11月11日(火)

寒いが、晴れている。

  死者のこと思へるわれは生者にて死すればすべてが曖昧になる

  死者のこと思はねば死者はまた死にす死者は迷ひて成仏できず

  生きてゐるうちに死者たちを思はんか思へば死者も死者としてある

『孟子』公孫丑章句下41-2 孟子を見て問うて曰く、「周公は何人ぞや」と。曰く、「古の聖人なり」と。曰く、「管叔をして殷に監せしめしに、管叔殷を以て(そむ)くと。(これ)有りや」と。曰く、「周公は其の将に畔かんとするを知つて、而して之を使(せし)めしか」と。曰く、「知らざるなり」と。「然らば則ち聖人すら且つ誤つこと有るか」と。曰く、

「周公は弟なり。菅淑は兄なり。周公の誤つも、亦(むべ)ならずや。且つ古の君子は過てば則ち之を改む。今の君子は、過てば則ち之に(したが)ふ。古の君子は、其の過つや、日月の食するが如し。民皆之を見る。其の(あらた)むるに及んでや、民皆之を仰ぐ。今の君子は、豈(ただ)に之に順ふのみならんや。又従つて之が辞を為す」と。

  今の君主は過ちを押し通し理屈すらつける過ち重ぬ

藤島秀憲『山崎方代の百首』

青桐の垂れる夕べの靄のなか花より白き君にしたがう 『右左口』

ただ一度出会った広中淳子は思い描いたとおりの美しい人だった。『青じその花』で方代は書く。

結核ということは聞いていたが、そうやつれてはおらず、白いうなじと黒いつぶらな瞳の清らかな娘である。あまりの美しさに茫然として(以下略)

方代は思わず「おしたい申しております」と口走る。その言葉は「おかしいわ(中略)お会いしたのは今日が初めてよ」と一蹴した淳子は、「しっかりしてください。どうかそんなに放浪の生活をつづけないで、定職について」と続ける。かくして七年の放浪生活が終った。

亡き父もかく呼んでいた道ばたに小僧泣かせの花が咲いている 『右左口』

地方によって、人によって異なるのだが、スズメノカタビラやコニシキソウといった抜いても抜いても生えて来る手強い草を小僧泣かせと言う。草むしりが小僧の仕事だったころのエピソードから名づけられた。

父は物知りであった。自然の中で生きる術を幅広く知っていた。後年、方代は鎌倉に住むが、山に入っては野草を採って食べた。父から教わった知恵が役に立ったのだ。

草の花は可憐で美しい。立ちどまり、屈み込み、花を観察しながら、父の言葉を思い、恋しい人を思う。

11月10日(月)

寒いけれど晴れがつづくらしい。

二十日ほど前

  やうやくに金木犀の木の花の匂ひくるなり道筋の角

  大きめの金木犀の木がありきやっとこの頃香りはじめる

  金木犀の小さなオレンジ色の花むらにわが鼻寄せて香りに浸る

『孟子』公孫丑章句下40-2 斉人、燕を伐つ。或るひと問うて曰く、「斉を勧めて燕を伐たしむと。(これ)有りや」と。曰く、「未だし。(しん)(どう)『燕伐つ可きか』と問ふ。吾之に応へて『可なり』と曰ふ。彼然り而して之を伐てるなり。彼如し『(たれ)か以て之を伐可き』と曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、『天吏為らば則ち以て之を伐可し』と。今、人を殺す者有らんに、或ひと之を問うて『人殺す可きか』と曰はば、則ち将に之に応へて『可なり』と曰はんとす。彼(も)し『孰か以て之を殺す可き』と曰はば、則ち将に之に応へて曰はんとす、『士師(しし)(た)らば、則ち以て之を殺す可し』と。今、燕を以て燕を伐つ。何為れぞ之を勧めんや」と。

  斉と燕はどっちもどっち斉が燕討つは燕が燕を討つやうなり

藤島秀憲『山崎方代の百首』

男五十にして立たねばならぬめんめんと辞書をひきひき恋文を書く 『右左口』

論語ならば「三十にして立つ」。五十といえば天命を知る年齢だ。しかし方代は二十年遅れて立とうとしている。しかも恋文を書いている、それも辞書をひきひき書いている。これでは「而立」はままならない。「立たねばならぬ」は決意だけで終わったことだろう。

初句から結句までユーモアと思えば良いのだが、結婚することなく一生を通した生き方を考えれば、この歌には切実なる思いが潜んでいる。特に「めんめんと」の辺り。

「めんめんと」恋文を書いたことが本当にあった。それは三十代半ばのことである。

はぎしりして鑕を打つ靴を打つときの間もあり広中淳子 『右左口』

方代の恋の相手として知られる広中淳子。方代が三十代半ばに所属していた短歌誌

「工人」の仲間である。淳子は結核で自宅療養中。だから二人が会ったのは、たった一度きり。放浪の旅の最後に、和歌山に住む淳子を訪ねた。布団の上に淳子はいた。    要は「工人」に掲載される短歌を読み、短歌からイメージされる作者像に恋をしてしまったわけ。純粋で一途な片思い。片時も忘れられない、うぶな恋心を歌ったこの歌は、結句に「広中淳子」と置いたことで印象が一気に濃くなった。

11月9日(日)

雨、雨、雨……そして寒い。

今村翔吾『じんかん』を読む。文庫本で五八〇ページになる時代小説。松永久秀の少年期から滅びまで息を吐かせぬといいながら、読み終えるまでには、随分時間がかかっている。しかし最後は、少し涙ぐんだ。松永久秀が、大和に城をもっていたこと、寺社勢力と対抗していたこと、筒井家と争っていたことなどは知っていたが、手に汗握る面白さであった。久秀の生涯を語る織田信長が、なんだか親しく感じられてくる。

  斑雲があかねの色に明けてゆく公園のけやきの木もあかね色

  太陽は大山山頂付近も朝焼けの色に染めたり。明けてゆくなり

  だんだらの雲あかねの色に染め十月中旬の空明けてゆく

『孟子』公孫丑章句下39-2 曰く、「古は棺椁(くわんくわく)度無し。中古は棺七寸。(くわく)之に(かな)ふ。天子自り庶人に達す。直に観の美を為すのみに非ざるなり。然る後人の心を尽すなり。得ざれば以て(よろこび)を為す可からず。財無ければ以て悦を為す可からず。之を得ると財有ると、古の人皆之を用ふ。吾何為れぞ独り然らざらん。且つ(くわか)するときの(ころ)まで、土をして膚に親しまむる無きは、人の心に於て独り(こころよ)きこと無からんや。吾之を聞く、『君子は天下を以て其の親に(けん)せず』と。

  孟子は言ふ君子は親の喪に倹約などはせぬものである

藤島秀憲『山崎方代の百首』

生れは甲州鶯宿峠に立っているなじゃもんじゃの股からですよ 『右左口』

ここからは第二歌集『右左口』に入る。奥付は昭和四十八年十二月二十五日になっているが、実際には四十九年に刊行。方代は五十九歳だった。

このころの方代は短歌総合誌に五十首を発表するなど歌人としての地位を固めていて、東京の私学会館で行われた出版記念会には約八十名が出席した。

鶯宿峠のなんじゃもんじゃはリョウメンヒノキ。樹齢五百年と言われていた。明治二十四年、この木の下を方代の母となる二十一歳のけさのが馬の背に揺られて通った。峠を超えた先に嫁いでゆくためである。

何のため四十八年過ぎたのか頭かしげてみてもわからず 『右左口』

実にトボケタ歌である。何のために生きているのか、自分の存在理由を考えてみることは、私にもある。だが普通は頭を抱えることはあっても、頭をかしげない。頭を抱えて真剣に人生を考えていると方代に笑われてしまいそう。

「君はちょっと考えすぎだね。もっと肩の力を抜いて気楽にいきなさいよ」と方代に諭されているような歌。

方代は自分の年齢をよく歌った。何歳になったけど、相変わらずダメに生きています……そんな歌い方が大方である。

11月8日(土)

