8月23日(土)

今日も暑いらしい。う~ん

  毎日々々かんかん照りの世の中なりわがからだ溶けてなにものならん

  かんかん照りとふ語を思ひだすこの暑さこれくらいではこの暑さ謂へず

  暑さ、あつさ この汗だくのシャツを脱ぎ洗濯機のなかシャツ積もりゆく

『孟子』梁恵王章句下9 斉の宣王問うて曰く、「文王のは、方七十里と。有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「是の若く其れ大なるか」と。

曰く、「民猶ほ以て小なりと為すなり」と。曰く、「寡人の囿は方四十里。民猶ほ以て大なりと為すは、何ぞや」と。

  斉の宣王が問ふわが囿は方四十里さするにかくも大に過ぐると

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 岡麓

雪やみて降かはりたる黄昏の雨に小鳥のよびあふ低し (同)

「黄昏」は元来の意とは別に今日の日の暮れ方の意に用いられている。降りしきっていた雪が雨になったうすら明かりの日暮れ方である。ねぐらについた小鳥がこのひと時をとしきりに鳴きあっている声が低く聞こえる、というおもむきの歌である。(略)小鳥といったのは用意あってのことだ。読者の自由なる想像にまかせている。この結句の「よびあふ低し」がよい。その声が低く小さく聞こえるからだが、よく情景をとらえているというだけではなく、暖かな人間の愛情がこもっている。しかし一首全体から受ける感じはやはりさびしそうだ。同じような歌がある。

雨にならぬ曇のままに夕づくや鳥一時にはたとしづまる

小鳥らはゆふべになればあつまりより一日の無事を告げあふならむ

あとの歌など若い人にはおもしろくないだろう。(略)あまりにも地味だったからだ。(略)しかしよく見ると秀れている。

はなやかだった幾人かの歌人にくらべて遜色を見ない。むしろ立ちまさっている。(略)昭和二十六年七十五歳で東京に帰り住むことなく信州で没している。

8月22日(金)

今日も、まったく暑いのだ。

  『血団事件』『荷風のいた街』『精霊の王』読まねばならぬ文庫三冊

  本と埃の山の中から救ひだす『世界の果てまで連れてって!…』

  読まねばならぬ古井由吉『この道』を埃払ひつつ拾ひあげつ

『孟子』梁惠王章句下8-4 今、王此に鼓楽をせんに、百姓王のの声、の音を聞き、皆欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王無きにからんか。何を以て能くせんや』と。今、王此にせんに、王の車馬の音を聞き、の美を見、欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田猟せんや」と。此れ他無し、民と楽しみ同じうすればなり。今、王百姓と楽しみ同じうせば、則ち王たらん』と。

  王常に百姓をおもひ百姓と楽しめば則ち王たらむとす

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 岡麓

みちに見し小狗おもほゆ育つもの楽しくをりとこよひ安らぐ (歌集・冬空)

小狗は小犬だが、子犬のことである。生れてまもない子犬だったのだろう。それが路上に遊んでいた。通りがかると足もとによって来てまつわりつくようにした。いや子供たちにもてあそばれて、くんくん咽喉を鳴らしていた。その可愛い子犬を夜、床に就こうとしてふと思い出したのだ。「育つも楽しくをり」の三、四句がそれである。子犬のさまをいうと同時に自分の感慨を叙べているのだ。あの子犬もだんだん大きくなるだろう。遊びたわむれながらおいおい成長して行くにちがいない。という感慨である。それで何となく心の安らぐ思いをした。それが「こよひ」である。では「こよひ」ならざるいつもの晩はどうなのか。何か気がかりなことでもあったのだろうか。

子孫らのわれをたよりに生きをりと思へば老のいのち嘆かゆ

夜のまにひび割れたりし卵二つふたりの孫にゆでてあたへよ

というような歌がこの前後にあるから、あるいはそうした孫たちの身を案じていたのかもわからない。(略)子犬だってあのようにして育ってゆくのである。人の子だって変わりがないのではないか、そう心配するほどのこともなさそうだ、という思いが感じられる。けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

これは長野県の山村で作られた歌である。(略)北安曇郡会染村での疎開生活中の歌である。昭和二十年四月某日、かねてより神経痛で足腰の立たなかった麓は、瘭疽をわずらっていた老妻とともに、人に助けられ人に背負われて戦火の東京を脱出した。しらない土地の馴れない生活がはじまったわけだが、すでにこのころは一人の孫を戦死させており、また集まって来た幾人かの家族をかかえて、しかもみずからは病身、おおかた寝たり起きたりの毎日だったのだから、さだめし不如意な生活だったろうと思われる。そのようなある日、気分がよいので外出した。二人の小さい孫をつれていたのかもしれない。その途上、無心に遊びたわむれている子犬を見かけた。それがこのような形の歌になった。滋味あふるる佳作である。

8月21日(木)

暑い、暑い。

  肥満型と痩型の女二人肩をならべて日傘を開く

  一人は黒いワンピースもう一人はのしゃれた服いづこへ行くか肩を並べて

  この道を行けば間近に駅がある改札入れば二別れする

『孟子』梁恵王章句下8-3 「臣請ふ。王の為に楽しみを言はん。今、王此に鼓楽せんに、百姓王の鐘鼓の声、の音を聞き、を疾ましめをめ、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。今、王此にせんに、百姓王の車馬の音を聞き、の美を見て、挙首を疾ましめ、頞を蹙め、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。此れ他無し、民と楽しみを同じうせざればなり。

  王、民を省みず楽を楽しみ、猟を楽しむそれではだめだ民と楽しめ

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 大来皇女

現身の人なるわれや明日よりは二上山を弟背と吾が見む (同巻二・一六五)

右の悲報がただちに伊勢に伝えられ、姉大来(大伯)皇女は斎宮をしりぞいて上京して来る。その時の歌二首がこの歌のすぐ前にある。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに (同・一六三)

見まく欲りわがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに (同・一六四)

「何しか来けむ」とがっかりしている。たったひとりの弟だった。それがもういないのだ。それでも「馬疲るるに」といそいで上京したようすがわかる。

この歌は大津皇子の屍が移されて、後に葛城の二上山に葬られた。その時にさらに詠まれた二首の一つである。「生き残ってこの世の人である私は明日からは二上山を姉弟のように思って眺めましょう」というのだが、人の世のかなしさ、はかなさ、それにあきらめの心を噛みしめている。そうして生ける人にものいうごとくつぶやき、かつ訴えているのである。もう一つの歌は、

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに (同・一六六)

これも同じようにしっとりとして悲しみ深い歌である。「磯」は海岸のことではなく、巌のことである。これによって本葬は年を越えて早春のころに行われたことがわかる。二上山は文字通り峰が二つに分かれており、高い方が男岳、低い方が女岳。大津皇子の墓は男岳の頂上にあって西向きで河内の方に面している。陵墓は西向きまたは南向きが普通だからこれはこれでよいわけだが、あえて大和に背を向けているのではないかと思われもする。

8月20日(水)

暑いのだ、暑いのだ。

ハン・ガン『涙の箱』、美しく、悲しくなり、心ゆたかに、しあわせになるような童話である。

  積みあがる本の山よりてくるまだ読むことなかりし小説

  女性の書く『京都異界紀行』新品のまま読まぬが出てくる

  古びたる『神屋宗湛の残した日記』、全く読まずに山より出づる

『孟子』梁恵王章句下8-2 他日、王に見えて曰く、「王嘗て荘子に告ぐるに楽を好むを以てすと。有りや」と。王色を変じて曰く、「寡人能く先王の楽を好むに非ざるなり。直世俗の楽を好むのむ」と。曰く、「王の楽を好むこと甚しければ、則ち斉は其れからんか。今の楽は猶ほ古の楽のごときなり」と。曰く、「聞くこと得可きか」と。曰く、「独り楽を楽しむと、人と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「人と与にするに若かず」と。曰く、「少と与に楽を楽しむと、衆と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「衆と与にするに若かず」と。

  王世俗の楽を好み衆とともにするを楽しめば斉の国こそ有望なり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大津皇子

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (万葉集巻三・四一六)

「大津皇子、被死からしめらゆる時、磐余の池の陂にして涕を流して作りましし御歌一首」の詞書がある。前にも記したように、大津皇子は謀反の企てありとして捕らえられ、朱鳥元年十月三日訳語田舎で詩を賜った。その時の歌である。「百伝ふ」は枕詞で、百へ至るという意で、五十または八十にかかる。ここでは五十の磐余にかけた。(略)一首の意は「磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、天がけり雲に隠れて私は死んでゆくのか」というのである。同じ時に作った五言「臨終」の一絶が懐風藻に伝えられている。

金烏西舎に臨らひ 鼓声短命をう催す 泉路賓主無し 此の夕べ家を離りて向ふ

「西に傾いた日が家を照らし、夕刻を知らす鼓の音は短い自分の命をいっそうせき立てるようだ。あの世の路は客も主人もないだろう。この暮れ方自分はひとり家を離れて死出の旅路に向かうのである」というほどの意だが、歌と詩いずれがすぐれているか。皇子ははやくから文筆を愛し「詩賦の興は大津より始まる」といわれたくらいだから、詩もゆるがせにはでいない。ともにあわれをもよおさしめる(略)ともあれ毎年冬になるとその池に来るカモを見て、それに全生命を託したかのごとき下四、五句の語気語勢、その詠歌の調に歎息する。しかもうらみがましい思いはみじんも述べられていない。(略)地位高く心丈き人のつねのならいか。さらばいっそうに心に沁むが、契沖は「歌と云ひ詩と云ひ声を呑て涙を掩ふに遑なし」といっている。

この時、妃の山辺皇女が殉死している。(略)日本歴史中でもっともあわれ深い場んで、その光景が見えるようだ。これを思いこの歌を読む、何びとも涙せざるをえないのである。

8月19日(火)

