3月27日(金)

やっと晴れた。

  こぶし・白木蓮・小出毬の花ことしの春も白き花咲く

  苦しみて苦しみ苦しむその果てに死と呼ぶもののわれにもくるか

  死後に(ゆ)場処(ばしよ)などあらず生のことさつぱりと忘れゆくもよからふ

『孟子』万章章句上127 万章曰く、「『尭は天下を以て舜に与ふ』と。(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。天子は天下を以て人に与ふること能はず」と。「然らば則ち舜の天下。を(たも)つや、(たれ)か之を与へたる」と。曰く、「天之を与ふ」と。「天の之を与ふるは、(じゆん)(じゆん)(ぜん)として之を命ずるか」と。曰く、「否。天言はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ」と。曰く、「行ひと事とを以て之を示すとは、之を如何(いかん)」と。曰く、「天子は能く人を天に(すす)むれども、天をして之に天下を与へしむること(あた)はず。諸侯は(よ)く人を天子に薦むれども、天子をして之に諸侯を与へしむること能はず。大夫は能く人を諸侯に薦むれども、諸侯をして之に大夫を与へしむること能はず。昔者(むかし)、尭、舜を天に薦めて、天之を受く。之を民に(あらは)して、民之を受く。故に曰く、『天(ものい)はず。行ひと事とを以て、之を示すのみ』と」

  天は何も言はず行為と事柄のみに天意を示す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

金の御嶽にある巫女の 打つ鼓 打ち上げ打ち下ろしおもしろや われらも参らば ていとんとうとも響きなれ 響きなれ 打つ鼓 いかに打てばか この音絶えせざるらむ
     (四句神歌・神分・二六五)

【現代語訳】金峰山にいる巫女が打つ鼓よ、打ち上げ打ち下ろししえ面白いことだよ。われらも鼓を打ち申し上げたいことだ。テイトントウとも響き鳴れ。打つ鼓よ。どんな風に打っているから、このように音が途絶えることなく響くのだろう。

【評】巫女が神を降し、神がかりするために鼓を打つ様子を歌った一首。金の御嶽は奈良県吉野郡の金峰山。名高い霊山で源顕兼(一一六〇~一二一五)編の『古事談』巻三‐二五話には、金峰山の「正しい巫女」(占いのよくあたる巫女)が登場する。

「打ち上げ打ち下ろし」は、鼓の音の緩急(高く強くなったり、低く弱くなったり)を示すとともに、それと連動して鼓を構える位置に高低が生じているものと考えたい。

中世の絵巻物を繙くと、『春日権現記絵」巻一五には、座って、左肩の上に置いた鼓を打つ巫女の姿が描かれ、『馬医草紙』には胸の下あたりで縦向きに持った鼓の下面を右手で打っている巫女の立姿が描かれる。また、『石山寺縁起』巻五には、座った膝に上に横に倒した鼓を置き、右側の革を右手で打っている巫女の姿も描かれている。体に対してさまざまな高さで鼓が打たれていることが窺われるのである。当該今様では、巫女の持つ鼓自体のダイナミックな動きと音の変化があいまって「おもしろや」の感嘆につながるものと思われる。

「参る」は、従来、「参詣する」の意に解されてきたが、当該今様ではすでに参詣して巫女の鼓の音を「この音」として聴いていると考えられるから、この「参る」は「する」の謙譲語で、鼓を打つことそのものを指しているのであろう。神を降す巫女の興奮状態に引き込まれ、巫女と一体になって、鼓に「響き鳴れ、響き鳴れ」と命じる歌い手の様子が髣髴する。『梁塵秘抄』には、

寝たる人 うちおどろかす鼓かな いかに打つ手のたゆかるらん いとほしや (四七一)
(寝ている人の目をはっと覚まさせる鼓の音だよ。その鼓を打つ手はどんなにだるいことだろう。かわいそうにね)

という一首もある。鼓を打つ巫女に寄り添う表現を持つ点で二首は共通するが、二六五番歌が巫女への称賛を、四七一番歌が巫女への同情を歌っている点で好対照をなしている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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