7月26日(日)

曇りだか晴れだか、少し涼しいけれど……

空砲が鳴るがごとくにおならの音。音のみ響き大便出でず

トイレの中は扉閉せばわれのもの西洋便器に座り考ふ

トイレの中に汚物落とせばここちよき溜っていた便たちまち流す

    *

『孟子』尽心章句上202 孟子曰く、「は我が為にするを取る。を抜いて天下を利するも、さざるなり。はす。をしてにるも、天下を利するは之を為す。はを執る。中を執るには之に近しと為すも、中を執りてすること無ければ、猶ほを執るなり。一を執るにむ所の者は、其の、道をふが為なり。一を挙げて百を廃すればなり」

一事に固執するのを不可とする楊朱・墨子・子莫いづれも不可なり

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

里べには笛や太鼓の音すなりみ山はさはに松の音しつ

【語義】「さはに」は「おほく」「あまた」と同じであるが、ここでは「さかんに」というほどの意。

【評言】これは盂蘭盆の頃、しかも夜詠まれた歌であろう。笛や太鼓の音は、おそらく盆踊りのそれであろう。私はかつて新暦の八月下旬に数日間毎夜良寛和尚の住んでいたかの越後国上山の麓にひらけた平野の間を歩いたことがあった。そして毎夜あちこちの村で鳴り響く盆踊りの笛や太鼓の音を聞いたことがあった。月下の平野はいたるところ稲がふさふさと穂を垂れ、その上に露が緑色に光って居た。遠くを見渡すと、平野はまるで海のように見えた。ところどころに黒く見える村々の木立は、さながら浮島のようであった。そうした夢のような月夜の平野の光景をおもい浮かべながらこの歌を読むと、そうした遥かあなたの人里の歓楽のどよもしを聴きながら、あの寂しい山中の草庵に孤坐していた人の心が、胸にしみ込んでくるような気がする。この歌、表現の仕方においては前に揚げた「をちかたゆしきりにかひのをとすなり……」の歌と殆ど同巧のように見えるが、しかし「み山はさはに松の音しつ」の下句の為めに全然異なった心境が開かれている。「さはに松の音しつ」の表現は、まったく至妙である。「此句は甚だ簡潔であって然も無量の心を蔵している」とかつて斎藤茂吉氏も讃嘆したが、私も同感である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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