4月25日(土)

曇っているような、晴れているような。晴れるらしい。

  徳田秋聲記念館の二階より黒き瓦に花びら散り(く)

  「秋聲の聴いた音楽」のCDを(か)ひ求めたり。SP版の音

  昼食を終へての春昼後刻にも岸辺には古木(こぼく)のさくらはなびら

『孟子』万章章句下135-4 曰く、「然らば則ち孔子の仕ふるや、道を事とするに非ざるか」と。曰く、「道の事とするなり」と。「道を事とせば、(なん)猟較(れふかく)するや」と。曰く、「孔子は、先づ祭器を簿正(ぼせい)し、四方(しほう)(しよく)を以て簿正に供せしめず」と。曰く、「奚ぞ去らざるや」と。曰く、「之が兆を為すなり。兆以て行ふに足る。而るに行はれず。而して後去る。是を以て未だ嘗て三年を終ふるまで(とどま)る所有らざるなり。孔子には(けん)(かう)可の仕へ有り。際可(さいか)の仕へ有り。(こう)(やう)の仕へ有り。季桓子(きくわんし)に於ては、見行可の仕へなり。衛の靈公に於ては、際可の仕へなり。衛の孝公に於ては、公養の仕へなり」と。

  孔子には魯の季桓子には見行可の仕へ、衛の霊公は際可の仕へ、衛の孝公には公養の仕へ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

羽なき鳥の(やう)がるは 炭取(すみとり)(かい)(とり)かいもとり (いしな)(とり) (いた)(どり)(かき)(ほ)に生ふてふ菝葜(さるとり)弓取(ゆみとり)(ふで)(とり)小弓の矢取とか   (四句神歌・雑・三五七)

【現代語訳】羽のない鳥で変わった風情のあるものは、炭取、虎杖、垣根に生えるという菝葜よ。弓取、筆取、小弓の矢取といたようなもの。

【評】末尾に「トリ」がつくものを並べた言葉遊びの歌。「様がる」は一風変わっていておもしろそうであるといった意味で、『梁塵秘抄』には多くの用例がある。当該今様では「鳥」という音を持っていても、鳥でもないため「様がる」(風変りだ)としており、言語遊戯的な側面が強いが、伝統的なもの、ありふれたものに対して、やや変わっているもの、珍しいものを「様がる」と評価していく姿勢は、流行の最先端を追っていこうとする今様という歌謡の性質をよく表していると言えよう。

「炭取」は、炭を入れる容器。「(かい)(とり)」は、原文「かいとり」とあり、従来「楫取」の音便とされてきたが、「ぢ」が「い」音便となるには無理があるという説に従う。(かぎ)(とり)は文永五年(一二六八)成立の語源辞書『名語記』によって「カイトリ」とも読まれたことがわかる(巻九・十八オ)。中央官庁や諸国の倉などの鍵を保管して開閉を司る役のこと。「かいもとり」は、もののまわりを動いて回ることを原義とし、もがく、まとわりつく、といった意味もある。『梁塵秘抄』に、川を渡る樵夫が波に足をとられ、杖も手から離れてしまってもがいている様子を、「波に折られて尻杖捨ててかいもとるめり」(三八五)と表現した例があり、室町時代末期の流行歌謡を集めた『閑吟集』には、「恋風が来ては袂にかいもとれてなう」(恋風が吹いてきては袂にまとわりついてね)の例がある。

「石取」は小石を投げ上げたり取ったりするお手玉のような遊戯、「虎杖」「菝葜」はそれぞれ植物の名、「弓取」は弓を持つ武士、「筆取」は文字を書く人、「小弓の矢取」は遊戯用の小弓で射た矢を集める人。

取り上げられた素材は「トリ」の音を持つだけで、雑多であり統一がないとも評されるが、各素材の間にはゆるやかな連想が働いていると見られる。「炭取」と「(かい)(とり)」は日常生活において必須の身近な道具(またはその道具を扱う人)であり、「カイトリ」から「カイモトリ」の音が引き出され、手に石が「かいもとる」(まとわりつく)のような遊戯「石取」を挟んで、植物名が二つ並ぶ。「弓取」と「筆取」は文武両面を表し、最後に「弓取」との連想で結ばれながら、また遊戯に関わる「小弓の矢取」が置かれている。リズムと意味上の連想関係から巧みに組み立てられていると言えよう。

この中に見える「虎杖」について、『枕草子』は「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの」(実物を見るとたいしたことはないのに、文字に書くと大げさなもの)の物尽くし章段で例にあげている。「虎の杖」と書く漢字表記が問題になっており、同じ素材を取り上げても、今様が「トリ」という音に注目するのと対照的である。『梁塵秘抄』と『枕草子』は、ともに物尽くしという形式を特色の一つに持っているが、耳で聞いた音を問題にする今様と、漢字を思い浮かべられなければおもしろみがわからない『枕草子』は、作者や享受層の違いからそれぞれ独自の世界を切り開いているのである。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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