用いられる、青銅製の円形の打楽器)の上手という表現が、コロコロリンリンといった金属的な蟋蟀(今のコオロギ)の鳴き声から生まれたと考えられることからすると、「禰宜」という俗称の連想から笏拍子というのでは獅子麿と拍子との関係が間接的に過ぎるのではないか。動作あるいは鳴き声と楽器とが直接的に結びついて歌われている中で稲子麿だけが異質に感じられる。むしろ西郷論が指摘しているもう一方―後脚をそろえ持つと体を上下に動かすというショウリョウバッタの性質―をふまえた表現なのではないか。ショウリョウバッタの後脚をとらえて囃す伝承童謡の中には「太鼓をあたいてごらん」(栃木県那須地方)というものがあり、ショウリョウバッタの屈伸運動を、打楽器をたたく姿と見ていて、当該今様との関わりからは注目される。その他の童謡の例もショウリョウバッタの動きを米搗きや機織りなど、一定のリズムを刻む作業とみなしていて興味深い。当該今様のバッタも、手でとらえないまでもピョンピョン飛び跳ねる様を、拍子をとると見たのであろう。

なお、「猿奏で」の「奏づ」は調子をとって手足を動かす、舞を舞う、の意。人間に近い猿の複雑な動きを舞と見たものであろう。建長六年(一二五四)成立の説話集『古今著聞集』巻二〇いは、鼓に合わせて巧みに緩急をつけた舞を舞い、終わると褒美を請う猿の話が見えている。

当該今様は、動物、虫の動きや鳴き声に細かな注意を払った上で、ふさわしい担当楽器(舞)が定められていて興味深い。

平安時代後半に制作されたと思われる絵巻『鳥獣人物戯画』(甲巻)の模本の一つに、住吉家伝来のものがある。その模本にのみ描かれる場面に、蛙の漕ぐ舟で、舟楽が催されているところがある。描かれている動物は、笛を吹く鼬、琵琶を弾く猿、笙をを吹く兎であり、動物の奏楽というテーマが絵画の世界でも好まれたことがわかる。

室町時代後期の中国山地に流布した田植歌を収録した『田植草紙』にも、「山が田を作ればおもしろいものやれ 猿は簓擦る 狸鼓 打つとの 打てばようなる狸の太鼓おもしろ 昔より簓は猿がよう擦る 山田の案山子いつまでも」といった同様の趣向の歌謡が見出される。昔話に目を向けると、瘤取りじいさんの昔話において、おじいさんが行き会ったのが鬼の酒宴の場ではなく、動物たちの奏楽の場であるという型もあり、猫が三味線、狸が太鼓、鼬が笛、狐が踊り(山形)、猫が三味線、鼬が拍子、狸が太鼓、狐が踊り(秋田)といったバリエーションが見られる。また、グリム童話の「ブレーメンの音楽隊」の話では、驢馬がリュート、犬が太鼓、猫が夜の音楽(セレナード)、鶏が歌を担当することを話し合っており、動物の歌舞奏楽というテーマの古今東西を問わぬ普遍性が知られる。当該今様は日本における動物の歌舞奏楽を描いた早い例と言うことができるだろう。

5月20日(水)

