昨日の雨は止んで晴れ。しかし、いささか寒い。
京の町に運命のごとくに出会ひたる陶製雛の独特な貌
釉薬が輝くばかりの男雛・女雛ともに愛らし京都の雛は
女雛も男雛もおちょぼ口紅く愛らし小さな人形
『孟子』離婁章句下114 孟子曰く、「西子も不潔を蒙らば、則ち人皆鼻を掩ひて之を過ぎん。悪人有りと雖も、斎戒沐浴すれば、則ち以て上帝を祀る可し」
醜悪なる人も斎戒沐浴身を正せば天帝の祭にも奉仕せむ
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
釈迦の御法のそのかみは さまざま見知らぬ人ぞある 地より涌きつる菩薩たち みこれ金の色なりき
(法文歌・法華経二十八品歌・涌出品・一二五)
【現代語訳】釈迦が『法華経』を説いたその時、さまざまの見知らぬ人たちがいたことだ。それは地から涌き出た菩薩たちで、みな金色に輝いていたのだったよ。
【評】『法華経』従地涌出品で説かれる地涌の菩薩の出現場面を描いた一首。経本文に「仏、是を説く時、娑婆世界の三千大千の国土は、地、皆、震裂して、その中より、無量千万憶の菩薩・魔訶薩ありて、同時に涌出せり。是の諸の菩薩は、身、皆、金色にして、三十二相と無量の光明とあり」とあって、地涌の菩薩の身が金色に輝いていたことがわかる。「見知らぬ人」は、弥勒菩薩以下が、地から出現した菩薩たちを不審に思って釈迦に尋ねる偈の一節「無量千万憶の大衆の諸の菩薩は 昔より未だ曾て見ざる所なり」によるが、突然現れたさまざまな「見知らぬ人」をまず提示し、謎解きをする構成は、耳から聞く歌として効果的である。
従地涌出品をテーマにした和歌は、地涌の菩薩の様子を詠むよりもむしろ、釈迦が成道してからわずか四十年ほどの間に、このように多くの求法者たちを教化し得たことに対する驚きを比喩的に詠む例の方が多い。それは、釈迦が多くの求法者たちを短期間で教化し得たというのは、とても信じられないことで、百歳の老人が二十五歳の若者を父と呼ぶようなものだという譬えである。この比喩に依拠した例として、
たらちねの親よりこそは老いにけれ年あらがひを人もしつべし (『公任集』)
(年若い者が、親より年をとって老いたなどということは、人々も信用せず疑いを持つに違いない)
いかでかは子よりも親の若からん老いては若くなるにやあらん(『赤染衛門集』)
(どうして子より親の方が若くあることがあろうか。老いては若くなるということがあるのだろうか)
のようなものがある。また、地から涌き出た菩薩たちを詠む場合も、和歌においては、次のように、菩薩の内面のけがれのなさ焦点を当てており、出現の姿の鮮やかさを描く今様とは異なっている。
いさぎよき人の道にも入りぬれば六つの塵もけがれざりけり (『発心和歌集』)
(地涌の菩薩たちは、清らかな境地に入っているので、煩悩と迷いの世界にも汚されることがないのであった。)
世の中のにごりになにかけがるべき御法の水にすすぐ心は (『法門百首』)
(地涌の菩薩たちは、どうして世の中の濁りにけがされることがあろうか。御法の水にすすがれた清らかな心は)
一方、涌出品の経旨絵においては、多くの菩薩が地から涌きだす場面が繰り返し描かれている。半身はまだ土に埋まったままの菩薩たちの姿は、きわめて視覚的印象の強いものであり、絵画化されるのにふさわしいが、当該今様もそうした劇的な場面を鮮やかに切り取っている。