8月29日(金)

朝方少し涼しかったが、30度を越し暑くなる。

肪脹相

  滅びゆくわが肉體の膨満す。わが死の後のみにくきすがた

  身の憂さも忘じはてたる軀なりけり。淫楽に遠し臭骸を抱く

  朝があす遠くに鳴きて膨張するからだ求むるかと

『孟子』梁恵王章句下11-2 、斉の景公、に問うて曰く、『吾、を観し、海につて南し、にらんと欲す。吾何を修めて以て先王の観に比すべきや』と。晏子対へて曰く、『善いかな問や。天子諸侯にくを巡狩と曰ふ。巡狩とは、守る所を巡るなり。諸侯天子に朝するをと曰ふ。述職とは、職とする所を述ぶるなり。事に非ざる者無し。春は耕すを省みて足らざるを補ひ、秋はむるを省みて給らざるを助く。夏の諺に曰く、〈吾が王遊せずんば、吾何を以て休せん。吾が王予せずんば、吾何を以て助からん〉と。一遊一予、諸侯の度と為る。

  昔の聖王は一遊一楽といへども諸侯の手本となるべし

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 佐佐木信綱

西上人長明大人の山ごもりいかなりけむ年のゆふべに思ふ (同)

同じ遺詠の二首目である。「西上人」は西行法師のこと、あがめて上人といった。「長明大人」は鴨長明のこと、あがめて大人といった。西行は法師であるから上人でよいが、長明は純粋な意味で僧とはいえないから大人といった。むろん同じ語を避けるためでもある。「年のゆふべ」は年の暮れ方である。一首の意は「昔の西行法師や鴨長明の山居生活はどんなふうであったのだろうか、年の暮れ方に思われる」というのである。前の歌とはちがうけれど、心のつながりが感じられる。自分も年老いて一人で山荘生活をしているものの、現代文明の恩恵をこうむって何不自由ない生活をしている。けれど西上人や長明大人の時代はちがう。それがどのように住にくかったか

と思いやっているのである。(略)ともに不便な山地に隠遁した人たちであるが、その心と生活を堪えがたいものであっただろうと同情しているのである。むろん西行や長明を慕えばこそであるが、信綱は明治九年数え年五歳の時に、父弘綱から万葉集や西行の歌集「山家集」の暗誦を授けられている。そうして六歳の時に「障子からのぞいて見ればちらちらと雪のふる日に鶯が鳴く」と詠んで、父に賞められている。五、六歳ごろからの西行である。信綱が西行に格別心ひかれて、多くの書をなしたのもいわれなきことではない。七十いくつ、六十いくつでなくなった西行や長明を、九十歳を越えた信綱が、なお五、六歳ごろの心で思いしのんでいる。「年のゆふべに思ふ」が感深い。もう一首は次のように心を安く述べている。

空みどり真ひる日匂ふ日金の山山草原はあたたかならむ

8月28日(木)

今日はほんの少し気温上昇から免れるらしい。それでも33℃。

最近作った『九相詩』から

新詩相

  不覚にもきのふけふとはおもはねど花散る下に死のにほひあり

  われはまだ命存してあるものを定めのゆゑかおとろへたりき

  入相の鐘のひびきを滅びへの報知とぞきく。山くだりきて

『孟子』梁恵王章句下11 斉の宣王 孟子をに見る。王曰く、「賢者も亦此の楽しみ有るか」と。孟子対へて曰く、「有り。人得ざれば、則ち其の上をる。得ずして其の上をる者は、非なり。民のと為りて、民と楽しみを同じうせざる者も、亦非なり。民の楽しみを楽しむ者は、民も亦其の楽しみを楽しむ。民の憂ひを憂ふる者は、民も亦其の憂ひを憂ふ。楽しむに天下を以。てし、憂ふるに天下を以てす。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  楽しむも憂ふるも天下とともにといふことは王にならざること未だなし

前川佐美雄『秀歌十二月』十二月 佐佐木信綱

ありがたし今日の一日もわが命めぐみたまへり天と地と人と (佐々木信綱歌集以後)

「ありがたし」と初句で切り、「めぐみたまへり」と四句で切っている。珍しい形ではないが、五句を「天と地と人と」と結んだような歌はめったにない。(略)たとい九音になってもここはたはり「アメとツチとヒトと」と正しく読む方がよい。その方が信綱の心にも、またこの歌の心にもかなうと思われる。

歌意はいうまでもないことだが、「じつにありがたいことである。今日の一日も自分の生命が無事に過ごすことのできたのは、天と地と人との恩恵によるものである」といって、生きて行くことは自分一人の力によるものではないとへりくだっている。

(略)

信綱は一九六三年十一月末、ふとしてひいたかぜがもとで一週間ほどわずらって十二月二日、熱海の山荘でなくなった。三代を生きぬいて数え年九十二歳、歌人としての古今第一の長寿を全うした。これは遺詠として見つかった三首のうちのはじめの歌だが、発病前に作ったのだろう。その一日一日は、この歌に歌われている心そのままに天と地と人とに感謝しながら生きていたのである。けっしてうまい歌ではないだろう。素人の歌かとまちがうほどだが、すでに巧拙を超えている。あらゆる歌を、あらゆる歌の技術を知りつくした人が、今は何ものにも臆するなく、自分の調べ、心の調べそのままに歌ったのである。おのずから心は天地人の間に通じて、このような形の歌になった。だからたれも及ばないのだ。及びつきようがないのである。限りなく丈高い歌で、しみじみとして頭のさがる歌である。

8月27日(水)

今日も猛烈に暑い。ああ、

その四

  目の前の中華料理の店に入り青椒肉絲・酢豚の定食

  二日目は妻が買ひ来し黒ビール、寿司盛合せ山葵を付けて

  キッチンの新調の音を考へて三日ホテルに暮すわれなり

『孟子』梁恵王章句下10-3 書に曰く、『天、下民を降し、之が君を作り、之が師を作る。惟れ曰く、其れ上帝を助けよと。之を四方にす。罪有るも罪無きも、我在り。天下ぞ敢ての志をす有らんや。』と。一人、天下にするは武王、之を恥ず。此れ武王の勇なり。而して武王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜり。今、王も亦一たび怒りて、天下の民を安んぜば、民王の勇を好まざるを恐るるなり」と。

  宣王のひとたび民を安んずるかくあれば民  王の勇を好まぬを恐る

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓

世間を何に譬へむ朝びらき傍ぎ去にし船の跡なき如し (同巻三・三五一)

「朝びらき」は碇泊していた船が夜が明けていっせいに港を漕ぎ出すことをいう。

その語を借りて世間のことにたとえたのである。一首の意は「この世の中を何にたとえようか、それは朝、港から漕ぎ出して行ってしまった船の、跡に何も残さないと同じようなものだ」というので、これは明らかに仏教的無常感が歌われている。万葉集ではわずかにしか見られぬ仏教思想をいった歌として注目されるが、当時としては新しかったのだろう。新しくても思想的な歌は、よほど力量あるものでもなかなか成功しがたいものだ。たいていもものものは思想だけが浮き立って、形だけのものになりがちだが、この歌はそうではない。やはり「朝びらき」の語があるためだろう。それはその情景をよく知っているからで、それだから「傍ぎ去にし船の跡なき如し」といっても、頭の中で想像しただけではない、具体的なものを人に感じさせるところが出てきたのである。この歌はむろんそうだが、前の綿の歌にしても、万葉集中では、そう目立つわけではないが、やはりこれまでにない新しさが見られる。しかしこれが古今集後の拾遺集に入れられると「朝ぼらけ」以下の語句が次のように改められて、いちおう美しいけれど、弱く力のないものになっている。

世のなかを何にたとへむ朝びらけこぎゆく船のあとの白波

8月26日(火)

