7月14日(火)

晴れている。

昨夜、村上春樹『夏帆』を読む。発売日7月3日に書店の山のてっぺんから買い求めたものだ。村上の小説は、常に販売日にというのが約束ごとのようになっている。この小説もアリクイ夫婦などを含めて村上ワールド、わくわくしながら読み切ってしまった。異類、異界のものが出て来るのも定番だが、「武蔵境」という、ここも境界としての場所を得て、逡巡・悩みなどを経て、もとの人々へ戻っていく。なかなかに楽しい読書であった。

圏央道の今朝はスムーズ。海老名ジャンクションでの渋滞あらず

高き所を走る圏央道けさがたはスムースに進む。九階の窓に

雲多くあれども明るい朝なり圏央道も円滑に動く

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『孟子』尽心章句上191 孟子曰く、「人の学ばずして能くする所の者は、其のなり。らずして知る所の者は、其のなり。のも、其の親を愛するを知らざる者無し。其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる無し。をしむは仁なり、長を敬するは義なり。他無し、之を天下に達するなり」

たいせつなのは親親・敬長の心こそ天下に推し及ぼすべきなり

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この宮のもりのしたにこどもらとあそぶはくれずともよし

かすみ立つながきに子どもらと手毬つきつゝ此の日くらしつ

【評言】二首とも語義や大意の説明を要しないほど平明な歌である。いたるところの町や村でこどもの仲間入をして遊んでいた良寛その人の面目のよく現れた歌である。表現の上から特にこの二首について注意すべき点は前の歌の「この宮」、後の歌の「此の日」における「この」の使い方である。この一つの言葉によって如何に全体が引きしめられているか、そこを参考とすべきである。因に、前の歌はもと和亭の画に讃したものであるが、今となっては必ずしもそれを画讃の歌と見なくてもよいと私は思っている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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