8月22日(金)

今日も、まったく暑いのだ。

  『血団事件』『荷風のいた街』『精霊の王』読まねばならぬ文庫三冊

  本と埃の山の中から救ひだす『世界の果てまで連れてって!…』

  読まねばならぬ古井由吉『この道』を埃払ひつつ拾ひあげつ

『孟子』梁惠王章句下8-4 今、王此に鼓楽をせんに、百姓王のの声、の音を聞き、皆欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王無きにからんか。何を以て能くせんや』と。今、王此にせんに、王の車馬の音を聞き、の美を見、欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田猟せんや」と。此れ他無し、民と楽しみ同じうすればなり。今、王百姓と楽しみ同じうせば、則ち王たらん』と。

  王常に百姓をおもひ百姓と楽しめば則ち王たらむとす

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 岡麓

みちに見し小狗おもほゆ育つもの楽しくをりとこよひ安らぐ (歌集・冬空)

小狗は小犬だが、子犬のことである。生れてまもない子犬だったのだろう。それが路上に遊んでいた。通りがかると足もとによって来てまつわりつくようにした。いや子供たちにもてあそばれて、くんくん咽喉を鳴らしていた。その可愛い子犬を夜、床に就こうとしてふと思い出したのだ。「育つも楽しくをり」の三、四句がそれである。子犬のさまをいうと同時に自分の感慨を叙べているのだ。あの子犬もだんだん大きくなるだろう。遊びたわむれながらおいおい成長して行くにちがいない。という感慨である。それで何となく心の安らぐ思いをした。それが「こよひ」である。では「こよひ」ならざるいつもの晩はどうなのか。何か気がかりなことでもあったのだろうか。

子孫らのわれをたよりに生きをりと思へば老のいのち嘆かゆ

夜のまにひび割れたりし卵二つふたりの孫にゆでてあたへよ

というような歌がこの前後にあるから、あるいはそうした孫たちの身を案じていたのかもわからない。(略)子犬だってあのようにして育ってゆくのである。人の子だって変わりがないのではないか、そう心配するほどのこともなさそうだ、という思いが感じられる。けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

これは長野県の山村で作られた歌である。(略)北安曇郡会染村での疎開生活中の歌である。昭和二十年四月某日、かねてより神経痛で足腰の立たなかった麓は、瘭疽をわずらっていた老妻とともに、人に助けられ人に背負われて戦火の東京を脱出した。しらない土地の馴れない生活がはじまったわけだが、すでにこのころは一人の孫を戦死させており、また集まって来た幾人かの家族をかかえて、しかもみずからは病身、おおかた寝たり起きたりの毎日だったのだから、さだめし不如意な生活だったろうと思われる。そのようなある日、気分がよいので外出した。二人の小さい孫をつれていたのかもしれない。その途上、無心に遊びたわむれている子犬を見かけた。それがこのような形の歌になった。滋味あふるる佳作である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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