7月11日(土)

今朝も空は晴れている。

安部公房『榎本武揚』(中公文庫)を読み終える。文章修辞はどこかなじみがあるらしい。久方ぶりに呼吸が合ったような気がする。内容は大変だ。北海道の原野に楽園があるように思わせるが、皆目その存在はない。榎本武揚のずるがしこい姿ばかりが印象に強く、同等であるべき土方歳三らが翻弄される。榎本は明らかな転向者であった。

道路のアスファルトに出来た裂けめにこそ雑草みどりに筋をのばす

およそ五メートルほどの亀裂あり夏の雑草いのちありけり

日々携帯電話に写したる亀裂の雑草いきいきとして

『孟子』尽心章句上192 孟子曰く、「舜ののにるや、と居り、と遊ぶ。其の、深山の野人に異なる所以の者は、どなり。其の、を聞き、を見るに及びては、を決して沛然たるが若く、之を能くむる莫きなり」

舜は一善言、一善行を見るに及びその善にすすむ阻止すことあらず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

足引のこの山里の夕月夜ほのかに見るは梅の花かも

【語義】「足引の」は「山里」の「山」にかかる枕詞。〇「ほのかに」は「ほんのりと」。

【評言】この歌は「春の歌とて阿部定珍と同じくよめる」と詞書のある九首中の一首である。阿部定珍は良寛の最も親しかった詞友の一人である。良寛にはこの定珍と共によんだ歌がかなり多い。「足引のこの山里の夕月夜」という上三句を「ほのかに見るは」と受けているところに、おのずと読者の心がその心境へ引き入れられてゆく。「ほのかに見ゆる白梅の花」などと受動的に云わないで「ほのかに見る」と発動的に捉えて、更に「梅の花かも」と軽く投げ出しているところにたまらない妙味がある。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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