4月29日(水)

曇りです。

金沢 二

北陸新幹線

  金沢へはトンネルばかり。白馬・立山連山まだ雪の山

  姫川の下流域通過するをたしかめて糸魚川あたり海原を見き

  一日目も二日目も春の暖かさ染井吉野は満開の花

『孟子』万章章句下137-3 曰く、「敢て問ふ、国君 君子を養はんと欲せば、如何にせば(すなは)ち養ふと謂ふ可き」と。曰く、「君命を以て之を(おこな)ひ、再拝稽首(けいしゆ)して受く。その(ご)(りん)(じん)粟を継ぎ、(はう)(じん)肉を継ぐ。君命を以て之を(おこな)はず。子思(お)(も)へらく、『(てい)(にく)(おのれ)をして(ぼく)(ぼく)(じ)として亟々(しばしば)拝せしむ。君子を養ふの道に非ざるなり』と。堯の舜に於けるや、其の子九男(きうだん)をして之に(つか)へ、二女(にぢよ)をして(これ)(めあは)し、百官・牛羊・倉廩(さうりん)備へ、以て舜を(けん)(ぽ)の中に養はしむ。(のち)、挙げて(これ)上位(じやうゐ)に加ふ。故に曰く、『王公の賢を(たふと)ぶ者なり』と」

  王公たる者の賢者を尊ぶ道なるは見極めをして賢者を選ぶ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

王子(わうじ)御前(おまへ)(ささ)(くさ)は 駒は(は)めどもなほ茂し (ぬし)は来ねども(よ)殿(どの)には (とこ)(ま)ぞなき若ければ   (四句神歌・雑・三六二)

【現代語訳】王子の社前の笹草は馬が食むけれどまだまだ茂っている。あの人は来な いけれど寝所では、床の空く間もないことよ、私が若いゆえに。

【評】巫女の奔放な夜の生活を歌った一首。

「王子」は、諸注、熊野の若一王子社と見る。「王子」という神の「若さ」が、巫女の若さとも響きあって巧みである。「笹草」はイネ科の植物。葉は竹に似て、漢方では利尿薬とする。承徳三年(一〇九九)に書写された『承徳本古謡集』所収の風俗歌(地方の歌謡)に「信濃笹草や 馬に飼ふなや や はれ 駒に飼うなや」と見え、馬の飼料となったことがわかるが、ここでは笹草を食べさせるな、と禁止している。当該今様では、笹草の繁茂する様子を、共寝する相手が常にいる様子と重ね合わせた。

『古今和歌集』雑上には、

大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし (よみ人知らず)
(大荒木の森の下に生える草が老いさればえてしまったので、馬も好まず、刈る人もない)

という一首が見える。この老いを嘆く和歌は、『蜻蛉日記』(天延二年<九七四>四月、同一〇月)や『源氏物語』(紅葉賀、蛍)に引用され、下草が女に、駒が男に譬えられて、もっぱら性的な比喩として取り入れられた。「駒もすさめぬ草」といえば男に顧みられない女を、「駒なつく森」といえば頻繁に男が通っていく女を表すことになる。こうした性的比喩表現の流れの中で、当該今様はさらに、「床の間ぞなき若ければ」と、直接的な表現で若さを謳歌していると言えよう。しかし、一方では、「主」が来ない現実があり、やがて迫る老いへの恐れもある。『古今和歌集』の和歌を当該今様の源泉とするならば、この今様の歌い手も聞き手も、今の若さに対置される老いを意識せざるを得ない。当該今様を、女の精一杯の強がり、あるいは「主」へのあてこすりと見れば、どことなく哀感も漂うだろう。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA