雨だ。
春の気配ここにもありて菜の花の連なるところにわれも佇む
あくせくとしても命は一つなり苦しまぬがよし命のつごもり
陰画には心微動す。しかれども肉体はなべて反応をせず
『孟子』万章章句上129-2 湯、人をして幣を以て之を聘せしむ。囂囂然として曰く、『我何ぞ湯の聘幣を以て為さんや。我豈畎畝の中に処り、是に由りて以て堯舜の道を楽しむに若かんや』と。湯三たび往きて之を聘せしむ。既にして幡然として改めて曰く、『我畎畝の中に処り、是に由りて以て堯舜の道を楽しまんよりは、吾豈是の君をして堯舜の君為らしむるに若かんや。吾豈吾が身に於て親しく之を見るに若かんや。天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覚さしめ、先覚をして後覚を覚さしむ。予は天民の先覚者なり。予将に斯の道を以て此の民を覚さんとす。予之を覚すに非ずして誰ぞや』と。天下の民、匹夫匹婦も堯舜の沢を被らざる者有るを思ふこと、己、推して之を溝中に内るるが若し。其の自ら任ずるに天下の重きを以てすること此の如し。故に湯に就きて之を説くに、夏を伐ち民を救ふことを以てす。
伊尹は天下を背負ひ暴虐なる夏の桀王を討たんとすなり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
われらが修行に出でし時 珠洲の岬をかい回り うち巡り 振り捨てて 一人越路の旅に出でて 足打ちせしこそあはれなりしか (四句神歌・僧歌・三〇〇)
【現代語訳】私が修行に出た時は、珠洲の岬をぐるりと回り、ずっと巡って行き、ついには岬を振り捨てて、一人北陸路の旅に出て、足を痛めたことこそしみじみとつらいことだったよ。
【評】孤独で苦しい修行の日々を回想した一首。「われら」の「ら」は、後の句に「一人」とあることから、複数を表す接尾語ではなく、自らを卑下していうものと考えられる。
「珠洲の岬」は能登半島の北東端の岬。承元三年(一二〇九)長尾社歌合に「海辺帰雁」の題で詠まれた和歌として、いくつらぞ珠洲の岬を振り捨てて越なる里へいそぐ雁がね (『夫木和歌集』顕昭)
(幾列になるだろうか、珠洲の岬を振り捨てて越の里へと急ぎ飛んでいく雁たちよ)の一首が見える。「珠洲」に「鈴」を掛け、「鈴」の縁語である「振る」に続けていく表現、「珠洲の岬」から「越」への移動を詠む点は(人と雁との違いはあるものの)、当該今様と共通している。
『源平盛衰記』巻四六によれば、文治元年(一一八五)九月に能登国へ流罪となった平時忠の配所は「鈴の御崎」であった。都から遠い辺境の地というイメージが見て「能登国 珠洲郡三座」の筆頭にも「須須神社」が挙げられれているが、一一世紀後半から一二世紀にかけて、修験霊場へと変貌していった。
「越路」は北陸道のことで、日本海沿岸の若狭・越前・越中・越後・加賀・能登・佐渡の七国(現在の福井・富山・石川・新潟の四県)を指す。
「足打」は、足がもつれること、足を痛めること、地団駄を踏むこと、足の疲れをとるためにたたいて揉みほぐすことなど諸説あり、「足占」(歩いて行って左右どちらかの足で目標の地点に着くかによって吉凶を占うこと)ととる説もあるが、「あはれ」と直接つながることからすると、足を討ちつけて痛めたというような直接的な苦痛を言っているものと考えたい。しかしその肉体的苦痛は回想の中に歌われていることによって、ややおぼるげになり、珠洲の岬といった都からはるかに遠い場所に焦点を当てることとあいまって、感傷的な気分を漂わせてもいよう。