3月28日(土)

まあ晴れてるか。

  正倉院宝物の一つ伎楽面、獅子児どことなくわが孫に似る

  この(わらしべ)の伎楽面。あるときは虚空に(いつはり)を申す

  嘘・嘘・嘘。嘘、嘘だらけの現世(うつしよ)は戦乱はびこり人殺すなり

『孟子』万章章句上128 万章問うて曰く、「人言へること有り。『禹に至りて徳衰へ、賢に伝へずして、子に伝ふ』(これ)有りや」と。孟子曰く、「否。然らざるなり。天、賢に与ふれば、則ち賢に与へ、天、子に与ふれば、則ち子に与ふ。昔者(むかし)、舜、禹を天に薦むること、十有七年。舜崩じ、三年の喪(をは)りて、禹、舜の子を陽城に避く。天下の民之に従ふこと、堯崩ずるの後、堯の子に従はずして、舜に従ふが(ごと)し。禹、益を天に薦むること、七年。禹崩じ、三年の喪畢りて、益、禹の子を箕山(きざん)(きた)に避く。朝觀(てうきん)訟獄(しようごく)する者、益に(ゆ)かずして、(けい)に之く。曰く、『吾が君の子なり』と。謳歌する者、益を謳歌せずして、啓を謳歌す。曰く、『吾が君の子なり』と。

  わが君の子であるからに益を謳歌せず啓を謳歌す

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

不動明王恐ろしや 怒れる姿に剣を持ち 索を下げ うしろに火炎燃え上るとかやな 前には悪魔寄せじとて降魔(がま)の相    (四句神歌・仏歌・二八四)

【現代語訳】不動明王は恐ろしいことだ。忿怒の姿で剣を持ち、縄を下げ、背後には火炎が燃え上がるとかいうことだ。前には悪魔を寄せつけまいとして、猛々しい降魔の形相をしているよ。

【評】不動明王の姿を具体的に生々しく歌う一首。不動明王は、仏法を悪から守り、すべての悪を退治すると信じられた神。煩悩を断ち切る剣と、言うことを聞かない者を調伏する縄(羂索)を持つ。背後の火炎は、毒蛇を食らうという迦楼羅(金翅鳥と訳される伝説上の巨鳥)を象ったもの、「降魔の相」は、悪魔を降伏させる時の怒りの形相。『梁塵秘抄』には、仏・菩薩の慈愛に満ちた優しい姿を歌う今様が多く収められているが、一方で当該今様のような全身に怒りを漲らせた不動や、猛火の地獄を訪れる地蔵(→四〇)などの荒々しさ、勇猛さに焦点を当てたものもあって印象的である。

不動明王は、今様の流行した平安時代末期から鎌倉時代には修験道における主要な崇拝対象になっていった。たとえば、熊野の那智の滝で修行した文覚(一一三九~一二〇三)の不動明王信仰はよく知られている。今様には、修験者としての聖や山伏を歌ったものも多く(→三〇六、四二五、四二七)、恐ろしくも霊験あらたかな不動明王への関心は、山伏らの活躍を通しても、今様を支えた人々の間にも高まっていったであろう。

不動明王は多数の絵画・彫刻に表現されているが、今様と同時代の画像で著名なものは、身の色から「青不動」と通称する青蓮院蔵のもの、「赤不動」と通称する高野山明王院蔵のものである。平安前期の作で園城寺蔵の「黄不動」と合わせて三不動と呼ばれる。当該今様はこうした画像を目の前にしたような具体的な表現を持っている。

「青不動」は特に華麗な迦楼羅炎が特徴的だが、当該今様の持つ視覚的鮮やかさはこのような画像によって育まれたものと考えられる。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』三八話には、絵仏師良秀が自分の家の焼けるのを見て、不動明王の火炎の描き方を会得したと喜ぶ話が見え、不動明王の背負う炎が絵画制作上の重点になっていたことが窺われる。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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