今はいい天気だが、夜は雨らしい。

  師にも晩年といふ穏やかなるときありしこの現世(うつつよ)の汚辱を離れ

  荒御魂 二つあひよる み墓山 わが哀しみも ここに埋めむ 弘彦

  四月初旬に能登の羽咋の父子墓。師の歌と遇ふは嬉しきごとし

  折口信夫と春洋の墓の寂しきところ妻と(かうべ)を下げてぞ祈る

『孟子』告子章句上150-3 一簞(いつたん)の食、(いつ)(とう)(かう)も、之を(う)れば則ち生き、得ざれば則ち死す。(こ)(じ)として之を与ふれば、道を行くの人も受けず。(しゆく)(じ)として之を与ふれば、乞人(きつじん)(いさぎよ)しとせざるなり。万鍾(ばんしよう)は則ち礼儀を(べん)ぜずして之を受く。万鍾我に於て何をか加へん。宮室(きゆうしつ)の美・妻妾(さいせふ)(ほう)・識る所の窮乏者(きゆうぼうしや)の我に得るが為か。(さき)には身の死するが為にして受けず。今は宮室の美の為にして之を為す。郷には身の死するが為にして受けず。今は妻妾の奉にして之を為す。郷には身の死するが為にして受けず。今は妻妾の奉の為にして之を為す。郷には身の死するが為に受けず。今は識る所の窮乏者の我を得るが為にして之を為す。是れ亦以て(や)む可からざるか。此を之れ其の本心を失ふと謂ふ」

  多くが本末転倒はなはだし人本来の良心を失ふ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

をかしく(かが)まるものはただ 海老(えび)(くびち)(め)(うし)(つの)とかや (むかし)(かぶり)巾子(こじ)とかや翁の杖ついたる腰とかや  (四句神歌・雑・三九一)

    ・

(すぐ)なるものはただ (から)(さを)(の)(だけ)仮名(かんな)のし文字(もじ) 今年生えたる梅楚(むめずはえ) (はた)(ほこ)(さい)(とり)(だけ)とかや(四句神歌・雑・四三五)

【現代語訳】おもしろく曲がっているものは 何より海老よ、弶よ、牝牛の角とかいうことだ。昔風の冠の巾子とかさ。おじいさんが杖をついた腰とかね。

      ・

まっすぐなものは、何より連枷だね。それに(の)(だけ)、仮名の「し」の文字、今年生えた梅の細枝、幡鉾、刺鳥竹とかいうことだよ。

【評】曲がっているもの尽くしとまっすぐなもの尽くし、身近なものへの細かな観察眼が光る。「弶」は獣を捕える罠の一首。承平年間(九三一~九三八)に成立した辞書『和名類聚抄』に「久比知」の読みと「取獣械也」(「械」はしかけのある道具)の意味が記される。「巾子」は冠の後部に高く突き出た部分。髪を束ねた髻を入れ、根元を笄でとめる。

「連枷」は脱穀用の農具。竿の先に短い棒や割竹をつけ、振りまわして稲や麦を打つ。「(の)(だけ)」は矢の柄にする竹。「梅楚」は梅のまっすぐに伸びた若枝。「幡鉾」は上部に小旗をつけた鉾。法会などで用いる。鉾は両刃の剣に長い柄をつけたもの。「刺鳥竹」は上部に鳥黐をつけ、小鳥をとる竹竿。

三九一番歌は結句に翁への笑いを置き、「ふしの様がるは……翁の美女まり得ぬひとり臥し」(三八二)と同様の構成になっている。直前の「昔冠」も古風な冠という意味で老人とつながる。

四三五番歌はまっすぐな棒状の道具類を中心にあげた中に、仮名文字の「し」と、植物である梅の若枝をはさみ込み、一首の真ん中に意表をつくものを配する構成になっている。

『徒然草』六二段には、延政門院(悦子内親王)が幼かった時、父・後嵯峨天皇に対して詠んだ和歌「ふたつもじ牛の角もじすぐなるもじゆがみもじとぞ君はおぼゆる」が紹介されているが、「ふたつもじ」が「こ」、「牛の角もじ」が「い」、「すぐなもじ」が「し」、「ゆがみもじ」が「く」で、恋しく思うという意味である。ここにも、仮名文字の「し」を「直」とする把握が見える。なお、延政門院の和歌で平仮名の「い」に見立てられた牛の角はわずかに婉曲しながらも前に伸びている牝牛の角であろう。牝牛の角は三九一番歌今様で取り上げられていつように大きく曲がっている。牝牛の角は後ろに曲がっていて突けないところから、「牝牛の腹突かる」で、油断して思いがけない目にあうことをいう譬えにもなった。平治元年(一一五九)、二条天皇に献上された歌論集『袋草紙』上巻に、素人歌人と甘く見ていた相手に和歌を詠み負かされた良暹が「牝牛に腹突かれたるたぐひかな」と言った話が見える。

