4月20日(月)

今日も晴れです。

  荒御魂 二つあひよる み墓山 わが哀しみも ここに埋めむ 弘彦

  墓処(ぼしよ)の前にタクシー降りてまづ(むか)ふ。岡野弘彦の鎮魂の碑

  父子墓荒れたる二人のたましひの鎮まりいませ。能登羽咋の地

『孟子』万章章句下134-2 (ただ)百乗の家のみ然りと為すに非ざるなり。小国の君と雖も、亦之有り。(ひ)(けい)(こう)曰く、『吾、子思(しし)に於ては、則ち之を師とす。吾、顔般(がんはん)に於ては、則ち之を友とす。(わう)(じゆん)長息(ちやうそく)は、則ち我に(つか)ふる者なり』と。惟小国の君のみ然りと為すに非ざるなり。大国の君と雖も、亦之有り。(しん)(へい)(こう)(がい)(たう)に於けるや、入れと云へば則ち入り、坐せと云へば則ち坐し、食らへと云へば則ち食ふ。疏食(そし)(さい)(かう)と雖も、未だ嘗て飽かずんばあらず。蓋し敢て飽かずんばあらざるなり。然れども此に終はるのみ。与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり。士の賢を(たふと)ぶ者なり。王公の賢を尊ぶに非ざるなり。

  士が賢者を尊ぶやり方は多かれど王公が賢者を尊ぶではない

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

上馬(じやうめ)の多かる御館(みたち)かな 武者(むさ)(たち)とぞ覚えたる 呪師(じゆし)小呪師(こずし)肩踊(かたをど)り (きね)は博多の(をとこ)
(みこ)    (四句神歌・雑・三五二)

【現代語訳】立派な馬の多いお屋敷だなあ。武士のお屋敷と思われるよ。呪師や小呪師が肩踊りをしてさ、神楽舞を舞う巫は博多の男巫だよ。

【評】今まさに勢力を伸ばしつつある武士の屋敷で繰り広げられる芸能を歌った一首。

「呪師」は素朴な演芸を行う芸能者。本来は寺院の法会において加持祈禱などの密教的行事を司る法師で、法会の後には雑芸を行ったが、やがて芸能化が進み、寺院からも自立した。当該今様で歌われている呪師はそうした芸能化の進んだ後のものであり、武士の屋敷に招かれて肩踊りを披露しているのであろう。小呪師は少年の呪師を指し、肩踊りは、少年が大人の肩の上に乗って演じる芸を言うものと思われる。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』七八話には「呪師小院といふ童」が「肩に立ち立ちして」、見る者を驚かせたという記述が見られる。中国伝来の舞楽や雑芸を描いた『信西古楽図』(平安時代末までには原画が成立していたとされる)には、「四人重立」として大人の肩の上に子どもが立ち、さらにその子どもの肩の上に別の子どもが乗り、さらにもう一人の子どもが乗って、四人が重なって立つ様子が描かれている。また、「柳肩倒立」として、一人の肩の上にもう一人が逆立ちをしている図がある。

「博多の男巫」の「博多」の所在については、河内国(現在の大阪府南部)、和泉国(現在の大阪府南部)、伊予国(現在の愛媛県)、筑前国(現在の福岡県北部)など諸説がある。神に仕える巫(「きね」「かむなぎ」ともいう)は本来、女であるが、承平年間(九三一~九三八)に成立した辞書『和名類聚抄』には「覡」を「をとこかむなぎ」と読んでいて、男の巫も存在した。

呪師のアクロバティックな芸に加え、女ではなく男巫の神楽舞を取り合わせることで、武士の屋敷らしい、勇壮な男の世界を描き出していると言えよう。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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