8月24日(日)

今日も猛暑だ。

ほぼ一月前のこと その一

  キッチンの総入替に時を合せホテルへ逃げ出すわれならなくに

  外界は酷暑なり。冷房の度合高めてこの部屋出ず

  朝がらすここにも鳴くや。目覚めたるホテルのベッドの頭の上に

『孟子』梁恵王章句下9-2 曰く、「文王の囿は、方七十里、の者も往き、の者も往く。民と之を同じうす。民以て小なりと為すも、亦宜ならずや。臣始めて境に至るや、国の大禁を問ひ、然る後敢て入れり。臣聞く、『郊関の内、囿方四十里なる有り。其のを殺す者は、人を殺すの罪の如し』と。則ち是れ方四十里、阱を国中に為るなり。民以て大なりと為すも、亦宜ならずや」と。

  方四十里も大なりとそこに麋鹿を殺す者人を殺すと同じことなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大弐三位

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする (後拾遺集)

「かれがれなる男のおぼつかなくなどいひたりけるによめる」の題詞がある。「かれがれ」は、はなればなれ、「おぼつかなく」は、はっきりしない、たよりないというほどの意。しばらく逢わないで疎遠になっている男から、あなたの心が不安だ、たよりなく思われるといって来たのに対した歌である。

有馬山は摂津の有馬郡、猪名野はその山の付近で、(略)歌枕として知られている。

初句から三句までが「いでそよ人を」の「そよ」を引き出すための序詞、笹原に風が吹くとそよそよと音を立てるからだ。「いで」は「さあ」と相手を誘い出し、また呼びかける場合と、「いやどうして」と相手にはんぱつする場合などに用いる感動詞だが、ここでは後者の意。「そよ」はそれよ、それですよの意。「忘れやはする」の「やは」は反語で、忘れない、忘れなんかするするものかの意である。それでこの歌は、「いやどうしてあなたを忘れなどするものですか」というだけのことである。ただそれだけの下二句で足りるところを、有馬山をいい、猪名の笹原をいい、吹く風をといって上三句を費やしている。(略)そんなことはかかわりなく言葉どおりに、調べにしたがって読みさえすればよいのである。下手な注釈書なんかかえって邪魔だ。くりかえし読んでおれば自然に妙味がわかって来る。すなわち上三句は序詞であるが、なお有馬山のふもとの猪名の笹原を吹きわたる秋風のさびしさを表現しながら、同時に失恋に近い心のわびしさを象徴してもいる。この上の句を受ける下句が大事であるが、四句「いでそよ人よ」の鮮かな変転ぶりに感嘆する。言葉の駆使斡旋が自在である。微妙な心情をその調べに乗せて結句に移る。それが「忘れやはする」の反語に納められて、心もとないなどとはとんでもない、それはあなたですよ。私はあなたをけっして忘れなどするものですか、とやりかえしたのである。この場合「君を」といわずに「人を」といった。当代のならわしでもあったが、「君を」では歌がこわれるだろう。

この歌は芥川竜之介が好きであった。彼の文学を思うとそれがわかるようだ。百人一首に入っているからだれでも知っている歌だ。作者は紫式部の女である。

8月23日(土)

今日も暑いらしい。う~ん

  毎日々々かんかん照りの世の中なりわがからだ溶けてなにものならん

  かんかん照りとふ語を思ひだすこの暑さこれくらいではこの暑さ謂へず

  暑さ、あつさ この汗だくのシャツを脱ぎ洗濯機のなかシャツ積もりゆく

『孟子』梁恵王章句下9 斉の宣王問うて曰く、「文王のは、方七十里と。有りや」と。孟子対へて曰く、「伝に於て之有り」と。曰く、「是の若く其れ大なるか」と。

曰く、「民猶ほ以て小なりと為すなり」と。曰く、「寡人の囿は方四十里。民猶ほ以て大なりと為すは、何ぞや」と。

  斉の宣王が問ふわが囿は方四十里さするにかくも大に過ぐると

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 岡麓

雪やみて降かはりたる黄昏の雨に小鳥のよびあふ低し (同)

「黄昏」は元来の意とは別に今日の日の暮れ方の意に用いられている。降りしきっていた雪が雨になったうすら明かりの日暮れ方である。ねぐらについた小鳥がこのひと時をとしきりに鳴きあっている声が低く聞こえる、というおもむきの歌である。(略)小鳥といったのは用意あってのことだ。読者の自由なる想像にまかせている。この結句の「よびあふ低し」がよい。その声が低く小さく聞こえるからだが、よく情景をとらえているというだけではなく、暖かな人間の愛情がこもっている。しかし一首全体から受ける感じはやはりさびしそうだ。同じような歌がある。

雨にならぬ曇のままに夕づくや鳥一時にはたとしづまる

小鳥らはゆふべになればあつまりより一日の無事を告げあふならむ

あとの歌など若い人にはおもしろくないだろう。(略)あまりにも地味だったからだ。(略)しかしよく見ると秀れている。

はなやかだった幾人かの歌人にくらべて遜色を見ない。むしろ立ちまさっている。(略)昭和二十六年七十五歳で東京に帰り住むことなく信州で没している。

8月22日(金)