今日も無茶苦茶暑い。

その三

  一日目の夜にビナウォークを訪れてカルディにふおやつ三点

  この世ならぬホテルの部屋にこもりをり。煙草の臭ひ気にはしつつ

  禁煙室は満室なりき。わが入る喫煙室はわづかに空きあり

『孟子』梁恵王章句下10-2 王曰く、「大なるかな言や。寡人疾有り、寡人勇を好む」と。対へて曰く、「王請ふ小勇を好むこと無かれ。夫れ剣をし疾視して曰く、『彼んぞ敢て我に当らんや』と。此れを匹夫の勇、一人に敵する者なり。王請ふ之を大にせよ。詩に云ふ、『王赫として斯に怒り、爰に其の旅を整へ、以てにくをめ、以て周のを篤くし、以て天下に対ふ』と。此れ文王の勇なり。文王一たび怒りて、而して天下の民を安んぜり。

  文王に勇ありてひとたび怒れば民平らかなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 沙弥満誓

しらぬひの筑紫の綿は身につけていまだは著ねど暖けく見ゆ (万葉集巻三・三三六)

「しらぬひ」は筑紫の枕詞、筑紫は九州全体の総名であった。「綿」は真綿で絹綿のことである。(略)一首の意は「筑紫の絹綿はかねがねから聞いてはいたが、身につけて着ないうちから、なるほど見ただけでも暖かそうだ」というので、大宰府に収納せられた絹綿を賛美したものと思われる。その心が上の句に感じられるが、下の句「いまだは著ねど暖けく見ゆ」は平凡なようでありながら、心も調子も素直にとおっているので、単純な一首をよく救って、情趣こまやかなものさえ感じさせるのである。

(略)

作者沙弥満誓は、僧でであるが、在俗の時は笠朝臣麿といい、美濃守に任ぜられて木曽路開通に功があり良吏の聞こえ高かった。元明天皇不予のおり、天皇のために僧となって満誓と名のり、のちに筑紫観世音寺造営の長官に任ぜられて九州へ遣わされた。これはその任官中の歌だが、そこでは大宰府の長官大伴旅人と親しくしており、旅人が帰京した時に次の二首を作って贈っている。

まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ (同巻四・五七二)

ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には会ふ時ありけり (同・五七三)

ともになかなかの佳品だが、これに対して旅人の和えたのか次の二首である。

此処にして筑紫や何処白雲のたなびく山の方にしあるらし (同・五七四)

草香江の入江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして (同・五七五)

やはりすぐれた歌だが、あとの歌の「友無しにして」など、その友情を思いしのばせる。

8月25日(月)

今日一日暑いようだ。

その二

  海老名駅の南も暑く、サングラスに暴漢きどれどかよわき爺

  四階のスターバックスに席を得て、ガラス戸にむかふ。空を見てゐる

  雲一つなき夏の空かくもかくもぞわが左右の人

『孟子』梁惠王章句下10 斉の宣王問うて曰く、「隣国に交はるに道有るか」と。孟子対へて曰く、「有り。仁者のみ能く大を以て小に事ふることを為す。是の故にはに事へ、文王はに事へたり。惟智者のみ能く小を以て大に事ふることを為す。故に大王はに事へ、は呉に事へたり。大を以て、小に事ふる者は、天を楽しむ者なり。小を以て大に事ふる者は、天を畏るる者なり。天を楽しむ者は天下を保ち、天を畏るる者は其の国を保つ。詩に云ふ、『天の威を畏れ、時にて之を保つ』と」

『詩経』にいふ「天の威を畏れ、時に于て之を保つ」さてさてかくのごとくなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 待賢門院堀河

長からむ心も知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ (千載集)

「百首の歌奉りける時、恋の心を詠める」とある。「長からむ心も知らず」はいつまでも心変わりしないかどうかも知らずに。「黒髪の」は「長からむ」の縁語だが「乱れてけさは」の掛詞となっている。「ものをこそ思へ」はこの場合は恋の物思いをする。思い悩むというほどだろう。一首の意は、「いつまでも心変わりなさらないかどうかがわからないので、寝乱れた黒髪のように心が乱れて、今朝はさまざまに案じられる」というぐらいである。(略)この歌は拾遺集のおち紀貫之の、