今日も亦、暑い、暑い。

  重ねたる本の数冊。読み、読まねばならぬしかし読み得ず

  つぎつぎに読みたき本の名をあげる。その半分も読むことかなはず

  長谷川二郎の二冊の文庫気になれど現代推理小説がおのづから先に

『孟子』梁恵王章句下8  孟子に見えて曰く、「暴、王にゆ。王、暴にぐるに楽を好むを以てす。暴未だ以てふる有らざるなり。曰く、楽を好むこと」と。孟子曰く、「王の楽を好むこと甚だしければ、則ち斉国其れからんか」と。

  斉の王が楽好むこと甚だしされば理想の政治に近し

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎

海苔ひびの林わけゆく舟二はいとほり過ぎゆき目に寒からず (同)

「或日」と題する十二首中の一首。「海苔ひび」は海苔をとるために海中に立て列ねる粗朶をいうので、それが文字通り林立しているものだから「林わけゆく」といった。「舟二はい」とことさらいったのは小舟をあらわしたかったからだ。この歌は家の中からガラス戸越しにその海を眺めているので、結句の「目に寒からず」はその部屋がストーブを入れていて暖かいものだから、寒かるべき海の眺めが「目に寒からず」かんじられた。寒中のある日、外出して気分が悪くなった。

医者に寄り血圧はかり以ての外ぞ凝乎と寝て居ねと叱られて帰る

その時の歌で、彼の本心が何であるか思わせるをおだやかな感情のよく出ている佳作である。篤二郎は戦後は横浜の金沢文庫の近く、称名寺のへんに住むようになったから、家からすぐに海が眺められた。昨年夏七十五歳でなかなったが、隻脚の人で松葉杖を突いていた。この歌集『雪客』は「サギ」と読む。サギは一歩脚で立つ鳥だからだが、わが身をしゃれてサギになぞらえる。みずからはなかなかいえないことだ。七十三の時に出した第十一冊目の歌集である。

8月18日(月) 

また、また猛威、暑くなる。

  人を憎むはわれならむかな些細なることに反応したり

  これの世に戦乱なくなることぞなき人を憎むもやむことなきか

  夜の暗きに唐突にミサイル、無人飛行機都心を襲ふ

『孟子』梁惠王章句上7-13 五の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。

百畝の田、其の時を奪ふ勿くんば、八口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之にぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路にせず。老者帛を衣、肉を食ひ、飢ゑずえず、然り而して王たらざる者は、未だこれ有らざるなり」

  人々がひもじくもなく寒いこともなければ王たらざるもの非ざるものなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎 

うらはらのそぐはぬ睡り昼をいねてはや時雨降る季節かと思ふ (歌集・)

「うらはらの」だから「反対の」である。「そぐはぬ睡り」だから「ふさわしくない睡り」であr。そこで上句は眠くもないのに昼間を寝ているということである。やむなく仕方なしに寝ているのだから、なかなか眠れない。うとうとしたかと思うとすぐに目が覚める。覚めたかと思ったらまた眠っている。これを夢うつつといえば風情があり、浅き眠りといえば詩的であるが「うらはらのそぐはぬ」思いで寝ていたのでは、たのしくもなければ面白くもないにきまっている。やけを起こして寝てしまったのだ。不貞腐れているのだから、いちばんぐあい悪い思いをするのは垂でもない自分自身だ。あれをこれをといろいろに思い悩んでいる。おりしもふと外のけはいを感じた。時雨が降り出したようすである。さむざむと降り過ぎる音を聞きながら、ひときわ救わるる思いをした。同時に秋はもはやこのように老けていたのか感慨を覚えたのである。すると急に自分のしざまがかえりみられた。こんなことをしていてよいのかと恥ずかしくなったのだ。その心が「はや時雨降る季節かと思ふ」の下句にさりげなくあらわれている。たえ難い思いをそれといわずにたんたんたる調べに託した哀感が読むものの心に沁み入るのである。

この歌は「秋雨」十五首中の一首(略)長男の直樹を死なせ、その妻子をも養わねばならず、困窮している時の歌だ。その上、さらに複雑な家庭的事情もあって、ついこのように正直に自分の弱みをさらけ出してしまったのだが、またすぐに取りなおして次のように心を閑雅に遊ばせている。

つくばひに滴る水の小竹見きうつつと夢のはざかひにして

その心境がしのばれ、風流を愛した彼の面影がしのばれる。

象あるもの消滅し父と子の火宅の譬喩あきらかに現ず

油汗かきし今際ぞけしきたつ死なせしものがさそはんとする

綿に染む死臭のにほひむかむかと一日われに絡らむとす

歌のよしあしはともかく、正視するに忍びない。子を悲しむ心が怒りにまで昂じている。しかしまた次のような天界自然の景に心をやってみずからを慰めている。

屋根越えて眉間を照らす月を見き十八日の丑三つの月

さしのぼる夜なかの月の脇仏金星ちさく暗くまばたく

眉間を照らす丑三つの月とか、金星を月の脇仏などというところが篤二郎である。こういう悲しみの歌もどことなしに技を凝っている。