5月19日(火)

晴れてる。暑くなるらしい。

  師の死を知るは四月二十九日、亡くなりしは二十四日しばしの空白

  これの世に師のなき五日知らざればのほほんとゐる。許しがたき

  師のいのち百一年の時をおもふ。三十余年も不足せしわれが

『孟子』告子章句上150-2 (も)し人の欲する所をして、生より甚しきもの莫からしめば、則ち(およ)そ以て生を(う)(べ)き者は、何ぞ用ひざらんや。人の(にく)む所をして、死より甚だしき者莫からしめば、則ち凡そ以て(うれひ)(さ)く可き者は、何ぞ為さざらんや。是に(よ)れば則ち生くるも、而も用ひざること有るなり。是に由れば則ち以て(うれひ)(さ)く可きも、而も為さざること有るなり。是の故に、欲する所、生より甚だしき者有り。(にく)む所、死より甚だしき者有り。独り賢者(けんしや)のみ是の心有るに非ざるなり。人皆之有り。賢者は能く(うしな)ふこと勿きのみ。

  欲するところが生以上、憎むところが死以上に人皆持てり賢者は忘れず

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

西の京行けば 雀(つばくらめ)(つつ)(どり)や さこそ聞け 色好みの多かる世なれば 人は(とよ)むとも 麿(まろ)だに響まずは  (四句神歌・雑・三八八)

【現代語訳】西の京を行けば、雀や燕や筒鳥が鳴き立てて飛び回っているってね。そう聞いているよ。色好みの多い世の中だから、人は騒ぎ立てるだろうが、私さえ騒がなかったらよいではまいか。

【評】旅先で遊女の誘いに乗ったりはしないと妻あるいは恋人に言い訳するような趣の一首。

「西の京」は、平安京の右京。一一世紀半ばに成立した漢詩文集『本朝文粋』所収、慶滋保胤(九三二?~一〇〇二)の「池亭記」には、「予、二十余年以来、東西の二京を歴見するに、西京は人家漸く稀なり。殆ど幽墟に幾し。人去ること有りて来ること無く、屋は壊るること有りて造ることなし」とあり、その荒廃ぶりが窺われる。

「雀」「燕」「筒鳥」は「色好み」との関連からすると、遊女・傀儡の類を指していると思われる。『梁塵秘抄』には、荷大社周辺の遊女を「烏」に譬えた例もあり(五一四)、軽やかに飛び回る鳥は遊女の譬えになりやすかったらしい。当該今様で、なぜこの三種の鳥が遊女を表すかについて、評釈は、雀・燕の語尾には「め(女)」が含まれ、筒鳥は渡り鳥であるからとするが、「メ」は鳥類を意味する接尾語で、ほかにも四十雀などがあり、渡り鳥は燕や雁など筒鳥以外にも多く存在するため、この三者が特に取り上げられる理由としてはやや弱いであろう。「すずねのいろごと」「はぐろ(歯黒)」「つつ(筒)」の隠語が見られるとする説もあるが、これらのような明確な隠語としての用例が平安時代末まで遡れるかどうかについては疑問が残る。

雀と燕は卑近な鳥として対のように取り上げられることがしばしばあるが、さらに陳渉が、小人物には英雄の志がわからないことを「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と嘆いたという『史記』陳渉世家の故事から、「燕雀」が小人物を表す場合があり、『凌雲集』や『本朝文粋』など平安時代の日本漢文にも用例が見られる。時代は下がるが文化四~八年(一八〇七~一八一一)刊、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』には「小ざかしき燕雀の共囀り、汝等が知る所にあらず」と見える。すなわち、燕と雀には、愚かでつまらないものが、うるさく騒ぎまわるというイメージがあり、当該今様において、遊女たちがうるさくつきまとい、袖を引くさまとよく通い合うように思われるのである。

