4月7日(火)

雨が降りそうで、曇っている。雨が降るらしい。

  葉山

  波頭高く荒れたる葉山の海の色、雲を映してどんみりとする

  白き花こぶしが惚け散りはじむ。葉山の町を通り抜けたり

  (こん)(もり)した葉山の森に隠れしが御用邸には門番が立つ

『孟子』万章章句下132-2 伊尹(いゐん)は曰く、『(いづ)れに(つか)ふるとして君に非ざらん。何れを使ふとして民に非ざらん』と。治まるも亦進み、乱るるも亦進む。曰く、『天の(こ)の民を生ずるや、先知(せんち)をして(こう)(ち)を覚さしめ、先覚(せんかく)をして(こう)(かく)を覚さしむ。(われ)は天民の先覚者なり。予将に此の道を以て此の民を覚まさんとす』と。天下の民、匹夫匹婦も堯舜の(たく)与被(よひ)せざる者有るを思ふこと、己推(おのれお)して之を溝中(こうちゆう)(い)るるが(ごと)し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすればなり。

  伊尹のは天下の重大事を自ら背負つて立つ気にあらむ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

黄金(こがね)の中山に 鶴と亀とはもの語り 仙人(わらは)(みそ)かに聞けば 殿(との)受領(ずりやう)になりたまふ
            (四句神歌・雑・三二〇)

【現代語訳】黄金に輝く山の中で、鶴と亀とが何か語り合っている。仙人に仕える童子がこっそり立ち聞きしてみれば、殿様が受領におなりになるというめでたいお話だったよ。

【評】神仙世界と現実世界を結ぶような祝い歌。屋敷の主人が受領になった(あるいはこれからなるであろう)ことを寿ぐ歌で、貴族の邸宅に出入りする芸能者が歌ったものであろう。「中山」は、仙境の中心の山といった意味にも受け取れるが、『梁塵秘抄』には、修行時代の釈迦が「檀德山(だんとくせん)の中山に 六年行ひたまひしか」(檀特山の山中で六年間も仏道修行をなさった(二一九)と歌う一首があって、「中山」が山中の意味で使われているので、第一句は「黄金に輝く山の中で」と解しておきたい。黄金でできた山とはいかにもめでたく、富の象徴としてふさわしい。受領になれば、そうした山のような黄金を手にすることができるということも暗示されているだろう。

鶴も亀も不老長寿を表すめでたいもので、『梁塵秘抄』の祝い歌にもしばしば登場する。ただし、海に亀が「遊ぶ」(三一八・三二一) 、松の梢に鶴が「遊ぶ」(三一六)のように、「遊ぶ」と表現されることが多いのに対し、当該今様は、鶴と亀とが「もの語り」と、積極的な擬人化によって両者の対話の様子を取り上げている。さらに、仙人に仕える童が立ち聞きをするという、世俗のいたずらっ子のような姿を描き、童話風に微笑ましい情景を作り上げている。

「受領」は、中央から派遣され、国の支配にあたった地方官(国司)の最高者であり、任国内の支配は受領に大きくゆだねられたので、微税を強化するなどして、莫大な財産を得た者も多かった。平安時代の漢詩文集『本朝文粋』六には国司の楽しみとして「金帛蔵に満ち、酒肉案に推す」(金銭や絹などの財宝が蔵に満ち、酒や贅沢な料理が食卓にあふれる)ことをあげている(「案」は机の意)。豊かさを体現する存在として、受領は人々の憧れであった。(→三七六)

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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