3月18日(水)

晴れ。

  辻野とは心中未遂にあらざれど初路同じ時に水に入りたり

  二十(はたち)の日に死の(ふち)に辻野は(こら)へたるに女その夜千ヶ淵に沈む

  身投げせし別嬪さんはいぢめられ死といふも同じ日なりき

『孟子』万章章句上123 (ばん)(しやう)問うて曰く、「『舜、田に往き、旻天(びんてん)に号泣す』と。(なん)(す)れぞ其れ号泣するや」と。孟子曰く、「怨慕(ゑんぼ)すればなり」と。万章曰く、「『父母之を愛すれば、喜んで忘れず。父母之を悪めば、労して怨みず』と。然らば則ち舜は怨みたるか」と。曰く、「長息(ちやうそく)公明(こうめい)(かう)に問うて曰く、『舜の田に往くは、則ち吾既に命を聞くことを得たり。旻天に父母が号泣するは、則ち吾知らざるなり』と。公明高曰く、『是れ(なんじ)の知る所に非ざるなり』と。(か)の孔明高は、孝子の心を以て、(かく)(ごと)(かつ)ならずと為す。『我は力を(つく)して田を耕し、子(た)るの職に共するのみ。父母の我を愛せざるは、我に於て何ぞや』と。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(あかつき)静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑え(あ)へぬ はかなくこの世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
  (法文歌・雑法文歌・二三八)

【現代語訳】夜明けの静けさにふと目覚めて思いにふけると、あふれる涙を抑えられないことだよ。ただいたずらにこの世を過ごしてしまっては、いったいいつ浄土に往生することができようか。

【評】老境にさしかかった人の切実な悲嘆を歌った一首。同想の和讃や和歌は多く、たとえば平安時代末期から鎌倉時代に成立した『空也和讃』に「長夜(ぢやうや)の眠りはひとりさめ (ご)(かう)の夢に驚きて 静かに此の世を観ずれば 僅かに刹那ほどぞかし」(長い闇夜の眠りから覚醒し、夜明け前の夢に目覚めて、静かにこの世に思いめぐらせば、ほんの一瞬に過ぎないものだったよ)とあり、大治三年(一一二八)成立の『菩提心讃』に「此のたびはかなく過ぐしなば いづれの時とか思ふべし」(今この時をむなしく過ごしてしまったなら、一体いつ仏道への心を向けるというのだろうか)と見える。また、寂然(一一一八?~一一八二?)の歌集『唯心房集』の今様に「静かに寝ざめてつくづくと、はかなき此の世を思ふ間に、夜や明け方になりぬらん 賀茂の河原に千鳥鳴く」(静けさにふと目覚めて、つくづくとはかないこの世を思っているうちに夜は明け方になってしまったらしい。賀茂の河原に千鳥が鳴いているよ)がある。」

これらの類例に比べて、当該今様は抑えられぬ涙を歌い、より直接的実感的な嘆きを表現しているとともに、暁という幻想的な時間や静かに流される涙によって、一種の甘美な感傷を潜ませてもいよう。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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