雀、燕と並べられた「筒鳥」は、実際の鳥名としても比喩表現としても用例がほとんど見出だせないが、竹筒をポンポンと打つような声によって筒鳥と名付けられたらしいことからすると、やはりその声に特徴があり、つきまとってくる遊女たちの嬌声を印象的に表現していると考えられる。さらに言えば、筒鳥はホトトギス科の鳥で、鳥の美声に遠く及ばないので、時鳥に対してひどく劣っているというマイナス面は、燕雀が小人物の譬えになるという性質と重ねられるとも言えるのではないか。また「筒」は「拙ない」という意味を持っており、藤原明衡(九八九?~一〇六六)著『新猿楽記』では、裁縫に関して不器用なことを「手筒」と表現している。名前からして「拙ない鳥」であるとして「筒鳥」を軽んじた可能性もあろうか。    

このように、雀、燕、筒鳥に対する、かしましく騒ぎ立てるつまらないものというやや差別的な把握は、妻や恋人に言い訳している男が遊女を譬えてみせるものとしてはふさわしいと言えるだろう。

5月18日(月)

今日も暑い。晴れだ。

わが師死す

  信じがたきことの一つ。師のいのち百一歳に死すといふなり

  おのづから涙ひとすぢ。師の死去を識るに意を得ず茫然たりき

  いつかはと思ひしものの(あを)紅葉(もみぢ)繁り重なる今この時とは

『孟子』告子章句上150 孟子曰く、「魚は我が欲する所なり。(ゆう)(しやう)も亦我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可(うべ)からずんば、魚を(す)てて熊掌を取る者なり。生も亦我が欲する所なり。義も亦我が欲する所なり。二者兼ぬるを得可からずんば、生を舎てて義を取る者なり。生も亦我が欲する所なれども、欲する所生より甚だしき者あり。故に(いやしく)も得るを為さざるなり。死も亦我が(にく)む所なれども、悪む所死より甚だしき者有り。故に(うれひ)(さ)けざる所有るなり。

  食物の好悪、生・義の好悪それぞれにあれどもわれは義を選ぶべし

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

小鳥の(やう)がるは 四十雀(しじふから)(ひわ)(どり) (つばくらめ) 三十二相(さんじふにさう)足らうたる啄木鳥(てらつつき) 鴛鴦(をし)(かも)(そひ)(にほ)(どり)川に遊ぶ

【現代語訳】小鳥の中で一風変わっていておもしろいのは、四十雀、鶸、燕、三十二相を備えている啄木鳥。鴛鴦、鴨、翡翠、かいつぶりは川に遊ぶよ。

【評】鳥尽くしの一首。

『枕草子』には「鳥は」の章段があり、否定的評価を与えられているものも含めて十八種類の鳥の名前があげられているが、当該今様と重なるのは鶸鳥と鴛鴦だけである。『枕草子』が長い評を付し、和歌にも頻繁に詠まれている鶯・時鳥みついて、当該今様が全くふれていないのも興味深い。文芸の世界であまりにも頻繁に取り上げられているものはあえてはずす、というのが今様の目指すところであったのだろう。

「四十雀」は雀ぐらいの大きさで、頭の黒、頬・腹の白、背中の灰色とコントラストがはっきりしている。「鶸鳥」は金翅雀とも書く。ふつう真鶸という。雀より小さく体色に黄色みがある。「鴗」は翡翠の異称。雀ぐらいの大きさで、頭から背にかけては青色、胸から腹にかけてはオレンジ色である。長い嘴を持ち、水中の小魚などをとらえる。「鳰鳥」はかいつぶりの異称。鳩ぐらいの大きさで、全体に茶色の体色である。尾がなく、丸みを帯びた体型で、頻繁に潜水を繰り返す。