朝な朝な梳ればつもるおち髪の乱れて物を思ふころかな

を本歌としたものとされているが、貫之の歌は汚らしい。はたしてこのような歌を本歌としたか、作者に聞いてみなければわからぬことだ。(略)貫之の歌とはくらぶべくもないすぐれた歌なのだから。

これも百人一首に入っている歌だが、玉石混淆の百首中にはこのような秀歌もあるのだから、救わるる思いがする。作者は中古六歌仙の一人、鳥羽天皇の皇后待賢門院に仕えていたが、皇后が出家されたので、したがて尼になった。祖父の兄が堀河左大臣であったところから待賢門院堀河と呼ばれた。

8月24日(日)

今日も猛暑だ。

ほぼ一月前のこと その一

  キッチンの総入替に時を合せホテルへ逃げ出すわれならなくに

  外界は酷暑なり。冷房の度合高めてこの部屋出ず

  朝がらすここにも鳴くや。目覚めたるホテルのベッドの頭の上に

『孟子』梁恵王章句下9-2 曰く、「文王の囿は、方七十里、の者も往き、の者も往く。民と之を同じうす。民以て小なりと為すも、亦宜ならずや。臣始めて境に至るや、国の大禁を問ひ、然る後敢て入れり。臣聞く、『郊関の内、囿方四十里なる有り。其のを殺す者は、人を殺すの罪の如し』と。則ち是れ方四十里、阱を国中に為るなり。民以て大なりと為すも、亦宜ならずや」と。

  方四十里も大なりとそこに麋鹿を殺す者人を殺すと同じことなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大弐三位

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする (後拾遺集)

「かれがれなる男のおぼつかなくなどいひたりけるによめる」の題詞がある。「かれがれ」は、はなればなれ、「おぼつかなく」は、はっきりしない、たよりないというほどの意。しばらく逢わないで疎遠になっている男から、あなたの心が不安だ、たよりなく思われるといって来たのに対した歌である。

有馬山は摂津の有馬郡、猪名野はその山の付近で、(略)歌枕として知られている。

初句から三句までが「いでそよ人を」の「そよ」を引き出すための序詞、笹原に風が吹くとそよそよと音を立てるからだ。「いで」は「さあ」と相手を誘い出し、また呼びかける場合と、「いやどうして」と相手にはんぱつする場合などに用いる感動詞だが、ここでは後者の意。「そよ」はそれよ、それですよの意。「忘れやはする」の「やは」は反語で、忘れない、忘れなんかするするものかの意である。それでこの歌は、「いやどうしてあなたを忘れなどするものですか」というだけのことである。ただそれだけの下二句で足りるところを、有馬山をいい、猪名の笹原をいい、吹く風をといって上三句を費やしている。(略)そんなことはかかわりなく言葉どおりに、調べにしたがって読みさえすればよいのである。下手な注釈書なんかかえって邪魔だ。くりかえし読んでおれば自然に妙味がわかって来る。すなわち上三句は序詞であるが、なお有馬山のふもとの猪名の笹原を吹きわたる秋風のさびしさを表現しながら、同時に失恋に近い心のわびしさを象徴してもいる。この上の句を受ける下句が大事であるが、四句「いでそよ人よ」の鮮かな変転ぶりに感嘆する。言葉の駆使斡旋が自在である。微妙な心情をその調べに乗せて結句に移る。それが「忘れやはする」の反語に納められて、心もとないなどとはとんでもない、それはあなたですよ。私はあなたをけっして忘れなどするものですか、とやりかえしたのである。この場合「君を」といわずに「人を」といった。当代のならわしでもあったが、「君を」では歌がこわれるだろう。

この歌は芥川竜之介が好きであった。彼の文学を思うとそれがわかるようだ。百人一首に入っているからだれでも知っている歌だ。作者は紫式部の女である。