気温があまり上がらない。曇り空。

  朝一巡り午前・午後にも巡りたり毎日歩くも筋肉付かず

  大欅の木をめぐりきてわがマンションの九階へ帰る

  朝は伴ふ人もゐず午前・午後にはぼちぼち人が

『孟子』公孫丑章句下39 孟子 斉(よ)り魯に葬る。斉に反り、(えい)に止まる。(じゆう)(ぐ)請うて曰く、「前日は虞の不肖なるを知らず、虞をして匠事(しやうじ)(をさ)めしむ。厳なり。虞敢て請はざりき。今、願はくは(ひそ)かに請ふこと有らん。木(はなは)だ美なるが(ごと)く然り」と。

  孟子の母をおさむるに充虞尋ねき棺の木はなはだ立派にすぎたるような

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ほんとうの酒がこの世にあった時父もよいにき吾もよいたり 『方代』

『青じその花』にこんな文章がある。

あのころは、まだ本当の酒がこの世の中にあった。

ある晩、父とともにのみ明かしたことがあった。酒は黄金色をしていた。

「あのころ」とは母もまだ生きていた時代。「本当の」が意味することは、闇市で売られていた密造酒とは違うということではなく、楽しかった時代に飲んだ酒という意味。もう二度と取り戻せない時代なのだ。

父は昭和十九年に亡くなる。方代は転戦中でジャワ島のスラバヤにいた。

がぶがぶと冷えたるお茶を呑み終る如くせわしく終らんとする 『方代』

何を終らんとするのだろう。比喩があっても、何を喩えているのか肝心のことが抜け落ちている。仕方がないので読者がいろいろと、もやもやしながら考える。もうその時点で、読者は方代の仕掛けた罠にはまっている。

方代のオノマトペは極めて単純だ。「がぶがぶと……呑み」、きっと歌会では「平凡」

「陳腐」とやり玉にあがるだろう。方代ほどの感性をもってすれば斬新なオノマトペを生み出せるはず。だが、しなかった。

単純ゆえわかりやすい。単純ゆえ味わいがある。方代短歌の人気の秘訣がオノマトペの使い方に垣間見える。

11月7日(金)

晴れ。スーパームーンの翌々日、西空高く月が残っている。

  葉のみにて花も実もつかず石榴の木少しひょうげて夜半踊りだす

  花も実もつけずに一夏すごしたり葉々の緑のただ濃くなりて

  三本の石榴それぞせんじょうでれに花も実もつけず葉々を濃くする

『孟子』公孫丑章句下38 孟子(まうし) 斉に(けい)(た)り。出でて(とう)(てう)す。王 (かふ)の大夫王驩(わうくわん)をして(ほ)(かう)為らしむ。王驩朝暮に(まみ)ゆ。斉縢(せいとう)の路を反し、未だ嘗て之と行事(かうじ)を言はざるなり。公孫丑曰く、「斉卿の位は、小と為さず。斉縢の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て(とも)に行事を言はざる何ぞや」と。曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言はんや」と。

  孟子言ふだいたいに使命のことは処理する者ありわれ何をか言はん

藤島秀憲『山崎方代の百首』

死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ 『方代』

死の間際に麦の種子を握っていることは考えにくいのでフィクションだろう。

三粒が意味するところは、父・姉・方代。母から見れば、夫・娘・息子。つまり残してゆく三人。母の無念と心配が比喩的に語られた一場面だ。

母は十九歳の時に馬の背に揺られ、鶯宿峠を越えて嫁いできた。結婚式の当日、花婿は開拓地の見分に行くと出かけて留守。花婿不在の結婚式が行われた。

花婿が戻って来たのは二か月半後。第一声は「今けえったど」。

まっくらな電柱のかげにどくだみの花が真白くふくらんでいる 『方代』

そもそも全ての短歌に言えるのだが、実景の中には作者の真理が潜んでいる。方代の短歌は心理の存在が顕著で、潜むというよりも漂っていると言った方が良い。

この歌も、失意の日々を送る中で希望をついに見つけたときの心境がくっきり浮かび上がっている。ただ暗いだけではなく「まっくら」、単に白いだけではなく「真白」、

暗さと白さが強調されているから余計に失意と希望の落差が明確になる。

希望を象徴するドクダミが群れ咲く様子を「ふくらんでいる」とする。希望の花に相応しい言い回しだ。

11月6日(木)