今日も、まったく暑いのだ。

  『血団事件』『荷風のいた街』『精霊の王』読まねばならぬ文庫三冊

  本と埃の山の中から救ひだす『世界の果てまで連れてって!…』

  読まねばならぬ古井由吉『この道』を埃払ひつつ拾ひあげつ

『孟子』梁惠王章句下8-4 今、王此に鼓楽をせんに、百姓王のの声、の音を聞き、皆欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王無きにからんか。何を以て能くせんや』と。今、王此にせんに、王の車馬の音を聞き、の美を見、欣欣然として喜色有り。而して相告げて曰く、『吾が王疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田猟せんや」と。此れ他無し、民と楽しみ同じうすればなり。今、王百姓と楽しみ同じうせば、則ち王たらん』と。

  王常に百姓をおもひ百姓と楽しめば則ち王たらむとす

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 岡麓

みちに見し小狗おもほゆ育つもの楽しくをりとこよひ安らぐ (歌集・冬空)

小狗は小犬だが、子犬のことである。生れてまもない子犬だったのだろう。それが路上に遊んでいた。通りがかると足もとによって来てまつわりつくようにした。いや子供たちにもてあそばれて、くんくん咽喉を鳴らしていた。その可愛い子犬を夜、床に就こうとしてふと思い出したのだ。「育つも楽しくをり」の三、四句がそれである。子犬のさまをいうと同時に自分の感慨を叙べているのだ。あの子犬もだんだん大きくなるだろう。遊びたわむれながらおいおい成長して行くにちがいない。という感慨である。それで何となく心の安らぐ思いをした。それが「こよひ」である。では「こよひ」ならざるいつもの晩はどうなのか。何か気がかりなことでもあったのだろうか。

子孫らのわれをたよりに生きをりと思へば老のいのち嘆かゆ

夜のまにひび割れたりし卵二つふたりの孫にゆでてあたへよ

というような歌がこの前後にあるから、あるいはそうした孫たちの身を案じていたのかもわからない。(略)子犬だってあのようにして育ってゆくのである。人の子だって変わりがないのではないか、そう心配するほどのこともなさそうだ、という思いが感じられる。けれどもそれを口にしてはいけないのだ。ことばに出していうと歌を傷つける。感じとっておくだけでよいのである。

これは長野県の山村で作られた歌である。(略)北安曇郡会染村での疎開生活中の歌である。昭和二十年四月某日、かねてより神経痛で足腰の立たなかった麓は、瘭疽をわずらっていた老妻とともに、人に助けられ人に背負われて戦火の東京を脱出した。しらない土地の馴れない生活がはじまったわけだが、すでにこのころは一人の孫を戦死させており、また集まって来た幾人かの家族をかかえて、しかもみずからは病身、おおかた寝たり起きたりの毎日だったのだから、さだめし不如意な生活だったろうと思われる。そのようなある日、気分がよいので外出した。二人の小さい孫をつれていたのかもしれない。その途上、無心に遊びたわむれている子犬を見かけた。それがこのような形の歌になった。滋味あふるる佳作である。

8月21日(木)

暑い、暑い。

  肥満型と痩型の女二人肩をならべて日傘を開く

  一人は黒いワンピースもう一人はのしゃれた服いづこへ行くか肩を並べて

  この道を行けば間近に駅がある改札入れば二別れする

『孟子』梁恵王章句下8-3 「臣請ふ。王の為に楽しみを言はん。今、王此に鼓楽せんに、百姓王の鐘鼓の声、の音を聞き、を疾ましめをめ、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。今、王此にせんに、百姓王の車馬の音を聞き、の美を見て、挙首を疾ましめ、頞を蹙め、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。此れ他無し、民と楽しみを同じうせざればなり。

  王、民を省みず楽を楽しみ、猟を楽しむそれではだめだ民と楽しめ

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 大来皇女

現身の人なるわれや明日よりは二上山を弟背と吾が見む (同巻二・一六五)

右の悲報がただちに伊勢に伝えられ、姉大来(大伯)皇女は斎宮をしりぞいて上京して来る。その時の歌二首がこの歌のすぐ前にある。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに (同・一六三)

見まく欲りわがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに (同・一六四)

「何しか来けむ」とがっかりしている。たったひとりの弟だった。それがもういないのだ。それでも「馬疲るるに」といそいで上京したようすがわかる。

この歌は大津皇子の屍が移されて、後に葛城の二上山に葬られた。その時にさらに詠まれた二首の一つである。「生き残ってこの世の人である私は明日からは二上山を姉弟のように思って眺めましょう」というのだが、人の世のかなしさ、はかなさ、それにあきらめの心を噛みしめている。そうして生ける人にものいうごとくつぶやき、かつ訴えているのである。もう一つの歌は、

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに (同・一六六)

これも同じようにしっとりとして悲しみ深い歌である。「磯」は海岸のことではなく、巌のことである。これによって本葬は年を越えて早春のころに行われたことがわかる。二上山は文字通り峰が二つに分かれており、高い方が男岳、低い方が女岳。大津皇子の墓は男岳の頂上にあって西向きで河内の方に面している。陵墓は西向きまたは南向きが普通だからこれはこれでよいわけだが、あえて大和に背を向けているのではないかと思われもする。

