4月18日(土)

朝は曇っているが、晴れてくるらしい。

  瑠璃色のカップ一杯の酒を飲むいにしへ人に変身をして

  (うは)(ばみ)のやうに酔うたるわれならむ翌日の朝も呆けてゐるか

  蟒蛇とは大酒飲みのことをいふ大蛇のごとき姿(なり)してゐるか

『孟子』万章章句下133-7 耕す者の(う)る所は、一夫(いつぷ) (ひやく)(ぽ)なり。百畝の(ふん)上農夫(じやうのうふ)は九人を(やしな)ひ、上の次は八人を食ひ、中は七人を食ひ、中の次は六人を食ひ、下は五人を食ふ。庶人の官に在る者は、其の禄、是を以て差と為す」と。

  農夫は百畝を受けとるが上中下ありすべて五等の等級により定めあり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

備後(びご)の鞆の島 その島島にて島にあらず 島ならず (にし)なし栄螺(さだえ)なし(せ)(い)もなし 海人の刈り乾す若芽なし  (四句神歌・雑・三四九)

【現代語訳】備後国の鞆の島、その島は島であって島ではない、島ではないよ。巻貝もなければ、栄螺もない、石華もない。漁師が刈り取って干す若芽もないのさ。

【評】「島」と「なし」を繰り返す軽快な歌。「鞆の島」は鞆の浦(鞆の津とも。広島県福山市南部の海湾)にある島を言うかとする説もあるが、鞆の浦そのもの(海湾)を指すとする通説に従いたい。「島」は古くは、四面を水に囲まれた陸地に限らず、水に面した土地をいうこともあり、『万葉集』には加古川の河口の辺りを「加古の島」といった例(二五三)や、旅の途中で船の碇泊するところを「島」といった例(三五九三)がある。このような例を参照すると、鞆の浦は半島状なので、「島」と言えば言えるけれど、本当の「島」ではないとして、面白おかしく歌を展開したものか。「螺」は巻貝の総称、「石華」は節足動物カメノテ。海岸の岩礁に付着するので「石華」の字をあてる。島ならば当然あるべき、貝や海藻がない、と興じているのである。

さて、この一首を言葉遊びの歌と捉えれば、現実性を問題にする必要はないとも言えるが、実景とすると腑におちないところもある。鞆の浦に螺、栄螺といった貝や、石華、若芽が全くないとは考えにくいからである。あるいは、一つの可能性として、貝や若芽が女性を暗示しているとは捉えられないだろうか。「鞆の浦」は古代から要港としてにぎわい、遊女らも多くいた。『平家物語』巻六「飛脚到来」みは、四国の混乱を鎮めた備後国の住人・西寂が、鞆で遊女たちを呼び集めて酒盛りをしたという記事が見える。一方、『土佐日記』や『催馬楽』「我家」などに、蚫や栄螺などの貝類や海胆が女性を暗示している例があり、若布は若女と音が通じる。水辺の「鳥」なのに、その水辺にいるべき遊女たちがいないではないか、と、彼女らに会うことのできなかった旅人が半分腹を立てながら戯れた歌とも読んでみたい一首である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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