朝から雨。激しく降るが、やがては止むらしい。
犀川にも桜並木が連なりて雨しとしとと犀星記念館
雨宝院の軒に濡れつつ犀星の小説のことなど考へてゐる
愛すべき猫の最後の一匹なりカメチョロと名づけ東京の家へ
『孟子』万章章句下137 万章曰く、「士の諸侯に託せざるは、何ぞや」と。孟子曰く、「敢てせざるなり。諸侯国を失ひて、而る後諸侯に託するは、礼なり。士の諸侯に託するは、礼に非ざればなり」と。万章曰く、「君之に粟を餽れば、則ち之を受けんか」と。曰く、「之を受けん」と。「之を受くるは何の義ぞや」と。曰く、「君の氓に於けるや、固より之を周ふべければなり」と。曰く、「之を周へば則ち受け、之を賜へば則ち受けざるは、何ぞや」と。曰く、「敢てせざるなり」と。曰く、「敢て問ふ、其の敢てせざるは、何ぞや」と。曰く、「抱関撃柝の者は、皆常に職有りて、以て上に食む。常の職無くして上より賜る者は、以て不恭と為せばなり」と。
職あれば受け、職なければ賜はるは不謹慎なり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けばわが身さ へこそ揺るがるれ (四句神歌・雑・三五九)
【現代語訳】遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、戯れをしようとして生れてきたのだろうか、一心に遊んでいる子どもも声を聞くと、私の体まで自然に動きだしてくることだよ。
【評】子どもの遊びに引き込まれていく大人の感慨を歌った一首。子どもたちの遊ぶ姿をほほえましく眺めているうちに、自分も浮き浮きと楽しくなってくるという経験は、多くの大人が持っているものであろう。
遊女を主体とみて、無邪気な子どもに対置される罪深いわが身を、身を揺るがすような悔恨をもって見つめているとする説。そのような罪の意識を抱えながらも、今様唱歌へと引き込まれ、生業に執着せざるを得ない遊女がわが身を認識する歌ととる説、罪業感からは離れて、遊女が遊ぶ子どもの声を契機として、自らも歌を歌うという行為、つまりアソビへとそそのかされることを歌ったと見る説などもあるが、軽やかな繰り返しの律調からは、少なくとも、罪深い生活を悔いるといった暗さは受け取り憎いように思われる。主体を遊女に限定すべき強い根拠は見出しにくく、ある程度の年齢を重ねた大人一般の感慨と見ておきたい。
『梁塵秘抄』が発見され、刊行されて間もない大正初期の詩歌作品には、『梁塵秘抄』
今様の影響を受けた作が少なからず見出されるが、当該今様を引いた例は特に多く、好まれた一首であることが窺われる。
うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのびあがり見つ 斎藤茂吉
一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ 北原白秋
おもてにて遊ぶ子どもの声聞けば夕かたまけてすずしかるらし 古泉千樫
また、川端康成は一九五四年に書いた舞踏劇「船遊女」において、白拍子たちに歌わせるという設定で、当該今様を次のような替え歌にしている。
遊びしたくて生まれ来た 戯れしたくて生まれ来た、遊ぶ子供の声聞けば わが身の春も思はるる 散らぬものかは咲く花の 手を取りかけて いざや遊ばん
この替え歌では、子どもの遊びから。白拍子(遊女)の遊びが連想され、にぎやかな宴の場を彩るようなものになっている。