8月20日(水)

暑いのだ、暑いのだ。

ハン・ガン『涙の箱』、美しく、悲しくなり、心ゆたかに、しあわせになるような童話である。

  積みあがる本の山よりてくるまだ読むことなかりし小説

  女性の書く『京都異界紀行』新品のまま読まぬが出てくる

  古びたる『神屋宗湛の残した日記』、全く読まずに山より出づる

『孟子』梁恵王章句下8-2 他日、王に見えて曰く、「王嘗て荘子に告ぐるに楽を好むを以てすと。有りや」と。王色を変じて曰く、「寡人能く先王の楽を好むに非ざるなり。直世俗の楽を好むのむ」と。曰く、「王の楽を好むこと甚しければ、則ち斉は其れからんか。今の楽は猶ほ古の楽のごときなり」と。曰く、「聞くこと得可きか」と。曰く、「独り楽を楽しむと、人と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「人と与にするに若かず」と。曰く、「少と与に楽を楽しむと、衆と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「衆と与にするに若かず」と。

  王世俗の楽を好み衆とともにするを楽しめば斉の国こそ有望なり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大津皇子

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (万葉集巻三・四一六)

「大津皇子、被死からしめらゆる時、磐余の池の陂にして涕を流して作りましし御歌一首」の詞書がある。前にも記したように、大津皇子は謀反の企てありとして捕らえられ、朱鳥元年十月三日訳語田舎で詩を賜った。その時の歌である。「百伝ふ」は枕詞で、百へ至るという意で、五十または八十にかかる。ここでは五十の磐余にかけた。(略)一首の意は「磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、天がけり雲に隠れて私は死んでゆくのか」というのである。同じ時に作った五言「臨終」の一絶が懐風藻に伝えられている。

金烏西舎に臨らひ 鼓声短命をう催す 泉路賓主無し 此の夕べ家を離りて向ふ

「西に傾いた日が家を照らし、夕刻を知らす鼓の音は短い自分の命をいっそうせき立てるようだ。あの世の路は客も主人もないだろう。この暮れ方自分はひとり家を離れて死出の旅路に向かうのである」というほどの意だが、歌と詩いずれがすぐれているか。皇子ははやくから文筆を愛し「詩賦の興は大津より始まる」といわれたくらいだから、詩もゆるがせにはでいない。ともにあわれをもよおさしめる(略)ともあれ毎年冬になるとその池に来るカモを見て、それに全生命を託したかのごとき下四、五句の語気語勢、その詠歌の調に歎息する。しかもうらみがましい思いはみじんも述べられていない。(略)地位高く心丈き人のつねのならいか。さらばいっそうに心に沁むが、契沖は「歌と云ひ詩と云ひ声を呑て涙を掩ふに遑なし」といっている。

この時、妃の山辺皇女が殉死している。(略)日本歴史中でもっともあわれ深い場んで、その光景が見えるようだ。これを思いこの歌を読む、何びとも涙せざるをえないのである。

8月19日(火)

今日も亦、暑い、暑い。

  重ねたる本の数冊。読み、読まねばならぬしかし読み得ず

  つぎつぎに読みたき本の名をあげる。その半分も読むことかなはず

  長谷川二郎の二冊の文庫気になれど現代推理小説がおのづから先に

『孟子』梁恵王章句下8  孟子に見えて曰く、「暴、王にゆ。王、暴にぐるに楽を好むを以てす。暴未だ以てふる有らざるなり。曰く、楽を好むこと」と。孟子曰く、「王の楽を好むこと甚だしければ、則ち斉国其れからんか」と。

  斉の王が楽好むこと甚だしされば理想の政治に近し

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎

海苔ひびの林わけゆく舟二はいとほり過ぎゆき目に寒からず (同)

「或日」と題する十二首中の一首。「海苔ひび」は海苔をとるために海中に立て列ねる粗朶をいうので、それが文字通り林立しているものだから「林わけゆく」といった。「舟二はい」とことさらいったのは小舟をあらわしたかったからだ。この歌は家の中からガラス戸越しにその海を眺めているので、結句の「目に寒からず」はその部屋がストーブを入れていて暖かいものだから、寒かるべき海の眺めが「目に寒からず」かんじられた。寒中のある日、外出して気分が悪くなった。

医者に寄り血圧はかり以ての外ぞ凝乎と寝て居ねと叱られて帰る

その時の歌で、彼の本心が何であるか思わせるをおだやかな感情のよく出ている佳作である。篤二郎は戦後は横浜の金沢文庫の近く、称名寺のへんに住むようになったから、家からすぐに海が眺められた。昨年夏七十五歳でなかなったが、隻脚の人で松葉杖を突いていた。この歌集『雪客』は「サギ」と読む。サギは一歩脚で立つ鳥だからだが、わが身をしゃれてサギになぞらえる。みずからはなかなかいえないことだ。七十三の時に出した第十一冊目の歌集である。