この今様で重みをもたされているのは「三十二相足らうたる」で形容されている啄木鳥らしい。なぜ啄木鳥が三十二相(仏の体が備えている三十二の具体的な特徴)を具足しているとされたのかについては、聖徳太子に討たれた物部守屋の怨霊が啄木鳥となり、太子の建立した四天王寺をつつき壊したという伝説と、守屋を地蔵菩薩の生まれ変りとする伝説を重ねあわせて、守屋を媒介に啄木鳥から地蔵菩薩が連想され、そこからさらに仏の三十二相が連想されたとする説、木をつつく音を三十二相の一つである梵声相(仏教を守る神・梵天のように五種の音声を出す)と対応させる説など、諸説ある。

藤原家隆(一一五八~一二三七)の歌集『壬二集』には「ふりにける森の梢に移り来てあかずがほなる啄木鳥かな」(年月を経た森の梢に移って来て、飽きることもない顔つきで木をつついている啄木鳥よ)とあって、飽きもせずせっせと木をつつく啄木鳥は、いかにも人間の感情移入を誘うものであった。藤原実資の日記『小右記』寛和三年(九八七)正月六日条には「啄木舞」という舞の名も見え、高い木の枝に上って啄木鳥のように舞う舞があったらしい。一般に鳥といえば飛翔のさまを連想するが、啄木鳥は空を飛ぶことに加えて、木を素早くつつきながら、幹の周囲を器用にめぐることができる。その優れた身体能力への関心が「三十二相」の譬えを導き、また、「啄木舞」を生んだものであろう。

当該今様全体を見ると、素材配列にもさまざまな工夫がなされていることがわかる。まず「四十雀」から「啄木鳥」までの陸地の鳥と、「鴛鴦」から「鳰鳥」までの水鳥との対比があり、陸地の鳥の中で、四十と三十二の数字を対比している。「川に遊ぶ」はその前の四種の鳥すべてにかかるとも考えられるが、特に直前の「鳰鳥」はしばしば潜水し、潜ったところからかなり離れた、思いがけぬ場所にひょつこり顔を出すので、「遊ぶ」と擬人化されるのには最もふさわしい。陸地の鳥の最後が木をつつく啄木鳥、水鳥の最後が潜水するかいつぶり、と、「様がる」(風変りな)小鳥の中でも特におもしろいものを強調するような配置になっているのである。

5月17日(日)

今日も晴れて、気温が上がるらしい。

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』を読む。時間はかかったものの、凄い小説だ。『群書類従』を編纂した塙保己一を小説にしたものは、おそらく初めてだろう。だから単純に保己一の伝記のようなものだと思って読み始めたが、伝記的要素もありながら、描かれているのは盲と目明きの葛藤だ。

盲目の国学者だが、友人、妻、学者仲間、弟子らとのすれ違いこそが小説のテーマだ。「目があれば。/そんな思いが保己一の頭を過ったことなど、蚕の卵の数でも足りぬほど。」すれ違いは盲にも目明きにも辛いものだった。それでも最終章、幼なじみの死をまえにした嘘には泣かされた。

それぞれの章名にも掛詞が使われ、いやいやすごい。第一章「むしの子」(虫の子/霧視の子)、第二章「えんていの水」(淵底の水/園庭の水)、第三章「すでに触れて」(素手に触れて/既に触れて)、第四章「はんぎ、蔵にて」(版木、蔵にて/半疑、蔵にて)、第五章「どうしゅうの人」(導衆の人/銅臭の人)、第六章「眩くて眩む」(まばゆくて/くらむ)。第六章は色合いが違うが、他はどれも掛詞だ。なんか、すごいのだ。蝉谷めぐ実さんは1992年生まれ、30代半ばということになる。

  わが孫は一木(いちぼく)造りの赤兜、(ぢぢい)のわれは義経兜に端午の節供

  兜などとうに被らず。時経たるに世界全土に戦争止まず

  菖蒲湯にゆつくり浸かり戦ひの気を養ふか七十のわれ

  ゆつくりと足湯に裸足の足つけて平和への論議を皆でせむか

『孟子』告子章句上149 孟子曰く、「王の不智を(あやし)むこと無かれ。天下生じ易きの物有りと雖も、一日(いちじつ)之を(あたた)め、十日(じふじつ)之を(ひや)さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。吾(まみ)ゆること亦(まれ)なり。吾退(しりぞ)きて之を(ひや)す者至る。吾(きざ)すこと有るを(いか)(ん)せんや。今、(そ)(えき)(すう)(た)る、小数(せうすう)なれども、心を(もつぱ)らにし、志を致さざれば、則ち得ざるなり。(えき)(しう)は、(つう)(こく)の奕を善くする者なり。奕秋をして二人(ににん)に奕を(をし)へしむるに、其の一人(いちにん)は心を専らにし志を致し、(ただ)奕秋に之を聴くことを為す。一人は之を聴くと雖も、一心(いつしん)には(お)(も)へらく、鴻鵠(こうくこく)将に至らんとする有りと。弓繳(きゆうしやく)(ひ)きて之を射んことを思はば、之と(とも)に学ぶと雖も、之に(し)かず。是れ其の智の(し)かざるが(ため)か。曰く、然るには非ざるなり」

  君子たるは知恵ではなくて専心志を打ち込むことなり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

烏は見る世に色黒し 鷺は年は経れどもなほ白し 鴨の頸をば短しとて継ぐものか 鶴の脚をば長しとて切るものか  (四句神歌・雑・三八六)

【現代語訳】烏は見るからに色が黒い。鷺は何年たってもやはり白いままだ。鴨の頸が短いからといって継ぎ足してよいものか。鶴の脚が長いからといって切ってしまってよいものか。

【評】あるがままの自然なあり方を主張する『荘子』の二つの比喩を合成した鳥尽くし。

 『荘子』天運に「夫れ鵠は日ごとに浴せざるも白く、烏は日ごとに黔めざるも黒し」とあり、同じく駢拇に「鳬の脛は短しと雖も之を続がば則ち憂へ、鶴の脛は長しと雖も之を断たば則ち悲しむ」とあるものを合わせた。

前半部分について、『荘子』においては鵠(白鳥)と烏の対比だったものを、今様では鷺と烏の対比にしている。時代は下るが、お伽草紙の『鴉鷺物語』は、さまざまの鳥が烏方と鷺方に分かれて戦う物語で、鷺と烏の対比が見られる。水墨画の素材としてもしばしば鷺と烏が組み合わされて登場する。

後半部分について、『荘子』においては鴨と鶴それぞれの「脛」が取り上げられているのに対し、今様は「鴨の頸」と「鶴の脚」にずらしておもしろみを出している。   『荘子』は比喩を用いて無為自然の理を説いているが、当該今様は、四種類の鳥を出して、黒と白、「頸」と「脚」、「短し」と「長し」といった対比を楽しむことに主眼を置く。軽妙な言葉遊びも一首として巧みに仕立てられていよう。

5月16日(土)

晴れているが、朝ちと寒い。

  あやふくも六日のあやめになるところ五日の菖蒲苦き匂ひす

  菖蒲草、(つるぎ)のやうに鋭くて湯につかるわれさむらひならむ

  幼き日の義経兜を飾るものの尚武のこころつひに興らず

『孟子』告子章句上148-3 故に(いやしく)も其の養ひを(う)れば、物として長ぜざること無く、苟も其の養ひを失へば、物として(せう)せざること無し。孔子曰く、『(と)れば則ち存し、(す)つれば則ち(ばう)す。出入(しゆつにふ)時無く、其の(きやう)を知る莫しとは、(こ)れ心の謂か』と。