今日も寒い。

  これの世の戦さ好きたちにもの申す人を殺すこと即座に辞めろ

  ガザ地区にいくたりの死者。イスラエルなど作らねばよし

  すべてを寛容にこそすべきなり調子に乗るなイスラエル軍よ

『孟子』公孫丑章句下37 孟子蚳鼃(ちあ)に謂ひて曰く、「子の霊丘を辞して士師を請ひしは似たり。其の以て言ふ可きが為なり。今、既に数月なり。未だ以て言ふ可からざるか」と。蚳鼃(ちあ)王を諫めて用ひられず。臣為ることを致して去る。斉人(せいひと)曰く、「蚳鼃の為にする所以は則ち善し。自らの為にする所以は則ち吾知らざるなり」と。(こう)都子(とし)以て告ぐ。曰く、「吾之を聞く、『官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去る』と。我官守無く、我言責無し。則ち吾が進退は(あに)綽綽(しゃやくしやく)(ぜん)として余裕有らずや」と。

  孟子言ふ我れ官守なく言責なしされば我が進退は綽綽然たり

藤島秀憲『山崎方代の百首』

あたらしき悔い残すため生くるため今日も朝からセッコウをねる 『方代』、戦場で負傷して右眼は失明、左眼は0、01の方代だから、仕事で失敗することも多かったらしい。

「あたらしき悔い残すため」は今日も失敗するのではないかとの怯えであろうか。失敗すれば、負傷を悔やみ、生きる辛さに直面する。斜に構えているとか、ユーモラスに表現しようとか、そういう意図は感じない。

「残すため」「生くるため」と「ため」を繰り返してリズムを良くする。リフレインを方代は多用した。

宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉 『方代』

葉が落ちて来て、どきりとした。要はそれだけなのだが、「どきりと」を赤の修飾に使い、目の前に落ちる情景を「眼玉に落ちて」と言い替えている。こういうところに方代の詩情を感じ取れる。

「眼玉に落ちて来てどきりと赤い」から思うのは、爆撃による破片である。焼けただれた破片はさぞ赤かったことだろう。視力を失う前の右眼が捉えた最後の色は赤だったのではないだろうか。    視力の低い方代は中間色をあまり使わず、原色を好んで使った。

11月5日(水)

太陽は、ずっとくもの中。

  水仕事すればトイレに行きたくなる冷たき水は秋の水なり

  秋の水、蛇口よりほとばしり皿、碗を洗ふ水流となる

  蛇口よりほとばしり出る秋の水。冷たく思ふがそれもよきなり

『孟子』公孫丑章句下36-3 他日、王に(まみ)えて曰く、「王の都を(をさ)むる者、臣五人を知れり。其の罪を知る者は、惟孔距(こうきよ)(しん)のみ」と。王の為に之を誦す。王曰く、「此れ則ち寡人の罪なり」と。

  他日、孟子は王に見え罪をしるは孔距心のみと言へば此れ私の罪である

藤島秀憲『山崎方代の百首』

亡き母よ侮る勿れ野毛市の夜のとどろきに歌一つなす 『方代』

『青じその花』で方代はこのように書いている。

私の歌のすべては学問の中から生まれてくるものではない。二十貫の力石をかつぎかついだこの中から生まれてくるものだ。

野毛市は横浜にあった闇市。混乱の中で、一首が生まれた。侮られるような生き方であることを自覚してはいるが、自分に今できることは歌を成すことのみ。

「亡き母よ」と母に呼び掛けているが、全ての人々に「侮る勿れ」と言いたい気分なのだ。

野の末に白き虹たつくれどきよ吾に憩いの片時もなし 『方代』

「白虹」と書いて「はっこう」という虹がある。太陽の光が霧に反射して出来るもの。とても深く、とても儚い虹である。

この歌が発表された昭和二十五年、歯科医師と結婚している姉・関くまの許に方代は落ち着き、放浪生活を終りにした。そして懸命に働いた。

戦後に初めて訪れた安定した生活だった。でも、方代は知っていたのだ。この暮らしが白い虹のように淡く儚いものであることを。片時の憩いでもないことを。