  取り守れば存し放置すればなし。出入決まらず居場所も分からずまるで心か

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

西山通りに来る樵夫(きこり) を背を並べてさぞ渡る 桂川 (しり)なる樵夫は新樵(しんきこ)(り)な波に折られて(しり)(づゑ)捨ててかいもとるめり  (四句神歌・雑・三八五)

【現代語訳】西山通りにやって来る木こりたち。背中を並べてそんな風に渡るのだね、桂川を。後ろの木こりは新米の木こりだな。波にあおられて尻杖を手放してもがいているようだ。

【評】木こりの行列を写実的に捉えた一首。新米の木こりをハラハラしながら見つめるまなざしがあたたかい。木こりは『梁塵秘抄』三九九番歌にも「樵夫は恐ろしや」と歌われ、ある力を持った存在として関心を持たれていたらしい。

「西山」は京都西郊、桂川の流れる嵐山辺りを指すか。金閣寺裏山一帯を指すとし、木こりが桂川を渡り、西山に入って行くと見る説もあるが、「来る」と言っているので、山から下りてきて、桂川を渡り、都の中心部の方へやって来る様子と見たい。木こりの移動を珍しいものとして好奇心をもって眺めている様子からは、歌の主体の視点は都側にあると考えられるからである。

「波に折られて」は、波にあおられて腰を折られる様子を言うのであろう。和歌においては、池水のみぎはならずは桜花影をも波に折られましやは (『詞花和歌集』春・源師賢)
(桜の木のある場所がもし池の汀でなかったならば、桜の花の影さえも波に折られはしなかっただろうに)

のように、花の影が水に映っているのを、花が波に折られたと見なすものや、

浦近き高嶺を風の渡らずは波に紅葉の折られましやは (『月詣和歌集』十月・藤原範綱)
(浦近くの山の高嶺を風が渡らなかったならば、波に紅葉が折られることもなかっただろうに)

のように、海上に散った紅葉を波に折られたと見なすものがあるほか、岸近み植ゑけん人ぞ恨めしき波に折らるる山吹の花 (『山家集』)
(岸に近いため、波に折られる山吹の花を見ると、そんなところに植えた人が恨めしく思われることだよ)

のように、実際に波の力で折れた山吹の枝を歌った例がある。いずれにしても、和歌において波が折るのは、美しい花や紅葉の枝であるが、当該今様では、波が木こりの体を折るようにぐらつかせることを歌い、ほのかなおかしみを誘う写実的な表現になっている。

「尻杖」は休息の時などに背中の荷物の下にあてがって体を支える杖。明応九年(一五〇〇)末に成立した、歌合形式をとった職人絵『七十一番職人歌合』一二番には「木伐」と「草刈」が番えられているが、木こりは、背中に柴を背負い、左手にT字型の杖を持った姿で描かれている。

5月15日(金)

晴れて暑い。

  いつからか左傾、保守化してかくのごとき夢かたることも恥辱と思ひき

  されど秦の始皇帝撃たむとする荊軻よときにわれには神のごとし

  風瀟々として易水寒く荊軻一たび去って還ることなし

『孟子』告子章句上148-2 人に存する者と雖も、豈仁義の心無からんや。其の、其の良心を(はう)する所以の者、亦猶ほ斧斤(ふきん)の木に於けるがごときなり。(たん)(たん)にして之を(き)らば、以て美と為す可けんや。其の日夜(にちや)(そく)する所、(へい)(たん)の気あるも、其の好悪(かうお)、人と相近きものと(ほとん)(まれ)なるは、則ち其の(たん)(ちう)の為す所、(また)之を梏亡(こくばう)すればなり。之を梏して反覆すれば、則ち其の夜気(やき)以て存するに足らず。夜気以て存するに足らざれば、則ち其の禽獣を(さ)ること遠からず。人其の禽獣のごときを見て、以て未だ嘗て才有らずと為す者は、是れ豈人の情ならんや。

  人に存する本性でも固有の心も忘れ失ふ

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

今日も旅疲れだろう休ませていただく。